勅使河原丹生神社
所在地 埼玉県児玉郡上里町勅使河原1368
御祭神 埴山姫命
社 挌 旧村社
例 祭 大祓 7月13日 秋祭り 10月20日
勅使河原丹生神社は国道17号線を金久保地区から西方向に進み、勅使河原交差点を左折し、関越自動車道を抜けると西側に約200m程の場所に鎮座している。この勅使河原地区はすぐ西側に神流川が流れ、まさに武蔵国と上野国の境に位置する地域で、現在は閑散とした田園風景が続く地域だ。
勅使河原丹生神社正面の一の鳥居
この社の創建時期について『明細帳』は「古老の口碑」として、応永年間(1394年~1427年)に神流川の辺に創立されたが、その後、出水で社地が流出したため、永禄二年(1559年)に現在の所に遷座したと伝える。ちなみにこの応永年間は日本の元号の中で、昭和、明治に続いて3番目に長い元号で(35年間)、一世一元の制導入以前では最長と言われている。
神 門
「正一位丹生大明神」と記された神門の扁額 神門上部には未だ色彩鮮やかな彩色が残り、
彫刻も見事に施されている。
神門天井部にも鮮やかな絵が残されている。
神門の手前右側にある案内板
丹生神社 御由緒
御縁起(歴史) 上里町勅使河原一三六八
勅使河原は、武蔵七党の丹党に属した勅使河原氏の名字とされる。丹党系図によれば、丹党の祖とされる武信から七代目の子息武時が勅使河原氏を称しており、また、長野勅使河原系図にも、承保二年(一〇七五年)四月二日に「ト地同国賀美郡勅使河原邑移居、則以地名為家号」とあることから、平安時代末期には勅使河原氏がこの地に住していたことがわかる。当社は勅使河原の鎮守である。
当社の創建について、「明細帳」は「古老の口碑」として、応永年間(一三九四-一四二六)に神流川の辺に創立されたが、その後、出水で社地が流出したため、永禄二年(一五五九)に現在の所に遷座したと伝える。一方、『児玉郡誌』も同様の話を載せているが、創立は大永年間(一五二一-二八)、遷座は永禄二年と、創建の年代が異なる。しかし、『風土記稿』勅使河原村の項に「丹生社 村の鎮守なり、昔は神流川辺にありしが、川欠にて元禄年中(一六八八-一七〇四)今の地へ移せり」と載り、当社も元禄十六年(一七〇三)の年紀のある幣束が現存することから、遷座の時期は元禄年間と思われる。
明治に至り、神仏分離が行われるまで、当社の西隣にあった当山派修験の文殊院が別当として当社の祭祀を行ってきた。大正年間まで神職を務めていた下山家はその末裔で、現在は神社の祭祀とは直接かかわりはないが、今も神葬祭を続けている。(以下中略)
案内板より引用
平成24年春の改修竣工で新しくなった社殿。
社殿改修の記念碑 拝殿内部
社殿の手前にある御神木
しかしこの「勅使河原」という地名は考えてみると不思議で、何故に「勅使」という言語の入った地名が存在するのだろうか。11世紀中ごろには、秩父丹五基房の嫡男直時がこの地名を家号にしたというのだから、「勅使河原」という地名は1075年よりも遥か以前に存在していたことになる。通説では勅使田のあった河原が語源であり、東日本により多く存在していて、勅使によって開発された田で、多くは皇室の諸費用にあてられたらしいが、それならば東日本広域でも、もう少し、より多く、その地名があっても不思議ではないと思われるのだが。
社殿の近くにある境内社
神門の東側にある神楽殿 神楽殿の近くにも多くの境内社が祀られている。