古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

飯島新田稲荷神社

 荒川は、その名前が示すとおり、「荒ぶる川」が語源とされ、氾濫を繰り返してきた。戦国時代が終わり、徳川家康が江戸(東京)に幕府を開くと、江戸を水害から守ること等を目的として、利根川と当時利根川の支流であった荒川を切り離し、利根川を太平洋に流す、「利根川の東遷、荒川の西遷」が実施された。
 寛永61629)年に伊奈忠次により荒川の瀬替え(荒川の西遷)が行われ、和田吉野川および市野川を経由して入間川の本流に接続され、現在の荒川に近い流路となった。但し元々の流路は元荒川として今でも残っている。
 荒川の河川舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めたが、荒川中流域、特に市野川の下流域周辺では水害が増え、「吉見領囲堤」や「川島領囲堤」といった大囲堤の堤防(輪中堤)や水塚等が作られた。
 現在でもさくら堤公園の土手や、市野川大橋より西の川島こども動物自然公園自転車道線の築堤として遺構が残っている。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町飯島新田563
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧飯島新田鎮守
             
・例祭等 例祭(天王様)  714
 吉見町飯島新田地域は町南東部にあり、「吉見領囲堤」の最南端にあたり、荒子地域の東側に位置する。飯島新田稲荷神社は東には文覚川が、西からは台山排水路が、その真ん中には中堀がまさに合流する三角点の丁度北側に社は鎮座する。
 この社へのアクセスは説明しずらい。途中までの経路は荒子八幡神社を参照。埼玉県道33号東松山桶川線を北本市方向に進み、「さくら堤公園」の看板がある道を左折、そこから道なりに北上する。左手後ろ側には社の鳥居は小さく見えるが、直接社に到達する一本道はないため、一旦さくら堤公園の土手を走行し、一本目の曲がり角を左折して左カーブを描くように南東方向にある細い道を進むとその先に飯島新田稲荷神社は見えてくる。
        
                 飯島新田稲荷神社正面
 周囲一帯明るい境内だが、周辺には民家はほぼない。のんびりした中にも寂しさも漂う場所だ。
 木製の両部鳥居は朱が基調となり、如何にも社らしい風格があるのだが、周りに鎖が敷かれている。崩落の危険性が高いのであろうか。

朱色の一の鳥居のすぐ先にある新しい石製の鳥居  真っ直ぐ進む参道の先に社殿が見えてくる
        
 一旦目を南側に向けると、そこには「南吉見排水機場」がある。文覚川、中堀、台山排水路等の水を市野川へ強制的に排水する施設で、このような施設がある場所の近くで、安心して日常生活を営むには躊躇があろう。地域住民にとって生活基盤となる大切な「水」の恩恵が、逆に「洪水等の災害」に陥らないように、社をこの河川の合流場所にあえて鎮座させ、日々祈りを捧げていた。
…この施設を眺めながら、なんとなくそのような風景が筆者の頭の中で過った。

新編武蔵風土記稿』には「飯島新田」に関して以下の記載がある。
「飯島新田」
飯島新田は飯島惣左衛門と云者、開墾せし所なれば直に村名とせし、この惣左衛門が事詳ならず、當村元禄の改に始て記したれば、開発の年代も推て知らる、東は大和屋新田、南は古市ノ川を限て比企郡松永村、西は郡内荒子村、北は蚊斗谷村なり、東西六町、南北三町許、吉見用水の末流を引て水田を耕植すれど水損の地なり」
「稲荷社 村の鎮守なり、成就院の持」

 やはり日常的に洪水等の災害が発生する常襲地帯であったのだろう。近代的な土木技術を持った今でも、時に洪水災害は起こりえる。その技術を持ちえない当時の方々には、最終的には「祈り」を捧げること以外なかったのではなかろうか。
        
                                塚上に鎮座する拝殿
『日本歴史地名大系 』「飯島新田」の解説
 [現在地名]吉見町飯島新田
 大和屋(やまとや)新田の西、市野(いちの)川の左岸に位置する。同川を挟み南は比企郡松永(まつなが)村(現川島町)、西は荒子(あらこ)村。六ヵ新田と同様に荒川右岸の低地を開発して成立した新田村で、地名は飯島惣左衛門なる者が当地を開墾したことに由来するという(風土記稿)。元禄郷帳では高三八七石、国立史料館本元禄郷帳では幕府領、以降も同領で幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)

 飯島惣左衛門によって開発されたと伝えられる飯島新田地域。創建時期は不明ながら、正保年間から元禄年間にかけて(1644-1688)開発された飯島新田の鎮守として、耕地の安泰を祈って奉斎したそうだ。但しその創建に「飯島惣左衛門」が関わっていたかは不明。
 
  拝殿右階段手前の 狛犬(狐)の並びには    同じく拝殿右階段手前の 狛犬(狐)の
     幾多の石祠・石碑あり。          すぐ右側に置かれている「力石」
        
                               飯島新田稲荷神社遠景

ところで、東松山市古凍地域に「古凍祭ばやし」といわれる伝統芸能が今に伝わっている。「東松山市HP」にもその祭ばやしに関しての説明がある。

「古凍祭ばやし」
 囃子には江戸時代から演奏されていた古囃子と、明治初期に演奏技術の変革が行われて以降の新囃子とがあります。明治30(1897)代は古囃子が盛んでしたがその後中断し、昭和3(1928)頃、吉見町の飯島新田地区で伝承されていたものが川島町の小見野神楽連を経て伝えられ復活しました。明治の頃使われていたと思われる太鼓が残っており、墨書きから「東京浅草区亀岡町」の太鼓商「高橋又左衛門重政」の太鼓であることが分かります。太平洋戦争中は10年ほど中断し、昭和23(1948)に復活しました。昭和29(1954)には屋台が新調されましたが、昭和35(1960)頃になると字内を貫通する川越-熊谷線の交通量が激しくなり、屋台の曳き廻しは中止、根岸地区とのひっかわせも断念(根岸地区も屋台を所有していた)することとなりました。現在は屋台を所有せず、トラックで代用しています。地元鷲神社の祭礼の他に、今泉の鷲神社祭礼でも演奏を行っています。

 つまり明治期に古囃子を演奏していたが、その後中断し、昭和3年に吉見町の飯島新田地区で伝承されていた囃子を川島町の小見野神楽連を経て今に伝えられるという。本家である飯島新田地域の古囃子はどのようなものであったのだろうか。稲荷神社は毎年7月15日に例祭が行なわれるが、その際にお囃子が奉納されているのであろうか。であるならば是非拝見したいものだ。
        
                                社殿から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「北本高尾氷川神社HP」
    「Wikipedia」等

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