勝呂神社
その皇族将軍の中で武渟川別(たけぬなかわわけ、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古墳時代の皇族。『日本書紀』では「武渟川別」「武渟河別」、『古事記』では「建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)」と表記されている。
第8代孝元天皇皇子の大彦命の子で、阿倍臣(阿倍氏)の祖。四道将軍の1人として東海に派遣されたほか、垂仁天皇朝では五大夫の1人に数えられる。
『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では武渟川別を東海に派遣するとあり、同書では北陸に派遣された大彦命、西道に派遣された吉備津彦命、丹波に派遣された丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている。その後、将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告した。
一方『古事記』では、四道将軍としての4人の派遣ではないが、やはり崇神天皇の時に大毘古命(大彦命)は高志道に、建沼河別命は東方十二道に派遣されたとする。そして大毘古命と建沼河別命が出会った地が「相津」(現・福島県会津)と名付けられた、と地名起源説話を伝える。
坂戸市石井地域に鎮座する勝呂神社は、第十代崇神天皇代に当地を拠点にして活躍した四道将軍の一人建渟河別命が当地古墳に祀られ、寛和2年(986年)、陵墓上に北陸鎮護の神として知られる加賀の白山比咩神社の分霊を勧請して創建したという。
・所在地 埼玉県坂戸市石井226
・ご祭神 (主)菊理姫命 伊奘諾尊 伊奘冉尊
(配)建渟河別命 豊城入彦命
・社 格 旧村社
・例祭等 春祭(祈年祭)2月24日 例大祭 3月15日
秋祭 10月16日
国道407号線を熊谷市、東松山市を抜けて南下し、「関越自動車道 鶴ヶ島IC」方向に進路をとる。IC手前の「片柳」交差点を左折、埼玉県道74号日高川島線合流後、1km程東方向に進むと、「石井下宿」交差点のT字路となり、そこを右折し、すぐ直後の信号をさらに左折する。左折後600m程道なりに進むと左側に勝呂神社が見えてくる。
鳥居右側には参拝者用の駐車入口もあり、そこから境内に入る。撮影に邪魔のならない場所に車を止めてから参拝を開始した。
勝呂神社正面
鳥居の左側に設置された案内板 鳥居に掲げられている社号額
勝呂神社
勝呂神社の社は、大きな円墳の上に建っています。石段を登り拝殿前から見渡すと、景色の良さに驚きます。加賀国(石川県)の一宮である白山比咩神社が祀られていることから、「白山さま」とも呼ばれ地域の信仰を集めています。
円墳は高さが四・二メートルもあり、拝殿の脇には石室の一部とみられる大きな川原石が露出しています。
神社が鎮座する石井の地は、縄文時代から人が住んだ痕跡が認められ、古墳時代から中世には入間郡の中心として発展しました。豊かな自然と肥沃な大地に恵まれ、早くから人々の生活が営まれてきました。
神社の記録によれば、第十代崇神天皇の時代に伝説上の人物と言われる四道将軍の一人、建渟河別命が勝呂神社古墳に葬られていると伝わっています。直径およそ五十メートル、高さ四・二メートルの円墳に、東海鎮護の神としてお祀りし、千年以上も前から神地として崇拝されてきました。
寛和二年(九八六年)、古墳の上に北陸鎮護の神として知られる加賀一宮白山比咩神社の御分霊が勧請されました。その後、武蔵七党の村山党に属した須黒太郎恒高が勝呂に本拠を構え、建保元年(一二一三年)には社殿を再営して勝呂白山権現としました。
明治時代に社号を白山神社と改め、明治四十二年(一九〇九年)に現在の勝呂神社になりましたが、今も「白山さま」として信仰を集めています。
発掘調査の成果では、神社の東を東山道武蔵路が通っていたことが確認され、七世紀後半に建立された埼玉県最古の寺院の一つ勝呂廃寺との関連も注目されています。 坂戸市教育委員会
案内板より引用
勝呂神社が鎮座する坂戸市石井地域は市の北東部に広がる坂戸台地の端部にあたり、社周辺には古代官道である東山道武蔵路が南北に通っており、奈良時代前記の寺跡である勝呂廃寺後や、平安時代の館跡である勝呂屋敷、また三〇基近い古墳もあるところから察して、かなり古い時代から有力な豪族がこの地に住んでいたものと推測できる。
陽光をいっぱい浴びた明るい境内
境内は綺麗に玉砂利が敷かれ、日頃の手入れも行き届いているようだ。
当日の天候も良く、気持ちよく参拝に臨むことができた。
一段高い場所に玉垣が並び、その先にも参道が続く。
参道左側には手水社 右側にはやや小ぶりな神楽殿を配置
参道の先にある石段を登りきると拝殿に到着できる。
この地域は市の北東部に広がる坂戸台地の端部にあるので、周辺一帯は標高20mにも満たない沖積平地が広がり、この拝殿を頂く地のみこのような塚上のテラスがあるのは不自然と感じたのが第一印象で、確認するとやはりこの塚は古墳(円墳)とのことだ。勝呂神社古墳(すぐろじんじゃこふん)という。
現状で直径50m、高さ4.2m。平成11年に周溝の発掘調査が行われた。神社の境内には緑泥片岩の板3枚があるが、2枚はこの古墳から出土したものと伝えられている。
石段の登り口両側に鎮座する境内社。左側には金守稲荷社・八幡社合社(写真左)、右側には名札はないが、置物から推測するに、境内社稲荷社と思われる(同右)。
やはり石段登り口右側に設置された「勝呂神社本社周辺の図」。
拝 殿
由緒
社記によると、第十代崇神天皇の御代に四道将軍の一人、東海道将軍として派遣された建渟河別命は東夷平定にあたり、この地を本拠に活躍しました。その功を遂げると都へ戻りましたが、後年再び来住して村人たちの文化を高めました。命が薨ずると、村人たちは広大な陵墓を築き(築造期は、今からおよそ一五○○年前)、東海鎮護の神としてここに命を奉斎しました。これが今日の勝呂神社古墳です。
当社は、第六十五代花山天皇の御代、寛和二年(九八六)、加賀国一の宮の白山比咩神社の御霊を勧請し創建されたことによるもので、主祭神として菊理姫命・伊邪那岐命・伊邪那美命を、配神として建渟河別命・豊城入彦命を奉斎します。
その後、平安時代後期、鎮守府将軍として奥州の逆徒追討に向かった八幡太郎の通称でも知られる、武門の誉れ高き武将「源義家」は、建渟河別命の故事に倣い、当社に参拝して戦勝を祈願したところ、霊験大いにあり、後三年の役終結(一○八七)の後、凱旋の折に報賽し社領を定められました。
鎌倉時代になると武蔵七党の村山党に属した須黒(勝呂)氏は、「吾妻鏡」にその名を残すほどの勢力となっていました。とりわけ「須黒太郎恒高」は、当社を氏神として厚く信仰し、社領を加増するとともに、建保九年(一二一三)に社殿を再営して「強い神」として尊崇し、社号を勝呂白山権現に改めました。
江戸時代においては、寛永十九年(一六四二)に御社殿が再建され、その七年後、慶安二年 (一六四九)には、三代将軍家光公から五石の朱印状を受け、以後代々の将軍家より社領を賜わるとともに、古河領及び地頭から、それぞれ「玄米一石永七五文供米一俵」が毎年祭祀料として寄進されました。更に延宝九年(一六八一)には、郷人すべての崇敬の志を集めて立派な本殿の造営(現存の本殿)がなされています。
明治時代に入ると社号を白山神社と改め、勝呂村の指定村社に列せられました。明治四十一年(一九〇八)には地内の無格社十五社を合祀したのを機に、社号も古来の地名をとり「勝呂神社」とし、勝呂郷総鎮守として現在に至っています。
信仰
白山比咩大神とも呼ばれ、「はくさんさま」の呼称で里人に親しまれている菊理姫命は、縁結び、安産の神・水利の神、更には病気平癒の神としての信仰を集めています。
また、建渟河別命は、東海道将軍であり、殊のほか強い神です。その大いなる霊験により「勝負の神」としての信仰を集めています。 ※社殿の東側に「勝運霊石」があります。
これら、当社に祀るすべての神々を尊称して「勝呂太神」と申します。(以下略)
拝殿掲示版より引用
拝殿に掲げてある扁額
額に刻まれた龍の彫刻が精巧で見事というしかない。
勝呂神社は「勝虫」つまりトンボがシンボルとされている。トンボは素早く飛び回り害虫を捕らえ、前にしか進まず退かない「不退転」の精神を表すものとして、「勝ち虫」と呼称され、当時の武士に珍重された。
この社に奉斎されている東海道将軍・建渟河別命は大変強い将軍で、源義家公も戦勝祈願をして大いなる霊験を頂いており、このご神威に肖り、勝運の神として広く信仰されたという。
社殿の左側に祭られている境内社、合祀社(写真左)。合祀社には「熊野権現」「熊野神社」「稲荷社」「氷川神社」の札がある。合祀社等の並びに祭られている境内社・末社(同右)。詳細不明。
社殿の右隣に祀られている「勝運霊石」
ところで「勝呂(スグロ)」という地名は特色ある名である。由来を調べると、鎌倉時代の入間郡内の勝呂荘勝呂郷。古くは勝または須黒とも書いたようだ。また「すぐろ」は朝鮮語で村長(むらおさ)て、村主(すぐり)の転訛ともいう。
『古代氏族系譜集成』には嘗て入間郡勝郷に存在していた「勝氏」の系譜が載っている。
○古代氏族系譜集成
「高麗貞正(高麗郡司判官代)―勝権守純豊―貫主純安―井上大夫純長―勝二郎大夫季純―勝大夫純実、弟高麗麗純(正治元年卒、八十二歳)」
「高麗永山(応永十三年卒)―女子(勝住、右京妻)」
「高麗良道(慶長五年卒。母勝呂筑後守女)、弟伊勢守某(勝呂大宮司養子)」
社殿から境内を望む
その後平安時代後期となり、それまでは親族・重臣とばかり縁組をしていた高麗族であったが、武蔵七党・丹党から「須黒氏」が現れて、この地に移住・居住することになる。そして高麗族もその武蔵七党・丹党と婚姻関係を結ぶ。武蔵国守でもあり、当時政治を仕切っていた鎌倉幕府執権家との絆を構築しようとしたのではなかろうか。
『武蔵七党系図』
「山口六郎家俊―右兵衛尉家恒―勝太郎恒高―須黒左衛門尉頼高(又号勝呂)―左衛門尉行直(実直忠子、頼高養為子)。恒高の弟六郎右馬允直家―直忠、弟国家。直家の弟左衛門尉家時(承久乱有戦功)―太郎安家」
「勝」一族は、一般的にその出自として「百済系」「秦氏系」の帰化した一族、また「物部氏系」ともいわれ、その他には源平藤橘以降でいえば、清和源氏の村上氏・武田氏、藤原北家道兼流あるいは賀茂姓の本多氏、桓武平氏北条氏の系統とする異流も多いという。
摂津・和泉・山城・備前・美濃、出雲などに勝姓が多いとされていて、ともあれ謎の多い一族である。
参考資料「古代氏族系譜集成」「武蔵七党系図」「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」
「鶴ヶ島市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等