渡瀬木宮神社
神川町渡瀬地域にはこの木の神である句句廼馳神を祀る木宮神社が鎮座している。
所在地 埼玉県児玉郡神川町渡瀬737
御祭神 句句廼馳神
社 挌 旧村社
例 祭 4月中旬の日曜日 渡瀬の獅子舞 10月14日 木宮神社座祭
渡瀬木宮神社は埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線を上里町から藤岡市鬼石方向に南下し、渡瀬郵便局の先にホームセンターが左側にあり、その道路を挟んで右側に鎮座している。但し道路沿いにあるのではなく、民家のすぐ西側に鎮座しているし、道も狭い。駐車スペースも十分確保されていないので、ほぼ横付けして急ぎ参拝を行った。
南方向にある一の鳥居
一の鳥居の手前で左側にある石祠、石碑群。 一の鳥居の手前ですぐ右側にある社日。
この渡瀬地域は三波石の産出地である鬼石町三波石狭に近く、渡瀬木宮神社境内にも多くの石碑等がある。この三波石狭は,藤岡市南部,神流川中流の下久保ダムから下流約 1.5kmの間の渓谷。緑泥片石に石英の白い縞模様のある三波石の大転石が河床に重なり合って美しく庭石に利用されている。国の名勝・天然記念物に指定されている。
一の鳥居付近のある大きな石碑(写真左)。何と彫られているか不明。また境内参道途中の右側には「猿田彦命」と彫られた石碑(同右)もある。どちらも石碑の上部が削られている形跡がある。
「猿田彦命」の石碑の先にある「渡瀬の獅子舞」の案内板
渡瀬の獅子舞 昭和62年3月10日 町指定民俗資料
渡瀬の獅子舞は、稲荷流といって藤岡市の大塚から、200年程前に伝授されたという。
その昔、渡瀬に流行病があった時に、厄払いとして松山稲荷に獅子舞を奉納したのが始まりと伝えられ、当時は長男に限られていたが、現在は特に制限されていない。
獅子舞は、春祭(4月中旬)、秋祭(10月中旬)に木宮神社でおこなわれるが、八坂神社の例祭(7月下旬)にも奉納される。
獅子は、黒獅子・赤獅子・青獅子の三頭で、その外に、花(?)・ひょっとこ・カンカチ・天狗・花万灯持ちの役割がある。(中略)
案内板より引用
「民俗資料 座祭」の舞台
木宮神社座祭の案内板
木宮神社座祭 昭和35年3月1日 県選択無形民俗文化財
木宮神社座祭は、木宮神社で10月14日に行われ、県内はもちろんのこと、関東地方においても類の少ない古式の祭である。
座祭は、渡瀬の草分け百姓と伝えられる32戸の旧家が本家筋と分家筋の二つに分かれ、それぞれ一戸ずつが組みを作り、都合16組が1年交代で頭屋を務めて行われる。この場合に本家筋を「真取り」といい、分家筋を「鼻取り」という。
座祭は、江戸時代の慶長年間(1596~1615)に須藤新兵衛が仲田弐反歩を奉納して、ここから採れる神米で祭を賄ったことに始まったと伝えられている。
また延享3年(1746)の座席図によると、この頃には32戸が座祭に関係していたことがわかる。
座祭の当日は、「座奉行」が一切を取り仕切り、拝殿に対して「一の座」、左側に「二の座」、右側に「三の座」の三つの座が設けられ、それぞれの座には、中央に「本座」があり、稚児により順次御神酒・赤飯が給付される。祭の最後には、新旧頭座が中央に対座し、引渡しの儀式を行い祭の全てを終了する。
案内板より引用
案内板に書かれている「須藤家」は神川町渡瀬地区に多く存在する。須藤家系図に「永享十二年須藤伊与守が信州諏訪より移住し、渡瀬村を開白す」と書かれ、また児玉郡誌に「渡瀬村の木宮神社は、永享年間に須藤伊与守・原大学・山口上総介・田中膳道・矢島左馬之助・大谷内蔵人、等の協力によって興隆す。慶長年間に至り、須藤安左衛門は同社に神田二反歩を寄進す」と案内板とは違った名前(須藤安左衛門)で登場する。もしかしたら同じ人物であった可能性もある。
拝 殿
木宮神社の拝殿上部に掲げてある社号額はこの地の実業家である原家の別荘に来訪した伊藤博文の書である。龍宝寺安政四年三ツ具足寄附に原太兵衛。明治二年五人組帳に年番名主原太兵衛・組頭原喜十郎・組頭原庄作。明治四年戸籍に原喜十郎・原庄作・原治平・原浪太郎。太兵衛の子原善三郎(文政十一年生、明治三十二年没)は実業家にて、貴族院・衆議院議員を歴任したという。その縁故で、この地に伊藤博文が来訪したその際に書かれたものだろう。
本 殿
社殿の奥にある境内社 社殿の左側に並んだ境内社群