古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

樫合常世岐姫神社

「常世」(とこよ・つねよ)とは、永久に変わらない神域で、別名「かくりよ」(隠世、幽世)とも言い、死後の世界でもあり、『古事記』や『日本書紀』等の日本神話で語られる「黄泉」もそこにあるとされている。対する人間世界が現世(うつしよ)とされている。常世の世界は『神々が現世に訪れる理想郷』とも言われ、日本文化の世界観において重要な存在とされているらしい。また「永久」を意味し、古くは「常夜」とも表記した。
 常世氏(とこよし)は、日本の氏族。系統は渡来系の古代豪族と、桓武平氏系統の加納氏流がある。
 渡来系の古代豪族として、燕王公孫淵の末裔を称する渡来系氏族で、染色技術者集団赤染氏の一族が存在していた。河内国大県郡を主な根拠地とし、鎌倉時代には当地の人々が幕府から「河内国藍御作手奉行」に任じられて染色技術を諸国で指導したという。但しこの常世氏は渡来系の古代豪族の中では少数派に属しているようで、文献等にもごく散発的にしか記録されていない。また本拠地とされる河内国大県郡に常世岐姫神社(大阪府八尾市)を祀られているが、同系列の分社は埼玉県内に数カ所のみ確認され、行田市荒木に所在する社と深谷市樫合にも所在する当社位である。
 一方桓武平氏加納氏流の武士集団である常世氏も少ないながらも存在する。陸奥国会津地方の戦国大名蘆名氏の同族。鎌倉時代に加納氏流の佐原盛時が耶麻郡常世邑(現在の喜多方市)の地頭職に補任され、次男の佐原頼盛が本貫として土着し、常世氏を名乗ったとされているが、歴史的な下限が鎌倉時代あたりと推測される。
        
              ・所在地 埼玉県深谷市樫合646‐2
              ・ご祭神 常世岐姫命(推定)
              ・社 格 旧村社(*大里郡神社誌)
              ・例 祭 不明 
 樫合常世岐姫神社は深谷市樫合地区に鎮座する。埼玉県道75号熊谷児玉線を美里町方向に進み、「グリーンパークパティオ」交差点前左側に常世岐姫神社が鎮座している。専用の駐車スペースも社に隣接した空間が県道沿いにあり、そこに停めて参拝を行う。
        
                  樫合常世岐姫神社正面
『新編武蔵風土記稿』によれば、常世岐姫神社が鎮座する樫合村は大寄郷藤田庄と唱え、正保年間及び元禄年間の改には、隣村柏合を通じて一村とし、日根野長五郎知行とあり、今では樫合・柏合は別村で、発音は同じながら、文字は異にする、と謂う。更に「元禄の後、村内の半を裂て御料となしし頃、当村は元の字を用ひ、日根野が知行の方は、柏の字に書換しものなるべし」と述べているように、江戸中期分村したものであろう。
 嘗ては『八王子権現社』と言い、樫合・柏合村の鎮守であり、両村持ちであった。本地佛無盡(尽)意菩薩を安置しているという。
 本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という。また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。
        
                           鳥居及び正面参道
            平均標高74m程の櫛引台地面に鎮座している。

 日本では、仏教公伝により、古墳時代の物部氏と蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。だが徐々にそれはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じとし、神を仏の境涯に引き上げようと納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。
 しかし7世紀後半の天武期での天皇中心の国家体制整備に伴い、天皇の氏神であった天照大神を頂点として、国造りに重用された神々が民族神へと高められた。仏教側もその神々に敬意を表して格付けを上げ、仏の説いた法を味わって仏法を守護する護法善神の仲間という解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に菩薩号を付すに至った。
 
     社の入口左側にある石碑群          左から八坂神社・天手長男神社・浅間宮
                      これらの境内社は参道の左側に並んで鎮座している。
 
  境内社・浅間宮と並んで神輿殿が2基ある。      神楽殿か舞殿あたりだろうか。
        
                     拝 殿
 
           本殿並びに拝殿部との間には「修復之記」記念碑がはめ込まれている。
 修復之記
 敬神崇祖はわが国古来の伝統美俗である惟うに当社は天文四年創祀するところと伝えられはじめ八王子権現社として本地佛無盡意菩薩を安置した
 爾来幾星霜村民崇仰の的として栄えるところがあったが、徳川幕府の政事衰へ明治維新となるや神佛分離の掟によって八王子権現社を常世岐姫神社と改め今日に及んでゐる
 一方顧みるに社殿は草創以来茅葺のままであったが、元治元年奥宮を流造り鱗葺きとし拝殿を入母屋造り瓦葺に改めてその面目を一新し更に昭和六年には外宇を造って奥宮を安置し以ってその社容を整えるところがあった
 然るに昭和四十一年九月二十五日台風二十六号襲来風速四十米に樹齢三百有余年に及ぶ境内の大木三十数本倒木し為に奥宮外宇は倒壊し拝殿は損傷し昔日の面影を失うに至った
 よってここに奉賛会は大字の協賛により改修築をなすに当り伊勢参宮者より金拾七万六千円の浄財の寄贈あり其の芳名をここに記す
 昭和四十二年四月吉日 大字樫合常世岐姫神社奉賛会(以下略)
                                      案内板より引用

 
 社殿の至る所に奉納額等が掲示されている。    社殿手前右側に静かに鎮座する山神
 
            社殿の左右奥にはそれぞれ境内社・末社が鎮座する。
 社殿左側奥には末社群が鎮座する(写真左)。左から豊受大神宮・天照大御神・八幡大明神・天満天神宮・琴平神宮・稲荷大明神。
 社殿右側奥には左から蚕影神社・駒形神社石碑・その右側の境内社は不明(写真右)。
        

 当社の創建は、神伝によると、天文四年(1535)のことである。一方、草分けの江原晴松家の口碑によれば、先祖荏原主計守勝が元応二年(1320)当地に土着し八王子神を祀ったことに始まるという。
『風土記稿』に、当社は八王子権現社と載り「当村及柏合村の鎮守なり両村持」とある。古くは、当樫合と隣の柏合は一つの村であり、『風土記稿』が、更に「元禄の後、村内の半を裂て御料となしし頃、当村は元の字を用ひ、日根野が知行の方は、柏の字に書換しものなるべし」と述べているように、江戸中期ごろ分村したものであろう。このため、両地区は現在も「付き合い村」と称して親交があり、カタガシ(樫合)・シロガシ(柏合)と呼び合っている。この柏合にも、八王子神社があり「分村の時、樫合の八王子権現の祭神である八王子のうち、男神の五王子を柏合に移し、樫合は残った女神の三王子を祀っている」という。
 これを裏付けるように、当社の氏子は「女の神様で、ハツオサンサマ(八王子様)というお産の神である」と言っている。
                                  「埼玉の神社」より引用


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「社殿記念碑」等

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