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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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玉淀水天宮

 
所在地   埼玉県大里郡寄居町寄居703
御祭神   不明
由  緒   県指定名勝玉淀の下流で発見された水神様を水天宮として改め、水難よけや安産、子育てなどを祈願して昭和6年に始められました。 寄居玉淀水天宮祭の付け祭りとして行われる花火大会と舟山車の競演は“関東一の水祭り”と呼ばれています。 平成12年実施の21世紀に伝えたい寄居景観ベスト10の第1位となっています。
                                                寄居町観光案内より引用
例  祭   水天宮祭 8月の第1土曜日

     
 玉淀水天宮は国道254号を寄居方向に向かっていき、信号機のある「露梨子」(つゆなし)の交差点十字路を右折して寄居の街中に入っていく。荒川に架かる正喜橋を越えてすぐのコンビニエンスのある十字路を右折してしばらく走ると左側に水天宮が見えてくる。但しこの道は道幅が少々狭く、また水天宮祭花火大会の規模に比べて以外に社自体は小さい。駐車場や専用駐車スペースもないので、前述のコンビニエンスに駐車し参拝を行った。
       
                                玉淀水天宮 正面
                
                           鳥居の左側に掲げてある案内板
玉淀水天宮
   昭和6年にこの地が「玉淀」(県指定名勝)と命名された後、神社の設置の話がもちだされ、探したところ川に面したところに石の宮があるのが発見されました。これは俗にいう水神様といってこの地方の漁師たちがお祭りして、水難除けの神様として信仰していることがわかり、当時の玉淀保勝会が直ちにこの水神の神体を基として水天宮を祀りました。

水天宮の縁日は毎月「五」の日であるというので、最初の大祭を昭和6年8月5日に挙行し、現在は8月の第1土曜日に盛大に行われています。祭事のあと「つけまつり」として、町内別の供奉船が花やボンボリちょうちん等で飾りたて、笛、太鼓等ではやしながら玉淀を遊覧し、多数の煙火が打ち上げられます。夏の祭りの美観は実にみごとなもので、寄居町の年中行事のもっとも大きい祭りとして、また、埼玉県内としての大祭の一つに数えられています・
現在、水天宮は、水難除けと安産の神様として広く信仰されています。
                                                玉淀水天宮案内板より引用
                
                                こじんまりとした拝殿

 玉淀水天宮はなんでも通称「本宮」といい、「奥の院」があるという。なんでも当地周辺が玉淀と命名されて埼玉県名勝に指定されたとき、神社設立の話が持ち上がり、周辺調査をしたところ、水神が発掘されたことから、水神を神体として創建したという。この水天宮の荒川に面した斜面の一角に石祠があるのだがそれが発掘された水神であり、ここが「奥の院」であろう。
(後で知ったのだが、奥の院は、その後の洪水の時流されてしまったので、現在のお宮はその後あらためて立てられたものだということ)
               
                                玉淀水天宮 奥の院

 ところで鉢形城跡の前に広がる荒川の河原は通称「玉淀河原」と言われ、秩父山地から関東平野に流れ出る荒川が作り出した特徴的な地形で、奇岩・絶景の景勝地として昭和10年に県指定の名勝となった。アユなどの釣りをはじめ、川遊びやデイキャンプなどの行楽の場として人気だ。毎年8月の第1土曜には玉淀水天宮祭を開催。数百の提灯で飾られた舟山車が出て、約5000発の花火も打ち上げられる。河岸には桜並木があり、春は花見客で賑わう観光スポットとしても有名だ。

                  
           玉淀水天宮奥ノ院の前面に広がる荒川の風景。玉淀河原はこの上流部にあたる。

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折原佐太彦神社

所在地  埼玉県大里郡寄居町折原615
御祭神  佐太彦大神(猿田彦大神)
社  挌  不明
例  祭  川瀬祭り 例年7月20日に近い日曜日

       
 折原佐太彦神社は折原地区内を流れる坂東川が荒川に合流する少し手前の西側に鎮座している。鉢形城から折原白髭神社に行く道路をしばらく真っ直ぐに進むと右側に常光寺が道沿いに見えてくる。佐太彦神社はその常光寺の奥の北側に静かに、そして身を潜むかのようにひっそりと鎮座している。
 専用駐車場はないが、社の手前に駐車スペースがあり、そこに車を停めて参拝を行った。
          
                         折原佐太彦神社 社号標
           
                         神社入口の明神鳥居
 よく見ると鳥居の柱には洪水対策であろうが鎖がついている。以前に何度も流されたのであろうが、自然の力はなんと凄まじいものであるかこの鳥居の現状を見てもわかる。
 
    鳥居の右側にある境内社・稲荷大明神          境内社・稲荷大明神の隣には神楽殿
                  
                                       社殿左側にある境内社3社。詳細不明
           
                              拝   殿
 この拝殿の右手側には樹齢1200年以上の樫の木の御神木が悠久の時を越えて静かに佇んでいる。
           
                              本   殿
            
                      素晴らしい彫刻の施された本殿

                         
 折原佐太彦神社では毎年7月下旬に執り行われる例祭・川瀬まつりで奉納される太々神楽が有名らしいが 、伝承によると、この神社ができた翌年神輿を担ぎ荒川の川瀬の中流で一同礼拝したところ、何処からか純白の霊鳥が一羽、神輿の間近に現れて天に舞い上がり、佐太彦神社の方向に飛んでいった。後を追っていくと境内の大樹に止まり、次に本殿の屋根に移り、しばらくして姿を隠した。このことがあってから川瀬祭りを続行している、ということらしい。


                      

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折原白髭神社

 寄居町折原地区は、その昔は「織原」と書き、戦国時代後北条氏の家臣であった丹党織原氏の屋敷が折原地区に存在していた。この丹党は武蔵七党の一党で、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国入間郡・秩父郡・および 児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した 武士団で、宣化天皇の後裔と言われ、その皇子殖栗王よりでたと称されている。天皇の曾孫彦武王の産湯にたじひ(いたどり)の花が浮いていたので多治彦と称し、その子孫は多治比・多治・丹遅・丹治等を名乗った。
 殖栗王の12代孫という武信が、陽成天皇の元慶年中、武蔵国に配流され、賀美郡、秩父郡に住んだが、その子桑名峯信は丹二を称して京都と秩父の間を往来した。その子峰時は初めて石田牧の別当となり、土着して丹貫首(丹党首)と称したという。。その後、武峯の子に至って郡の内外に拡散して一大勢力を持つようになった。
 武峯の嫡男経房は秩父中村郷に住んで、その孫の時重が丹党嫡流中村氏を名乗った。また、武峯の二男長房は秩父郡両郡に分かれて薄氏を名乗り、三男基房秩父五郎と称し、四男行房は秩父皆野へ分かれて白鳥氏を名乗った。薄長房の二子泰房が大里郡折原村に住した事により織原丹五郎を称したのが始まりという。
所在地   埼玉県大里郡寄居町折原469
御祭神   猿田彦命
社  挌   旧村社
例  祭   不明


 折原白髭神社は寄居町の荒川南岸に位置し、埼玉県道30号飯能寄居線、古くは「相模街道」と呼ばれていたらしいが、寄居方面に進み、荒川に架かる正喜橋の手前の信号を左折する。
 この地域一帯は有名な鉢形城址が存在する。鉢形城は関東の中世史を語る上では欠かせない城郭であり、その歴史は古く文明8年(1476)に長尾景春により築城されたと伝わる。荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしており、またこの地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でもあった。戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となっていて指定面積は約24万㎡。一昔は古城という響きがよく似合う荒れ果てた城址だったが、城址公園化に伴う整備が施され、美しい城址となっている。

 鉢形城跡を見ながら道なりに真っ直ぐ進み、八高線の踏切を越え、5、600m進むと右側に小さいが白髭神社の鳥居が見えてくる。但し専用駐車場はなく、適当な駐車スペースもないので路上駐車をして急ぎ参拝を行った。
 
            鳥居と社号標                       鳥居から正面を撮影
 
こんもりとした社叢林に囲まれた気持ちよい神社で、拝殿も思った以上に立派である。
 
   拝殿に掲げられた「白髭太神」の扁額       社殿の左側には巨石を祀っているのか石祠あり
 
     社殿の左側に並んでいる石祠群              境内社2社、天神社、八坂神社
 
        社殿の右側にある末社               境内社3社、若宮八幡宮、?、大神宮

                    本   殿

 折原白髭神社の祭神は猿田彦命といい、日本神話に登場する神である。『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。『古事記』では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記されている。
  猿田彦命は天照大御神の孫にあたる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が高天原(タカマガハラ)から葦原の中国(地上)に降臨するとき、天宇受売命も供として一行に加えられていた。
 一行が天津八街
(アマツヤチマタ)と呼ばれる、多方面に道が分かれる要所に至ると、そこに魁偉な顔をした大男が立ちはだかって、行くてを塞いでいたので、兵を出したが敗れて帰ってきた。
 そこで天宇受売命が派遣され、「天津神が地上にお降りになる道をなぜ塞いでいるのか」と問うと、(天宇受売命に一目惚れした)大男はそれまでの態度を一変して、素直に「私は国津神の猿田彦命と申す。天津神の御子が降臨されると聞いたので、道案内をしようとお出迎えにきたのだ」と答えた。瓊瓊杵尊の一行は、猿田彦命の先導で無事に筑紫の日向の高千穂の峰に到ることが出来たという。

 猿田彦命の特徴は、鼻は天狗のように長く、目は鏡のように丸く、赤ら顔で、身体は毛深かったので、ちょうど猿のようで、また国津神でありながら天孫族の降臨の道案内をしたことにより「道祖神」となり、集落のはずれや道の辻に祀られ、”道を護る神””行人を護る神”として現在に至っている為、神々の中でもある意味ユニークな存在であるといえる。


                折原白髭神社遠景

 折原白髭神社が鎮座する寄居町「折原」、この地名に関して埼玉苗字辞典には以下の記述がある。

折原 オリハラ 神功紀に意流村(漢城の地)と見え、三国史記に尉礼城(百済の王都漢城)と見ゆ。雄略天皇二十年紀に「百済記に云はく、狛の大軍来りて、大城(こにさし)を攻めること七日七夜にして、王城(漢城、今の広州)陥り、遂に尉礼国を失ふ」とあり。意流(おる)のヲル・ヲリは大の意味で、大城(古代朝鮮語のコニサシ)・ヲル村は大ノ国のことで、クダラ(大邑、大国)と同じなり。原のハラ・ハルは邑・国・城(都)の意味で、特に非農民の職業集団居住地を云う。すなわち、折原は鍛冶・木工・石工等の百済渡来人の居住地を称す。男衾郡折原村寄居町)あり、織原とも記す。

 また、近隣には「鉢形」という地名もあるがこれも不思議な地名だ。

鉢形 ハチガタ 男衾郡鉢形村(寄居町)あり。八方にて、八(あま)・海(あま、ばた)族の渡来地なり。和名抄の男衾郡幡多郷(はた)にて、後世の和田郷なり。


 この「和田」に関しても、海(ばた、はた)の転訛であり、海(あま)族居住地であるとの説もある。それに加え、「折原」、「鉢形」両地区の荒川を挟んだ対岸には「宗像神社」が鎮座している。言わずと知れた海上・交通安全の神であり、古代のある時期、海洋族が移住してきたと考えられ、その道案内役をした地元出身の人物を没後祀った神社がこの「折原白髭神社」だったのかもしれない。あくまでも推測の域ではあるが。


 ところで折原白髭神社の北西約300m位の場所には佐太彦神社が鎮座している。もちろん御祭神は猿田彦命だ。

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桜沢八幡大神社

 寄居町は埼玉県の北西部、都心から70km圏に位置している。荒川の中流域で長瀞のすぐ下流に位置し、 その左岸に街が発達する。古く秩父往還の街道筋にあり、秩父の山間部と荒川下流の平野部とを結ぶ物資輸送の拠点であり、また宿場町として栄えた。
 街の対岸にはかつて鉢形城があり、古くから地の利を生かした要害の地でもあり、城下町であった。 現在でも国道140号・国道254号及びJR八高線・東武東上線・秩父鉄道が接続する交通の要衝地となっている。この国道の合流地点に桜沢八幡大神社は鎮座している。

所在地   埼玉県大里郡寄居町桜沢3827
御祭神   天照大神  誉田別命
社  挌   不詳
例  祭   10月15日


      
 桜沢八幡大神社は寄居警察署の東側に位置し、国道140号線、254号線、県道62号線の合流地点傍に鎮座している。背後に戦国時代の山城があったという鐘撞堂山を配し、その山脈の稜線上に社が形成されている。ちなみに鐘撞堂山には名前の由来があって、戦国時代に寄居鉢形城の出城があったところで、敵の来襲を知らせるため鐘を撞いたことから鐘撞堂山と名付けられたと言われている。
 桜沢八幡大神社の社殿に通じる参道の全ては石段であり、また社殿も神楽殿も境内も綺麗に整備されている。駐車場は一の鳥居のすぐ右側に比較的広い駐車場もあり、そこに駐車して参拝を行った。
         
               国道254号線沿線上にある桜沢八幡大神社の鳥居
         
         
                            拝   殿
         
                            本   殿
 桜沢八幡大神社の祭神は品陀和気命(応神天皇)で、新編武蔵風土記稿による八幡大神社の由緒はこのように記述されている。

(桜澤村)八幡社
 村の鎮守なり、山崎八幡と云、猪俣党山崎三郎左衛門尉・小野光氏の霊を祀れり。由て此神号ありと近郷山崎村は此光氏の奮蹟にや、福泉寺の持。                 
                                               新編武蔵風土記稿より引用


 
拝殿の手前にある神楽殿。神楽殿は石段下に配置          境内社  詳細不明 
 され、拝殿に正面を向いているように見える。

           

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宗像神社

 九州福岡県宗像市に鎮座している宗像大社は式内社(名神大社)で、旧 社格は 官幣大社。日本各地に七千余ある 宗像神社、厳島神社、および 宗像三女神を祀る神社の総本社である。全国の弁天様の総本宮とも言われ、また別名裏伊勢と称されている。この社は航海の安全を祈願する神社で、主として瀬戸内海沿岸や近畿地方の海沿いの地域に多く存在する。
 宗像大社は、「鎮護国家・皇室守護および後悔の神として朝廷からも崇敬されたといい、庶民からも漁業・航海・交通の神として信仰を集めてきた。全国の厳島神社も宗像三女を祀っているという。なお、宗像系の神社は、5番目に多いとされている。
 ところで埼玉県は出雲系の社が多い県だが、この寄居町藤田地区にもこの宗像神社が鎮座している。(他にも大宮氷川神社の境内社、また大宮土呂地区等に宗像神社は存在する) 
 この寄居町の宗像神社は、奈良時代の大宝元年(701年)に荒川の氾濫をしずめ、船や筏の交通を護るため、九州筑前(福岡県宗像市)の宗像大社のご分霊を移し祀ったものであるとのことだ。考えてみると地形的にも遠い福岡県宗像市と埼玉県寄居町が、神社で結びついている。なんと不思議な縁ではないだろうか。

所在地    埼玉県大里郡寄居町藤田274
御祭神    多記理比売命 狭依毘賣命 多記都比売命(宗像3女神)
社  挌    旧村社
神  徳    国家鎮護、交通安全、醸造守護、五穀豊穣、金運・財運の
         隆昌、芸能・稽古事成就、立身出世、長寿延命、災難除け、他
例  祭    春祭 4月3日、秋例祭 11月3日

      
 宗像神社は埼玉県寄居町藤田地区に鎮座する。埼玉県道30号飯能寄居線を国道140号方面に向かい、左手に寄居町立寄居小学校を過ぎてから国道手前の細い十字路を左折し道なりに真っ直ぐ進む。2,3分進むと八高線の踏切があり、その先左側に宗像神社は鎮座している。
 駐車場は神社正面入り口、鳥居の向かい側の公会堂と、その隣にある数台駐車できるスペースがあり今回は集会所の駐車場に停め参拝を行った。
      
      
宗像神社
 宗像神社は、奈良時代文武天皇の御代大宝元年(701年)に荒川の氾濫をしずめ、舟や筏の交通を護るために、九州筑前(福岡県宗像郡)の宗像大社の御分霊を移し祀ったものです。
 宗像大社は、文永弘安の役(蒙古襲来)など北九州の護りや海上の安全に神威を輝かしていました。この地に御分霊を移してからは、荒川の流れが定まり、人々の崇敬を篤くしました。藤田五郎政行が花園城主(平安時代)として北武蔵一帯を治めるにあたり、ここを祈願所とし、北条氏もまた祈願所にしていました。
 春祭は4月3日、秋の例祭は11月3日で、当日は江戸時代から伝わる山車7台を引き揃え、神幸の祭事がにぎやかに行われます。なお、拝殿には寄居町出身の名彫刻家、後藤功祐の彫った市神様社殿があり、町の指定文化財として保存されています。
 祭神は、天照大神の御子である多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、狭依比賣命(きよりひめのみこと)、多岐津比賣命(たぎつひめのみこと)です。
 寄居町・埼玉県
                                                      案内板から引用

 この荒川はその名称通り、古来から「荒い川」であったという。その為か宗像神社は荒川のすぐ北側に鎮座している。宗像神社の由緒等を記した案内板とおり、「荒川の氾濫をしずめ」、「舟や筏の交通を護るため」、この地に海上安全の神として有名であったこの社の御分霊を移し祀ったということは道理であるし納得できることだ。
         
                            拝   殿
           
                         拝殿の右側手前にある町指定文化財,旧市神様社殿の案内板
旧市神様社殿
  寄居町出身の彫刻家後藤功祐によって明治初期に作られたとされる、高さ約1.2メートルの社殿です。
 正面の屋根が曲線形に手前に延びて向拝(ひさし)となる「流造」と呼ばれる構造を持ち、細密な彫刻が全体に施されています。
 旧寄居町市街地の開拓当初には、市神様としてまつられ、商業の守り神として多くの人の信仰を集めていましたが、明治四十二年に小社合祀を行った際、ここに移され、現在は拝殿の中に保管されています。
 平成9年1月   寄居町教育委員会
                                                                                                                     案内板から引用
         
                          宗像神社 本殿
 宗像神社の創建の由来として意味深いことを記述しているホームページがある。それによると寄居の中心を流れる荒川は、大雨の後には必ずといってよいほど氾濫し、流域に住む人々は、毎年のように、洪水の被害を被っていたといわれて、口伝によればそうした荒川を鎮め、舟の運行の安全を祈り、人皇第42代文武天皇の大宝元年(701年)に宗像大社(福岡県:沖津宮、中津宮、辺津宮の三宮の総称)のご分霊を祀ったものと伝わっている。
 しかし、大宝元年(701年)以降、資料等で宗像神社という名は、明治の神仏分離まではないようで、かわりに「聖天宮」の下社として繁栄してきたという記録が残っている。
 
 聖天宮は、弘仁十年(819年)に弘法大師が修行中に寄居を訪れ、象ヶ鼻の荒川岸壁の岩を見て、大海を渡る巨像の姿を思わせるということから、そこを霊地とし自ら聖天像を彫り、その後、その地に住む人々が、祠堂を設けてお祀りしたことに始まったと伝わっている。聖天宮は、男体を祀る上宮と、女体を祀る下宮があり、上宮が象ヶ鼻に、下宮が宗像神社と配祀されていた。聖天宮は、武将の信仰も厚く藤原基経、源頼義、源義家が戦勝を祈願したといわれ、また、鉢形城主の北条氏邦も、聖天宮を城の鎮守としていて、その後徳川将軍家からも代々御朱印をうけ、二十石を除地として与えられていた。そういった聖天宮の繁栄から、宗像神社という名よりも、聖天宮下宮としての記録が多く残っているものと考えられている。ただ、聖天宮の信仰が盛んであった時代も宗像大社になぞらえ、下宮を辺津宮、下宮にある弁天社(現在の摂社にあたる厳島神社)を中津宮、上宮を沖津宮と呼んでいたようで、宗像神社としての信仰がそういった形で残っていたようだ。
 埼玉県、特に秩父地方を包括するこの北埼玉地方には古来より「聖天信仰」が深く土着、信仰されている何よりの証拠であろう。

 
また社境内には神池があり、弁天池と呼ばれている。神池の中に島があり、厳島神社が祀られている。現在は御祭神は宗像神社と同じだが、江戸時代までは弁天社としてのお参りが絶えなかったと伝えられている。
 これは宗像神社の主祭神の狭依毘賣命は、又の御名を市寸島比売命と言い、弁財天と同神と考えられていることからもそのように推察されたようだ。


        拝殿の左側にある御興殿            社殿左側で、道路沿いにある八坂神社
          
                境内社である長男神社・丹生神社・罔象神社等

     社殿右側にある弁天池と厳島神社         厳島神社の隣、高台に鎮座する境内社
                                      金刀比羅宮(左)、琴平神社(右)

 ところで宗像神社の例大祭は、毎年春と秋に行なわれる。春季例大祭は、4月3日に神社で祭典が行われ、祭典のみで鳳輦、山車の渡御等は行わない。秋季例大祭は11月第1日曜日とその前日の土曜日に行われる。近年の取り決めにて渡御、還御は順次の通り行われる。年番町は、本町、中町、栄町、武町の四町内が交替で行い、付祭りの際は、本町から武町の間が歩行者天国となり、各町山車は、その中で曳きまわしを行う、大変盛大なお祭りのようである。筆者は残念ながら実見したことがないので、今度ゆっくり体現してみたいものだ。

         
                宗像神社の隣を通り過ぎる八高線を偶然撮影

 宗像神社は大宝元年創建という歴史ある社はもちろんのこと、現在でも五穀豊穣、家内安全、交通安全の神として、また寄居の鎮守として、地元の人々から信仰されている。大切にしたい日本文化の財産がここにも存在する。



                                                                                                                         

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