古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

江原冨士神社

 埼玉県深谷市にある江原(えばら)地域は同市内の北東部にあり、利根川支流である小山川右岸の沖積低地に位置していて、埼玉県最古の農業用水路である「備前渠用水路」が東西に流れ、この地域とその南側に位置する堀米地域との境となっている。地域名である「江原」の名前の如く、小山川等がもたらす肥沃な大地は農地に適しており、地域内の大部分は豊かな穀物地帯となっていて、一部病院や住宅等も建ち並んでいる。
 この地域は『新編武蔵風土記稿 上・下江原村』によると、「和名抄」にみえる幡羅郡荏原(えはら)郷の遺称地として紹介している(【和名抄】といへる郷名をのす、今轉(てん)じて斯記せるにや、さもあれば古の郷にて、わづかにその名のゝこれるならん)。と同時に、地元の人々の傳では、この村は以前蓮沼村の内で慶長7年(1602)の検地で江原村として分村したとしている。のち元禄(16881704)以前にほぼ西部の上江原村と東部の下江原村に分村し、両村とも忍領に所属(同書)した。
 またこの地域は、猪俣党荏原氏の名字の地とされ、猪俣党系図(諸家系図纂)では河勾政重(猪俣時範の玄孫)の子範政が荏原太郎を称していて、地内には荏原氏の館があったと伝えている。
        
             
・所在地 埼玉県深谷市江原345
             
・ご祭神 木花咲耶姫命
             
・社 格 旧江原・蓮沼・堀米村鎮守 旧村社
             
・例祭等 祈年祭 228日 例大祭 1018日 新嘗祭 1119
        
 熊谷市西別府地域で国道17号線から分離する国道17号バイパス、通称「上武道路」を北西方向に進行し、2.5㎞程先にある「蓮沼」交差点を右折する。その後、埼玉県の北部を流れる埼玉県最古の農業用水路である「備前渠用水路」を過ぎた直後の路地を右折し、用水沿いの道幅の狭い道を東行するとほぼ正面に江原冨士神社の鳥居と南北に通じる長い参道、その北側先に小さく江原冨士神社の社叢林が見えてくる。地図を確認すると「北深谷病院」の敷地のすぐ東側に隣接しているような位置に社は鎮座している。
        
       周囲一帯田畑風景の中にポツンと立つ鳥居と一直線に伸びる参道
 現在社のすぐ西側には北深谷病院、及びその関連施設等の立派な建物が建っているが、それ以前は周囲一帯田畑のみで何もなかったはずである。
 地形を鑑みるに、旧江原村のみで考えるとこの社は南側にあり、社殿も南向きで、地域住民が住む場所に対して背を向いている配置となっているため、村鎮守として納得できない所もあったのだが、嘗ての旧江原・蓮沼・堀米村の鎮守社としての役割を考えると、ほぼ中央付近に鎮座するこの社は絶妙な位置にあり、ポツンと立つ鳥居やその北側にある社殿は、身近な地域の方々の動向を背に意識しながらも、西・南側に住む住民にも気を配った位置関係となったのではないかと推測した次第だ。
 
     参道途中に建つ社号標柱         参道入口から200m程先に見える境内
 木花咲耶姫命を主祭神とする当社は、古くから江原・蓮沼・堀米の三村の鎮守として崇敬されている。また、嘗てこの地方は養蚕が盛んであったことから、隣国にある浅間山の噴火による灰燼の被害に対しての恐れは甚大なものがあった。このため、当地の人々は、山の神の象徴である富士山の祭神、木花咲耶姫命を常日ごろから祀り、養蚕倍盛・五穀豊穣を祈ったといわれる。
       
           境内入口に一際目立ち聳え立つ   銀杏の大木の右側には本殿上屋新築記念碑
          大銀杏の大木        と共に境内社・八坂神社が祀られている。
        
                    拝 殿
 富士神社  深谷市江原三四三(江原字西富士宮)
 利根川の支流、小山川の低地に位置する江原は、平安期に見える幡羅郡八郷の一つである荏原(えばら)の遺名と見られ、地内には武蔵七党猪俣党の荏原氏の館があったと伝える。
 社伝によると、当社は延暦年間(七八二〜八〇六)の富士山大噴火の際に降った灰を林中に集めて盛り、その上に祠を建てて富士の神霊を祀ったことに始まる。その後、坂上田村麻呂が奥羽蝦夷鎮定の帰路当地を通り、富士の神霊が鎮まるこの林中で馬を休め、軍装の一部を解いて当社に奉納し、蝦夷地平定を祝ったという。
 次いで、建久四年(一一九三)源頼朝が富士の裾野で巻狩りを催した際、当地の豪族蓮沼・荏原の両氏は住民を率いてこれに加わり、以来富士山への尊信を深めていった。また正慶年間(一三三二〜三四)には、新田義貞が北条高時を征する際、上野国生品神社から出陣し、途中当社地で休憩したところ、数千の住民が味方に加わった。この神徳に感謝した新田軍は、大いに士気が上がり、鎌倉に向かい、北条氏を打ち滅ぼしたという。
 このように数々の事歴を伝える当社であるが寛永九年(一六三二)の大洪水により旧記・什物をことごとく流失し、唯一、空海筆と伝わる「富士宮大明神」の古額が残されるのみとなっている。
 なお、当社に奉仕する千手院は、古くは字本郷の神領地に居住していたが、享禄年間(一五二八〜三二)権僧都白水法印の時に居宅を当社隣接地に移した。これが後の江森家である。明治二十八年の「村社富士神社御由緒調査書」に載る天和二年(一六八二)「指上申御除地之事」には、御除地「畠七畝弐壱拾歩」のうち「中畠三畝八歩」が明神免、「屋敷四畝拾弐歩」が千手院屋敷免であったと記している。
 享保十四年((一七二九)江原・蓮沼・堀米の氏子中により社殿が再建された。次いで、宝暦九年(一七五九)に地元の江原・蓮沼氏子中による鰐口の奉納があり、更に天明二年(一七八二)には再び江原・蓮沼・堀米の氏子中により石灯籠の奉納が行われた。
 明治に入ると、千手院は復飾して江森姓を名乗り、神職となった。これについて『大里郡神社誌』は、「明治元年復飾改名の沿革は古く千手院を森の内と俗称せるものから江森の江を併せて姓を定めたりと云ふ」と載せている。
 明治九年に当社は村社となり、同四十二年から同四十五年にかけて江原・蓮沼・堀米の三地内にあった各社を合祀した。合祀社のうち堀米の十二所神社は、この時の「十二所権現御遷宮次第」には、別当の養福寺が導師となり、威儀を整え厳かに御位を神社にお迎え入れる様子が記されており、神位拝受に寄せる氏子の心情をうかがわせる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    本 殿
 年間の祭事の中で、1018日に行われる例大祭では、巫女舞や獅子舞の奉納がある。
 巫女舞は、紀元二千六百年を奉祝して始められたもので、現在は小学六年生の女子により行われているという。舞には「浦安の舞」「豊栄(とよさか)の舞」がある。
 獅子舞は、天明三年(一七八三)の浅間山の噴火により農作物が被害を受け、更にこの年は疫病もはやったことから、村人はこの苦境を切り抜けようと、伊勢国度会郡山田の里から獅子舞の伝授をうけ、鎮守に奉納したことに始まると伝えられ、堀米の氏子によって代々伝承されている。
 獅子舞奉納当日は、まず堀米の十二所神社跡に寄って一庭摺った後、富士神社に向かう。獅子の構成は男獅子・女獅子・法眼の三頭からなり、演目は「おんべ掛かり」「ひら」「雌囃子隠し」「橋掛かり」等とされる。舞の中でも「おんべ掛かり」は、社前において御幣を振り、天下泰平・風雨順次を祈願するという独特のもので、作物の豊醸を願った往時の人々の願いがこの舞に込められていたことを伺わせる。
 通称「堀米の獅子舞」と呼ばれるこの獅子舞は、深谷市の無形民俗文化財に指定されている。
        
                         本殿の左側に祀られている石祠・石碑群
   後ろの石祠は、境内社・大天獏社・塞神・稲荷社。その右側に祀られている蚕影神社。
        
                         帰りも備前渠用水路までの長い参道が続く。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「深谷市HP
    「埼玉の神社」等
            

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