間口八幡浅間神社
・所在地 埼玉県加須市間口479
・ご祭神 誉多別命 木花咲耶姫命
・社 格 旧間口村鎮守・旧村社
・例祭等 雹祈祷 3月25日 春祭り 4月15日 秋祭り 9月15日
夏祭り 7月7日に近い日曜日 及び15日
新井新田八幡神社から一旦北上してから国道125号線に合流、「間口」交差点をそのまま直進し北上する。400m程進んだ「間口八幡神社」交差点を左折すると、進行方向左手に間口八幡浅間神社の広い境内と塚上に鎮座している社殿が見えてくる。
社の境内北側には、駐車可能なスペースもあり、その一角に停めてから参拝を開始した。
間口八幡浅間神社正面
『日本歴史地名大系』 「間口村」の解説
琴寄(ことより)村と古利根川を隔てて南に位置。古利根川沿いに堤防があり、南西は島川が流れる。天正一三年(一五八五)正月一四日の北条家印判状写(相州文書)に「まくち御領分之由候」とみえ、一色中務大輔に利根川の東に在陣中は船渡しを停止し、船を引上げ、船橋は一ヵ所のみとするよう命じている。間口が一色氏領分の重要地点であったことがわかる。
当村を含む七村が羽生領(風土記稿)。田園簿によると田高一五石余・畑高五六九石余で、幕府領。このほか野銭永七貫七五〇文。元禄郷帳では高四〇一石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本渥美・細井の相給。
境内の様子
境内は思った以上に広いながら、綺麗に手入れされている。
現在、社の氏子区域は間口全域で、蟹穴・新田・本田の三耕地からなっている。古くは米麦を中心として豆類・綿・藍などが生産されたが、米の生産調整政策により蔬菜・いちご等への作付け転換が進められたという。
参道左側にある手水舎
『新編武藏風土記稿 間口村』
八幡淺間合社 村の鎭守にて東曜寺の持、
東曜寺 新義眞言宗、下總國葛飾郡前林村東光寺末、八幡山神功院と云、本尊不動、開山宥秀は寬永十九年三月二十六日寂す、古へ東照宮此邊御遊覽獵のとき、當寺ヘ渡御ありし頃、來秀漬菜を差上げしに御意に叶ひ、戲に漬菜坊と呼せられしより、遂に自らの坊號となれりと云、其正しきことを知らず、此僧の肖像を堂中に安ず、鐘樓 享保七年新鑄の鐘をかく、阿彌陀堂、
塚上に鎮座する拝殿
八幡浅間神社 大利根町間口四七九(間口字道南)
当地は、武蔵七党の一つ児玉党の流れをくむ修理亮という者が帰農して開いたといわれ、大鹿姓を名乗り、江戸期に入ると代々名主を務める家となった。
当社は、阿佐間との村境、間口の一番上に当たる字道南に鎮座する。道南は、氏子集落の西方に当たり、社殿は集落を見守るように東向きに建てられている。
『明細帳』には「往古ヨリ二社合殿、明治六年中村社ニ申立済」と載せ、八幡社と浅間社がいつ合殿になったか伝えていないが、境内にある力石には「奉納八幡 浅間宮」と並記され、更に「元禄十六年正月吉日武州埼玉郡羽生領間口村」とあることから、江戸中期には既に合殿であったことが知られる。祭神は、誉多別命・木花咲耶姫命の二柱である。
社殿内に並記される本殿は二社共に一間社流造りの同寸法であり、同時に造られたものとみられる。享保一六年二月一三年両社とも吉田家から宣旨により正一位の神位を受けている。
往時、別当職を村内の八幡山神功院東曜寺が務めていたが、明治初めの神仏分離により東曜寺から離れ、大字阿佐間の旧修験南蔵院が復飾して神職となり南條を名乗り奉仕する。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
「埼玉の神社」より引用
石段左側に置いてある力石 本 殿
僅かに「奉納 浅間 八幡社 元禄十六」と読める。 塚下から撮影
社殿の左側に祀られている境内社・八坂神社
八坂神社の中には立派な神輿が安置されている。この神輿は、7月7日に近い日曜日、及び15日に行われる夏祭りの際に使用される神輿であろう。
当社の祭事は年七回行われているが、その中で最大の賑わいをみせるのが7月7日に近い日曜日、及び15日に行われる夏祭りである。
夏祭りは2回に分けて行われ、まず7日に近い日曜日には子供神輿が練られるが、近年の子供の減少により、農業用トラクターに神輿を載せて、これに子供たちとPTAが付く形に変わっている。 順路は、社⇒蟹穴地区⇒新田地区⇒本田地区(地域境に行く)⇒社となる。
2回目の15日には、大人神輿が練られる。当日午前中に気も市が神霊遷(みたまうつし)が行われ、午後から子供神輿と同じ順路を渡御する。途中、各耕地に設けられた神酒所、地域の有力者の家に寄り、酒のふるまいをうけ、午後9時ごろ社に還御するという。
本殿の右側奥に祀られている合祀社
左側から浅間社2社・稲荷社2社祀られている。
社殿から参道方向を撮影
社は当地域の西側端部に鎮座し、集落を見守るように東向きに建てられている。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等