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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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登由宇気神社

所在地  熊谷市村岡851-1
祭  神  豊受媛神(とようけびめ) [別称]豊宇気毘売神
社  格  旧村社
例  祭  不明

                    
地図リンク
  国道407号線を熊谷方面に北上すると右側にリサイクルショップが見え、その脇の細い道(407号線に面して社号標石が建てられている)を300m程東へ走って行くと北側に登由宇気神社がある。登由宇気神とは豊受媛命の別名で、古事記には「豊宇気」と表記してある。

登由宇気神【とゆうけのかみ】
  日本神話にみえる神の名で伊勢神宮外宮(豊受(とゆけ)大神宮)の祭神。豊宇気毘売(とようけびめ)神とも。トヨ(ユ)は美称,ウケもしくはケは食物の意,すなわちこの神は内宮の天照大神(あまてらすおおかみ)に仕える食物神(倉稲魂うかのみたま))である。平安期に成立した《止由来宮儀式帳》に縁起譚がみえる。雄略朝にアマテラスが神託を下し,丹波国比治の真奈井に座すトユウケノ大神を御饌都(みけつ)神として欲したため遷座させたという。
 
 
国道から右折すると道幅は車一台分程しかない程細い道だがそれは仕方がない。駐車場は神社の少し先に若干の駐車スペースがあったのでそちらに置くことができた。
                    
                                            一の鳥居から撮影 南向き社殿
 
      鳥居の左側にある立派な神社社号標石                                     二の鳥居
                   
                            拝   殿
         
                            本   殿
登由宇気神社は祭神が豊受媛神で女神であるにも関わらず、鰹木は7本で奇数、千木は外削ぎであり、どちらも本来は男神対象であるが中には例外があるという。

 神社建築の例としては、出雲大社を始めとした出雲諸社は、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしており、他の神社でもこれに倣うことが多い。また鰹木の数は、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神の社に見られる。一方、伊勢神宮の場合、内宮の祭神、天照大神・外宮の祭神取豊受大神とともに主祭神が女神であるにもかかわらず、内宮では千木・鰹木が内削ぎ10本、外宮は外削ぎ9本である。同様に、別宮では、例えば内宮別宮の月讀宮・外宮別宮の月夜見宮は主祭神はともに同じ祭神である月讀命(外宮別宮は「月夜見尊」と表記している)と男神であるが、祭神の男女を問わず内宮別宮は内削ぎで偶数の鰹木、外宮別宮は外削ぎで奇数の鰹木であり、摂社・末社・所管社も同様である。この理由には諸説あり、外宮の祭神が本来男神的性格を帯びていたとする説もある。
 
                       金比羅神社                                                       菅原神社
 
            金毘羅神社                        厩戸命の碑

        八坂神社
 これらの境内社群は社殿の左側に鎮座している。案内板もあり丁寧で判りやすい。

 登由宇気神社の鎮座する地は熊谷市村岡という地名だが、この「村岡」は元々「村」+「岡」との組み合わせで本来の地名は「村」だったようだ。では「村」の意味はどのようなものだったのか。

村 ムラ 梁書・百済伝に「邑を檐魯(たんろ)と謂ふ。中国の郡県を言ふが如し」と見ゆ。百済のクは「大きな」、ダラは檐魯で邑・郡県・国の意味。百済は大邑・大国と云い、大国主命は大国の主(首長)で百済渡来集団の首領である。新羅では州・郡・県・村は良民による自然部落によって形成されたもので、それが基準となって行政区画に編入され、村には村長がいた。一方、郷・所・部曲(かきべ)は人為的に設けられた特殊区画であって、国家または王公貴族のために従事していた。鍛冶集落の別所・別府や、和名抄の郷はこれに当る。続日本紀・霊亀元年条に陸奥国閉村(岩手県閉伊郡)、宝亀七年条に出羽国志波村(岩手県紫波郡)とあり、今日の数十戸の村では無く、数千戸の郡域を村と称していた。辰韓は十二国からなり、その一つに新羅があった。新羅国に「閼川の楊山村、突山の高?村、觜山の珍支村、茂山の大樹村、金山の加利村、明活山の高耶村」があり、六村のかれらが推戴したのが紀元前五十七年に即位した新羅第一代王の朴赫居世(パク・ヒョクコセ)である。新羅本紀に朴赫居世は高?村の村長蘇伐都利に育てられ十三歳で即位したとあり。古代朝鮮語の山は村(今日の郡県)と同じ意味。村は大和朝廷が勃興する以前から羊族と混血した蝦夷(えみし)や渡来人が居住していた集落を称し、村姓の村井・村岡・村上・村田・村山等の氏族は神代の時代に渡来した末裔である。大ノ国は韓半島南部の百済・加耶・新羅地方を指し、大(お)は阿(お)ノ国で、渡来集団阿部族村姓は阿部氏の上陸した山陰地方、及び本拠地の毛野国・常陸国・越後国・奥州に多く存す。

 日本では奈良時代、律令制における地方行政の最下位の単位として、郡の下に里(り、さと)が設置された。里は50戸を一つの単位とし、里ごとに里長を置いた。 715年に里を郷に改称し、郷の下にいくつかの里を置く郷里制に改めたが、後に里が廃され郷のみとなった。 715年にこれが郷(ごう、さと)と改められ、郷の下に新たに2~3の里が設定された。しかし、この里はすぐに廃止されたため、郷が地方行政最下位の単位として残ることになった。

 中世・近世と郷の下には更に小さな単位である村(惣村)が発生して郷村制が形成されていった。これに伴い律令制の郷に限らず一定のまとまりをもつ数村を合わせて「○○郷」と呼ぶことがある。この惣村とは、中世初期(平安時代後期~鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司、郷司、保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する「名」(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属していた。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。
 
しかし、鎌倉後期ごろになると、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、名を中心とした生活経済は急速に姿を消していき、従来の荘園公領制が変質し始めた。そうした中で、百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていった。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになった。(中世当時も惣村・惣という用語が使用されていた。)

 
つまり、古代律令制度下では「村」は存在していなかった、ということとなるがそうすると次の一文との矛盾が生じてくる。

続日本紀巻第七
 丁丑。陸奥蝦夷第三等邑良志別君宇蘇弥奈等言。親族死亡子孫數人。常恐被狄徒抄略乎。請於
香河村。造建郡家。爲編戸民。永保安堵。又蝦夷須賀君古麻比留等言。先祖以來。貢獻昆布。常採此地。年時不闕。今國府郭下。相去道遠。往還累旬。甚多辛苦。請於閇村。便建郡家。同百姓。共率親族。永不闕貢。並許之。



続日本紀巻三十四
 五月戊子。出羽國志波村賊叛逆。与國相戰。官軍不利。發下総下野常陸等國騎兵伐之。

 
続日本紀は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。日本書紀に続く六国史の第二にあたる。菅原真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成っている。勅撰史書という国家によって編集された正史であり、少なくとも797年時点で「村」は存在していたということとなる。上記の説明からもわかるように、「村」は時の朝廷が勃興する以前から自発的に発生していた集落名であったということになる。

 地域名である「村岡」一つにしても奥が深く、興味をより一層掻き立てる思いを今しみじみと感じさせてくれた不思議な充実感があった。





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