古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

牟札熊野神社

 寄居町牟札地区。またもや変わった地名である。『新編武蔵風土記稿』では、「富田村は正保のものには、無礼村を合て富田牟礼村と載す、其後元禄度の改めには、各別村となれり」とあり、富田村合併以前は「無礼村」、合併後「富田牟礼村」になったとの記載がある。
「牟礼」地名は、東京都三鷹市牟礼、長野県上水内郡飯綱町牟礼、兵庫県赤穂市有年牟礼、香川県高松市牟礼町牟礼、山口県防府市牟礼等全国各地に存在し、主な地名由来として
○人や集落を表す「群れ」
山・森・小高い盛
「埼玉の神社」では、「古語で山を示す場合と、村を示す場合とがあるが、当地では前者を「牟礼」と表している」と「山」由来を記載している。
古代朝鮮語の「mori,more=山」
Wikipediaも全国の「牟礼」地名の由来を「古代朝鮮語で山や丘を意味するmoroが日本語に転じて『むれ』となったとされる」と紹介している。
 古代朝鮮語由来なのか昔からの和語なのかの断定は難しい。字数の関係で詳しく解説できないが、結論として、和語でも高くなった状態を「盛り上がる」「山盛り」などと表現するので、古の時代は和語でも朝鮮語でも「山」のことは「ムレ・モロ・ムロ・モリ・ムラ」と呼んでいたのではなかろうか。
        
            ・所在地 埼玉県寄居町牟札460
            ・ご祭神 家都御子神・御子速玉神・熊野夫須美神
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 お日待417日 道饗祭723日 八坂祭725
                 
秋祭  1017日 手長祭121日
 牟札熊野神社は寄居町東部・牟札地区に鎮座する。埼玉県道274号赤浜小川線を小川町方向に進み、市野川を越え、「おぶすまトンボの里公園」の道を隔てた反対側の丘陵地斜面上に社は鎮座している。
 牟札地区は南北約2.7㎞、東西(地区南部)約1.7㎞の歪な縦長の地形で、中央には市野川が流れる。市野川は牟札南界付近の溜池が水源域として、初めは北流し、次第に北東そして南東に方向を変える。地形上市野川がこの地区を東西に分けているようにも見え、古代からこの河川がこの地域にとっての命の源ともいえよう。
             
                    社号標柱
        
                 斜面上に鎮座する牟札熊野神社                    
 
       石段の先にある鳥居           鳥居を越え、右側にある境内社
                                詳細不明
 牟札熊野神社は、享保年間(1716-1736)に当地の修験小菅刑部が熊野大権現を勧請し祭祀したという。牟礼村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際し村社に列格、明治40年字金山の金山神社、字駄木所の白髭神社、字柳沢の琴平神社、字新井の稲荷神社、字台の天神社、外根木の八幡神社を合祀している。地形を見ると南方には鎌倉古道が通っていて、その古道を見下ろせる要衝の地ともいえる。因みにこの地域では「ムレイ」と発音されているようだ。
        
                     拝 殿
                     30段ばかりの石段を登った小高い山上に鎮座。
 熊野神社 寄居町牟礼四六〇
 当地は、寄居町東方の山間部にある。地名「ムレイ」は、古語で山を示す場合と、村を示す場合とがあるといわれるが、当地では前者を「牟礼」と表している。『風土記稿』富田村の項には「富田村は正保のものには、無礼村を合て富田牟礼村と載す、其後元禄度の改めには、各別村となれり」とあり、元禄年間(一六八八-一七〇四)には一村として独立している。
 鎮座地は、地内の物見山西麓にある小高い山上にある。また、この南方には鎌倉古道が通っている。
 口碑によると、享保年間(一七一六-三六)、当地の字台に住む小菅刑部なる修験が、紀州から熊野大権現を勧請し、日夜祭祀に励んだという。この小菅刑部は、享保七年(一七二二)四月二十九日に当社境内において即身成仏したと伝えられる。刑部の死後、地内の天台宗長昌寺が神仏分離まで神勤を行った。
 祭神は、家都御子神・御子速玉神・熊野夫須美神の三柱で、『風土記稿』には本地仏として薬師・観音・地蔵を安置し、相殿には津島天王を祀るとある。
『明細帳』によると、明治四十年五月十八日、字金山の金山神社、字駄木所の白髭神社、字柳沢の琴平神社、字新井の稲荷神社、字台の天神社、外根木の八幡神社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿左側手前には石碑、石祠あり。      石碑・石祠の隣には
境内社合殿あり。
      石祠の詳細は不明。             こちらも詳細は不明。
        
                                        本 殿
 
  本殿左側には境内社八坂神社と金山石祠     本殿右側には神輿庫と天之手長男神社

 新編武蔵風土記稿 男衾郡無禮村
 熊野社 村ノ鎭守ナリ津嶋天王ヲ相殿トス又藥師觀音地藏ノ三體ヲ安ス村持

「埼玉の神社」によると、牟札地域内には「字金山」があり、金山神社を祀っていたという。市野川の上流部にあたるらしい。金山社の祭神は金山彦命であり、この神は金属精錬業者の信仰を集めたようである。同時に「金塚」の字もあり、「金山」は隣地今市、高見地域にも同名字がある。また近郊には塚田地域もあり、室町時代から戦国時代にかけて「武州塚田・鋳物集団」が存在していた。
       
                  昼であるにも関わらず社叢林に囲まれた境内は薄暗い。   
 旧花園町には黒田古墳群を始め、多くの遺跡の発掘が報告されている。その中で、関越自動車道花園インターチェンジ 付近には、縄文・古墳・平安期の遺構・遺物が検出された台耕地遺跡があり、平安時代後期の製鉄溶鉱炉(堅形炉)7基と、また鍛治を行った建物跡も発掘されている。
 赤浜地区の南東部に位置する塚田地区は、嘗て鎌倉街道の宿場として「塚田千軒」と呼ばれるほどに栄えたといい、それを支えたのが塚田鋳物師の存在だという。この地域は金井(坂戸市)小用(鳩山町)と並んで中世(室町時代頃)に鋳物業が盛んであったと伝えている。
        
                               鳥居周辺にある馬頭観音石碑

 新編武蔵風土記稿赤浜村条には「小名塚田の辺に鎌倉古街道の蹟あり、村内を過て荒川を渡り榛沢郡に至る、今も其道筋荒川の中に半左瀬川越岩と唱ふる処あり。半左瀬といふは昔鎌倉繁栄の頃、この川縁に関を置て、大沢半左衛門と云者関守たりしゆへ此名残れり」と記載されている。
 畠山重忠配下の武将で、赤浜関守の大沢半左衛門が直轄していた地域であり、塚田地域には半左衛門の墓もある。赤浜地区は畠山氏の所領地だったと考えられ、荒川を挟んでこの黒田地区も所領地内の可能性が高い。
 室町時代から戦国時代にかけて、塚田地域に存在していた金属精錬「武州塚田・鋳物集団」が活躍していたという箏は、その周辺には鋳物を製造する原料が豊富にあった事を意味する。それより100年程前、畠山氏の部下であった大沢氏がそのことに全く気が付かなかったとは到底考えられない。当然資源豊富な地域であったと認識して、この地に「関守」として常駐させたと考えたほうがより理論的ではなかろうか。
 高見地域にもその関連集団の痕跡が残り、牟札地域内には市野川上流に「金山」地名がある。「武州塚田・鋳物集団」と何か関連がありそうと筆者は勝手に考えているのは、自己都合的な見解だろうか。
 

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小園壱岐天手長男神社

天手長男神社(あめのたながおじんじゃ、あまのたながおじんじゃ)は、長崎県壱岐市にある神社で、式内社(名神大社)論社、壱岐国一宮後継社でもあり旧社格は村社とされている。主祭神は天忍穂耳尊・天手力男命・天鈿女命の3柱で、天忍穂耳尊には「尊」がついている為、他の2柱より位は高いようだ。
 福岡県宗像市に鎮座する宗像大社の『宗像大菩薩御縁起』によれば、神功皇后の三韓征伐に際し、宗大臣(宗像大社の神)が「御手長」という旗竿に武内宿禰が持っていた紅白2本の旗をつけ、これを上げ下げして敵を翻弄し、最後に息御嶋(玄界灘の沖ノ島)に立てたという。天手長男(と天手長比売)の社名はこの「御手長」に由来するという。弘仁2年(811年)に「天手長雄神社」として創建、後に「天手長男神社」。『大日本国一宮記』(『一宮記』)には、天手長男神社と天手長比売神社が物部村にあり、天手長男神社を壱岐の一宮としたとあり、『一宮記』では天思兼神を祭神としている。なお、三喜の式内社の査定は地名に基づいたものが多く、現在の研究では疑問が持たれている。天手長男神社については、芦辺町湯岳興触に興神社があり、興(こう)は国府(こう)のことであると考えられ、境内社に壱岐国総社もあることから、興神社が本来の天手長男神社であり壱岐国一宮であるとする説が有力となっている。
 宮司の先祖が壱岐国石田郡(長崎県壱岐郡郷ノ浦町)よりこの地に土着した折に、壱岐の天手長男神社より勧請したものと伝えられるが、同町宗像神社同様に地形的にも遥かに遠い壱岐島と埼玉県寄居町が、神社で結びついている。
 所在地 埼玉県大里郡寄居町小園132
 ご祭神 天忍穂耳尊、天手力男命、天鈿女命
 社 格 旧村社
 例 祭 春祭り 419日、津島祭 720日前後の日曜日、秋祭り 1019
        
 寄居町小園地区に鎮座する壱岐天手長男神社は、国道140号バイパスを寄居町方向に進み、玉淀大橋(北)T字路交差点を左折、国道254号にて荒川を越えて、鉢形陸橋を越える手前のY字路を左に進み、東武東上線の踏切が見える手前の十字路を左折する。道なりに進み、波羅伊門神社を左手に見ながら尚も道なりに進むと「壱岐天手長男神社」の縦看板が見えるので、その先のT字路を右折すると右方向に社叢が見えてくる。ナビで住所検索して出発したが、詳しい場所まではたどり着けなかったので、縦看板を見つけた時は感動したことを覚えている。
 駐車スぺースは鳥居前にかろうじて1台分の確保ができたので、そこに車を停めて参拝を行った。
        
        
                   鳥居周辺の様子
 
壱岐天手長男神社の主祭神は「天忍穂耳尊」「天手力男命」「天鈿女命」の3柱であるが、ここで注意して頂きたいのが、この3柱のうち、何故か「天忍穂耳尊」のみお名前の最後に「尊」を用いていることだ。「尊」も「命」も「ミコト」と読み、神様や貴人の名前の下につける敬称であるが、記紀に関すると『古事記』では全て「命」に統一されているのに対して、『日本書紀』では「尊」を最も貴いものに、「命」をその他のものに対して使い分けているとの事だ。冒頭の内容文に『天忍穂耳尊には「尊」がついている為、他の2柱より位は高いようだ』と書いたその根拠はその事でもある。
        
                    神楽殿
        
                    拝殿覆道
「新編武蔵風土記稿」による壱岐天手長男神社の由緒
(男衾郡上・下小薗村)
 天手長男明神社
 下村にあり、社内に蔵する棟札に、明暦元年九月吉祥日、奉造立天手長男大明神とあり---
 神明社
 是も下村にあり、前社同年の棟札あり、以上二社共に上下二村の鎮守にて、折原村神主相馬播磨持。

「埼玉の神社」による壱岐天手長男神社の由緒
 壱岐天手長男神社<寄居町小園一三二(小園字宮地)>
 荒川右岸の段丘上に位置する小園の地は、武蔵七党の猪俣党に属した尾園氏の所領に比定されている。開発の年代は明らかではないが、石田家と松村家の先祖によって行われたとの伝えがある。
 口碑によると、当社は、石田家の先祖がこの地に土着した折、かつての在所であった壱岐国石田郡(現長崎県壱岐郡郷ノ浦町)に鎮座する壱岐国一ノ宮天手長男神社より勧請したことに始まる。「手長」の意味は『宗像大菩薩縁起』に「異国征伐ノ御旗竿也」とある。流造り見世棚の本殿には、勧請時に壱岐国から移したと伝える自然石を奉安している。
『風土記稿』には「天手長男明神社」と載り「社内に蔵する棟札に、明暦元年(一六五五)九月吉祥日、奉造立天手長男明神とあり」と記している。元治元年(一八六四)には宗源宣旨を受けている。
 明治九年に村社となり、同四十一年には字宮前の村社神明社とその末社の八幡社と春日社を合祀した。神明社は、当地の開発にかかわった松村家によって勧請されたと伝える社である。
  
       
左手側に並ぶ末社等               神武天皇遥拝所
 末社長屋に関しては、左から八幡神社、春日神社、津嶋神社、稲荷大明神、雷電神社、琴平神社が鎮座しているという。
  
        
市杵嶋姫命の石碑                仙元大日神
        
                   社殿奥にある御神木


総本社は長崎県壱岐市郷ノ浦町にある壱岐天手長男神社は、「鉢形山」、または「鉢形嶺」と呼ばれる古くより神奈備山として信仰の対象になっていた山上に鎮座しているのだが、小園・折原地区近くにもその「鉢形」という地名は存在(鉢形城は特に有名)している。
寄居町の「鉢形城」の名前の由来は幾つかあり、以下のようである。
1「円錐形の山」で文字通り鉢の形を見たてた名称とされる(『地名用語語源辞典』)。
2 ハチはハシ(端)の転で台地のヘリの意となって崖地を指すとし、形[かた]は 「方」で、すなわち、方向・場所の意となる。鉢形(本田)の西部には谷津が走り、また反対側 の東方にも、二流の浸食谷が鉢形の北東部で合流して、台地(鉢形中坪)を大きく湾曲しながら 南下し、鉢形の南突端で西流の谷津と合流するなど、谷、崖、湿地に関連する地形、流れが多数 あって鉢形はそれらに囲まれた台地上にある。
3 鉢は、仏具の応器(応量器)のこととされる。それは、僧が托鉢[たくはつ]の時に 使う鉢のことを言い、僧尼が玄関先で経文を読み、布施される米やお金を受け取る時の器をいう。
 対して壱岐天手長男神社の「鉢形山」の由来は、神功皇后が朝鮮出兵の折、兜(かぶと)を鉢(境内地)に治めて、戦勝を祈願したことからこの名がついたという。
 壱岐島という武蔵国から大変離れた場所ながら同名神社は寄居町小園地域や深谷市萱場地方にもあり、別名天手長男神社として境内社、末社まで含めると埼玉県北部には思った以上に存在している。 
        

 石田家に関して、参考資料としていくつかの文献を紹介したい。
 日本書紀垂仁天皇三十四年条に「天皇、山背苅幡戸辺を娶りて、三男を生む。五十日足彦命、是の子石田君の始祖也」と表記され、古代氏族系譜集成には「垂仁天皇―五十日足彦命―忍健別命―佐太別命(石田君祖、佐渡国雑太郡石田郷住)」と見える。
 上記の五十日足彦命は越国(現在の北陸地方)の開発に尽力したとされる皇子であり、越の国の君となり、臣を従えて穀物・農具をもたせ、民を率いて開墾し、漁猟を教えて国造りに尽くしたとの記述がある。
 また大里郡神社誌に「男衾郡小園村壹岐天手長男神社は、文久年中(1861年~1864年)の文書に、園明王壹岐石田神社と称し、往古壹岐国一の宮より勧請す」とあり、当村に昔より石田一族が多く定住し、文久年には「園明王壹岐石田神社」という名称として石田一族の氏神として鎮座しているとの事だ。更に壹岐国一の宮より勧請した年代は文久年代より遥かに昔との推測も成り立つ。        

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金尾白髪神社

 金上无(こん・じょうがん)は新羅系渡来人で、鉱業に関する鉱山技術者として時の朝廷から招かれ、日下部宿禰老や津島朝臣堅石と共に、秩父に視察に出かけ「黒谷」地区で「銅山」を発見し、その自然銅の塊は朝廷に送られた。時の元明天皇(在位707年~715年)は大いに喜ばれ年号を慶雲から和銅と改め鋳銭司長官多治比真人三宅麻呂と朝鮮半島からの鉱山技師を派遣し和銅採掘に従事させたという。その時の朝廷の喜びはいかばかりであったろう。金上无は和銅献上時点では無位であったにもかかわらず、一躍他の2人と共に、従5位以下に叙せられたことからも伺がわせることができ,同時にいかにその貢献度が高かったかということを示す事実と考えられる。

 この寄居町金尾地区は金上无の手により和銅(にぎあかがね)を発見した秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であるし、更にまた金尾地域の荒川を隔てて東側には末野遺跡という古墳時代から窯で焼成された堅い土器(須恵器)を生産していた窯跡が発掘されている。この末野遺跡には須恵器生産に関連する窯跡群の他、須恵器を生産する工房の跡や材料の粘土を採掘した跡に加え、鉄生産の行っていた痕跡も残している。「埼玉の神社」によると、当地に入植した渡来系氏族の関与があったとの指摘もあり、ますますこの地域の興味は尽きない。
所在地   埼玉県大里郡寄居町金尾256-1
御祭神   猿田彦命・大己貴命・保食命・菅原道真公
社  挌   旧村社
例  祭   10月19日 例大祭

       
 金尾白髪神社は国道140号線を寄居町から長瀞町方向に進み、波久礼駅手前の駅前交差点を左折し、寄居大橋を渡るとすぐ右側に鎮座している。但し駐車スペースはこのルートにはないので、寄居大橋を渡り切ってT字路にぶつかり、そこを右折するとすぐ右側に社に通じる道があり、社務所あたりに停めることができる。境内右側はすぐ下に荒川が流れ、参拝も初秋期ということもあり、四季の移り変わりをそこはかとなく感じさせてくれる趣のある社である。
          
                           正面一の鳥居
           
                           参道から見た神門

  参道左側にある白髪神社獅子舞の案内板     獅子舞案内板の向かい側にある白髪神社由来碑

町指定文化財 白髪神社獅子舞
 指定  昭和五十八年一月一日
 所在  寄居町大字金尾 白髪神社内
 この行事がいつ始まったか明らかではないが、現存している獅子頭が、文久二年(一八六二年)に奉納されたという記録があり、それ以前からこの行事が始まっていたことが分かる。
 この獅子舞は、古来より十月十九日の大祭のつけ祭りとして奉納されたものと言われている。
 獅子舞の内容は、四方固め・剣の舞・奉納神楽の神事舞・まり遊び・のみとり及びひょっとこの道化舞の六座である。
 かね・笛・太鼓の囃しに口上が加わり、ときに静かに、また勇壮に、ユーモアもまじえた、古き良き、むら祭りにふさわしい素朴なものである。
平成十一年三月   寄居町教育委員会
                                                        

白髪神社由来
 むらの鎮守、白髪神社は、第二十二代清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇)を祀り、猿田彦命・大己貴命・保食命・菅原道真公の四柱の御神が合祀されて居ります。清寧天皇は行田市稲荷山古墳の鉄剣で知られる雄略天皇の第三子にあたります。 
 『日本書紀』によりますと天皇は生まれながらにして白髪で有られたことから、白髪の名が冠せられ、長じては民をことさら慈しまれ、又、幼少の頃より獅子舞に興ぜられたと言い伝えられています。
 故に、在位(四八○~四八四)中の徳が慕われ、古くは戦国の武将北条氏邦公(?~一五九七年)、要害山城主金尾弥兵衛の祈願所とされ、五穀豊穣・家内安全・長寿の神として、氏子をはじめ、広く信者の崇敬を集めて居ります。(以下中略)
                                                             案内板より引用
             
                          石段を登ると神門がある。
             
                              拝    殿

 境内は比較的広く、開放感がある。社殿の向かい側には「金尾山」と題する漢詩が彫られた石碑があり(写真左)、社殿の向かって右側には「日露戦没記念碑」を含む石碑群があり、その中に浅間大神、水速女命と彫られている石碑(同右)がある。
 この水速女命(みずはやのめ)は伊耶那美火之迦具土(かぐつち)を生んでやけどして伏せていた時の尿から誕生した神で、通説によれば別名「岡象女神」とも言い、日本神話に登場する代表的な水の神であるが、水速女命は岡象女神とはまったく別の神である説もあるそうだ。

境内社 金毘羅神社(写真左)と八坂神社(同右)         社殿の左側奥にある境内社
           
                      殿蔵の渡しの由来が書かれた案内板
           
 寄居町金屋地区は、荒川扇状地の先端部にあたり、丁度この地域を起点として東側に平地が深谷、熊谷両市方向へ扇状に広がる。この扇状地の特性は.低地に比べ水はけがよく,地盤も安定しており,土地として利用価値が高い地域である。また,場所によっては水を得るのが容易であるため,古くから農地として利用されてきた。

 しかし,扇状地はもともと河川が氾濫を繰り返して形成された地形であり,また,山地から平地へ勾配が急変化する場所であることから,大雨が発生した際に洪水氾濫が起こる危険性の非常に高い地域でもある。実際,記録だけでも1742 年(寛保2 年),1859 年(安政6 年),1910 年(明治43 年),1947 年(昭和22 年)などに大洪水を起こした.特に寛保2 年の洪水は,最大の洪水と考えられており,埼玉県長瀞町樋口(地点2)には,当時の高水位を示した寛保洪水位磨崖標(標高約128m)がある。
 この洪水は下流側で数多くの決壊を発生させ,熊谷市大麻生においては,延長約1100m の破堤が生じたという。殿蔵の渡しの案内板にも洪水に関しての記述があり、当時の悲惨さが案内板を通して垣間見られる。

 ところで金尾白髪神社の「金尾」地区の頭につく「金」という名前にも気になることがある。金尾地区は前出秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であることや、荒川を挟んで隣村末野には、奈良期、多くの須恵器や国分寺瓦を製造した末野窯群が存在していることは何を意味するのだろうか。律令時代以前から秩父地域の交通は荒川の河岸段丘上の狭まれた一本の線が武蔵国平野部に通じる主道であったろうことから推測されることは、この黒谷から末野までのルートには共通する文化圏が存在していたのではないか、ということだ。
 黒谷の和同塊を発見した人物の一人は「金上无」という。「金上无」と「金尾」、この「金」が共通する両者には何かしらの関連性があるのだろうか。

 

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塚田三嶋神社

 男衾郡には三社、延喜式内社が存在し、小被神社、出雲乃伊波比神社、稲乃比売神社がそれに該当する。その中の稲乃比売神社の論社は二社あり、寄居町鉢形に鎮座する稲乃比売神社と赤浜地区にある塚田三嶋神社だ。
 赤浜地区の南東部に位置する塚田地区は嘗ては鎌倉街道の宿場として「塚田千軒」と呼ばれるほどに栄えたといい、それを支えたのが塚田鋳物師の存在だとのことだ。
 塚田三嶋神社には埼玉県の文化財に指定されている鰐口(わにぐち)が保存されている。この地域は金井(坂戸市)小用(鳩山町)と並んで中世(室町時代頃)に鋳物業が盛んであったと伝え、この鰐口も地元在住の鋳物師によって造られたという。
所在地    埼玉県大里郡寄居町赤浜1973
御祭神    大山祇命 木花開耶姫命 少彦名命
社  挌    延喜内社、論社 旧村社
例  祭    3月27日 例祭

        
 塚田三嶋神社は国道140号線を寄居方面に向かい、花園インター先の花園橋北交差点を左折すると、埼玉県道296号菅谷寄居線となり、荒川を越えて南下し、北柏田交差点を左折する。そのまま道なりに進み、左側斜向かいに薬師堂のあるT字路を左折すると約1.5kmで左側に塚田三嶋神社が鎮座している。
 塚田三嶋神社の西側には塚田集会所が隣接してあり、その前には駐車スペースがあったので、そこに停めて参拝を行った。
           
                       正面一の鳥居と右側には社号標
 一の鳥居や社号標の右側で道路沿いに寄居町指定天然記念物である「塚田三嶋神社のヤブツバキ」、そして埼玉県指定文化財の「鰐口」の案内板が掲示されている。
           
町指定天然記念物  塚田三嶋神社のヤブツバキ
 指定年月日 平成十九年一月三十日
 所在地    寄居町大字赤浜字後塚田1973
 ヤブツバキは別名ヤマツバキともいい、ツバキ科ツバキ属の照葉樹林種で、常緑木である。
 社殿の左側にヤブツバキは三本あり、指定樹は中央に位置する株で、樹高十三・八メートル、目通り一・三メートル、根回り三メートルである。
 近くの杉の影響で、樹冠は北半分はほとんど無く、根元には腐食による穴が幹を貫通しているものの、樹勢は良好な巨木である。
 なお、両脇のヤブツバキは指定には至らなかったものの、巨樹であり、指定樹とともに、大切に保護したい。
 平成二十年三月   寄居町教育委員会
                                                             案内板より引用
           
県指定文化財    鰐口 一口
 指定  平成十六年三月二十三日
 所在  寄居町大字赤浜(三嶋神社)
 この鰐口は、鋳銅製で直径が十九・九㎝、篤さ六・九㎝を測り、上部左右に耳(釣手)、中央両脇に目を配置し、下半部側面に唇上の張り出しがめぐる。また、鼓面の膨らみが低平で、肩の張りも水平に近く、目や唇も薄く造られており、総じて古挌を示している。
 鼓面外区の左右に「武蔵国男衾郡塚田宿三嶋宮鰐口 応永二年乙亥三月廿七日」の銘文が刻まれており、この銘文から、中世に鎌倉街道上道の宿駅であった塚田宿の三嶋神社に伝来したもので、応永二年(一三九五年)に奉納されたこと、当時すでに塚田が「宿」と呼ばれる集落を形成していたことなどが分かる。
当時この地に「道禅」を代表とする塚田鋳物師の存在が知られており、この鰐口も洋式・技法等から道禅もしくはその工房によるものと考えられる。
この鰐口は、県内にある室町初期の稀少なものの一つであり、室町期の形式を確立しようとした基準的作例といえる。
 埼玉県教育委員会
 寄居町教育委員会
                                                             案内板より引用

 社号標石のすぐ先にある境内社(写真左)があるが、残念ながら案内板等がなく詳細不明。また参道を進むと右側に「拝殿改築記念の碑、三嶋神社御祭神」の石碑(同右)がある。
           
                                拝    殿

   拝殿上部には「三嶋神社」と書かれている額                本    殿                       
                                          
    社殿の左側にあるヤブツバキ3樹。真ん中のツバキが寄居町指定記念物に指定を受けている。  

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立原諏訪神社及び鉢形城

  神社に参拝すると度々「○○の氏神様」とか「○○鎮守様」という看板等を見かけることがあり、いつも不思議に思うことがある。氏神と鎮守様は何がどう違うのだろうかと。これに産土神(うぶすなかみ)が加わると厳密な線引きが非常に難しくなり、浅学な筆者の頭の中は混乱をきたしてしまう。
 辞書やインターネット等で調べると、本来の氏神は古代にその氏人たちだけが祀った神であり、そのほとんどが祖先神であったようだ。また産土神はその土地の本来の守護神であり、その地を生んだ神様であるに対して、鎮守神は、氏神や産土神等の祖先神や地主神を押さえ込み、服従させるために新たに祀られた神であるそうだ。つまり鎮守様(鎮守神ともいうが)が人間がある土地に人工物を造営したとき(荘園や寺院、城郭等)、その土地に宿る神霊が人間や造営物に対して危害を加える祟りを起こさせないように、その地主神よりも霊威の強い神を新たに勧請してその土地を守るために祀った神であり、室町時代の頃に荘園制が崩壊すると信仰は衰退し、氏神に合祀され今日に至っていることが多い。
  そういう意味では現在において氏神、産土神、鎮守神は同じ意味で扱われることになったが、「「○○鎮守様」などと書かれているとついそこへ行ってみたくなるのは深層心理を突いたなかなかずる賢い一手だとふと最近思うこともある。だからと言っていやな意味ではないが。
 今回取り上げる立原諏訪神社は鉢形城の一郭に守護氏神として信仰された社故、今回氏神や鎮守様などについて感じていたことを冒頭で取り上げた次第だ。
所在地     埼玉県大里郡寄居町立原2701
御祭神     建御名方命 誉田別命
社  挌     不明
例  祭     不明
                       

 立原諏訪神社は鉢形城の三の曲輪、通称秩父曲輪の外郭に位置し、神社の敷地内全体も諏訪曲輪とも大手馬出しにあたるとも言われており、城の西南部を形成していて周囲には藪化しているものの、空堀、土塁等の遺構がよく残っている。
 この社の創建は戦国時代末期、武蔵国日尾城(埼玉県小鹿野町)の諏訪部遠江守が北条氏邦の家老として出仕した時に信濃国にある諏訪神社を守護氏神として分祀、奉斎したと案内板に記されている。
 ちなみにこの諏訪部遠江守は諏訪部氏の家系であり、諏訪部氏は清和源氏満快流で信濃源氏の一族であり、当時から信濃国を中心に武士から武門の神として御諏訪様は深く信仰されていた。

 
                   社の東側にある社号標                   参道を進むと正面に鳥居がある。
 

  鳥居を過ぎると右側に大黒天や石祠等がある。              元諏訪神
           
                             拝    殿
  
       拝殿の手前で左側にある天手長男神社                    拝殿の近くには案内板がある。
諏訪神社
 諏訪神社は、武州日尾城主(小鹿野町)諏訪部遠江守が鉢形城の家老となって出仕したとき、信州にある諏訪神社を守護氏神として分祀奉齋しました。
 やがて天正十八年(1590)鉢形城の落城により、この近辺から北条氏の家臣たちが落ちていき、人々も少なくなりました。しかし城下の立原の人たちは鎮守様と崇敬し、館の跡を社地として今日の神社を造営したものです。
 本殿は宝暦年間、その他の建造物は天保年間に造営されていて、年に三度の大祭を中心に、人々の心のよりどころとなっています。
 なんどかの台風にあいましたが、空堀御手洗池に深い面影を落している欅の大木は、400年にわたる歴史の重みを語りかけているようでもあります。
 祭神は建御名方命、相殿に誉田別命が祀られています。これは明治42年萩和田の八幡神社が合祀されたものです。
                                                       案内板より引用                                     

 


鉢形城
 寄居町は荒川の扇状地の楔(くさび)に位置していて交通の要衝でもあり、また歴史的に見ても多くの文化遺産を有する魅力的な町である。中でも鉢形城を外すことはできない位有名な城で、「日本100名城」にも掲載されている。
所在地     埼玉県大里郡寄居町鉢形2496-2
区  分     国指定史跡
城郭構造    連郭式平山城
築城年、主   文明8年(1476) 長尾景春
主な城主    長尾景春 上杉顕定 北条氏邦
           
 鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の城跡であり、構造は連郭式平山城。現在は国の史跡に指定され、鉢形城公園(はちがたじょうこうえん)として整備されている。園内には鉢形城歴史館(はちがたじょうれきしかん)が建てられ、往時の鉢形城の姿を紹介している。
 鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。
 初めて鉢形城を築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられている。その後、小田原の後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となった。その後、下野国遠征の足がかりともなったが、その滅亡とともに廃城となった。
 関東地方に所在する戦国時代の城郭としては比較的きれいに残された城のひとつと云われ、1932年、国の史跡に指定された。1984年からは寄居町による保存事業が開始された。現在は鉢形城公園として整備され、鉢形城歴史館が設置されている。
           
                       鉢形城のすぐ北側にある荒川。
                断崖の地形は今も昔もそれほど変わらなかっただろう。

 鉢形城の始まりは、1473年6月、山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった長尾景信が古河公方足利成氏を攻める途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子において陣没した。長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男長尾景春ではなく弟長尾忠景であり、山内上杉家の当主上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。長尾景春はこれに怒り、1476年、武蔵国鉢形の地に城を築城し、成氏側に立って顕定に復讐を繰り返すこととなる。
 その後上杉家の城として栄えた。室町末期、上杉家の家老でこの地の豪族であった藤田康邦に、小田原の北条氏康の四男氏邦が入婿し城主となった。北条氏邦は城を整備拡充して現在の規模にし、北関東支配の拠点および甲斐・信濃からの侵攻に対する防備の要とした。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝らに包囲攻撃され、一ヶ月の籠城の後、北条氏邦は城兵の助命を条件に降伏・開城した。その後、徳川家康の関東入国に伴い廃城となった。
           
                            鉢形城俯瞰図
 この城の最大の特徴はその立地にある。鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。
 
     二の曲輪から三の曲輪方向を撮影             二の曲輪の南側にある馬出
鉢形城の歴史
 
鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万㎡です。
 城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
 
 鉢形城は、文明8年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田康邦(やすくに)に入婿した、小田原の北条氏康(うじやす)の四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
 また、鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。
 
 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
 開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官となり、この地を統治しました。
                                                       案内板より引用                                                                                          
           
 

 関東地方に所在する戦国時代末期の城郭としては比較的きれいに残された城のひとつと云われ、1932年(昭和7年)、国の史跡に指定された。1984年(昭和59年)からは寄居町による保存事業が開始され、現在は鉢形城公園として整備され、鉢形城歴史館が設置されている。



 ところで余談になるが寄居町折原には壱岐天手長男神社(あめのたながおじんじゃ)が鎮座している。この社は先祖が壱岐よりこの地に土着した折に、壱岐の天手長男神社を勧請したものと伝えられていて、地元では「お手長さま」と呼ばれているという。同町小園にも壱岐天手長男神社があり、こちらはその分社らしい。
 この社の総本社は長崎県壱岐市郷ノ浦町にある壱岐天手長男神社であるが、「鉢形山」、または「鉢形嶺」と呼ばれる古くより神奈備山として信仰の対象になっていた山上に鎮座している。「鉢形山」と「鉢形城」と全く同じ地名だ。

 寄居町の「鉢形城」の名前の由来は幾つかあり、以下のようである。
1 「円錐形の山」で文字通り鉢の形を見たてた名称とされる(『地名用語語源辞典』)。
2 ハチはハシ(端)の転で台地のヘリの意となって崖地を指すとし、形[かた]は 「方」で、すなわち、方向・場所の意となる。鉢形(本田)の西部には谷津が走り、また反対側 の東方にも、二流の浸食谷が鉢形の北東部で合流して、台地(鉢形中坪)を大きく湾曲しながら 南下し、鉢形の南突端で西流の谷津と合流するなど、谷、崖、湿地に関連する地形、流れが多数 あって鉢形はそれらに囲まれた台地上にある。
3 鉢は、仏具の応器(応量器)のこととされる。それは、僧が托鉢[たくはつ]の時に 使う鉢のことを言い、僧尼が玄関先で経文を読み、布施される米やお金を受け取る時の器をいう。

 対して壱岐天手長男神社の「鉢形山」の由来は、神功皇后が朝鮮出兵の折、兜(かぶと)を鉢(境内地)に治めて、戦勝を祈願したことからこの名がついたといい、何となく寄居町の「鉢形城」と同じようにも思える。壱岐島という武蔵国から大変離れた場所ながら同神社は寄居町小園地域や深谷市萱場地方にもあり、別名天手長男神社として境内社、末社まで含めると埼玉県北部には思った以上に存在し、当時の海上による交流が我々が考えている以上に豊かだったのではないかと考える。

 この壱岐島の「鉢形嶺」と寄居町の「鉢形城」、はたして名前の一致は偶然なのだろうか。



                                                                                                       

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