鯨井春日神社
・所在地 埼玉県川越市鯨井26
・ご祭神 武甕槌命 斎主命 天児屋根命 姫大神
・社 格 旧鯨井村犬竹鎮守
・例祭等 一升講 1月9日 春祈祷 4月9日
お日待 10月15日 秋祭り 11月23日
鯨井八坂神社から埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を東行すること1.2㎞程、入間川に架かる「雁見橋(かりみはし)」を渡る手前で、堤防がある路地を左折し、土手を下るように進むと、木陰の中に佇む鯨井春日神社が見えてくる。
鯨井春日神社正面
『日本歴史地名大系』 「鯨井村」の解説
上戸(うわど)村の北、東を入間川、西を小畔川に挟まれた低地に立地。高麗郡に属した。村名は久次郎が開発し居住していたことから久次郎居村といい、久志羅井とも書いたと伝える。延宝(一六七三―八一)頃までは地内に犬武(いぬたけ)郷の地名が残り、独立性が強かったが、その後完全に鯨井村に合併されたという(風土記稿)。現東京都青梅市安楽(あんらく)寺蔵の大般若経巻一一六は、永和五年(一三七九)三月一八日に「河越庄犬武郷」において書写されていた。小田原衆所領役帳に御家門方の北条長綱(幻庵)御新造の所領として「百四拾二貫五百六十四文 河越卅三郷犬竹鯨井」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が行われた。天正六年(一五七八)北条幻庵は大井郷名主・百姓中に人馬を調達し鯨井郷から上依知(かみえち・現神奈川県厚木市)まで兵粮を運ぶよう命じている(同年正月二〇日「北条幻庵印判状」塩野文書)。
『新編武蔵風土記稿 鯨井村』
鯨井村は郡の東入間の群界にして三芳野郷に屬せり、往昔久次郎なるもの草創して居しゆへ、久次郎居(くじらい)村と唱へしを、何の頃よりか今の文字に書かへしよし、或は久志羅井とも書せり、
この地は、嘗て元禄の棟札にも「河越庄犬竹郷」と記し、古くは一村を成していた(「入間郡誌」村の東方犬竹は古は一区の小村にて、延宝の頃までは、犬竹郷などと記したる証跡あり)。しかし、西側を開墾し、住民が移住し鯨井村となるにつれて当地は衰微し、鯨井の一字になってしまったという。氏子区域は大字鯨井の犬竹地区で、現在の氏子数は十五戸、『明細帳』にも十六戸とあり増減はほとんどない。
入り口には鳥居はなく、規模も決して大きくはないが、落ち着いた雰囲気のある社である。
鯨井春日神社は、北条一族で川越三十三郷を領した犬竹織部正平則久が永正年間(1504~1521)に創立したと伝えられる。古くは境内に柊の木が多かったために、柊宮あるいは柊様と呼ばれていたといい、鯨井村字犬竹の鎮守として祀られている。当社の神事「犬竹の一升講」は、御馳走をたくさん食べる飽食神事の一つで、川越市無形民俗文化財に指定されている。
拝 殿
春日神社 川越市鯨井26(鯨井字犬竹)
入間川の土手際に南面して鎮座する当社は、永正年間に犬竹織部正平則久が創立したと伝える。古くは境内に柊の木が多かったために、柊宮あるいは柊様と呼ばれ、社蔵の『嘉永元年寄進帳』に「抑々当社春日大明神乃御事は世の人柊明神と御唱ひ立て相成侯疫病除第一の御守護」とある。
現存する元禄九年再建の棟札に「竹柴山別当寶勝寺現住月潤良雲」とあり、神社の後ろにあって明治初期廃寺となり観音堂のみ残る宝勝寺が別当だったととがわかる。また、明治二年の棟札には「神主中臣朝臣竹榮瑞穂」と還俗神勤したことが知られ、更に「祭神一御殿武甕槌命 二御殿斎主命 三御殿天児屋根命春日大明神是也 四御殿姫大神」と記されている。『明細帳』もこの四神を祭神としている。
犬竹織部正平則久は北条一族として、川越三十三郷を領したといい、当地に居住し犬竹と称し、その子孫は勢〆と名乗り今に至っている。棟札にも「願主瀕志目庄左衛門尉則重同姓織部則政」とある。また、別当の宝勝寺も古くは観音堂だけだったものを、則久が起立したと伝える。なお、『風土記稿』に「則久は永正十二年の没」とある。
口碑によると、境内に多くあった樹木は入間川の増水の折に伐採して杭とし、氏子の田畑の流出を防いだという。
「埼玉の神社」より引用
「勢〆」氏に関しては、新編武蔵風土記稿にも以下の記述を載せている。
『新編武蔵風土記稿 鯨井村』
舊家者織平
氏を勢めと云。先祖某は北條新九郎の氏族にして、當所犬竹郷に居住す、因て犬竹を氏とす、即ち犬竹織部正平則久と稱す、川越三十三郷の内を領し、北條氏の旗下に屬す、北條氏亡て後子孫民間に下れり、戸田左門一西この村を知行せしとき、慶長年中江州膳所へ移されければ、則久が子孫これに屬して、彼地に至て住居せるときに、犬竹の氏を勢めと改むと、居ること幾ばくもなく、同姓某なる者を出して代らしめ、己は遂に郷里に歸居せしより、今既に十五世に及と云、されど古書の詳なるものはなし、
境内に設置されている「犬竹の一升講」の案内板
市指定 無形民俗文化財 犬竹の一升講
毎年一月九日、氏子の宿で行われる神事である。前夜の行事をオビシャ講といい、当日の行事を、イッショウコウ、イッショウグイともいう。春日神社は犬竹十六戸の氏神であって、疫病除けの神さまといわれる。オビシャ講は氏子の中の子どもや年寄・奉公人等が宿に集まって小豆粥をたらふく食べる行事である。一升講は当番の二軒の主人を除いて、他のブクのない氏子の家の代表者全員が宿に集まって行われる。宿では小豆の入ったアカノゴハンと入らないシロノゴハンを一人一升あてに炊き上げ本膳をすえて来客を待つ。ヤドマエの二人はオトリツギ、キウジヤクとも称して接待する。キウジツキの儀とはまず赤のご飯少々を給仕つきで軽く一箸で食べる。オテモリの儀とは客同士がテンコモリに盛りあげて、これを三杯食べる。オニギリの儀はさらに残ったご飯を全部食べて終る。古い飽食神事の一つである。(以下略)
案内板より引用
境内社・愛宕社 境内社・稲荷社
境内社・御嶽社
鯨井春日神社で行う祭事に関して、4月9日に行われる春祈祷は、古くは鶴ヶ島から神楽師を招き拝殿で行った。この碑は田仕事の無事を祈り、各戸は赤飯を重箱に入れて持ち寄る。また、10月15日のお日待は親類を招いて御馳走してにぎわったが、現在では祭典後、拝殿で直会をするだけとなっているという。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「入間郡誌」「埼玉の神社」
「境内案内板」等