古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

本田坂上神社

        
             
・所在地 埼玉県深谷市本田4898-1
            
・ご祭神 大己貴命 豊城入彦命 宇迦御魂命 菅原道真公 
                                
軻遇突智命 天照大御命
            ・社 格 旧村社
            
・例 祭 例祭415日 秋例祭1014日
 本田坂上神社は深谷市本田南地区に鎮座する。埼玉県道69号深谷嵐山線を埼玉県農林公園方向に南下し、県道81号熊谷寄居線が交わる「本畠駐在所」交差点をすのまま道なりに南下し、900m程進むと「歩車分離信号」との標識のある信号のある十字路に到達し、そこを左折する。暫くするとY字路(実際は変則的な十字路)となり、右斜め前方向の細い道を300m程進むと、本田坂上神社が鎮座する場所が左側に見える
        
                 本田坂上神社 正面 
 本田坂上神社は、畠山重忠に仕えた本田次郎近常が、祖先俵藤太の信仰していた赤城神社を祀ったと伝えられている。創建当時は現在地より西側にあった「本田館」内に祀ってあったという。江戸期には赤城社と称し、本田村上本田地区の鎮守として祀られていた。
 因みに「坂上」は「かかがみ」ではなく、「さかうえ」と読む。
 
           南向きの鳥居正面を撮影         参道の先には社殿が鎮座する。
 本田坂上神社から西側に500m程西側、埼玉県道69号線から西に行った「上本田公会堂」の西に約100m進むと、道路に面して『本田館跡』の説明板が建てられている。この本田館跡は荒川右岸の江南台地の南緩斜面に築かれた居館跡。土塁、空堀残存している。
 この本田館跡は埼玉県選定重要遺跡に指定されている。
        
                      「本田館跡」南側の道路沿いに設置された案内板
 埼玉県選定重要遺跡(昭和四十四・十二・二十四指定)
 本田館は鎌倉時代から室町時代にかけて築かれたと思われる。
 本田氏は畠山重忠の重臣本田次郎親恒(近常)の後裔と伝えられ、戦国時代本田長繁の代に深谷上杉氏憲に属した。その頃この館を拡大したと思われる。
                            『川本町教育委員会説明板』より引用
        
                     拝 殿
       
              拝殿手前で左側にある「新築記念碑」(写真左)と同碑裏面(同右)
新築記念碑
当社は明治四十四年上本田赤城神社黒の谷稲荷神社後鷹の巣愛宕神社の財産等合併して坂上神社と改稱して現在に及ぶ 社殿は旧赤城神社を使用せしも甚しく老朽せる建物となりたるため神社基金並に愛宕神社持寄りの山林を売却して財源となし氏子中相計り本年二月總工費四五○萬円にて着工し同年十月竣工せり
昭和四十六年十月十五日建之
                                        碑文を引用

        
                  拝殿からの佇まい
 男衾郡本田村坂上神社伝に「藤原秀郷は此地に祠を立てゝ赤城神社を祀りたりと云い伝う。今猶俵薬師と云えるあり、秀郷の裔某此地に住し社殿を営みて村の鎮守となし、地名を氏として本田次郎近常と呼べりという。近常館跡及び末裔今尚存す。明治四十四年社号を坂上神社と改称す」との本田次郎近常に関連した記述がある
 本田次郎近常(親恒)(?~1205)
 平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武蔵武士。幼名は鬼石丸。
 現在の深谷市川本地区にある「本田」を名字の地とし、畠山重忠の側近として活躍した。「平家物語」「源平盛衰記」などの合戦記には、そのほとんどが畠山重忠の乳母子(めのとご)・榛沢六郎成清の名と併記されており、近常と成清が重忠に信頼された側近であったことがわかる。
 平家との戦いでは、一の谷の戦いに参加した際、平清盛の孫・平師盛を討ち取っている。
 畠山重忠が北条氏の謀略によって二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区)で討死した際も近常はともに戦い、重忠の死を知って自害した。
                                深谷市ホームページより参照

 本田氏の祖は平姓の高望王の子・平良文(村岡五郎)の子孫である。良文の孫・兄の平将恒(常)系が秩父、畠山氏となり、弟の平忠恒(常)系が千葉、本田、村上系となる。本田親恒の五代前の祖・恒親(常親・常近)は安房国押領使をつとめ、安房国長狭郡穂田郷を本拠地とし穂田氏と称し、恒親の孫・親幹は武蔵国本田郷へ住み開墾し、「本田姓」となった。下総国の領主である千葉常胤と本田近常(親恒)は元をたどると同族でもあり、石橋山の戦いでは、一旦は平家方に味方した畠山氏を、源氏方に鞍替えさせたのも、本田近常が畠山家の家老№1の立場であった事、重忠の目付け役でもあり、頼朝が石橋山の敗戦後、房総を経て、勢力を巻き返せた立役者のひとりである千葉常胤とは深い関係であり、常胤を介して、頼朝方参陣に至ったのだろう。勿論北条家と婚姻関係であったことも見過ごせない 。

 本田氏と千葉氏との関係は上記に説明した通りだが、実は畠山氏とも千葉氏は深い関係でもあり、畠山重忠の父・重能の女姉妹(祖父・秩父重弘の娘)が千葉常胤の妻である。常胤の妻は畠山重忠の叔母である。千葉常胤の子・胤正は畠山重忠の従兄弟にあたる。
 
              社の南側を流れる吉野川(写真左・右)

 本田坂上神社の南側には荒川支流である吉野川が流れている。現在の吉野川の流域は江南台地内にあり、赤浜地区付近が源となり、鹿島古墳群西側で荒川と合流する狭い河川であるが、かつての吉野川は和田吉野川と密接な関係があったようだ。地元では逆川とも呼ばれている。

拍手[1回]