新井新田八幡神社
・所在地 埼玉県加須市新井新田38
・ご祭神 誉田別命
・社 格 旧新井新田村鎮守
・例祭等 雹祈祷 3月25日
北大桑香取神社から「北大桑観音通り」を1㎞程東行し、「北大桑(新井)」交差点を左折する。進行方向右手にある真言宗智山派の大願寺を眺めながら、更に北上し、中川に架かる豊野橋を渡り終えた直後の丁字路を右折すると、大きな工場の間に挟まれて、住宅街からもポツンの取り残されたように新井新田八幡神社は鎮座している。
新井新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「新井新田」の解説
[現在地名]大利根町新井新田・豊野台
北大桑村の東に位置し、中央を島川が流れる。元禄郷帳では新井新田村とみえる。北大桑村新井の住民による開拓と伝える(大利根町地名考)。田園簿によると皆畑で一五三石余、ほかに野銭永三〇〇文、幕府領。寛文四年(一六六四)の羽生中高辻之覚(松村家文書)によると承応年間(一六五二―五五)の検地高一三〇石余。元禄郷帳では八〇石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。
拝 殿
八幡神社 大利根町新井新田三八(新井新田字八幡脇)
当地は利根川中流域右岸に位置し、中央を島川が流れる。新井新田の地名の由来は、近世初期に北大桑村新井の住民が開発したことによるという。当社の創立も村の開発にかかわると思われる。
祭神は誉田別命である。二間社流造りの本殿内の一方には、高さ六二センチメートルの金幣を祀り、「八幡大神寄進北新井新田村旦中別當間口村東星寺宝永二乙酉天九月吉日」と記す。なお、祭神が一柱であるのに対して、本殿がなぜ二間社となっているかは不詳である。
『風土記稿』新井新田の項には「八幡社 村の鎮守なり、間口村東曜寺持、天神社 北大桑村大願寺持」とある。当社の別当を務めた真言宗八幡山弥陀院東曜寺は、古くは八幡山神功院東星寺と称しており、元亀元年の創立と伝える。また、天神社は北耕地の耕地鎮守として現在も祀られ、別当を務めた真言宗大願寺は江戸末期から明治初期にかけて当時の住職が大酒を飲み、放蕩をして多額の借金をつくったため寺から追い出され、無住になったので、その後、檀家であった当地はすべて神葬祭に改め、現在に至っている。
祀職は神仏分離以降、南條家で代々努めている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
「埼玉の神社」より引用
社殿の右側に祀られている境内社・稲荷社 境内に建つ「八幡神社新築記念碑」等の石碑
力石のような石も2個並んで置いてある。
正面鳥居付近から見る社の一風景
当社は新井新田の鎮守として厚く信仰されている。古くは「八幡八社参り」と称して大利根地区にある八幡社を八社参拝して回るとご利益があるとされ、毎月一日・一五日はよく行われたという。
当社の拝殿は、宿としての役割も兼ね備えており、1月1日の元日には毎戸一名が拝殿に集まり、区長の年頭の挨拶に始まる新年会が催される。また3月25日には雹祈祷(ひょうぎとう)と称して、農家の組合総会を兼ね、また時には「榛名講」の代参のくじ引き等も行れたり、種々の話合いがされたという。
また、西隣の北大桑地域で行われる「天王様」(7月7日・15日)に当地の子供たちも参加し、はやり病を防ぐとして、子供神輿が練られているとのことだ。当地の開発には近世初期に北大桑村新井の住民が関わったといい、現在でも交流は続いているのであろう。
社の北側の東西に走る道路の向かい側には、
幾多の庚申塚を含む石碑や供養塔等が並んである。(写真左・右)
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等