古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

用土貴船神社

 用土貴船神社は八高線用土駅の東側、寄居町立用土小学校近郊に鎮座している。用土は寄居町北部に突出した地域で、飛び地のように見えるが、地続きになっていて、狭隘部は幅100mもなく南側にある鐘撞堂山(山ではあるが329.8mしかない低山で、山麓から同定できないほど目立たない山ではあるが)の峰があるので寄居町から用土地区への直通道路は存在しない。
 というのも昭和
30年に寄居町が用土村など周辺4村を編入したことで生じたようで、当時の寄居町と用土村の間に位置していた花園村(昭和58年町制)が合併に参加せず、平成18年に深谷市に編入されたため、現在の用土地区はほぼ寄居町の飛び地となっている。その為用土区域に住んでいる人が町役場や市街地に行くには、一旦深谷市区域を通らなければいけない交通環境となってしまった
 このような経緯もあり、寄居町は不思議な行政区域となっている。
        
             
・所在地 埼玉県大里郡寄居町大字用土2857
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ご祭神 高龗神、闇龗神
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社 格 旧村社
             
・例 祭 例祭 918日
        
                                 用土貴船神社正面
 淤加美神又は龗神(おかみのかみ)は、日本神話に登場する神であり、『古事記』では淤加美神、『日本書紀』では龗神と表記している。日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている。『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜った血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)と共に闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている。
この二神は同一の神、あるいは、対の神とされ、 その総称が淤加美神(龗神)であるとされている。 龗は龍の古語であり、「闇」は谷を、「高」は山を指す言葉であることから、 闇龗神は渓谷、高龗神は山峰の水や雨を掌る龍神として信仰されてきた。
『古事記』においては、淤加美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の3世孫が大国主神であるとしている。
               
                     社号標柱
 高龗神を祭神とする神社は京都の貴船神社を本源とする貴船社系を中心に全国に分布する雨乞い信仰の神社など約三百社にのぼる。
 貴船神社は古く朝廷から祈雨、祈晴の神として崇敬され、水の神とし農業、醸造、染織、料理飲食、浴場などの業種の関係者から信仰を集めている。
 用土地域に鎮座する貴船神社も、その中の一社であり、『用土村誌』には天平元年(巳年・西暦729年)3月とあり、「村社貴船神社誌」では貞観年間(859~877年)創建と云われる、歴史のある社でもある。
 
        
               正面両部鳥居              鳥居の手前で左側にある
   柱を支える「控え柱」が変形していて、     「伊勢神宮第六十二式年遷宮記念」
    逆に歴史の古さを感じさせてくれる。
            の案内板
 伊勢神宮第六十二回式年遷宮記念
 むらの鎮守の貴舩神社の創建は、『用土村誌』には天平元年(巳年・西暦七二九年)三月とあり、「村社貴船神社誌」では貞観年間(八五九~八七七年) のこととしています。
 延暦年間(西暦七八二~八〇六年)坂上田村麻呂東夷征伐に際し、この地に立ち寄り土質の適したるを賞し、土偶を作るに「此の土を用いたり、よって『淀』を改めて『用土』となす。」とあります。
 用土元郷地区の熊野神社には、当時この地域を支配した猪俣党藤田氏の一族と思われる用土新三郎小野業国により天文五年(一五三六年)に鰐ロが寄進されており、村の鎮守であった当社にも同様の崇敬が寄せられたことが推測されます。元禄年間に神祇管領の執奏により正一位に叙せられ、安政二年(一八五五年)には「藤田神社貴布禰大明神」の社号を授けられました。(中略)
『風土記風土記稿』には、「貴舩神社 村の鎮守なり、例祭九月十八日、末社天王・八幡・天神・八大竜王・金毘羅 別当不動寺 当山派修験、江戸青山鳳閣寺の配下、貴舩山と号す、本尊不動」とあります。
 境内
神には、青面金剛神・明仙元大菩薩・庚申・天神宮が祀られています(以下省略)
                                      案内板より引用
       
            参道を挟んで案内板の向かい側に聳え立つ巨木
『伊勢神宮第六十二回式年遷宮記念』案内板に記されている「用土新三郎小野業国」という人物、本名は用土業国と云い、武蔵国北部の豪族、藤田氏の一族で、この時の当主は藤田康邦。官位は右衛門佐。
 藤田康邦は大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広域を領有していた
在地領主であり、当初は山内上杉家に仕え、天神山城を守っていたが、天文15年(1546年)の河越城の戦いの後、北条氏康の攻撃を受けて降伏し、その家臣となった。このとき、氏康の四男・乙千代丸(氏邦)を幼少から養子として育て、娘の大福御前を娶らせて藤田氏の家督を譲っている。そして自らは用土城に居城を移し、用土氏を称した。名を重利から新左衛門康邦に改めたのもこの頃とされる
 但し、以上の事蹟については異説も多く存在し、生没年など康邦の実像は解明されていない部分も多い。
 藤田氏を継いだ氏邦は藤田重氏を名乗り、その後、天神山城から鉢形城に移り藤田氏領を支配した。氏邦の所領はのちに鉢形領と称され、氏邦は北方の上野方面にも進出し、その領国は北方に拡大していったのである。
 康邦の子には用土重連や藤田信吉がいたが、彼らは北条氏にとっては邪魔な存在であり、重連は沼田城代に任じられたものの氏邦に毒殺され、信吉は武田勝頼に寝返っている。
               
                                参道の先に社殿が鎮座する。
 小野篁の子孫を称する武蔵七党猪俣党の猪俣政行(1155年に花園城を築いとたいわれる)が武蔵国榛沢郡藤田郷(埼玉県寄居町)に拠って藤田を称し、1590年豊臣秀吉による小田原征伐まで武蔵国北部の有力国衆として400年余り栄えた。政行の子・藤田行康は源平合戦(治承・寿永の乱)の一の谷生田森の戦いで討ち死している。その子能国・孫能兼は承久の乱で活躍し、このとき能国が院宣を読み上げ、文博士といわれた。一族は幕府の問注所寄人であった。
 
              神楽殿          貴船貴船神社「本殿の屋根瓦修理
                         旗竿の新調」事業記念碑
        
                                        拝  殿
 
          本 殿             本殿奥に鎮座する境内社。詳細不明。
        
                 社殿左側奥にある社日神を中心に配列された庚申塔・仏像等

 猪俣党藤田氏の一族と思われる用土新三郎小野業国が、用土元郷地区の熊野神社に鰐ロを寄進したのが天文5(1536)。当時破竹の勢いで関東を席巻していた後北条氏は、翌年当主上杉朝定の居城・河越城を攻め、この戦いで川越城は落城、扇谷上杉家は滅亡寸前まで追いつめられる。またその翌年には国府台の戦いにおいて、扇谷上杉家と協力関係にあった小弓公方足利義明を滅ぼして房総半島方面へも進出を始めていた。
        
                                  静かに佇む境内
 平安時代から代々大里郡周辺の広大な地を支配してきた藤田氏だったが、天文15年(1546)の河越夜戦で仕えていた山内上杉氏が北条氏に敗れると、形式上は氏邦を養子に迎えて体裁は保ったとはいえ、実質的には北条氏康に降伏し、屈辱的講和をせざるを得なかった。家の存続の為、氏邦に家督と居城を譲った康邦は祖先から受け継いでいた「藤田」姓を捨てて、用土新左衛門と名乗り用土城を築いて自らの隠居城とした。
 栄枯盛衰は世の常とはいえ、藤田氏にとって「用土」の地は、何百年も続いた名家の終焉の地でもあり、今の寄居町にとって用土地区の行政上の立ち位置にも通じる所でもあって、やや複雑な気持ちにもなる、そんな参拝となった。



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