古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下田野赤城大神社


        
            
・所在地 埼玉県秩父郡皆野町下田野9191
            
・ご祭神 大山祇命 大己貴命 豊城入彦命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 例祭日 319
 皆野町下田野地域は荒川東岸に位置し、皆野町の街中からは荒川支流三沢川を境に北東方向にあり、金崎地域の東側近郊でもある。金崎神社参拝終了後、一旦国道140号線に戻り、南方向に進路を取り、荒川を越えた「親鼻橋」交差点を左折する。この通りはグーグルマップで確認すると通称「下田野通り」と呼ばれているようだ。この「下田野通り」は1㎞程の荒川に沿うようにできた道路で、親鼻橋交差点から600m程進み、高崎線の踏切を抜けると右手に「皆野スポーツ公園」が見えてくる。
 この「皆野スポーツ公園」を過ぎたすぐ先の路地を右折し、埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線との交差点を直進すると、すぐ左手に下田野赤城大神社が鎮座する地に到着できる。
 因みにこの埼玉県道82号線は、荒川を挟んで国道140号の反対側を並行して進む路線であるので、国道140号渋滞時のバイパスルートとしてお勧めしたい道路である。(但し「波久礼」地域までは我慢して国道140号線を進まねばならないが)
        
           石垣のような基盤上に鎮座する下田野赤城大神社
 今でこそ下田野地域は皆野町の行政区域内になっているが、昭和18年(1943)の合併前は、秩父郡白鳥村に属しており、江戸時代に編集された『新編武蔵風土記稿』においてもこの地は「大濱郷白鳥庄」内にあった。
        
                       境内の外で、道路沿いに設置されている案内板
 皆野町指定記念物 
 平成十四年十二月二十六日指定

 赤城大神社社叢
 社叢というのは「神社の森」のことです。この赤城大神社には、大きく立派な木がたくさんあります。その樹種の大きなものをいくつか記します。
 主な樹種   目通り周  樹の高さ
 イロハモミジ 二・六二㍍ 二二・〇㍍
 イタヤカエデ 一・八〇㍍ 二〇・〇㍍
 アカシデ①  二・〇〇㍍ 二〇・〇㍍
 アカシデ②  二・二〇㍍ 二二・〇㍍
 ハルニレ   一・八〇㍍ 二五・〇㍍
 樹齢は特定できませんが、いずれにしても二六〇~七〇年の歴史を見続けてきた社木です。町内の社や寺、その外の社叢の保護、保存の先駆的な例にしたいものです。

 皆野町指定有形文化財
 平成十四年十二月二十六日指定
 赤城大神社の懸仏
 この懸仏は、もと下田野字戦場にあった天神様に祭られていました。「天神様のいちばん奥まったところに祭られ、直径六寸(約一五センチ)ばかり」と享和二年(一八〇二)の文献に記されています。すでにその天神様はありませんが、昭和六〇年(一九八五)ごろには、木製の社がありました。
 懸仏とは「丸い板に仏様や梵字などを表し、上部に二箇所、吊輪の穴がある」と辞典に書かれています。
 この懸仏には、「天神の御正体」と刻み、蓮の花の上に十一面観音の文字が刻まれ、年号は、嘉吉二年(一四四二)十二月吉日とあります。御正体とは、本尊様という意味です。懸仏は、鎌倉・室町時代のものが多く、自由に首に掛けて持ち歩いたり、柱にかけて拝んだといいます。
 皆野町教育委員会                                案内板より引
 
 石段のすぐ先に鳥居がある為、このような     鳥居を過ぎてすぐ左手にある案内板
アングルとなったが、結構好きな角度からの撮影
 赤城神社 所在地 秩父郡皆野町大字下田野
 赤城神社の祭神は、大山祇命・大己貴命・豊城入彦命である。
 由来によると、第十代崇神天皇の皇子である豊城入彦命が遊猟の際、当地に休憩した時に村の鎮守として大山祇命・大己貴命を祀ったのがその起源と伝えられている。
 その後、十二代景行天皇の皇子である日本武尊が東国鎮定の折に当神社を参拝し、その際に豊城入彦命を合祀したと伝えられている。
 当神社では、毎年三月十八日に「あんどん祭り(百八灯祭り)」が行われているが、これは永禄十二年(一五六九)武田・北条軍による。三沢谷の合戦に討死した将兵の霊をとむらうため、元亀三年(一五七二)西福御前(藤田康邦夫人)により始められたものと伝えられ、今に受け継がれているものである。
 また、神社の森には、二百数十年を経たカエデやナラ等の大木があって、これらは天然記念物(町指定)になっている。  昭和五十七年三月 埼玉県
                                      案内板より引用
        
                     境 内
            参拝日は年末の年の瀬で、静まり返っている。
 社の案内板にも記されている「下田野あんどん祭り(百八灯祭り)」は、3月第3日曜日と前日に行われる下田野赤城大神社の祭で、元々は、西福寺で始められた行事と言われる百八灯の精霊祭である。永禄十二年(1569)武田・北条軍による、三沢谷の合戦に討死した将兵の霊をとむらうため、元亀三年(1572)西福御前(藤田康邦夫人)により始められたものと伝えられ、今に受け継がれているものである。赤城大神社の参道に立つ300余のあんどんに夕暮れ一斉に灯が灯るという。

     拝殿手前左側にある神楽殿         拝殿と神楽殿の間にある建造物
 下田野赤城大神社から南方、三沢地域との境に位置する山上には、「竜ヶ谷城(りゅうがやじょう)」跡がある。北東と南西を田野沢川と三沢川に挟まれた要害の地で、山頂北側は断崖を経て、皆野スポーツ公園へ尾根が伸びている地形上の特徴を持つ。因みに竜ヶ谷城は別名「千馬城(せんばじょう)」とも言い、龍界山・要害山・千馬山とも称されている山の名称からとったものであろう。『新編武蔵風土記稿』によれば、用土重利(藤田康邦)が築城し、その子で北条氏邦の家臣になった用土正光が居城したところという。
 この城は1561年(永禄4年)に長尾景虎、1569年(永禄12年)には武田信玄に攻撃されているが、この城は落城しないで守り切ったと云われている。
       
                     拝 殿
 下田野赤城大神社境内に設置されている案内板には永禄12(1569)における武田・北条軍の間で行われた「三沢谷の合戦」があったと記されているが、調べてみるとこの「三沢谷の合戦」は記録の上では、「上杉・北条軍の間で行われた」戦いであったようだ。
 というのも、永禄3年(1559)関東へ侵攻した上杉謙信は厩橋城(現群馬県前橋市)で年を越し、翌4年には武蔵から相模を縦断、閏3月に小田原城へ迫る。謙信の侵攻を受け、北武蔵の国衆には後北条氏から離反した者もいて、その中には下田野地域を含めた藤田郷(現寄居町)を本拠とした国衆である藤田氏もいた。その後永禄4年(15606月、謙信の帰国を受け後北条氏は反攻に転じ、秩父郡にも攻勢がかけられる。年号は記されていないが、齋藤八右衛門尉という武士に発給された『北条氏康感状(1117日)』には、「南小二郎の帰路、三澤谷で戦いがあった」とあり、皆野町大字三沢で戦いがあったことになる。

   社殿の奥に鎮座する境内社・琴平神社          境内社・琴平神社 
       
                      社殿の右側奥の斜面上に鎮座する境内社・稲荷社
       
      社殿の右手に祀られている境内社・愛宕社・八幡社・天満天神社・疱瘡神

それに対して、案内板に記してあるように、信玄による秩父侵攻は永禄12年(1569)に始まり、2月には「児玉筋に武田勢の動きがあり、鉢形衆が戦った」とされている7月には三山谷(現小鹿野町)と館沢筋に武田勢が侵入し、この際に手柄をあげたとして、山口氏や齋藤氏など4名の武士に感状が発給されている。
 また8月から始まった侵攻は大規模で、「上州から侵攻した武田勢は99日に鉢形城の外曲輪で鉢形衆と激戦を繰り広げ、死傷者が多数出た」と記録されているが、この2月、7月、8月それぞれあった戦いの記録の中に「下田野字戦場で生じた鉢形衆と武田勢の戦い」という具体的な地名で記載はされてなく(書状類・また厳密にいうと何年の記載もない)、それでいて1561年(永禄4年)に上杉方と北条方で戦われた場所はしっかりと「三沢谷」であったと記されている。
 事実は如何なることであったのであろうか。
        
                   静かに佇む社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「皆野町HP」「Wikipedia
    「境内案内板」等

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