古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下銀谷稲荷神社


               
              
・所在地 埼玉県比企郡吉見町下銀谷1
              
・ご祭神 倉稲魂神
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 例祭 1015

 大里比企広域農道(通称 みどりの道)沿いにある「道の駅いちごの里よしみ」を通り過ぎた最初の信号のある交差点を左折する。辺り一面田畑が広がる中にポツリポツリ民家が立つ長閑な風景を愛でながら1㎞程進むと、正面右側に社叢林らしい場所があり、そこの十字路を右折するとすぐ左側に下銀谷稲荷神社の鳥居が見える。社としての規模は小さく、東西に通じる道路に対しても社殿は背中を向けていて、尚且つ社叢林に隠れているので、ルートの説明は意外と簡単でも、やや目立たない場所である。
 民家が隣接しているため、また社務所等もないので駐車スペースはない。車両等の邪魔にならない場所に路駐し、急ぎ参拝を開始する。
               
                  下銀谷稲荷神社正面

 下銀谷稲荷神社が鎮座する吉見町下銀谷地域、嘗ては「下銀谷」と書いて「しろかねや」と言っていたようだが、現在「しもぎんや」と読まれている。「埼玉の神社」による地名の由来は、上銀谷にある薬師堂の行基作といわれる薬師石像の腹に蔵されていた古杉薬師が白金であることによるというが、一説には当地が古くから水利に恵まれた豊かな地であったことにちなむともいう。

『新編武蔵風土記稿 上銀谷村条』には「古杉薬師」に関して以下の記載がある。
 〇薬師堂
「腹籠に、行基の作佛を置り、傳え云、此像はもと古名村の民家の守護佛なりしが、夢の告によりて境内古杉の下に安置せり、依て小杉薬師と呼、其杉今も堂後にあり、幹の大さ三圍許、樹根より一丈ほど上にて、枝十二に分かれて繁茂せり」
 
 鳥居に掲げてある社号額。字が見えずらい。    参道の先の高台上に社殿が鎮座しているが、
                           前面の樹木の為隠れてしまった。
               
                     拝 殿
           高台の上に鎮座しているが、古墳かどうかは不明。

 稲荷神社  吉見町下銀谷一
 下銀谷の地は、もと銀谷村の内であったが、貞亨二年(一六八四)に上下に分村した。地名の由来は、上銀谷にある薬師堂の行基作といわれる薬師石像の腹に蔵されていた古杉薬師が白金であることによるというが、一説には当地が古くから水利に恵まれた豊かな地であったことにちなむともいう。
 社伝によると、第五一代平城天皇の御代である大同年間(八〇六-一〇)に一つの村落として開かれてより神明社(現在の上銀谷の鎮守)を久しく崇敬してきたが、分村後三十年余を経た享保二年(一七一七)に下銀谷村の鎮守として稲荷神社を奉斎した。安政二年(一八五五)に石段を建設し、文久三年(一八六三)には石鳥居を建立したという。
『風土記稿』には「稲荷社 村の鎮守とす、清雲寺持」とあり、清雲寺については「新義真言宗、御所村息障院末、本尊不動を安ず、天王社」と載る。同寺は祭りの花火による失火が原因で周囲の民家と共に焼失したと伝えている。その跡地には現在下銀谷の集会所がある。
 本殿両脇に二つの石祠がある。一つは八坂社(旧天王社)で、明治四十年に清雲寺跡地から移された。もう一つは八幡社で、その由来は明らかでない。共に天明八年(一七八八)の年紀が刻まれている。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
               
              拝殿上部に掲げてある木製の案内板

 当地は五十一代平城天皇の御代大同年間に白銀谷部落として発詳してより神明社を久しく崇敬し来れり宝永六年に至り地区を分割して上銀谷下銀谷となる
 享保二年に現在の地に倉稲魂命を奉斎して鎮守として崇敬し来れり
 安政二年石段を建設、文久三年鳥居を建立す 明治四十年に八坂神社を合祀す 昭和七年に再建す(以下略)
                                      案内板より引用

           
                        拝殿手前で右側に聳え立つ巨木。

『新編武蔵風土記稿久米田村条』には「褒善者内山孫右衛門、世々里正を勤む。郡中飢饉の時夫食を施し其外奇特の事あり、時の御代官今井九右衛門言上して、宝暦六年三月九日白銀若干を給はり、且其身一代帯刀及苗字は永く名乗る事を許されしと云。孫右衛門が先祖は内山外記とて松山城主上田氏の臣たりしが、落城の後当村の民となりしと云」と記載がある。
 因みに久米田村には字「外記谷」があって、内山外記が天正十八年の豊臣秀吉による小田原攻めで後北条氏は滅亡、同時に松山城落城した際に土着して帰農したといい、その由来にてつけられた地名という。

 また、おそらくこの内山氏が残したであろう「内山文書」には以下の書簡が伝存している。

・「当原地三貫文之所(足立郡)并大串之内銀屋不作十七貫文之所(横見郡)出置候、永禄九丙寅十月二十四日、内山矢右衛門尉殿、氏資花押」
・「自前々大串之内銀屋より召仕陣夫、如先御印判、無相違、可召仕者也、午十一月二十七日(元亀元年)、内山弥右衛門尉殿、奉之笠原藤左衛門」
・「自前々召仕候陣夫壱疋、只今松山領大串の内白金屋、松山へ断相済間、為先此印判、自来調儀可召仕、松山へも、猶此旨、有御下知者也、天正六年戊寅三月十四日、内山弥右衛門尉殿、奉之垪和伯耆」

 ここには「銀谷」が嘗て「銀屋」又は「白金屋」と記載されている。
 
 
   巨木の手前に鎮座している境内社。       境内にある庚申塔 青面金剛像。
案内板等に書かれている八坂社か天神社であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「内山文書」「埼玉の神社」等
 

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