古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小前田諏訪神社

 村上天皇の応和年中(961~964)、奥羽地方より藤田郷に移住した鈴木氏等は、「上の原」の地に祖神の諏訪神社を祭って、土着した。彼らの遠祖は、田村麻呂将軍に従って当国より奥州征伐に行ったものという。土着に際し、信州諏訪神社大前の水田にちなみ、社前の平野を御前田原と呼んだ。「御前田」または「小前田」の地名は、この時に始まる。
  文明年中(1469~87)花園城主・藤田掃部左衛門氏家公が、領地住民の為、信濃の国諏訪より正一位南宮法性大明神を分霊勧請し、社殿を整えた。その後藤田家の離散、鉢形北条氏の滅亡により神社は荒廃したが、永禄5年(1562)小前田の住人長谷部兵庫吉長が現在地に遷座し、小前田の鎮守となった。安政5年には現在の本殿が造立。


所在地    埼玉県深谷市小前田1
主祭神    建御名方命
          八坂刀売命
          大国主命
社  格    旧村社 

創  建    応和3年(963)
由  緒    
この一帯を支配していた花園城主藤田藤田掃部左衛門氏家が、領地領民の安寧の為に、
         信濃の国の諏訪大社より分霊を勧請し、お祀りしたのが始まりとされている。

例  祭         10月第2土曜日、日曜日 諏訪神社祭礼(小前田屋台まつり)

            
  地図リンク
  小前田諏訪神社は秩父鉄道・小前田駅の南西約200mの場所に鎮座している。久喜市鷲宮の鷲宮神社と同じく、住所が小前田1ということはこの神社を中心として町が形成されたのではないかと推測する。
 当社は桓武天皇の御代、坂上田村麻呂の蝦夷征討に際し、当地から徴募された軍士の中には、彼地に永住するものもあった。その子孫が、応和3年(963)、同族と共に当国に戻り、安住するに当り、塚を築き、その上に自ら信仰する諏訪の神を祀ったのが、その始まりであるという。
     
           鳥居の左側にある立派な社号標                                  入口にある靖国鳥居
 小前田諏訪神社は鳥居を潜ってしばらく参道を歩くが正面には社殿はなく、途中右に90度曲がっている。その曲がった先に社殿が存在する。
 
         

  文明年中(1469~87)この一帯を支配していた花園城主十一世藤田藤田掃部左衛門氏家が、領地領民の安寧の為に、信濃の国の諏訪大社、正確には諏訪神社上社より分霊を勧請し、お祀りしたのが始まりとされている。永禄5年(1562)小前田の住人長谷部兵庫吉長が現在地に遷座し、小前田の鎮守となった。安政5年には現在の本殿が造立される。明治15年には蚕影神社が合併されている。
       
          
                                  拝   殿
           
                                                                  本  殿
  当社を支配していた花園城主藤田氏は、武蔵七党の猪股党の出で、猪俣野兵衛尉時範の子政行が武蔵国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称したことに始まる。
 武蔵七党は、武蔵国に本拠をおいた同族的武士団の総称で、坂東八平氏と称される平氏の一門とともに坂東武者と称され、弓馬に通じて武蔵・相模二州の兵は、天下の兵に匹敵すると賞賛された。 七党の数え方は一定しないが、野与党・村山党・横山党・児玉党・西党・丹党・私市党などが挙げられる。猪股党は横山党と同族で、小野篁の後裔で武蔵守として下向土着した小野孝泰の孫時範が児玉郡猪俣に居住したことに始まる。

 藤田氏の祖藤田五郎政行は平安時代末期、保元の乱源氏勢として戦に参加し、その嫡男三郎行康も源平合戦では源氏勢として参加して元暦元年(1184)の一の谷生田森の合戦で先陣をはたし戦死した。頼朝は行康の功を賞し、嫡男の能国に遺跡を安堵している。鎌倉時代を通じて常に藤田氏は時の幕府から信頼を受け、幕府問注所の寄人に召されて幕政にも参加、建治三年(1277)、問注所の寄人に召し出された藤田左衛門尉行盛は奉行人として活躍した。その後元弘元年(1331)、後醍醐天皇による元弘の変が起り、その後の動乱によって鎌倉幕府は倒れ北条氏も滅亡した。元弘三年のことで、後醍醐天皇親政による建武の新政が開始された。その間、藤田氏がどのように行動したのか、その動向は明確ではない。
  南北朝の争乱期に藤田氏がどのように行動したかは史料が少なく、必ずしも明確ではないが当初は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍に藤田六郎左衛門、三郎左衛門、四郎左衛門らが従っていたが、尊氏方に属した者もいたようで藤田一族は二派に分かれたようだ。ただし、当時の武士団の一般的な傾向で、その背景には惣領制の崩壊がもたらした嫡庶の対立があり藤田氏もその例外ではなかったのである。その後、関東に幕府の出先機関ともいうべき鎌倉府が置かれ、藤田氏は上杉方として行動したものと見られる。
  応永二十三年(1416)、前関東管領上杉禅秀が関東公方足利持氏に反乱を起した。禅秀の乱で、上野・武蔵の武士の多くが禅秀に味方し、藤田氏一族と思われる藤田修理亮も禅秀方に属して所領を没収されている。関東は永享の乱、結城合戦と戦乱の時代を迎え、翌嘉吉元年(1441)ようやく終結する。

 藤田氏はそれ以降後北條氏の関東進出まで、山内上杉勢の四家老の一家として参加した。その勢力は現在の寄居町の天神山城を拠点として、最盛期には大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範囲であり、小前田諏訪神社もその所領内に入る。

    
八衢比賣神、久那斗神、八衢比古神             浅間神社                            天手長男神社

                           
                                     
白山神社                          その他本殿の奥の祠群

  その他和魂神社、八坂、琴平神社、蚕影神社、神明社、春日神社等が諏訪神社境内に鎮座している。

 戦国期、ついに後北條家の関東進出が顕著になる。北條氏綱・氏康親子による天文六(1537)年の川越城夜戦では、関東管領・山内上杉憲政、扇谷上杉朝定と、古河公方・足利晴氏の軍総勢八万の軍勢の一軍として参加し、敗北を喫する。これにより主家を失った藤田重利は北条氏の軍門に降り、氏康四男・氏邦を養子に迎え、その家督を譲った。同時に名も「康邦」と改めたという。北條氏邦は1560年(永禄3)以降、鉢形城(大里郡寄居町)を整備して天神山城から居城を移し、北関東の最前線の拠点として、また甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担った。

 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開した。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城し北條小田原家は滅亡する。そして同時に藤田氏本流としての400年の歴史が終結することを意味していた。
         

                                  諏訪神社祭り屋台の案内板が道路沿いにある。
 諏訪神社で例年催される例祭は「小前田屋台まつり」別名「アルエット祭り」といい、その屋台は3台ながら秩父市の秩父神社に負けず素晴らしいものだ。   
 
諏訪神社祭礼(小前田屋台まつり)
  旧花園町小前田地区には3台の屋台があり、いずれも明治初期に造られたもので、その雄大な造りや彫刻により、昭和52年には有形民俗文化財に指定されています。この3台の屋台を毎年10月の第2土曜・日曜日に引き出し、国道140号線の秩父往還で屋台囃子を演じながら曳(ひ)き回します。また、祭礼期間以外でも「道の駅はなぞの」にて、常時屋台を展示しています。
                                                                                                     深谷市観光協会より引用


                                                                                                                 

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