古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

宮内氷川神社

鴻巣七騎(こうのすしちき)は、戦国時代に太田氏に仕え、武蔵国足立郡の鴻巣郷(現・埼玉県鴻巣市、北本市)周辺に土着した家臣団を指した呼称である。その鴻巣七騎の中に、北本市宮内地域を本拠地にした人物が2名いて、大島大炊助とその一族である大島大膳亮久家である。
大島氏は上野国新田氏の一族で新田郡大島村より出たとも、伊豆大島より出て太田氏や後北条氏の家臣となったとも伝えられている。永禄7年(1564)、足立郡宮内村の開発領主として10500文の土地を与えられたが、天正18年(1590)の小田原征伐による岩付城落城後、浅野長政から居住地において一族の大膳亮や、鴻巣七騎の一人とも言われている矢部新右衛門(現鴻巣市下谷)らと共に帰農するように命じられている。
 舊家 彦兵衛
 大嶋氏にて代々内藤某の里正を務む、家系を傳たれど、破裂せる所有て、全きものにあらず、其内大膳亮久家なるものあり、本國伊豆を領して大嶋に住し、永正・大永の頃小田原北條に屬して武州に住し、勳功あり、由て永祿七年甲子の感状を賜へるは後に載す、其外鎗ニ筋を持傳へり、是も後に載す、且其頃は鴻巣領宮内村に居住せりと、久家子なくして土佐守善久の三男を養子とす、是を大膳亮重富と云、岩槻城主太田十郎氏房に従へり、御入國の後大嶋大炊介及び大膳亮・矢部新左衛門・同兵部・小川圖書等の五人歸國御暇の書を賜はれり、其書は大炊介が子孫勇藏が家に藏せり、猶後の條照し見るべし、(中略)
 汝等五人之事、如前々在所へ令退住耕作以下可申付
 候、若兎角申者於在之ハ、此方へ可申來候也、
 六月一日
            浅野弾正長吉(花押)
   武州足立郡鴻巣郷
        大島大炊助
        大島大膳亮
        矢部新左衛門
        矢部兵部
        小川圖書
       以上五人遺之
『新編武蔵風土記稿 上宮村下宮村附持添新田』より引用
 またその一族である大膳亮久家は、一族で宮内村に住した大嶌土佐守善久の三男小四郎重富を養子とし、大膳亮を名乗らせたという。このように大島氏は市域を支配した代表的な在地武士であったようだ。
        
             ・所在地 埼玉県北本市宮内4135
             ・ご祭神 素戔嗚尊
             ・社 格 旧上宮内村、下宮内村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭 220日 例大祭 1015日 秋祭 1122日等
 中丸氷川神社から国道17号線に戻り、北西方向に進路をとり、1.7㎞程進む。「宮内」交差点を右折し、通称「三軒茶屋通り」を北行すると、三つ又に分かれる道となり、その三つ又南側正面に宮内氷川神社の鳥居が見えてくる。
 三叉路を右方向に進むと、社務所が左手に見え、その手前に駐車可能なスペースがあるので、そこに停めてから参拝を開始した。
        
                  宮内氷川神社正面
                     周囲一帯田畑風景が広がる中に鎮座する社。
『由緒調書』によれば、人皇12代景行天皇の御宇、日本武尊が東征の際、当地を武蔵・信濃平定の本営地と定めたことを記念し、その跡に大宮氷川の大神を勧請して当社を建立したという。宮内の地名はここに初まるともいわれ、近郷の鎮守として神威は遠近に及び、かつては境内六千有余坪、社有地一万余坪の広大な社領を有し、境内は古木鬱蒼と茂り荘厳を極めたようである。『新編武蔵風土記稿』には、本地は十一面観音、別当は当山派修験、小松原(鴻巣市)瀧本坊配下大乗院と見え、江戸後半頃のおおよその実情が知られる。文政十年(1827)には、その由緒の古さを認められ、神祗管領長上家より「武蔵國三の宮」の称号を贈られたとのこと
        
              入り口付近に設置されている案内板
 氷川神社 御由緒  北本市宮内四-一三五
 □御縁起(歴史)
 口碑によれば、当社は武蔵一宮の氷川神社の分霊を勧請し、湧水池の辺りに創建したのが始まりで鎮座地の宮内の名も、当社の鎮座に由来するものであるという。勧請の時期は不詳であるが、永禄八年(一五六五)四月吉日に大嶋大炊助へ宛てた「河目資好賞状写」(武州文書)に当地の名が見えることから、創建はそれ以前にさかのぼるものと考えられる。
 大嶋氏は元々伊豆大島に居を構えていたが、永正・大永年間(一五〇四-二八)に小田原北条氏に従い武蔵国に移住し、領主として当地の開発に当たった。このことから当社は大嶋氏によって勧請され、見沼のほとりに祀られた一宮氷川神社に倣い、湧水池の辺りに創建されたのであろう。また、当社は一宮・二宮に次ぐ「武蔵三宮」であるとの伝承があり、創建の古さをうかがわせる。
 江戸前期、当村は上・下に分村した。『風土記稿』上宮内村・下宮内村の項には「氷川社 下分にあり、下同じ、祭神は素盞嗚尊と云、本尊は十一面観音、社地のさまは古蹟とはみゆれど、その来由は詳に知れず 別当 大乗院 当山修験 小松原滝本坊配下 末社 稲荷社 簸ノ王子社 弁天社」とあり、当社は分村後も下村ばかりでなく、上村からも鎮守として崇敬を受けたきことがうかがえる。
 明治初年に上・下村は合併し、再び宮内村となった。大乗院は神仏分離後に廃寺となり、当社は 明治六年に村社に列した。(以下略)
                                      案内板より引用
 
     鳥居を過ぎてすぐ左手に境内社・厳島神社が鎮座している(写真左・右)。
        社を囲むように池があり、神秘的な雰囲気を醸し出している。
  
    境内社・厳島神社の先で並んで祀られている石碑や境内社群(写真左・右)。
 左から「道祖神」「稲荷大神」「富士嶽大神」「奴稲荷大神」「山王社」等が祀られている。
不思議な事であるが、境内社群や石碑が参道に対して正面を向いているのだが、一番左側にある「道祖神」の石碑だけは境内社・厳島神社の方向、つまり左側横に設置されていた。
        
             厳島神社や山王社等の境内社先の参道の様子
 嘗ては境内六千有余坪、社有地一万余坪の広大な社領を有し、境内は古木鬱蒼と茂り荘厳を極めたというその名残が今も境内に漂うようだ。
 真夏時期の参拝であったが、参道の両側には樹木も青々と繁り、しっとりと汗ばむ程度。適度な湿度故に小虫はかなり繁殖してはいたが、それは仕方がない。参道も手入れが行き届いていて、気持ちよく参拝に望むことができた。
       
          北本市の保護樹林であるイチョウの大木(写真左・右)
                  保護樹林指定標識
           保護樹林  イチョウ  指定番号  第66号   指定年月日 平成821
        
              参道左側に設置されている「力石」
        
                    神楽殿
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 足立郡上宮村下宮村附持添新田』
氷川社 下分にあり、下同じ、祭神は素盞嗚尊と云、本尊は十一面觀音、社地のさまは古蹟とはみゆれど、その來由は詳に知れず、
 別當 大乘院 當山修驗、小松原瀧本坊の配下、
 末社 稻荷社 簸ノ王子社 辨天社、

「埼玉の神社」によると、本殿には木造の天満天神座像が奉安されており、台座裏には「武品(州)鴻之巣深井村 貞享元(申子)年(一六八四)九月五日 宗傳法印橋本房」の墨書が見える。橋本房は『風土記稿』上深井村、下深井村の項に見える橋本寺のことと思われ、この天神像は、橋本寺の境内社天満宮に奉安されていたものであろう。
 橋本寺は明治初年に廃寺となり、天満宮も廃絶した。この天満像は一旦同村の鎮守であった氷川神社に移されたが、明治四十年にその氷川神社が当社に合祀されたため、当社に奉安されるようになったと思われる。なお、江戸期に当社の本尊であった十一面観音の所在は不明であるという。
        
              拝殿手前付近に設置されている案内板
 宮内氷川神社 祭神・素戔嗚尊
 御由来
 当社は、人皇十二代景行天皇の御子日本武尊東征の際、当地を武蔵、信濃平定の本営地と定めたことを記念し、大宮氷川の大神を勧請して建立されたものと説く。「宮内」の地名はここに始まるとも言われ、近郷の鎮守として神域は遠近に及んでいる。
 かつては境内六千有余坪、一万坪余りの広大な社領を有し、古木また鬱蒼と茂り、荘厳を極めたようである。
「新編武蔵風土記稿」には本地は十一面観音、別当は当山派修験「小松原」瀧本坊配下大乗院と見え、江戸後半頃おおよその実情が知られる。
 文政十年(一八二七)にはその由来の古さを認められ神祇管領長上家より「武蔵国三宮」の称号を贈られている。
 その後当社は様々な変遷を経て明治六年村社に列せられ、同四十年には神社合祀の令により、深井の氷川社、古市場稲荷社、常光別所の白山社、花ノ木の稲荷社、他いくつかの無格社、末社を合祀し現在にいたる。
                                      案内板より引用

 
 社殿の左隣にある市指定建造物である「宮内氷川神社旧社殿」(写真左)とその案内板(同右)。
 市指定建造物 
 宮内氷川神社旧社殿   平成十年十月三十日 指定
 宮内氷川神社旧社殿の規模は、桁行一メートル三十六・五センチメートル、梁間一メートル二十三・五センチメートル、向拝の出丸十三・二センチメートル、一間社、流れ見世棚造り、厚板葺き、目板打ちである。
 見世棚造り建築は、身舎からつき出した床が「みせ」の棚板のようになっている小規模な社殿様式で、「信貴山縁起」や「西行物語絵巻」等、中世の絵巻に見られ、神社本殿の発生の姿を示していると考えられている。
 宮内氷川神社旧社殿は、市内に残されている数少ない見世棚造り建築の一つで、土台や柱の取替え等、修理が行われているが、板葺きのまま原形を保っており、建造時期は江戸時代初期に遡ると思われる歴史的価値の高い希少な建造物である。
 平成十一年三月   北本市教育委員会  氷川神社
                                      案内板より引用
        
                  
宮内氷川神社旧社殿の左隣に祀られている境内社・天神社

『新編武蔵風土記稿』による 「上宮内村・下宮内村」の解説には、「用水は元荒川の水を鴻巣宿の内宮地堰より引來りて水田にそゝげども水便あしきによりしばヾ早損あり」と記されておて、やはり「埼玉の神社」でも同様な記載がある。
 当地の農業用水は、江戸期より、荒川の水を鴻巣宿の宮地堰から引いて使用しており、水利に恵まれた土地であったが、夏の間に晴天が続いた年には、当社にて雨乞いの祈祷を行ったという。古老によれば、昭和期を通じて雨乞いを行ったのは、昭和三十年ごろに一度だけであり、その時の模様は以下の通りである。
「その年は八月初めまでは雨が一滴も降らず、このままでは農作物が枯れてしまうという声が上がり、雨乞いをすることになった。当日は氏子の中から20名程の男衆が代表となり、早朝に自転車で群馬県板倉の雷電神社に向かって出発し、他の氏子は全員が簔(みの)と笠を着けて弁天池に集まり、太鼓を叩いて拝み続けた。雷電神社で祈祷を終えた一行は、すぐさま当社に向けて帰路についたが、途中まで来ると、背後から黒雲が迫って来ることに気づいた。黒雲より先に帰り着かねばと感じた一行は急いで当社に戻って、すぐに神職に当社拝殿で祈祷をしてもらった。祈祷終了後、神職が境内の弁天池の水を盥(たらい)に汲んで頭からかぶると、その瞬間辺りは豪雨となった」
        
                                参道からの風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「北本市HP」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
        

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中丸氷川神社

 創建年代は不明である。ただ中丸村は慶安年間(1648年〜1652年)以前に上・下に分村しており、下中丸村の「氷川社」は上中丸村の当社より分霊を勧請したという『新編武蔵風土記稿』の記述から、中丸村分村以前から存在していたものと推測される。「慈眼寺」が別当寺であった。慈眼寺は真言宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、翌年には上下中丸村は合併した。当社は新生中丸村の鎮守として崇敬されるようになった。なお下中丸村の氷川社はいつのまにか廃社となっている。1907年(明治40年)の神社合祀により周辺の5社が合祀された。
Wikipedia」より引用
        
              
・所在地 埼玉県北本市中丸391
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧中丸村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例大祭 410日 祇園祭 715
 JR高崎線北本駅東口近郊に鎮座する本宿天神社から東行し、国道17号線に達した「北本四丁目」交差点を右折、その後750m程先にある「本宿五丁目」交差点を右折し、暫く進むと、進行方向右手に中丸氷川神社の鳥居、及びその境内に到着する。
        
                  中丸氷川神社正面
                      周囲一帯一戸建て住宅街の中に鎮座している。
 中丸地域は北本市の東南部に位置し、北は本宿58丁目に接し、住宅地域と畑は台地上に開けていて、中央部を北西から南東に国道17号線、北部を県道蓮田鴻巣線が走っている。この地域は、昭和392丁目(旧大字北中丸字西)269戸、翌年5丁目(同字谷尻原)に198戸の団地ができたのを契機に、急激に人口が増加し、以後宅地化が進行したという。
        
               境内に設置されている案内板
 氷川神社御由緒  北本市中丸三-九一
 □御縁起(歴史)
 当地は元々中丸村として一村であったが、慶安二-三年(一六四九-五〇)の『田園簿』に上・下中丸村がそれぞれ記載されており、これ以前に分村されていたことがわかる。
『風土記稿』上中丸村の項に「氷川社 村の鎮守なり、別当慈眼寺 新義真言宗 下深井村寿命院門徒 本尊十一面観音なり」と記されているのが当社である。一方、下中丸村の項には「氷川社 村の鎮守にて上村の氷川社をうつせしなりと云、安養院持」と記され、分村に際して当社から分霊したことをうかがわせる。このことから、当社は中丸村として一村であった当時には既に鎮守であったと考えられる。
 神仏分離後、慈眼寺は廃寺となり、当社は明治六年に村社に列した。同七年には上・下中丸村が合併し、再び中丸村となると、その鎮守として崇敬されるに至った。一方、下中丸村の氷川社は、いつのころか廃絶した。更に、中丸村は明治十二年に北中丸村と改称し、同二十二年に近隣八か村と合併して、新たに中丸村が成立すると、その大字となった。このような中で当社は明治十四年に社殿を焼失し、翌十五年に再建された。更に、同三十三年に同大字の無格社神明社を合祀し、同四十年には大字山中の村社大六天社をはじめとする五社を合祀した。なお、当社の主祭神は素盞嗚尊で、本殿に奉安されるその神像の台座には「安永二年(一七七三)九月吉祥日」の墨書が見える。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                        住宅街の中にあるとは思えない位静かな境内
 
    鳥居を過ぎて参道左側にある手水舎        手水舎の奥にある神楽殿 
        
                    拝 殿
「埼玉の神社」による当社の信仰として、社蔵の宗源祝詞(そうげんのりと)によると、享和元年(1801)に神祇管領吉田家から「正一位大明神」の幣帛を授与されている。これを契機に、当社が村の鎮守として、一層厚い崇敬を受けるようになったのではなかろうか。
 4月10日に行われる春の例祭は、「五穀豊穣」を祈る祭りで、午前十一時を期して神職の奉仕により祭典を執り行い、終了後、社務所で直会(なおらい)を行う。午後からは一時間おきに数回、神楽殿で「北中丸囃子」による囃子の奉納があり、その合間には余興として氏子有志参加の「のど自慢」も催
される。嘗ては上尾市門前町の神楽師が午後から神楽を奉納していたという。演目は祭神にちなんで「大蛇退治」「三番(さんば)」等。但し、太平洋戦争がはじまり、神楽の多くが出征してしまったため、神楽奉納は中止となる。
 戦後は地元青年団による素人演芸が
され、一時的に活気を取り戻したが、その後テレビ等の娯楽の普及により、素人演芸は飽きられ中止となり、現行の「のど自慢」を催すことになる。
 
          本 殿               社殿右側にある神興庫
 また7月15日に執り行われる祇園祭は、「疫病除け」の祭りで、当地の人々にとって重要な行事である。現在は祭りの前日である14日に当番が神興を社殿に奉安し、「宵(よい)宮」と称して氏子が三々五々参拝する。その際に各戸で搗(つ)いた重ね餅を持参して供えるのが古くからの習わしである。15日は午後一時を期して神職の奉仕による奉典があり、その後、社務所で直会となる。
        
                   境内の一風景
 嘗ての祇園祭は15日に獅子の村回りや神輿の渡御(とぎょ)が地域を挙げて行われていた。当日は朝六時に神職を先頭に雌雄二頭の刺史が神社を出発し、続いて神輿が出御(しゅつぎょ)した。氏子の家々では、神棚から幣束を降ろし、縁側の廊下に奉安し、その前に小麦饅頭を山盛りに供えた。神職と獅子の一行は、一〇〇戸ほどを回り、それぞれの家では最初に獅子が縁側から座敷に上がり込み、家内を祓って回った後、神職が幣束の前で疫病除けの祝詞を奏上した。一方神輿は各組の世話人である「さし番」に導かれ、各組を渡御し、途中「さし番」の家で酒食の接待を受けた。神輿は一組回り終える毎に最寄りの村境に行き、悪魔を村の外へ追い払ってから次の組に向かったという。
 獅子の村回りと神輿の渡御は、戦時中の人出不足で一時中断されたが、戦後復活した。しかし昭和33年に国道17号線が当地域を南北に断ち切るような形で縦断したことから、その交通量が妨げとなり、行事への続行が困難になり、暫くは中止となっていたようだ。

「北中丸囃子連」は、明治初期に祇園囃子があったが、明治20年代に上尾市西門前の神楽師から杉山流の囃子を習得、現在でも春季例祭や祇園祭等にて活動している。練習は、農家の忙しい時期を除く日曜日に行っているという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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北袋神社

 面足(オモダル)命・惶根(アヤカシコネ)命は日本神話に登場する兄妹神で、神武天皇はその仍孫にあたる。『古事記』では兄を淤母陀琉神、妹を阿夜訶志古泥神、『日本書紀』では兄を面足尊、妹を綾惶根尊(アヤカシキネ)と表記されている
『古事記』において神世七代の第六代の神とされ、兄淤母陀琉神が男神、妹阿夜訶志古泥神が女神である。オモダルは「完成した(=不足したところのない)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの。つまり、人体の完備を神格化した神である。
 また淤母陀琉神は「淤母」は「面」、「陀琉」は「足る」と解して、名義を「男子の顔つきが満ち足りていること」とし、文脈や阿夜訶志古泥神との対応、また今日に残る性器崇拝から男根の様相に対する讚美からの命名と考えられる。阿夜訶志古泥神は「阿夜」は感動詞、「訶志古」は「畏し」の語幹、「泥」は人につける親称と解し、名義は「まあ、畏れ多い女子よ」とし、淤母陀琉神と同様の理由で、女陰のあらたかな霊能に対して恐懼することの表象と考えられる。
 中世には、神仏習合により、神世七代の六代目であることから、仏教における、欲界の六欲天の最高位である「第六天魔王」の垂迹であるとされ、特に修験道で信奉された。明治の神仏分離により、第六天魔王を祀る寺の多くは神社となり、「第六天神社」「胡録神社」「面足神社」などと改称したという。
 北袋神社は、現在高尾地域内にあるが、近世以前は「北袋村」の鎮守社で、同村内にそれぞれ祀られていた神明社・熊野社・橿城社の三社を合併し、地名を冠し、北袋神社と号して成立した社である。そのうちの橿城社は嘗て「第六天社」と称していたため、合併後も面足命や惶根命がご祭神の一柱として地域の方々に崇拝されているのであろう。
        
             
・所在地 埼玉県北本市高尾4107
             
・ご祭神 天照大神 面足命 惶根命
             
・社 格 旧北袋村鎮守・旧無格社
             
・例祭等 春祈祷 425日 灯籠 725日 お日待 1125
 北本市、高尾氷川神社から一旦東行して埼玉県道57号さいたま鴻巣線に合流後、同県道を850m程北上し、十字路を左折し暫く進むと、進行方向右手に北袋神社が見えてくる。
「池袋」「沼袋」「北袋」など袋のつく地名は、大てい水辺で二面以上が水で囲まれている所であるという。 ところでこの袋の語であるが、これは実は袋の形から起ったものではなく「ふくれる」という言葉と同じ語源で、海岸線が湾曲してふくらんでいるところを「フクラ」といったようだ。
        
                  北袋神社正面
 北袋神社は、旧北袋村内に祀られていた神明社・熊野社・橿城社(旧第六天社)の三社を大正6年に合併の上、北袋神社として当地に創建したという。橿城社(旧第六天社)は、関ヶ原の合戦の落武者が当地に土着して祀ったものだといわれている。
 氏子区域は、近世の北袋村の範囲で、現在の高尾三・四丁目にあたるという。また「埼玉の神社」によると、氏子数は古くから当地に居を構える五六戸で、氏子総代は四名。
        
                      晴天の天候に一際映える朱を基調とした両部鳥居
        
              鳥居の左側に設置されている案内板
 北袋神社 御由緒  北本市高尾四-一〇七
 □御縁起(歴史)
『埼玉県地名誌』によれば、地名に「袋」が付くのは川沿いの低地に限られるという。北袋も荒川沿いの低地に位置することが地名の由来であろう。『元禄郷帳』に荒井村の枝郷としてその村名が見え、元禄十五年(一七〇二)以前には一村として成立していたことがわかる。
 当社は、地内にそれぞれ祀られていた神明社・熊野社・橿城社(旧第六天社)の三社を新たな社地を切り開いて、大正六年一月二十五日に合併し、地名を冠し、北袋神社と号して成立した神社である。この三社のうち、創建の由来を伝えているのは橿城社のみで、口碑によれば、関ヶ原の合戦の落武者が当地に土着して祀ったものであるという。『風土記稿』北袋村の項には「神明宮 村の鎮守なり 地蔵院持、熊野社 同持」とあり、何故か第六天社の記述は見当たらない。
 神仏分離後、第六天社は橿城社と改称し、明治四年に北袋村が荒井村の大字になると北袋の三社は無格社とされた。更に、明治二十二年に荒井村ほか四か村が合併して石戸村になると村内に村社四社、無格社一七社を数え、合祀の話が持ち上がった。旧五か村では、それぞれの村社を守るため、大正五年に無格社のうち当地の熊野社と橿城社を含む四社を旧荒井村の村社須賀神社に合祀することが画策された。これに対して北袋では、熊野社と橿城社が他所へ合祀されるのを回避するため、合祀が行われる前に三社を合併したのであった。(以下略)
                                      案内板より引用
        
  境内は決して広くはないが、境内一帯には芝生が青々しく茂り、手入れも行き届いている。

 北本市域で行われてきた民俗芸能には、獅子舞(ししまい)・囃子(はやし)・万作(まんさく)などかある。このうち、万作だけは今は行われなくなったが、獅子舞・囃子は今も盛んで、その中に「北袋囃子連」という伝統芸能が受け継がれている。
「北袋囃子連」は、神明社・熊野社・橿城社(旧第六天社)の三社の合祀の話が持ち上がった大正五年に、祭りを盛んにすることで、地域を合祀に反対する機運を盛り上げようと結成された。今では当社の年中行事に欠かせない存在となっており、後継者育成のための練習も週一回行われているという。
        
                    拝 殿
 当社の三間社の本殿には、中央に神明社に金幣三体と神鏡一面、向かって右の熊野社に観音菩薩像と脇待二体の大日如来像、左の橿城社に第六天の垂迹神像が奉安されている。中央に神明社が祀られているのは、旧北袋村の鎮守とされていたためであろう。但し、当地に古くから居を構える人々は、当社を「第六天様」と呼んでいるという。

「埼玉の神社」によると、北袋神社の祭日は、元旦祭(1月1日)、
春祈祷(425日)、灯籠(725日)、お日待(1125日)の4回であるが、425日の春祈祷は、五穀豊穣を祈る祭りで、朝から参内で「北袋囃子連」が囃子を奉納し、午後一時を期して神職の奉仕により祭典を執り行う。昭和四十年まではこの日に各戸で草餅を作り、家族で食べたり、親戚に配ったりしていたという。また灯籠は農作物の成育を祈る祭りで、かつては農作業の骨休めの日でもあった。朝から年番が参道に十基程灯籠を飾り、午後四時から祭典を行う。その後、境内の北袋集会所で直会(なおらい)を行い、境内では、北袋囃子連が囃子の奉納をする。辺りが暗くなると灯籠に火が入れられ、氏子が銘々で参詣するという。
 また近世に当村の本村であった荒井では、715日に鎮守の須賀神社の祇園祭が盛んに行われるが、この日は当地にも同社の神輿渡御(みこしとぎょ)が行われるのが古くからの習わしであったようだ。荒井の男衆が北袋の村境まで担いで来た神輿を当地の男衆が受け継ぎ、当社まで担いで来て神前に一時奉安する。この間に当地の人々はこの神輿に手を合わせて無病息災を祈願する。以前、みこしは戸別に巡回したが、最近は、北袋の氏子(46)数名が出迎え接待するだけとなり、簡略化されてしまった。その後、男衆が再び神輿を担いで北袋の村境まで返しに行く。ちなみに、この神輿は荒々しく担がれることから「暴れ神輿」の名で知られ、その威力で疫病の蔓延を鎮めると信じられているという。
        
           社殿の右側奥に祀られている境内社・遠藤稲荷神社
              
               境内にある「
社殿新築記念之碑」
『社殿新築記念之碑』
北足立郡石戸村者下石戸下下石戸上石戸宿荒井高尾之五大字為一村村中有村社四無格社十七明治三十九年有神社合併之勅也当時雖有上司慫慂合併震村治之円満暫待時機其後至大正五年四社存置合併無格社于四社之議起怱決焉先是北袋之人有社殿新築之議偶以勅令之出止之於是合神明社橿域社熊野社之三社称北袋以甞所聚之浄材新築社殿所費金三千余円大正六年十一月廿五日施行遷宮式従是北袋之人老幼朝夕得参拝之便人抃喜焉鳴呼我皇国者以敬神之大道為邦家之基礎今比建築今村民彌養成敬神之念則可謂奉賛邦基者也矣村人欲刻名伝子余余不顧不肖記其略併為銘銘日(以下略)
        
                               社殿から参道先の鳥居を望む


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」
    「Wikipedia」「境内案内板・石碑文」等


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本宿天神社

『北本市HP』には、「北本の地名の起こり」と題した市の名称由来を綴ったページがある。それを参考として話を進めるが、当市は「戦国期に鴻巣宿の宿場があったが、慶長(けいちょう)年間に宿を今の鴻巣に移転し、当地を本(もと)鴻巣村と改称し、元禄(げんろく)年間ごろ本宿村と改称した」という。
 というのも江戸時代、中山道の宿場町に鴻巣宿と桶川宿があり、この二つの宿場町の距離が近かったことがその理由であったようで、「元」鴻巣宿だった当地は、元鴻巣宿があった場所なので「本宿村」と名づけられたという。
『新編武蔵風土記稿 本宿村』
 本宿村は古へ宿驛(駅)なりしが、慶長年中今の鴻巣へ移せしよし、正保の國圖(国図)には本鴻巣村と記し、元禄の圖(図)には本宿村とあり、
 ところが、明治時代となり、同じ北足立郡のなかに本宿村という村名が2カ所(現在の北本市とさいたま市)あり、不都合なので、北にある本宿村を「北本宿村」とすることになった。
 因みに現在浦和市(土合(つちあい))の本宿について、「元宿」とも書いた。明治十二年北足立郡に(中略)同名の村があったため南元宿村と改称したという。
 この「北本宿」が、昭和3年に開設された駅の名前として使われることになり、更に、昭和18年に石戸村と中丸村が合併したときの村名は、この駅名からとられた。その後、昭和34年に町制を施行するときに、「北本宿町」では『語呂が長く呼びにくいので、宿をなくして北本町にした』といわれている。
 こうして、現在の「北本」という地名ができた。北本という呼び名は昔からのものではなく、比較的新しい地名といえる。
        
              
・所在地 埼玉県北本市本宿28
              
・ご祭神 菅原道眞公
              
・社 格 旧本宿村印綬・旧村社
              
・例祭等 例祭 225日 春祈祷 325日 
                   夏祭り 
724日・25
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0316998,139.5349709,17z?hl=ja&entry=ttu
 JR高崎線北本駅東口に通じる駅前通りと、旧中仙道との交わる「北本駅前」交差点を左折し、すぐ先の「多聞寺」交差点のすぐ左側に本宿天神社の鳥居が見える。
 駐車スペースは境内北側にあり、「多聞寺」交差点を左折すると、進行方向右側に「鴻巣警察暑 北本交番」があり、その手前に専用駐車場の看板が見えるので、そこの一角に停めてから参拝を行う。
        
                           旧中山道沿いに鎮座する本宿天神社
 北本市本宿地域は、
市の中央部に位置し、西の高崎線と東の国道17号線にはさまれた地域。足立郡鴻巣領に属する(風土記稿)。「元宿村」とも記され、村名は嘗ての宿駅にちなむ。因みに田園簿には「本鴻巣村」と記されている。
 1丁目と2丁目の間を中山道が走り、このあたりが近世本宿の集落が発達していたところで、今も何戸かの屋号にその名残りをとどめている。2丁目には、鴻巣警察署北本幹部派出所、北本市商工会、市立図書館(昭和49年開館)、古くからの集落北本宿の鎮守の天神社・新義真言宗宝塔山多聞寺があり、寺院境内に県指定天然記念物のムクロジがある。
        
                               本宿天神社神明系の一の鳥居
 社は駅前近くの繁華街に鎮座しているにも関わらず、欅などの大木が大切に保存され、静かな神域を保っている。
 
  一の鳥居の右側にある「本宿天神社の幟」    案内板の隣には社号標柱あり。
       が設置されている。
 本宿天神社の幟〈北本市指定文化財〉
 維神之霊涉在天 文久元年酉年夏六月富所氏子中
 聖徳寔馨降格地 雪城澤俊卿書
 北本市教育委員会は、平成二十八年六月二十四日の定例教育委員会において、本宿天神社が所蔵している幟を市指定文化財(有形民俗文化財)に指定しました。
 幟の文字は江戸時代後期に活躍した書家・中沢雪城によるもので豪快な筆使いによる書体は迫力があり、見るものに強烈な印象を与えます。大きさは長さ8m、幅0.8mで、材質は幅広に織られた木綿が使用されています。
 雪城は江戸を中心に活躍した越後長岡藩出身の書家で、「幕末の三筆」の一人、巻菱湖の高弟、俗にいう「菱湖四天王」の一人です。幟の奉納は文久元年(一八六二)六月とあり、皇女和宮降嫁の折、歓迎の意を込めてこの幟を揚げたと伝えられています。
 この幟は、①書家の評価が高いこと、②書家の筆跡を知るうえで貴重な資料であること、③保存状態が良好であること、④市内に残る江戸時代の幟として希少であること、などの理由からその文化財としての価値が認められたものです。
                                      案内板より引用
        
 本宿天神社の創立は、岡野家に伝わる『神社由緒書』によれば「寛文2年(1662)当時ノ領主三上筑前守敬神ノ念篤ク特二京師北野天神ヲ崇敬セリ依テ当地ノ領主タルニ当り当地ノ風致ヲ採り領地アリ五穀豊穣ノ祈願トシテ…」とみられている。しかし、この本宿村の領主三上筑前守は、文政年間(181824)の領主で、年代にずれがあり、その実際の沿革は不明である。ただ昭和45年本殿改築の折に工事の邪魔となることから、現手水舎の隣にあった御神木を倒しているが、その年輪が450年ぐらいあったことからして江戸時代(16031867)の頃からあったことは推察される。
 昭和30年代には、宝登山神社・稲荷社・大国真大神・猿田彦命など数社を末社として境内に勧請している。また昭和52年には、弁財天社も勧請している。
 嘗て絵馬なども多く奉納されていたというが、明治初期の神仏分離の折に処理され今日に至っている。『新編武蔵国風土記稿』によれば、天神社は当時、隣接する多聞寺持となっている。
        
           参道の先にある朱を基調とした木製の二の鳥居
     二の鳥居の正面には社務所があり、社殿はその手前で左側に鎮座している。
 
       二の鳥居の左側には天圀蔵五柱稲荷大神社が鎮座(写真左・右)
 参拝当日は気づかなかったが、稲荷大神社に向かう参道右側には、嘗て存在していた樹齢450年程の大杉のご神木があったようだ。昭和45年社殿改築の際に倒木、現在は根本のみの切りかぶのみとなっているとの事だ。
 
 天圀蔵五柱稲荷大神社と社殿の間には手水舎があり(写真左)、その右手には「算額」の案内板が設置されている(同右)。社には自らの由緒を記した案内板の他、各地域での算額を記したものも多数見かける。江戸時代から和算の普及により、庶民レベルまでも数学に対する知識も高かったことが、このような案内板からも伺い知ることができよう。

 北本市指定有形民俗文化財 算額   昭和五十三年三月十五日指定
 算額は和算家が問題と解法を記して神社仏閣に奉納した絵馬や額のことである。これは難問が解けたことへの感謝や勉学向上の祈念、また和算における成果発表などのために掲げられた。
 和算は江戸時代中期以降に関孝和(一六四三~一七〇八)らによって発展した日本独自の数学を意味し「算学」と呼ばれ、明治時代中頃になってもこれを学ぶ社中(塾)が各地にあった。
 当天神社に所在する算額は横一七八cm、縦八八cmという大型のもので、明治二十四年(一八九一)に奉納されている。内容は杉の柾目板に十二問が記され、そのすべてが、組合わされた図形から答えを導き出す平面幾何の問題である。
 算額掲示の発起者は本宿在住の清水和三郎及び林専蔵であり、これに名を連ねる解答者は本宿八名、ほかに北中丸二名、桶川の小針領家一名となっている。当地における算学研究が盛んであったことを証明する貴重な資料である。
 平成二十七年三月 北本市教育委員会
                                      案内板より引用
        
                     拝 殿
        
 天神社 御由緒  北本市本宿二--七
 □御縁起(歴史)
 北本宿は、慶長七年(一六〇二)に鴻巣宿に宿駅が移るまでは中山道筋の宿場であった。江戸時代の元宿村(明治二十二年に北本宿と改称)は、宿場の中心地に当たり、当社はその鎮守として祀られてきた神社である。
 元宿村の名主は、「機屋」の屋号を持つ岡野家で、当主の正家で二五代を数える旧家である。同家は、初め氏神として稲荷社を祀っていたが、そこに寛文二年(一六六二)ごろ、領地安全と領民の無病息災・五穀豊穣を祈願して、京都の北野天神社の分霊を勧請して祀ったのが、当社の始まりであると伝えられる。したがって、当社は元宿村の鎮守であると同時に岡野家の氏神でもあ ったため、この岡野家やその分家では邸内に氏神を祀っていない。
江戸時代には、当社の東南に隣接する多聞寺の持ちとして、同寺の管理を受けていた。『風土記稿』元宿村の項に「天神社 多聞寺持」とあるのはそうした状況を示すものである。
 この多聞寺は、多聞律師が文永年間(一二六四-七五)に創立したと伝えられる真言宗の寺院で、本尊は毘沙門天である。神仏分離の後は同寺の管理を離れ、明治六年に村社となった。太平洋戦争後、社殿の老朽化が目立ってきたため、中丸小学校の奉安殿を移築して本殿とした。本殿の御扉に菊の紋が入っているのはそのためで、拝殿も昭和四十三年に再建された。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                                       神楽殿
 本宿天神社獅子舞は、一頭立ての大神楽獅子舞で、本宿天神社に伝わる伝統芸能である。
 愛知・熱田神宮に起源を持つという関東地方の大神楽は、現在、寄席の芸能として有名な江戸太神楽と、茨城県指定無形民俗文化財、茨城県・水戸大神楽が知られているが、かつては千葉、群馬、埼玉、栃木にも、この系統の大神楽の組があった。――明治期、〈丸一〉と称されるほどの本格的な太神楽が、川越にはこの丸井太神楽のほか見当らないことからしても、本宿天神社獅子舞は、この組に関係する人物から伝承したものであると推察される。
 本宿天神社獅子舞は、幣舞、蝶舞、蚤取り、ヒョットコの獅子釣り、狂い獅子で構成されていたが、平成二十一年〈おかめの舞〉を復興させた。面だけが残されていたところ、従来から伝わる岡崎の囃子に舞と笛を乗せ再構成したもので、内容は、おかめの羽根突きである。なお、おかめの舞の岡崎は、その後につづくヒョットコの舞に比べゆっくりと叩かれる。そこに乗せられる篠笛の民謡・童謡は十数曲に及ぶが、お正月の曲にはじまり、春夏秋冬を表現したものである。
 囃子連の演じる獅子舞としては、県内では珍しい、歴史ある本格的な芸能として近年注目され、よくある、江戸囃子の囃子連が、見様見真似で行う屋台囃子、馬鹿囃子の獅子舞とはちがい、ここの獅子舞には幣舞があり、本格的な〈蚤取り〉の舞も伝承している。このような太神楽獅子は、埼玉県内では類を見ない、大変貴重なものであるという。
 

    境内社・天五色辨財天大神社       境内社・三社大口真大神社、登山神社
        
                     本 殿


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「北本市HP」「北本デジタルアーカイブス」
    「Wikipedia」「境内案内板」等



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北本東間浅間神社

『 北本市産業観光課HP 東間の富士塚』
東間の富士塚は高さが約6mで、頂に社殿を祭っています。かつては塚に登頂すると、遠く南西方向に富士山を眺望することもできました。塚の中腹には享保8(1723)に建てられた「石段供養塔」があり、
信仰の古さを伝えています。
 富士塚は旧中山道沿いの浅間神社境内にあり、実際の富士山の山開きに合わせた630日、71日には初山行事が行われます。初山は、この一年に生まれた赤ちゃんを富士塚に登らせ、額に朱印を押し、お払いを受け成長を祈願する行事です。北本に夏を告げる風物詩として多くの参拝客でにぎわいます。

        
              
・所在地 埼玉県北本市東間16
              
・ご祭神 木花咲耶姫命
              
・社 格 旧東間村鎮守・旧村社
              
・例祭等 獅子祭り 3月第4土曜日 春祭り 429
                   
初山例大祭 630日・71日 秋祭り 1129
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0352417,139.5320187,18z?hl=ja&entry=ttu
 JR高崎線北本駅東口から駅前通りを進み、「北本駅前」交差点を左折、旧中山道で現在の埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線を北東方向に350m程進むと、道路に面した左側に北本東間浅間神社の鳥居が見えてくる。そこから奥にかけて真っ直ぐな参道が延び、その正面には北本市指定有形民俗文化財である「東間の富士塚」という小高い塚頂上部に社は鎮座している
        
             旧中山道沿いに鎮座する北本東間浅間神社
 東間浅間神社の創建年代には諸説あり、崇徳天皇の御世、武蔵国守大納言藤原俊行公が霊夢により当社を創建したとも、江戸時代初期に大島家の先祖深井藤右衛門及び長楽坊・大乗坊が当社を勧請したとも、また鴻巣の勝願寺の和尚の世話で大島家の氏神を鎮守のなかった当地に遷し祀ったともいう。明治6年村社に列格している。
 地域名「東間」は「アヅマ」と読み、『新編武蔵国風土記稿』のよる由来によれば、寛永年間(16241643)頃は鴻巣の内の「東新田」と唱え、東間は鴻巣の東方にあったことによるという。
 
   入口付近に設置されている掲示板     掲示板の並びにある「東間の富士塚」案内板
 東間の富士塚
 地元で「センゲンサマ」と呼ばれているこの富士塚は、東西約三十七m、南北約二十七m、高さ約六mの規模で、頂には木造の社殿が建てられている。参道と東側の石段および社殿は直線状に配置され、これを延長した先は実際の富士山を正確に指向する。中腹には享保八年(一七二三)の銘が入った「石段供養塔」が建てられており、塚の築造時期は、少なくとも江戸時代中期にさかのぼると考えられる。
 このため東間の富士塚は、江戸時代後期に隆盛した「富士講」以前の古い富士信仰による築造である、近在においても類例が少なく大変貴重である。
 毎年六月三十日、七月一日には、この一年の間に生まれた赤ちゃんの成長を祈願する初山行事が行われている。
 平成二十五年六月
 北本市教育委員会
                                      案内板より引用
        
                  鳥居からの眺め
 嘗て筆者も仕事の関係で、この北本市・旧中山道は良く利用し、当然この地に鎮座している社の存在も知っていたが、残念ながら通り過ぎるのみで参拝するまでには至らなかった。
 専用駐車場も完備。北本駅にも近く、街中に鎮座する社。近郊に居住している方々が散歩がてら参拝している人も少なからず見かけ、地域に親しまれているお社なのだなあ、と実感した。
 旧中山道沿いという利便性から車両の往来はあるものの、広い境内に入ると不思議な静けさに包まれ、正面に見える古墳にも似た「富士塚」がこの地の歴史の深さを語るようで、一種威厳さえ感じてしまう。
        
             鳥居の右側手前に祀られている庚申塔
 
  鳥居を過ぎてすぐ右手に設置されている    記念碑の先で並びに祀られている境内社
   「東間浅間神社の由来」の記念碑             ・弁天社
        
              長い参道の先に富士塚が見える。
         他の社に時折祀られている富士塚とは一線を画す程の規模。
 恥ずかしい話になるが、正直この塚の案内板を確認するまで、これほどの規模でもあり、当然古墳だと思っていたところ、築造時期は江戸中期で、富士信仰の為に造成された塚との事。江戸時代後期に隆盛した「富士講」以前の古い富士信仰とのことで、この地域の方々の時代の流れを掴む先進的な物の取り組みには頭が下がる。
 同時に現在、巨木等により覆いつくされているが、築造当時はどのような威容であったのであろうか、筆者の想像を逞しく書き立てさせてくれる塚だ。
        
                富士塚頂上部に鎮座する社
「北本東間浅間神社 沿革」
 もとは、代々宮内村の名主をつとめた大島彦兵衛家(当主穎太郎氏の4代前)の氏神だったという。彦兵衛家は北条氏の家臣の家柄であったが、月ヽ田原落城の際、落ちのびて岩槻から宮内村にきて定住したと伝え、当社も最初は宮内の大島家地所内に祭られていたという。
 彦兵衛は鴻巣の勝願寺の和尚と懇意であったが、その僧の言に「宮内では、お詣りする人も少ないじゃないか。東間は通りっぱたで人通りも多い、東間には鎮守様がないから持って行ったらどうだ」ということで、東間の勝林寺の近くに祭りなおしたものという。ちなみに勝林寺は勝願寺の隠居寺(末寺)だといい、勝林寺地所七反弔ももとは大島家の地所だったという。また、かっては大島家から行かなければ、浅間様の鍵は開かなかったといわれ、招待されて行ったという。
『新編武蔵風土記稿』の東間の条に「近村宮内村の名主彦兵衛が所持する記録に鴻巣東新田富士浅間は伊奈備前守御代官の頃、深井藤右衛門及び長楽坊大乗坊勧請すとあり、是当社のことなるべし」との記載がみえる。また、大島家で所蔵する明治期の浅間神社境内地をめぐる訴訟時の記録からみても、これらの伝承には信憑性が認められる。
 また、浅間神社の別当寺であった宝光寺は、明治39年の勅命に基づき、明治4298日に合祀され、宝光寺持146畝の宮林は、浅間社に払い下げられた。
 なお、当社の書類等は、先代の宮司千葉松彦氏が戦後川越の喜多院に預けてそのままになっていると伝える。
「北本デジタルアーカイブス」より引用


『新編武蔵風土記稿 東間村』
 淺間社
 村の鎮守なり、本地薬師を安ず、秘佛なりとてたやすく示すことをゆるさず、
 末社、天神社、稲荷社
 別當寶光寺
 天台宗、川田谷村泉福寺末、東土山實相院と稱せり、近村宮内村の名主彦兵衛が所持する記録に、鴻巣東新田富士淺間は伊奈備前守御代官の頃、深井藤右衛門及び長榮坊大乗坊勧請すとあり、是當社のことなるべし、此内深井藤右衛門は鴻巣の内宮地の民勘右衛門、及び生出塚村の民源右衛門が祖先なり、其餘二人は何れの人なるや詳にせず、分科年中回録の災に罹り、未だ再興せず、
 鍾樓。貞享三年新鑄の鐘をかく、銘文あれど考證に益なければ取らず、 
          石段登る中腹附近で左右に祀られている境内社。
      左側には八幡社(写真左)、右側には天神社(同右)が鎮座する。
       
                                  拝 殿
        
              拝殿近くに設置されている案内板
 浅間神社 御由緒   北本市東間一-六
 □御縁起(歴史)
 当社は中山道に面し旧北本宿の北部にあり、江戸中期、富士山信仰の広まりにより富士塚として築かれた山の上に社殿が建つ。
 創建については、諸説が伝わる。一説は、万延元年(一八六〇)当時別当を務めていた宝光寺(明治四年に廃寺)が、当社本尊であった薬師如来像御開帳の折に、版木を刷って配布した「富士大権現略縁起」によるもので、崇徳天皇の御世、武蔵国守であった大納言藤原俊行公の霊夢に、最初は本地薬師如来の姿で、二度目は木花開耶姫となって現れた祭神が、社地を示し、貴賎男女の繁栄の地となすべしと言って東を指して飛び去った。その後、直ちに社殿を建立したという。
 また一説は、『風土記稿』東間村の項に載るもので、「近村宮内村の名主彦兵衛が所持する記録に、鴻巣東新田富士浅間は伊奈備前守御代官の頃、深井藤右衛門及び長楽坊・大乗坊勧請すとあり、是当社のことなるべし」とある。ちなみに当社は、寛永年間(一六二四〜四三)のころまでは鴻巣領東新田と呼ばれていた。また、ここに見える名主彦兵衛は、現在も宮内に住む旧家大島家の先祖で、もとは北条家の家臣で、岩槻城太田氏房の城代家老を務めていたが、小田原落城の折、当地に落ち延びたという。
 しかし、その大島家の口碑には「当社は元は当家の氏神であったが、鴻巣の勝願寺の和尚の世話で鎮守のなかった当地に遷し祀った」とあり、いずれとも決め難い。明治六年四月、当社は村社となった。(以下略)
                                      案内板より引用

        
          富士塚石段の左手に立つ「浅間神社社殿修復記念碑」
            
         「浅間神社社殿修復記念碑」の左並びには「東間浅間神社再建之碑」が立つ。 
 東間浅間神社再建之碑
 当社は東間の鎭守として八百八十年の歴史を有し、御祭神木花咲耶姫命は古来子育ての神崇敬され、初山例大祭には近隣市町村はもとより遠方からも子供の健やかな成長を祈る多くの参拝者で賑わっている。
 平成十七年六月一日深夜、築約二〇〇余年の社殿が不審火により全焼した。氏子を始め宮司、総代等神社関係者にとってはまさに晴天の霹靂、ただ茫然自失するばかりであった。
しかしながら、幸い社殿を失った悲しみと憤りの中から、時を経ずして神社再建への機運が高まり、その意をうけて有志による再建準備会が発足した。ついで同年十月九日東間地区氏子の総意に基づき「東間浅間神社再建委員会」が設立された。東間一~八丁目およびサンマンション各自治会からの推薦による委員各位の積極的かつ献身的な活動と氏子を始め関係各位の心温まる御協力により奉賛金の募集並びに建築工事も円満に進行し、平成十九年六月無事竣功を迎えることが出来た。
 これ偏に御祭神の御神徳と氏子各位並びに東間地区外有志の方々の御理解と御支援の賜と深く感謝する次第である。
 茲に社殿再建に至る経緯の概略を刻し、この地域伝統の文化を後世に伝えるとともに併せて御祭神の御神徳を広く宣揚する事を祈念して建立するものである。(以下略)
                                     記念碑文より引用
 
       
                             広い境内の一風景 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本市産業観光課HP」「北本デジタルアーカイブス
    「境内案内板等」等
 

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