古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鉢形白山神社


        
            ・所在地 埼玉県大里郡寄居町鉢形468
            ・ご祭神 菊理媛命 伊弉諾損 伊弉冉尊
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 祈年祭 43日 例祭 1017日 新嘗祭 1123

 国道140号バイパス(彩甲斐街道)を寄居・長瀞方向に進み、玉淀大橋(北)交差点を左折する。玉淀大橋を南下し、荒川を越える。この橋の左方向で荒川下流域は「かわせみ河原」と呼ばれ、土日・祝日は勿論、平日でも暖かい季節ともなれば、水遊びやバーベキューを楽しむ人々で賑わっている。
 その後荒川を越えた最初の信号のある交差点を右折し、450m程直進すると「立ケ瀬集会所」に到着し、その隣に鉢形白山神社は鎮座している。立ケ瀬集会所の駐車スペースを利用して参拝を開始した。
        
              立ケ瀬集会所に隣接して鎮座する鉢形白山神社

 鉢形白山神社は荒川右岸の絶壁近くにある字立ケ瀬に鎮座している。同じく荒川右岸の絶壁上にある鉢形城は南西方向にあり、北東へ向かって流れて来た荒川はこの立ケ瀬地域で直角に曲がり東へ向かって流れ出す。その為か荒川左岸に比べて右岸には堆積作用で形成された立ケ瀬河原が存在している。
        
                             参道の先に拝殿が見える。
『大里郡神社誌』
「傳へ言ふ人皇九十八代後亀山天皇の御宇元中年間の勧請永禄年中鉢形城主北条氏邦同城鬼門除の祠として再建せりと明治二十五年三月三日類焼同年九月十五日現今の本社を再建す」

『新編武蔵風土記稿 男衾郡關山村条』
「關山村は白岩村の東南に續けり、家數十六軒御打入の後より御料所に屬し、延享年中まで猶かはらざりしに、其後逸見出羽守の加恩の地に賜はり、今子孫英介の知る所なり、検地は前村に異ならず
 小字 立ヶ瀬、中久保、庚申塚、五枚畠、猫岩、原、大塚、猿楽場」

       
         拝殿の手前で左側には御神木である椋の木が聳えている。
        
                     拝 殿

 鉢形白山神社の創建年代等は不詳であるが、元中年間(1384-1392)の勧請と伝えられ、太田道灌も当社を参拝、駒つなぎの桜と椋を植樹、椋の木は現存し、当社御神木となっている。その後鉢形城主北条氏邦は永禄年間(1558-1570)鉢形城を修築、城の表鬼門鎮守として社殿を再建したという。
        
              拝殿の左側には南北に走る道路があり、そこには石碑が並んでいる。

 奥宮再建記念碑
 白山神社祭神 菊理媛命 伊弉諾損 伊弉冉尊
 古書によればこの白山神社は人皇九十八代後亀山天皇の御宇元中年間の勧請永禄年中(四百拾年前)鉢形城主北条氏邦が同城鬼門除の祠として再建せるものであり偶々明治二十五年三月三日類焼同年九月十五日現在の社殿に改築せりという
 尚奥宮については永禄年間のものでその普及甚だしく更に類焼による損傷等これを看過するに偲びずこの度氏子等相謀り造営となる。
 茲にこの経緯を記録し長く後世に傳えんとす。
                                     記念碑文より引用
 
 社殿の右側には数々の石製の記念碑がある。    記念碑の隣には3基の石祠が鎮座する。

「大里郡神社誌」には境内社として
手長男神社・八坂神社・天神社が紹介され、それらは石祠であることも記されている。但し手長男神社(社殿 間口一尺一寸、奥行一尺九寸)、八坂神社(社殿 間口一尺六寸、奥行一尺六寸)、天神社(社殿 間口一尺七寸、奥行二尺一寸)と、大きさ的にみると、真ん中が天神社で、左右にそれぞれ八坂神社、手長男神社となるのであろうか。
        
                      3基の石祠の奥に鎮座する境内社。詳細は不明。

 白山神社 寄居町鉢形四六一(鉢形字立ヶ瀬)
 当社は、荒川右岸の絶壁近くにある字立ケ瀬に鎮座している。立ケ瀬の地名は、荒川の川瀬に切り立つ地を示すもので、南西部には自然の要害を利用して築いた鉢形城の城跡がある。
 創建は社伝によると、第九九代の後亀山天皇の代、元中年間(一三八四-九二)である。祭神は、菊理媛命・伊弉諾命・伊弉冉命の三柱である。本地仏は、白山妙理大権現の化身である観音菩薩で、この像は現在も本殿に奉安されている。
 文明年間(一四六九-八七)太田道灌は鉢形城へ訪れる道すがら当社に参拝し、武運長久を祈願している。また、この折、境内に駒つなぎの桜と椋の二本の樹木を植えている。桜の木は、当社の春祭りのころ、毎年見事な花をつけ、境内で酒宴を開く氏子を和ませたが、残念ながら明治初期に枯れている。椋の木は現在も残り、神木として大切にされている。
 永禄年中(一五五八-七〇)北条氏邦は、鉢形城を自然の要害を利用しながら修築拡張し、北武蔵の要として備えを固めた。この時、当社は、城の表鬼門に当たることから重要視され、神の加護を得んとして社殿を再建している。
 江戸期は、関山村の小名立が瀬の鎮守として村人に信仰され、更に明治五年に村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」等
        

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