古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大塚諏訪大神社

 当地を含む深谷市北辺部は、諏訪神社が多い所である。これら諏訪神社は、いずれも信州諏訪神社の分祀と考えられる。同社の分社は全国に見られ、その時期は古代に始まるといわれるが、最も盛んであったのは鎌倉時代であった。これは、源頼朝が石橋山に戦い、甲斐の源氏が頼朝加勢の兵を挙げた時、諏訪の神が源氏勝利の託宣をしたことから、鎌倉幕府、更には鎌倉武士に信仰された結果である。
 当社の創建は、社伝によると正安年間(一二九九〜一三〇二)である。この時期は鎌倉時代の末期で、二〇年ほど前には、中国大陸の元軍が日本に来襲した文永・弘安の役があった。この戦役で、伊勢の風宮(かぜのみや)と信州諏訪神社の神が大風(神風ともいう)を起こして、元軍を全滅させたと信じられた。これは、古代から諏訪の神が、風の神として信仰されていたためである。なお、この風の神信仰は、本来は農業神としてのものであった。
 当地に諏訪神社が多い理由は明らかにできないが、鎌倉武士の発生地であり、鎌倉街道が通っていたことが挙げられよう。しかし、当社の場合は、その創建が鎌倉時代末期であり、鎌倉武士の勧請というよりも、諏訪の風の神としての信仰が一般化してきて、土地の鎮守として祀られたと考えるべきであろう。
「埼玉の神社」より引用
        
             
・所在地 埼玉県深谷市大塚263
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧大塚村鎮守 旧村社
             
・例祭等 春祭り 410日 秋祭り 1017
 深谷市大塚地域は、小山川左岸の沖積低地にあり、深谷市下手計周辺から南東方向に流れている小山川支流の清水川が合流する地域一帯に位置し、中央部を群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線が南北に通っている。民家は県道を中心に点在するに対して、外郭周辺部は田畑が中心に農地が広がっているように、場所によって土地利用される用途がハッキリと分かれている地域でもある。
 途中までの経路は戸森雷電神社を参照。そこから群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上し、1.7㎞程先で小山川を越えた最初の十字路を左折すると、すぐに大塚諏訪神社が見えてくる。
        
                 
大塚諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』「大塚村」の解説
 小山川左岸の沖積低地に位置し、西は上手計(かみてばか)村、南は内ヶ島村、北は下手計村。岡部領に所属(風土記稿)。地元では「おおづか」とよぶ。永禄一二年(一五六九)九月一日の北条氏邦印判状写(武州文書)によると、鉢形城(現寄居町)城主北条氏邦が吉橋大膳亮に戦功の賞として「十貫文 大塚之内」などを宛行っており、これは当地に比定される。天正一八年(一五九〇)の徳川家康関東入国後、旗本安部信勝領(のちの岡部藩領)となり幕末に至る(天明七年「岡部藩領郷村高帳」安倍家文書、改革組合取調書など)。
 
     手入れの行き届いた境内         「
大塚諏訪大神社改築の記」の石碑
氏子区域は、大字大塚であり、「大塚」の名が示すように、地内に古墳後期・奈良期・平安期の大塚遺跡、古墳後期の諏訪神社前古墳がある。大塚地域は農業地域で、昔は麦、現在はネギの生産が多い。総戸数は五五戸であり、全戸氏子である。
        
                 塚上に鎮座する社殿
 大塚諏訪大神社改築の記
 当社の創建は、社伝によると正安年間(一二九九~一三〇二)である。この時期は鎌倉時代の末期で、二十年ほど前には、中国大陸の元軍が日本に来襲した文永弘安の役があった。
 信州諏訪神社の分祀といわれる当社の祭日は、四月十日春祭り、十月十七日秋祭りである。春祭りは。『お花見』とも呼ばれ、氏子一同で祝宴を行っている。秋祭りには、獅子舞が行われる。当社の舞は、天正十五年(一五八七)からと伝えられている。
 氏子区域は、大字大塚である。大塚の名が示すように、地内には古墳後期、奈良期、平安期の大塚遺跡、古墳後期の諏訪神社前古墳があり、深谷市指定二号遺跡となっている。
 地内に、享保四年(一七一九)大塚、村中造立の地蔵尊があり、『子育て地蔵』と呼ばれ、信仰されてきた。この地蔵尊の縁日は、毎月二十四日で団子を供えてお参りする人が今日でもある。耕地整理等に伴い、現在は他地番に安置されている。
 神社社殿の老朽がすすんだため、氏子の総意にもとづき平成十二年度から、十三年間計画で建設資金の積み立てを実施して、平成二十六年に待望の新社殿が完成した。
 平成二十六年九月吉日
  
大塚諏訪大神社建設委員会
                                      石碑文より引用
 
  社殿右側に祀られている境内社・稲荷神社       境内に祀られている石祠群。詳細不明。
        
               境内に一際目立ち聳え立つ巨木

 当社の例祭は、古くは八月二十六日であったらしい。「白川家門人帳」寛政四年(一七九二)に、伯家から当社に対して社号額の染筆を遣わしたとの記事があり、その中に、例祭日八月二十六日の記載がある。各地の諏訪神社の祭りは、八月二十六日から二十八日の間に行われることが多い。これは、信州諏訪神社の古くからの祀り「御射山(みさやま)神事」の日取りに合わせたためであろう。
 秋祭りには獅子舞が行われる。信州諏訪神社は狩猟と関係が深く、獅子頭は鹿の頭に似ている。獅子舞の起源は、寛元年間(一二四三〜四七)、時の鎌倉幕府執権北条時頼の命により角兵衛という者が始めたと説かれる。当社の舞は、天正十五年(一五八七)からと伝えている。
獅子舞は、十月七日の花作り・練習から始まる。当日は、舞い手3人・棒遣い2人・笛方1人・花笠2人・歌1人・ボンゼン1人で行われ、庭は二庭で、前と後ろがあり、終日境内に笛の音が流れるという。
 大塚獅子舞は「無形民俗文化財」として深谷市の指定を受けている。
【指定年月日】  昭和48113
【変更年月日】  平成3113日(記号番号変更) 平成1811
        
          社の入口正面には小山川の土手がすぐ目の前にある。
                   まるで社が身を呈して、北側に住む住民を守るように
                     この地で盾となっているような位置関係である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「深谷市HP」「境内石碑文」等

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