鯨井八坂神社
・所在地 埼玉県川越市鯨井1842-1
・ご祭神 素戔嗚尊
・社 格 旧無格社
・例祭等 元旦祭 春祈祷 4月9日 天王祭り 7月14・ 15日
川越市鯨井地域は、同市北西部に位置し、東を入間川、西を小畔川に挟まれた低地に立地していて、入間川が流れている地域の大半は田畑が広がる中、地域南部の県道沿いには現代風の住宅等も立ち並ぶ地でもある。
途中までの経路は小堤八幡神社を参照。小堤八幡神社から小畔川に架かる八幡橋を越え、埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を東行すること300m程で、同県道260号鯨井狭山線と合流する路地となり、そのまま直進して進むと、すぐ左手に「鯨井自治会館」の立看板、その先に鯨井春日神社の一対の幟旗ポールが見えてくる。
鯨井自治会館には適度に広い駐車スペースがあり、そこに停めてから参拝を開始する。
参道左手には薬師如来堂が建てられていて(写真左・右)、その先に八坂神社が鎮座する。
元々は、観音寺というお寺であったが、現在は薬師如来堂が残るのみとなっている。この薬師如来堂は「中武藏七十二薬師 15番目札所」で、12年に1度、本尊の薬師三尊(通称: 寅薬師)の御開帳があり、中武藏七十二薬師巡りをする方々で賑わうという。
参道を進むと鳥居、拝殿が見えてくる。
鯨井八坂神社の創建年代等は不詳であるが、江戸期には「上戸日枝神社の横にあった」修験大廣院持ちの社として鯨井字天王に祀られていた。その後観音寺(現薬師如来堂)のあった当地鯨井字宿へ遷座、明治41年上戸日枝神社に合祀されたが、昭和50年還座している。
当社は「天王様」と呼ばれ、疫病除けの神であるといわれ、また神社を通じての住民の結びつきが強い土地柄であるという。薬師堂は戦前に公民館が建てられるまでは、村の集会や神社の直会を行う唯一の施設であった。現在でも毎月、日を決めて老人が集まり観音経を上げる会があるという。薬師様は「眼病に効ある仏」といわれ、穴あき石に麻を通して薬師様に上げて祈願する。
天王様の旧地である字天王には、今でもきゅうりを作ってはならないという禁忌がある。これは、きゅうりを輪切りすると、その切り口が天王様の紋と同じであるからだと伝えている。
拝 殿
八坂神社 川越市鯨井一八四二-一(鯨井字天王)
当社は、以前、現在地より南方へ四〇〇メートル余りの所にある鯨井字天王にあったという。現社地は瑠璃光山観音寺の境内であり、明治の初めに廃寺となり薬師堂だけが残り、寺の跡地に神社を村民が担いで持って来たと伝えている。このため当社は薬師堂と並んで鎮座する。
明治の末に当社は無格社であることから、鯨井・上戸・的場の総鎮守である上戸の日枝神社に合祀されたが、神社の建物は残り「仮祭典所」と称して祭祀を続けて来た。また、鯨井字浅間にあった浅間社の石祠も同時に日枝神社境内に移転されたが、祭典は仮祭典所である当社で執行されるようになった。
下って昭和五〇年、旧氏子の要望により再び神霊を日枝神社から奉遷して現在に至っている。
社蔵の獅子頭一頭は、元治元年製作のもので古色を帯びていたが、近年修理彩色した。また、境内の柊の古木は樹齢八〇〇年といわれ、市指定の天然記念物である。県道の拡張工事で、境内地への移植を余儀なくされたが、樹勢はますます盛んである。
境内の稲荷社は、もと観音寺の寺鎮守であったが、廃寺の後は当社の末社となっている。二月二の午に祭典を行い、昔は「正一位稲荷大明神」と書いた紙幟が数多くあがった。有泉地区の氏子はこの日、回り番で宿を決めて稲荷講を行っている。
「埼玉の神社」より引用
県道沿いに設置されている鯨井の万作の案内板 拝殿の手前右側には鯨井の万作・
指定年月日 昭和55年2月13日 伊勢神宮奉納記念碑が設置
市指定・無形民俗文化財 鯨井の万作
七月十四・十五の天王祭り、四月九日の鎮守日吉神社(鯨井・的場・上戸の鎮守)春祈とうの際に行なわれる。明治末年に鯨井の真仁田市平という人が村人に教えたのが始まりという。鯨井の万作は、成年に達したら必ず習わなければならないものえ、若い衆達によって踊りつがれてきたものである。七月十四日の晩は、ソロイと称して万作踊りを踊る。十五日には、若者たちにかつがれた獅子が鯨井の三地区をまわる。特に改築や新築の家では、御神酒を出し万作踊りを踊ってもらう。踊りは下妻手踊り一曲で、横一列に並んで踊る。
歌詞は三番まであり、一番が基本で二番三番は踊りのアヤが少しづつ違い、手が込み動きもやや早くなる。下妻踊りの他に、教え唄(正月唄、八人が四名づつ向き合って踊る)・追分(馬喰踊り、横一列)・伊勢音頭・相撲甚句・八木節なども踊る。昭和の初め、川越市霞が関に出たものが習い覚えてきたという。(以下略)
案内板より引用
同じく県道沿いには「鯨井のヒイラギ」と呼ばれる古木が聳え立つ。
鯨井のヒイラギ (市指定・天然記念物)
東方薬師堂の境内にある。かなりの古木なので幹が空洞となっているが、生存部分はまだ生き生きとしている。現在幹の北東部分の皮質部が三〇㎝の弧をなしており、円形を想定すると約一m五〇㎝の幅で上部まで残っている。従って肥大していたときは恐らく直径一m五〇㎝、周囲四m五〇㎝はあったであろう。
現在の樹高は約一〇mだが、多分過去幾歳かの台風で幹の上部は中途で折切られたものとおもう。約二五年前川越〜坂戸線の県道改修による幅員拡張のため、移植のやむなきにいたり、樹の丈を現在のように切りつめ多くの太枝も切り取り、大手術をして移植した。しかし、さいわいにしてヒイラギの古木は県下に希れなだけに貴重なものである。(以下略)
案内板より引用
薬師堂の傍には稲荷社が祀られている。
このアングルからでは分かりずらいが、稲荷社の近くには灯籠が一基あるのだが、この灯籠を「石尊様」あるいは「大山様」と呼んでいる。戦前まで7月から8月にかけて約1ヵ月間、灯籠の回りを竹で囲い注連縄を張って年行事が毎晩灯を入れる行事があったという。五穀豊穣を祈るものだといわれている。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」等