古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

五社神社

  宮代町東地区に鎮座する五社神社は、以前、五社権現社もしくは五社宮とも言われ、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山、山王の五社)を等間隔に祀ったことからその名が起こったと言われている。祭神は、天之忍穂耳命他7柱である。
 百間東村の鎮守社で創立は養老年間(717 ~ 724) に行基が当地に来たときであるとされる。本殿は、県指定文化財。本殿内部に納められた神鏡は、江戸時代の信仰形態を示す貴重な資料となっていて 町指定文化財に指定されている。

所在地    埼玉県南埼玉郡宮代町東90
御祭神    天之忍穂耳命、天津日子根命、天之穂日命、活津日子根命、久須毘命                                                                    社  挌    旧村社  百間東村鎮守社
創  建    養老年間(717-724)  
例  祭    みかん投げ 例年2月14日

       
地図リンク
 五社神社は東武伊勢崎線『姫宮駅』の南西約600m程の位置に鎮座している。西光院というお寺と道を挟んで隣接している。駐車場は無いので西光院の駐車場を一時借りて参拝を行った。
 この社の具体的な創建時期は不明とされているが、当地の古伝によると養老年中(717年~724年)に、奈良時代の僧である行基が当地を訪れたと伝えられており、当時、行基の前に、五人の老翁が現れ「当地は、霊験あらたかな地である。我々は熊野三山の翁、近江日吉の主、白山の厳翁である。」と告げて姿を消したという。そして、行基はこの神託にならい、当地に西光院を建立し、その鎮守として当社を創建したとされている。
           
                            五社神社正面
            実は交通量が非常に多く、撮影するのに意外と時間がかかった。
 
   
 鳥居の扁額には「五社宮」と書かれている。         境内内にある多数の境内社や石碑
               
                         石碑の手前にある案内板

五社神社    所在地 宮代町東九〇
 
五社神社は、以前、五社権現社もしくは五社宮とも言われ、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山、山王の五社を等間隔に祀ったところからその名が起ったと言われている。祭神は、天之忍穂耳命他七柱である。
 
創建年代については、別当である西光院が火災にあったため明らかでないが、現在の本殿は、桃山時代の文禄、慶長(一五九二~一六一四)の建築と推定されている。本殿は五間社流造りで、正面に向背を付け、蟇股に牡丹、竜、鳳凰、猿、虎などの彫刻が施されている。大正年間に茅葺きからトタン葺きに替えられ、昭和四十九年の解体修理のとき銅板葺きにされた。
 
また、それぞれの社には、元禄十四年(一七〇一)五月吉日の年号がある銅製の御神鏡がある。江戸の鏡師二橋伊豆守藤原吉重の作である。(中略)
 
なお、本殿は、昭和三十七年三月県の指定文化財となっている。  昭和六十二年三月
                                                       案内板より引用
                                                                                                     
          
                    拝    殿
  
       
                             本    殿                                                
 見事な流造りの五間社である。本殿は桃山期の文禄慶長年間(1592-1614)の建築と推定され、五間社流造。平野部での同建築は珍しく、埼玉県指定文化財とされている。五社神社の名前は、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山神社、山王神社の五社を等間隔に祀ったことに由来するそうだ。

 当地は、かつて百間村の中心地であったが、元禄8年(1659)に分村して東村となった。また、古くは大寺であった西光院があることから寺村と称した事もあった。
 創建については、元禄12年(1699)に西光院住職宗彬法印と弟子の当社別当大蔵坊秀応が、荒廃した当社の改修の寄進を求めるために記した「勧進帳」(西光院蔵)には次の様な事が記されている。
 「養老年間(717-724)かの行基が当地に来たところ、五人の老翁が現れ、「我々は仏法護持のため、様々な霊地に身を置いたが、中でも当地は天地に比べるもののない霊場である。我々は熊野三山の翁・近江日吉の主・白山の厳老である」と告げて姿を消した。行基はこの告げに従い、当地に西光院を建立し、境内に寺の鎮守として当社を創建した。その後当社は、百間領五千石の総社として厚く崇敬されたが、時を経ると人々の崇敬心が衰え、社殿も激しく荒廃してしまった。この有様を憂えた宗彬法印らは、まず元禄8年に拝殿を増築し、次いで他の社殿の改築を発願して、広く寄進を求めたものである。
 口碑によると、この社殿の改修は、宗彬法印らの努力もあって、領民の寄進により無事に行われたという。
 なお、本殿は五間社流造りで、桃山期から江戸初期のものとされ、県内では珍しい形式であり、昭和37年に県指定文化財となった。
                                                   『埼玉の神社』より引用

 五社神社の御祭神は天照大神御子五柱命と言われ、アマテラスがスサノオと誓約した時にアマテラスから生まれた5柱の御子神であり、以下の5柱が祀られている。

天忍穂耳命
 
 天照大神の左のみづらにかけられた珠から化生した神、出雲の国譲り一番目に派遣され出雲への降臨を取りやめた神、ニニギの父神、稲穂の神、農業神。
天穂日命  
 天照大神の右のみづらにかけられた珠から化生した神、菅原家の祖神、出雲の国譲り二番目に派遣され大国主命に寝返った神、出雲国造、武蔵国造、土師連の遠祖にあた
る神、農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神。
天津彦根命 
 天照大神の首の珠から須佐之男命の左腕に化成した神、多くの氏族の祖神/天皇家に忠誠を誓った氏族。
活津彦根命 
 天照大神の左手にかけられた珠から化成した神、太陽の神、繁栄の神。
熊野樟日命 
 天照大神の右手にかけられた珠から化成した神、火の神、紀州・熊野三山の本源とされる神。
                                                                                  


        
 石段を登ってすぐ参道の右側に、小さな塚があり、周りには石祠が祀られているが、これも、古墳なのかは不明だ。

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