古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上新戒御嶽大神社


        
             ・所在地 埼玉県深谷市新戒1562
             
・ご祭神 大己貴命・少彦名命・大山祇命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 210日 春大祭 218日 祈年祭 1115日 秋大祭
                  1
123日 勤労感謝祭 1229日 大祓

 上新戒御嶽大神社は深谷市新戒地区北西部に鎮座する。途中までの経路は内ヶ島神明社を参照。群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上するように進み、「大塚」交差点を右折、埼玉県道45号本庄妻沼線を道なりに直進する。1.5㎞進んだ最初の信号を左折し、北上して行くと右手側に御嶽大神社が見えて来る。但し駐車場が周辺にはないため、対向車の迷惑にならない場所に路駐して、急ぎ参拝を行う。
        
                                上新戒御嶽大神社正面
    新戒地区の長閑な田畑風景に馴染むような、ゆったりとした空間が広がっている。
 
       参道右側にある社務所         社務所の脇、道路沿いにある記念碑

 上新戒御嶽大神社社務所再建記念碑・趣意書
 御嶽大神社社務所は建立以来長きにわたり祭事及び集会所として上新戒の中心的な役割を果たしてきた。しかし逐年老朽化が進みここ十数年来再建が検討されてきた。このたび歴代の正副自治会長、氏子総代神社の役員を始め氏子各位の協力を得て再建の運びに至ったものである
 
平成十二年三月二十五日起工、同年十一月十五日落成
                                     記念碑文より引用


 社務所再建の事情を記されているだけで、石碑には神社のことは記されていないので、「埼玉の神社」での解説を紹介する。

 御嶽大神社
・神徳…農耕神、「往古より当社に祈願し雨乞いを為せば、如何なる大旱魃の年にても奇しく雨降らぬということ曾てなしと、霊験今尚然り」
当社の歴史を見ると開拓時に信州筑摩郡奥十山(木曾の御岳)を祀って蔵殿宮と称したのが当社の始まりで、正平21年(1366
)には、社殿を整え常陸国大洗の薬師菩薩を合祀の上、別当三薬寺を建てている。江戸期に入って蔵王大権現と号したが、維新後に今日の社号となった。
 
      参道左側には神楽殿         規模は大きくないので、鳥居をすぎると
                           社殿がすぐ近くに見える。
        
                                    拝 殿

 新編武蔵風土記稿において「新戒村条」には「新戒村・上新戒村・下新戒村」の3村を1セットで記載されている。
「新戒上下新戒の三村は古へ一村にて、正保の改にも新戒村のみ載せ、元禄の改に至て三村とす(中略)陸田のみの地なり、古は地名を新開と書しにや、新開荒次郎は当所の人なりと語り傳へて其舊蹟今に存す、按に【東鑑】新開荒次郎の外新開彌二郎・同左衛門尉等を載す。彌二郎及兵衛尉は承久年中の人なり 又岩松氏所蔵文書、享徳肆年閏四月八日、岩松右京大夫望申云文中に武州新開郷事新開加賀守蹟とのす、これ等其の支族にて此に住し、在名を用ひしものなるべければ、新開の名の舊きこと知るべし」

 また大里郡神社誌には以下の記載がある。
新開氏旧跡は、東西一町四間・南北一町四十二間、村の東に有りて堤濠の跡近時猶存せり、文政天保の頃迄漸次開墾して今は無し、畑となれり。新開氏は秦河勝の後裔、信濃国に住す、本領は同国佐久郡及び近江国新開荘也。荒次郎忠氏、鎌倉右幕に従ひ、丹党の旗頭たりと云ふ」
        
                               
上新戒御嶽大神社 本殿
 
 社殿の左側には境内社が横一列に並ぶ(写真左)。左から大手長男神社・八坂神社、天満宮・雷電神社、皇太神宮。また境内右側には社務所が設置されているが、その左側にも境内社、石祠が並んでいる(同右)。詳細不明。
        
                          上新戒御嶽大神社 遠景


 上新戒御嶽大神社の由来は、「埼玉の神社」によれば、「開拓時に信州筑摩郡奥十山(木曾の御岳)を祀って蔵殿宮と称したのが当社の始まり」と記載されている。推測するに、「新編武蔵風土記稿」や「大里郡神社誌」に登場する「新開荒次郎」は秦河勝の後裔で、本領の信濃国佐久郡及び近江国新開荘から上新戒地区に移り住み、その際に「木曽のおんたけさん」と呼ばれる信仰の山「御嶽山」から神様を勧請したものと思われる。主祭神は、国常立尊・大己貴命・少彦名命。
 一方、江戸期には「蔵王大権現」と号したらしいが、蔵王権現は本来日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊で、インドに起源を持たない日本独自の仏といわれ、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られている。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意味。仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括していて、神道において、蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命等と習合し、同一視された。その為蔵王権現を祭る神社では、主に上記の5組の神々らを祭神とするようになった。
 蔵王山は宮城県と山形県との県境にあり、古くから刈田嶺(かったみね、かったね、かりだのみね)、または、不忘山(わすれずのやま)と呼ばれていた山岳信仰および歌枕の山であったが、吉野から蔵王権現が勧請され、平安時代には修験者が修行するようになったため蔵王山とも呼ばれるようになったとされる。

 つまり、創建当時信州木曽御嶽山から神様を勧請したが、時代が下るにつれ、神仏習合思想により、東北地方の「蔵王権現」を取り入れ、現在の信仰スタイルとなったと考える。
 日本は歴史が古い国であり、信仰形態も「受容」が基本にあり、この形態は自分の信仰を押し付け、以前の信仰を根こそぎ否定・根絶する他の諸外国にはない平和的で、全てを包み込む極めて優しいものであり、そして諸外国から不思議がられる独特のスタイルである。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「Wikipedia」等



拍手[2回]


上手計二柱神社

 日本では漢字の伝来以来、万葉仮名のように当て字をつけていったり、佳字(かじ)地名として、めでたい意味の単語を地名に当てるなどのことが1000年以上にわたって行われ続けてきた。地方によって同じ綴りや漢字を別の読み方をしたり、同じ音に別の綴りや字を当てる、方言によって音が変化する、歴史に由来して常用漢字外の漢字を当てる等、今で言う「難読地名」が出てきてしまった。
 数多くの言語表現の中でも難読語が数多く存在するのは日本語くらいといわれていて、同じ漢字圏内でも中国語では漢字の読み方は規則的であり、日本同様に別の言語体系に対して漢字を使用した朝鮮語でも、ほとんどは一つの漢字に対して一つの読み方しか用いられていないようだ。
また昔からその地域に住んでいる住民の方々や、その地域をよく知っている人たちは特に難読地名とは思っておらず、外部の人間から指摘されて初めて難読地名だと分かるような例も少なくない。

 深谷市にもそんな読むことが難しい「難読地名」が幾つも存在していて、今までに紹介した神社では血洗島上敷免」「長在家」等で、江戸時代の村単位では、武蔵野足高神社は「猿喰吐(さるくいど)村」、上野台八幡神社地区内には「鼠(ねずみ)」という字名も嘗て実際にあった。
 今回紹介する「二柱神社」が鎮座する「上手計」地区も、「難読地名」の一つといえる。本来の地名の読み方は「てばか」で、現在は下手計と上手計にわかれている。 では、この不思議な地名の由来は何かというと、後三年の役で源義家が奥州に向かう際、この地で負傷を負った家臣の片腕を切り落として埋葬した場所が「手墓(てばか)」という地名になったのがルーツという。また別説では、手計の「はか」は、崖地を意味するアイヌ語の「ハケ」が転じたもので、上手の崖・下手の崖とする見解もあるようだ。
        
             
・所在地 埼玉県深谷市上手計216
             
・ご祭神 伊耶那岐命、伊耶那美命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 不明

 上手計二柱神社が鎮座する深谷市上手計地区は、矢島地区北側で、小山川左岸に位置する矢島神明社を起点に群馬県道・埼玉県道355号中瀬普済寺線を北上し、1㎞程進むと「血洗島」交差点に達する。埼玉県道45号本庄妻沼線との交点となり、そこを右折し、4番目の十字路を左折し、暫くすると左側に上手計二柱神社の社叢、並びに鳥居が見えてくる。
        
                  
上手計二柱神社正面
「深谷市 上手計自治会HP」には「地区の鎮守として、二柱神社があり、元旦祭春の大祭秋の大祭など年間を通して行事を行っている」との記載があったが、その詳しい日程が書かれていないため、例祭日を「不明」として掲載するには至らなかった。
 
   鳥居より参道を望む。田畑風景が広がる中、 鳥居の左手側に徳大勢至菩薩と大黒天等の石碑
    社周辺のみ、社叢林が広がる。       午後に参拝したゆえに逆光気味。
       
               参道先、左側に聳え立つご神木
        
                        南北に長い参道。参道の先に鎮座する社殿。
                 長いにも関わらず、参道一面には敷石が敷き詰められている。
        
                     参道脇に設置された「二柱神社改築の記」の石碑

 二柱神社改築の記
 深谷市上手計に鎮座する二柱神社は、古くは「聖天社」と称していました。
 その創建は長井荘の総鎮守聖天宮(熊谷市妻沼)より勧請され、およそ四百年~四百五十年前と伝えられています。神仏分離令により明治二年に二柱神社と改めました。伊耶那岐命、伊耶那美命の二柱を御祭神として祀り、象頭人身の大聖観喜天像(聖天像)を御神体としています。
 当地区の護り神、心の拠り所として先人達により長きに渡り伝えられてきた御社殿が、昭和三十年代の台風による倒木の為、拝殿を失い、祭典を幣殿で執り行う事態となりました。また老朽化も甚だしく、成りゆく様を憂慮し改築に向けて、平成十八年、氏子各位の総意のもと御社殿改築が決議され建設委員会を設立するにいました。
 建設費用は五年間の積み立てを行い充当するものとし、平成二十三年建設を着工し平成二十四年二月に竣工を迎えることができました。
 この喜びを後世に伝えるべき偉業として、御奉賛いただいた氏子崇敬者の名をここに刻し記念碑として残すものであります。
 平成二十四年五月吉日 二柱神社宮司宮壽邦夫 上手計二柱神社建設委員会
                                      記念文から引用

        
                              南向きに鎮座する二柱神社拝殿
 
  拝殿には渋澤栄一書の扁額が掲げられている。             本 殿
 
   拝殿左側に鎮座する境内社・石祠2基        拝殿右側には境内社・稲荷神社が鎮座。
         詳細不明
        
         静寂の境内、手入れも行き届き、気持ち良い参拝となった。

 上手計地区を含めた周辺地域は昔より「八基(やつもと)」地区と呼ばれている。というのも明治22年町村制施行により,旧八村<血洗島村・南阿賀野村・北阿賀野村・横瀬村・町田村・上手計村・下手計村・大塚村>の合併時、当所は手計村であったが、翌23年八基村と改称。大八州(おおやしま)の基(もとい)として、日本の模範となるような村となるよう名付けられ、その名付け親は渋沢栄一と言われている。      
                   
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「深谷市HP・自治会連合会」等           

拍手[1回]


内ヶ島熊野大神社


        
                            ・所在地 埼玉県深谷市内ケ島650
                           ・ご祭神 伊弉冉命、速玉男命、事解男命
                           ・社 格 旧村社
                           ・例 祭 祈年祭 2月27日 例祭 4月15日 新嘗祭 12月5日

 内ヶ島熊野大神社は深谷市内ヶ島地区に鎮座する。内ケ島地区は群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線が東境となり、南北にはそれぞれ小山川、国道17号バイパスが、西側は備前渠用水 矢島堰から東に600m程先にある南北に走る農道が境となっていて、東西南北と1㎞程の行政区域で、こじんまりとして纏まった地域である。
 国道17号バイパスを岡部方向に進み、「大塚」交差点を右折し、群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上するように進む。途中左側に地域の和菓子屋(西間堂本舗)さんがあるが、実父の月命日には必ずそこのお饅頭を購入する貴重な和菓子屋さんで、味も素朴で美味しく、値段も手ごろなので、立ち寄る機会があるならば、ぜひ購入して頂きたいと思う。
 因みに本店は県道に接していて店舗前には駐車場はないが、道路を挟んだ向かい側には新館があり、筆者はいつもそこの駐車スペースを利用している。
        
                            
 内ケ島熊野大神社正面

 内ヶ島熊野大神社は上記の和菓子屋さんを左手に見ながら北上し、すぐ先にある手押しボタン式信号のある十字路を左折、250m程進むと左手に内ケ島熊野大神社が見えてくる。
 
駐車スペースは、道路を挟んで北側に「内島自治会館」があり、会館前には適度な空間があるので、そこの一角に車を停めてから参拝を行う。
 
      内ヶ島熊野大神社鳥居           境内は手入れも行き届いていて、
                                   清楚な印象
        
                             拝 殿

 内ヶ島地区を開発したのは武蔵七党の猪俣党に属した内ヶ島氏であるという。内ヶ島氏は一ノ谷の合戦で平忠度を討取ったとされる岡部六弥太忠澄と同族の猪俣党岡部氏から五郎国綱の時にこの地に居館を構え内ヶ島氏を名乗ったとされている。
小野氏系図「岡部六大夫忠綱―五郎国綱―内島三郎忠俊―二郎兵衛尉盛忠―三郎景忠、盛忠の弟左近将監盛経(法名寂阿)、其の弟左衛門尉俊盛―新左衛門泰俊―五郎左衛門俊綱(弟六郎左衛門尉経俊)、俊盛の弟左衛門尉忠季―為忠」
畠山牛庵本の小野氏系図「岡部忠綱―内島五郎国綱―三郎忠俊」
吾妻鑑卷二十五「承久三年五月二十二日北条泰時十八騎を率いて京に先発す、随兵に内島三郎あり。六月十四日宇治合戦、敵を討つ人々に内島三郎、味方の討死する人々に内島七郎」。卷四十「建長二年三月一日、内島三郎が跡」。卷四十三「建長五年十月十一日、内島左近将監盛俊入道」
 内ヶ島熊野大神社の北側には、永光寺という寺院があり、平安期猪俣党の内ヶ島氏の居館跡と言われている。永光寺は内ヶ島五郎国綱が醍醐天皇(在位は897930年)の時代に当地に館を構え、紀伊国熊野権現の分霊を勧請し合わせて開基となった伝わる天台宗永光寺本堂。江戸時代の慶安2年には寺領として15石を幕府から下賜されている。
 内ヶ島館跡と永光寺
 平安時代の末、猪俣党の子国綱が、内ケ島五郎と称してこの地に住み、内ヶ島氏の祖となった。 内ヶ島氏館跡は、永光寺付近と言われ、近年まで遺構があったが、現在は残っていない。面積は約2町歩くらいと考えられる。
 地内の小字に西廓・東廓・南廓などの館跡に関連する地名が残されている。
 永光寺の開山は了慧法印、開基は内ヶ島五郎と伝えられる。
                                 永光寺現地案内板より引用

 
    拝殿に掲げてある「熊野大神社」扁額               
社殿左側奥には境内社なのか、
                                                     神興庫なのか不明な建物あり。
 
  社殿右側奥に鎮座する合祀社、石祠群。    合祀社・石祠群の右並びに石碑、祠群が鎮座。
     資料が乏しく、詳細不明。      石碑は左側浅間神社、右側は
古峰神社と刻印。
        
                  社殿から境内を撮影

 時代は下り、内ヶ島氏は内ヶ島季氏のときに室町幕府の命を受けて飛騨白川郷へ入国し、鉱山から得られる収入で莫大な財を成し、帰雲城(かえりくもじょう、きうんじょう)を居城として戦国大名としての道を歩む。
 度々姉小路頼綱や上杉謙信などの侵攻を受けるが、その都度撃退に成功し、織田、豊臣の時代も巧みに渡り歩き、ついに天正
13年(1585)豊臣時代に大名として存続が許される。そして祝宴を翌日に控えた1129日に、白川郷一帯を天正大地震が襲い、帰雲城は山ごと崩壊し城下町も土砂に埋もれて領国ごと滅亡した。

 その時の被害は、埋没した家300戸以上、圧死者500人以上という。確証はないが、ここで紹介した内ヶ島氏は、猪俣党内ヶ島氏の末裔であったという説がある。
 この猪俣党内ヶ島氏説が正しいのであれば、悲劇的な結末となったことにより、北武蔵の小豪族が結果的に後代に名を残したという歴史の皮肉さを感じざるを得ない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
Wikipedia」「吾妻鑑」等

拍手[2回]


矢島神明社

 矢島堰は、埼玉県最古級の農業用水路である備前渠用水の取水堰の一つである。この矢島堰は備前渠用水の開削時(約400年前)から存在する古い歴史を持つ堰であり、自然をうまく利用した技術で小山川の河道を一部利用して、上流からの流水を受け、下流に貯留する溜井方式の矢島堰を設け、堰上流地域の排水も利用する効率的な施設計画で当時の最先端技術である関東流(伊奈流)の水利技術が用いられていた。
 現在の備前渠用水路は、埼玉県本庄市大字山王堂地先の利根川の支川神流川・鳥川の両河川が利根川と合流した利根川右岸より取水し、堤外の河川敷を2,200mの導水路によって導水し、本庄市仁手地先の第3樋管より堤内に入る。その後南東方向に流路は進み、岡部町で一旦小山川に合流し、小山川を利用して1㎞程下流にある深谷市の矢島堰で再び取水。矢島樋門を経由して流路を変え、深谷市、妻沼町の潅漑地域を東へ流れ、妻沼町弥藤吾の観静寺堰において、福川へ流入している。またその末流は中川水系の北河原用水や羽生領用水にも繋がり、山地水源を持たない埼玉県南東部地域の水田の貴重な水源としても現在でも多大に寄与している。
        
             ・所在地 埼玉県深谷市矢島1003
             ・ご祭神 天照大御神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 例祭 1019日
 矢島神明社は埼玉県深谷市西部の矢島地区に鎮座する。国道17号バイパスを岡部方向に進み、「矢島」交差点を右折する。埼玉県道355号中瀬普済寺線を300m程北上すると、左手側に「村社 神明社」の社号柱が見える。
 県道沿いに鳥居や旗ポールが見えるが、正確に言うと、境内社である「摩二天稲荷神社」のそれであり、左隣に矢島神明社が並列して鎮座している配置となっている。
 駐車スペースは社号標柱の先に社務所があり、駐車できるスペースが確保されており、そこに停めてから、参拝を行う。
 
       矢島神明社 正面鳥居         鳥居を過ぎて、南北に長い参道が続く。

 深谷市は大略として、国道17号バイパス南側を境として、北は妻沼低地面、南は櫛引台地面に分かれていて、矢島地区はその中で利根川中流域・妻沼低地に属している。
 矢島神明社の北東800m程先に備前渠用水・矢島堰がある。この備前渠用水路は、江戸時代初期に伊奈氏の関東流による工法によって開発されて以来、時代的背景や技術の進歩により改修が行われてきた。しかし現在においても、用排水系統、溜井による配水方法等、根本的な水利用形態は大きく変わることなく、現役でその機能は存続している。

 数百年後の未来まで継続して運用できる技術や英知には驚きを隠せない。嘗ては技術大国であった日本の素晴らしさを物語る施設ともいえよう。

『新編武蔵風土記稿・矢島村条』には矢島堰に関して以下のように記載されている。
・矢島村
「村内小山川十八間の堰あり、是を矢島堰と唱ふ、延寛年中水論のことありし時、官栽により富村にては此水を用いず、西田村堰より身馴川の水を引沃ぐ事になれりと」
・小山川

「村北を流、幅十間、堤あり、この川流の間に矢島堰あり」
       
                手水舎の右側に聳え立つご神木
        
             参道を挟んで手水舎の向かいにある「神明社造営記念碑」

 神明社造営記念碑
 神明社は郷土の産土神として、永く氏子の信仰の拠りどころであります。
この度、県道中瀬普済寺線の拡幅工事に伴い、平成十四年一月十一日境内土地四一四二平方メートル中七二八平方メートル並びに稲荷神社、鳥居、社務所、玉垣等の移転保障として埼玉県熊谷市土木事務所より、七二○○萬円を受領いたしました。
 氏子役員協議の上、同額にて歳月を経て老朽化しておりました、神明社本殿、拝殿、稲荷神社、鳥居、社務所を新築し併せて、幟旗、旗竿を新調し、富士嶽大神、十二祖大神、御嶽山をはじめ十余の末社を新たに合祀し玉垣ならびに外柵を設置したしました。
 誠に氏子の敬神の念篤く、郷土の発展と子々孫々の繁栄を守護されんことを願い、工事完成を記念して當碑を建立するものであります。
 神明社建設委員会 平成十五年十月十九日
                                      記念碑文より引用

        
                     拝 殿
 
   拝殿に掲げてある「神明社」の扁額                      矢島神明社 本殿

 矢島神明神社に隣接して境内社・摩二天稲荷神社が鎮座している。
 
  県道沿いにある摩二天稲荷神社の鳥居        境内社・摩二天稲荷神社
                       「摩二天」という社号の意味はなんであろうか。
 
摩二天神稲荷神社の裏に石祠、庚申塚、末社等が並んで鎮座する。左から十二祖大神、富士嶽大神、三笠山大神(写真左)。八海山大神、大黒天、青面金剛、庚申塔等(同右)
        
          上記写真左、右の写真の真ん中に鎮座する石祠、石碑等。
          左側手前には一心霊神・弘徳霊神。右側手前は不動明王。
 
     摩二天稲荷神社の鳥居近郊に鎮座する2基の石祠(写真左・同右)。詳細不明。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」「本庄市HP」等

拍手[1回]


針ヶ谷八幡大神社

 全国には様々な地名があるが、土地の地形や風土が由来となったものや、その土地に縁のあった偉人からつけられた地名、戦国時代の武将達が名付けた地名などもあり、由来は様々である。土地の地形や風土が由来となった地名の場合は、後世になってから何らかの形に変更されたものが多数あり、普段はあまり気にすることのない地名の由来だが、実はこういった地名には、先人達が後世に伝えたい大切なメッセージが込められているといえるのではなかろうか
「針ケ谷」という地名は、県内でも深谷市やさいたま市浦和区、県外では栃木県宇都宮市、千葉県長生郡長柄町などにも見られる。開墾地を示す地名に「墾(はり)」という古語があるが、これが「針」や「治」「張」などの文字に置き換えて使われている場合があり、当市の針ケ谷も平安時代前後に谷地(湿地)を開墾し切り開いた土地の意があるのかもしれない。
        
              
・所在地 埼玉県深谷市針ケ谷258-1
              ・ご祭神 品陀別命、比賣神、神功皇后
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 10月15日 例祭
 針ヶ谷八幡大神社は深谷市針ヶ谷地区西部に鎮座する。埼玉県道
75号熊谷児玉線を美里町方向に進み、針ヶ谷(中)交差点の次の信号はT字路になっていて、埼玉県道86号花園本庄線との合流地点となっているが、そこを右折。300m程北上し、3番目の十字路を左折する。道幅の狭い道路だが、民家一つない田園地帯を見ながら次の十字路を右折すると左側に針ヶ谷八幡大神社が鎮座する場に到着できる。
 実のところ、県道86号線から右折する細い道からでも、右前方に社の社叢を仰ぎ見ることができるが、鬱蒼とした社叢ではないので、初めて参拝する方には、ナビ等は必要ではないかと感じた。
         
                東向きに立っている一の鳥居
 鳥居は東向きに立っているが、実のところ社殿は南向きである。鳥居を過ぎて参道を進むと、一旦突き当たるので、そこを直角右方向に進む参道があり、その先に社殿は鎮座している構図となっている。
        
                         直角に曲がった先の地点で社殿方向を望む。
                 参拝日 2022年3月
 深谷市針ヶ谷地区は深谷市の北西の櫛引台地面に位置していて、現在は周囲を田園地帯が広がる長閑な地域であるが、縄文期から平安期の集落跡が報告され、古くから開けていた地域であることが知られる。また、地内に鎌倉街道が通り、「風土記稿」には「村内に一条の道あり、児玉郡本宿より比企郡小川村へ通ず、是に鎌倉古街道と云伝ふ」とあるように交通の要衝でもあったようだ。
*深谷自治会連合会・針ヶ谷自治体HPを参照。
       
      参道両サイドある夫婦松             大黒様と恵比須様  
   手入れも行き届いていて素晴らしい。       左側には兎もいて可愛らしい。
        
                       「祝御大典 本殿再興四百年記念事業」
 碑文
 当八幡大神社は、神社明細帳や武蔵風土記稿等に「山城国男山八幡宮を移し祀る。勧請年月不詳なれど、文明十一年建営修理。慶長元丙申年及び寛保二壬戌年社殿再興す」云々…とある。
 山城国男山八幡宮とは京都府八幡市の石清水八幡宮のことで、当八幡大神社の本宮である。
 昭和六十二年に、本殿の営繕及び外宇(覆屋)
の改築を行った際に、調査した処、本殿天井裏より棟札が発見された。「慶長元丙申年・奉勧請八幡大神宮鎮護所願主小林六大夫」と記されおり、記録の如く、今の本殿は慶長元年に再興された事が立証された。その際に文明十一年の「叩きの土台」も確認された。本殿が再興されてより数えて、平成七年が四百年目の記念すべき年に当たる。
 拝殿は寛保二年に再興したるが、寛政辰年七月に改築をしている。その後幾度が営業を行っている。しかしながら、拝殿並びに天満宮の老朽が激しく、使用耐え難き状態なれば忘急処置で凌んで来た。そこで八幡大神社四百年記念事業として、拝殿・幣殿・天満宮外宇の改築を目標として、平成三年より七年迄の五ヶ年計画で募金を行いたく立案し、平成二年十二月二十三日の総会の席上で満場一致の賛同を得た。計画に着手するや氏子崇敬者の敬神の念篤く、目標を越える多額の奉納計画書の提出を載く事が出来た。昭和の御代も平成に変わり、これを祝し御大典記念事業としての意味を含めて事業に着手した。(中略)
 工事は平成五年三月に始り、三月八日に天満宮地鎮祭、二十二日に上棟祭、四月十八日には拝殿・幣殿等を解体した。一部から次の様な記録が発見された。「奉建立寛政辰年七月 針ヶ谷村大笹木村金平造之」とあった。今から百九十七年前の事である。四月二十七日に天満宮への仮遷座祭及び地鎮祭と斎行した。五月二十二日には拝殿等の上棟祭と斎行した。又付帯工事や社頭の整備等も、役員や奉仕団の方々のご協力に依りの完成する事が出来た。十月十四日には、神社本庁より献幣使を迎えての正遷座祭を芽出たく斎行出来た。この年は皇太子殿下の御成婚と、伊勢神宮の第六十一回の式年遷宮に当たり、重ね重ねの奉祝てあった。
 以上概要を記し、先人達が精神の拠り所として此のお宮を守り伝え「敬神 崇祖」の立派な精神文化を残して下さった事に感謝しつつ、更に後世の人々に受け継いて戴く為に此処に是を建立す(以下略)
碑文より引用 *句読点は筆者が代筆
        
                                    二の鳥居
        
                     拝 殿
      
         拝殿上部に掲げてある扁額              拝殿内部
        
                               本殿覆屋
 社の多くは鬱蒼とした社叢林に覆われていて、やや湿度が高く、樹木の間からこぼれ出る零れ光が、より一層神秘性を醸し出す心理的及び環境的な要因ともなっている。
 その点針ヶ谷八幡大神社の境内は、本殿奥にある社叢林以外はお日様の光を浴びた明るい境内で、境内周辺の環境整備もしっかりとしていて、二の鳥居から社殿までの参道周辺には玉砂利も敷かれ、しかもしっかりとならしてあり、見た目も良く、晴れ晴れとした気持ちで参拝を行うことができた。
 玉砂利を踏みしめて歩く事がほとんどない昨今、何か新鮮な気持ちにもなるから不思議だ。
 
      社殿手前左側にある神楽殿        神楽殿の右側に鎮座する境内社・神明社
            
                本殿左奥に聳え立つご神木
           本殿奥周辺にはご神木・社叢林を含む空間がある。
 
       石祠群。詳細不明            本殿右奥にある富士塚
        
                          社殿右側に鎮座している境内社・天満宮
        
                                     天満宮内部

 後になって知ったことだが、4月から5月にかけて咲く「ツツジ」や「藤」が綺麗な所で知られる社との事だった。立派な藤棚もあり、写真を見るとなるほどその通りかとも感じた。ツツジの時期も綺麗だそうだ。成程「明るい社」と感じたのは、このような綺麗な花々を見出る為に必要な空間でもあったわけだ、とも思った次第だ。
 来年こそはこの見事なツツジや藤の花を堪能したいものだ。
        
                      境内周辺を撮影
                            玉砂利もしっかりとならされている。


拍手[2回]