古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大串氷川神社

 大串次郎重親(おおくし じろう しげちか)は、平安時代後期の武士。武蔵国を拠点とした武士団、武蔵七党の一つ、横山党の出身。大串氏は、由木保経の次男・孝保が称したのに始まり、武蔵国横見郡大串郷(現在の比企郡吉見町大串)を本領とする家柄であり、重親はその孝保の子であった。畠山重忠とは烏帽子親、烏帽子子の関係にあり、名前の「重」の一字は重忠から拝領したものと考えられている。
 宇治川の戦い、その後奥州合戦で活躍する。奥州合戦では、重忠に随伴し、阿津賀志山の合戦で敵の総大将藤原国衡を討ち取ることに貢献した。和田義盛が矢を射掛けて国衡が負傷してうろたえたところに重親の部隊が猛攻撃をしかけ、深田に馬の足を捕らわれもたついている国衡を討ち取り首級をあげたことが、『吾妻鏡』に記されて、重親は討ち取った国衡の首を重忠に渡している。
 その後畠山重忠が追討された二俣川の戦いにも参戦する。このとき重親は安達景盛などと共に重忠と対峙したが、弓を収めて撤退した。北条時政の讒訴によって追討されることとなった重忠への同情からの行動だといわれている。畠山重忠とは烏帽子親、烏帽子子の関係にあり、名前の「重」の一字は重忠から拝領したものでもあり、度重なる合戦では畠山一党として随伴した「情」もあったろう。なんと心優しい坂東武者ではなかろうか。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町大串613
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 不明

 大里比企広域農道(通称 みどりの道)と埼玉県道33号東松山桶川線の交わる「大串」交差点南側に大串氷川神社は鎮座している。地図を確認すると、前河内日吉神社からほぼ南側で、直線距離でも100m程しか離れていない。
               
                              大串氷川神社正面
         氷川神社の鳥居前には庚申塔と辯財天が共に祀られている。
               
                          庚申塔(写真左側)と辯財天(同右側)。
           辯財天は右手に剣を、左手には宝珠を持っている。
               
                      大串氷川神社鳥居。右側端部が欠けている。

「埼玉の神社」によると、「武蔵七党の一つ横山党の大串氏は、八王子市由木に住する由木氏から分かれた一派で、当地を本貫とし、前河内・江綱・久保田などを領したという。中でも、大串次郎重親は、寿永三年(一一八四)の宇治川の先陣で平家と戦ってその名を馳せ、更に、文治五年(一一八九)の源頼朝の奥州征伐に従って戦功のあったことでよく知られており、その後も戦国時代まで、鎌倉管領方に属し、武功を立てている」との記載があり、鎌倉時代大串氏はこの「大串」地域のみならず「前河内・江綱・久保田」地域も領有していたという。

大串次郎重親に関して「新編武蔵風土記稿 大串村条」において長文を載せて紹介している。途中漢文体もあるので、筆者の解釈にて訳す。
大串次郎重親墓、毘沙門堂の背後に在り、五輪の石塔にして、面に永和二年丙辰十二月日沙弥隆保と彫る。これ重親が法諡なりと云ふ。大串は武蔵七党の内、横山党にて、祖先は小野篁の後胤、横山大夫義高の苗裔、由木六郎保経の二子を大串次郎孝保と号す、是れ大串の祖にして、其子大串次郎重保、又重親と号せし由、彼の系譜に見ゆ。又【東鑑】文治五年八月十日錦戸太郎国衡討死の条に、重忠門客大串次郎、国衡に相逢ふ。国衡駕する所の馬は、奥州第一の駿馬、高楯黒と号する也。大肥満、国衡之に駕す。毎日必ず三箇度平泉高山を馳登ると雖、汗を降さざるの馬也、而して国衡義盛の二箭を怖れ、重忠の大軍に驚く。道路を閣て深田に打入るの間、数度鞭を加ふと雖、馬敢て陸に上る能はず。大串等於得理梟首大遮也云々と見ゆ。此の余【平家物語】、及び【源平盛衰記】宇治川合戦の条に、重忠に扶けられて重親が川を渡せし事を載せたり。重親は畠山重忠が鳥帽子子にして、屡々戦功もありしとぞ。さるを今此の墓に永和二年とあれど、重親が錦戸太郎国衡を討しは文治五年にして、其の年代百八十余年を隔たる、されば爰に記せる沙弥隆保は大串氏の人にて、重親が子孫などなるを、たまたま著名たるによりて、重親が墓といひならはせしか」
 
      参道の先に拝殿が鎮座する。           拝殿の手前に設置されている
                           「氷川神社由来記」

 氷川神社由来記
 本社は鎮座の年代を詳かにせざるも、大串次郎重親、武蔵一宮氷川神社より勧請すと伝えらる。社蔵の記録文書等は累次の洪水により流亡し尽し、僅かに比企郡神社誌に「口碑に永徳及び元禄の社殿造営を伝う」との記事あるのみ。然れども作神として時代を超えて農民に尊崇されて今日に至りしこと明らかなり。
 明治四年六月村社に列せられ、明治四十年四月大串六社の合祀をみる。大正二年拝殿の造替を視、昭和五十九年十二月には拝殿が改築され、次いで平成八年三月神門建替を行ふ。
 社前には享保十四年十七年の銘ある燈籠二基あり。また三十五貫目と刻せる石あり、芭人の力競べせし有様僅かに伝ふ。
 是に由来の散逸を懼れ、石に刻して識となす。(以下略)
                                     由来記文より引用

               
                     拝 殿
               
                            拝殿前にある石燈籠
享保十四年十七年の銘ある燈籠二基あり、左側の燈籠には「正一位氷川大明神」と刻印されている。
               
 境内には石祠(写真左)あり。詳細不明。また社殿奥には「愛宕大権現」の石碑もあり(同右)


 ところで横山党大串氏は小野氏系図によると、「「〇横山次郎大夫経兼―由木六郎隆家―大串野五隆保(少代)―次郎重保(重親)」と記載されていて、武蔵国横見郡大串郷(現在の比企郡吉見町大串)を本領とする武蔵七党・横山党に属する一族である。

 大串次郎は畠山重忠同様に、大串郷の鍛冶支配頭領の可能性も高い。というのも、始祖であり、重親の父である隆保は「大串」苗字であるのと同時に「少代」を号していて、比企郡正代村(現東松山市正代地域)の有名なる『正代鋳物師』の出身、もしくは知行地ゆえに少代氏をも称していたという推測は眉唾ものではない。
               
                                  境内の一風景

 
因みに正代地域は鎌倉時代には「小代郷」と呼ばれ、小代氏(児玉党を出自とする武士)の居住地であった。小代氏の配下に置かれ、鋳物生産を行っていたのが、小代鋳物師(いもじ)と呼ばれる集団である。
 大串次郎重親はこのように「大串」地域を中心に「前河内・江綱・久保田」各地域を領有し、「正代」地域も支配していた。もしかしたら「前河内・江綱・久保田」各地域も、鋳物生産をする拠点がそれぞれあったかもしれない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
比企郡神社誌」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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