古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

二ノ宮伊勢大神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡神川町二ノ宮5-2
             
・ご祭神 天照大神、豊受姫命
             
・社 格 不明
             
・例 祭 新年祭 116日 祈年祭 416日 例祭 1019
                  
新嘗祭 1129日

 二ノ宮伊勢大神社は神川町二ノ宮地区に鎮座する。
二ノ宮地区は神川町大字二宮所在の延喜式内社である金鑚神社付近を水源とする金鑚川に沿って形成された地区で、自然豊かな地域である。
 
金鑚川は、平成3年度から町による公園事業と県の砂防事業を一体として整備が開始され、平成5年度からは県内初の『ふるさと砂防事業』として神川町により整備された河川である。自然石を用いた護岸や、水に親しめるような緩傾斜護岸など、自然環境と公園機能の調和が図られている。周辺は県立上武自然公園の範囲内にあり、金鑚神社、国の天然記念物である「鏡岩」など豊かな自然環境と歴史的文化を有する地域となっている。
 
二ノ宮伊勢大神社は金鑚神社から北東方向1㎞程の丘陵地の一角にひっそりと鎮座している。
 
  二ノ宮伊勢大神社への途中までの経路は宮内若宮神社を参照。宮内若宮神社は児玉三十三霊番「光福寺」の看板のある十字路を左折するが、二ノ宮伊勢大神社に行くためには国道462号線をそのまま西行し、2番目の変則的な十字路を右斜め方向に進む。700m程進み、金鑚川を越えて2番目のT字路手前の左側角地に二ノ宮伊勢大神社の目立たない小さな社号柱が立っている(写真左)。駐車スペース等はなく、社号柱左側にある参道に車を置くことも考えたが、参拝に対して一定のルール設定をしている筆者にとって、社号柱先の神聖な場所である参道に対して汚す行為は出来ないので、道路脇の目立たない場所に路駐し、急ぎ参拝を行う。
 社号柱を過ぎると、丘陵地らしい上り坂を登る(同右)。
 
上り坂を進むと、右側に石段があり(写真左)、石段の先には案内板や鳥居が見える(同右)。

 伊勢大神社 御由緒  神川町二ノ宮五の二
 □御縁起(歴史)
当社の鎮座する萩平は、児玉郡阿保領に属した。江戸時代当初は幕府領であったが、慶安元年(一六四八)より幕末まで旗本室賀氏の知行地となった。『風土記稿』によると、化政期(一八〇四-三〇)の戸数は二三戸であり、村内の耕作地のほとんどが畑地であった。また、萩平の鎮守は隣接する新里村に鎮座する白岩明神社(現在の白岩神社)で、二村の鎮守と記載されているが、祭祀組織がどのようであったかは不明である。明治五年に金鑚村と合併し二ノ宮村となる。
当社の祭神は、天照大御神・豊受姫命の二柱である。創立年代は不詳であるが、社伝によると、往古は萩平村と隣地の池田村の村境に祀られており、共に祭りを執行していたといわれる。その後、二村の協議の上、明治維新の際に現在地に移転し、萩平住民の崇敬するところとなった。以来、萩平の鎮守として位置づけられるようになった。
当社は、元来、伊勢大神社・伊勢大神宮と称していたが、昭和十九年に神明神社と改称した。しかし、太平洋戦争直後から旧名に復したいという氏子の希望により、昭和五十六年に伊勢大神社となった。
境内社は、八柱の神々を杷る八王子神社をはじめ、八坂神社・阿夫利神社・愛宕神社・諏訪神社・天満宮・榛名神社である。社殿は、明治維新後に移転改修、大正三年に改築、昭和五十八年に本殿修理、平成一五年に拝殿改修を実施している。
□御祭神 天照大神、豊受姫命

                                      案内板より引用

 案内板によれば、「
往古は萩平村と隣地の池田村の村境に祀られており、共に祭りを執行した」「二村の協議の上、明治維新の際に現在地に移転し、萩平住民の崇敬するところとなった。以来、萩平の鎮守として位置づけられるようになった」と記述されている。ところが『新編武蔵風土記稿』では、「萩平村条」には社の記載はなく、「池田村条」に「神明社 太神宮 常學院の持」と書かれている。「共に祭りを執行した」のであれば両村に記載があって然るべきと思うが、片方しかないのはどういう箏だろうか。
        
   石段を登ると、
境内に通じる直道があり、正面にはやや小ぶりな鳥居が立っている。
 
  鳥居の社号標には「伊勢大神社」と表記    鳥居の先、右側正面に鎮座する境内社。
      鳥居は新しいようだ。               詳細不明。
            
                 参道途中に聳え立つご神木
        
                               拝 殿
 
     拝殿上部に掲げてある扁額          拝殿右側に鎮座する石祠群

 案内板では、
境内社は八王子社を始め、八坂神社・阿夫利神社・愛宕神社・諏訪神社・天満宮・榛名神社が鎮座しているという。石祠は6基あるので、八坂神社以下の6社で、拝殿手前にある社は八王子神社かもしれない。但し拝殿右側奥にも石祠は2基ある為、先ほどの推測は正しくないことになる。詳細等知っている方、ご教授願いたく思います。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」
「埼玉県HP【砂防施設】 金鑚川〔神川町〕」等
   
 


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中新里御霊神社

 御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、怨霊信仰とも言い、不幸な死に方をした人の霊が、祟(たた)り、災いをもたらすという信仰。またそれをなだめ、抑える神を祀(まつ)る信仰でもある。
 日本では、人が死ぬと魂が霊として肉体を離れるという考え方は、例えば縄文期に見られる屈葬の考え方のように、原始から存在していた。こうしたことから、「みたま」なり「魂」といった霊が人々に様々な災いを起こすことも、その頃から考えられていた。古代になると、政治的に失脚した者や、戦乱での敗北者などの霊が、その相手や敵に災いをもたらすという考え方から、平安期に御霊信仰というものが現れるようになったという。
 神川町中新里地区にも、御霊信仰の社が存在している。
                       
             
・所在地 埼玉県児玉郡神川町中新里48
             ・ご祭神 祟道天王 吉備大臣 建御名方命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 131日 春祭り 415日 大祓 719日                     
                  秋祭り 1019日 新穀祭 1125日

 中新里御霊神社は国道254号を群馬県・藤岡市方向に進み、神川町元阿保地域の「元阿保」交差点を左折、埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線を南西方向に道なりに進む。八高線の踏切を越えて、1㎞程進むと、右側に「中新里集落センター」が見え、そこのT字路を右折すると、すぐ正面に中新里御霊神社の鳥居が見えてくる。
 境内は広く、駐車スペースの心配もない。撮影に支障のない境内の一角に車を停めてから参拝を行う。
        
                 中新里御霊神社正面鳥居
        
                 鳥居の左側にある案内板

 御霊神社 御由緒  神川町中新里四八
 □御縁起(歴史)
 中新里の鎮守である当社は、古老の伝承によれば、在古に京都の御霊神社を勧請したもので、大字新里にあった御霊神社とは兄弟であるという。そのため、兄である当社は「上御霊」、弟である新里の御霊神社は「下御霊」と呼ばれていた。ちなみに、新里の御霊神社は明治四十年三月に児玉町保木野の稲荷神社に合祀され、その跡地は現在では畑になっている。
 一方、『児玉郡誌』は、当社の創建について「詳ならざれども」としながらも、中新里の旧家に応永年間(一三九四-一四二八)の板碑があることと、御霊神社の境内に数百年を経た老樹があることを根拠として、「当地は足利時代に開拓せられ、同時にこの社も勧請せられしものなるべし」と推測している。ここでいう老樹は、かつて境内にあった欅の神木のことで、中に博打ができる虚があるほどの大きなものであったが、大正のころに伐採してしまったという。
 更に『風土記稿』中新里村の項には「御霊明神社 村の鎮守なり 末社 秋葉 稲荷(中略)以上村民の持」と載るように、村の鎮守として信仰が厚かったことがうかがえる。旧社格は村社であり、明治四十年に当社の東北にある「諏訪山」と称する古墳の上から無格社諏訪神社を本社に合祀した。なお、当社の幣殿天井には堂々とした竜が描かれており、これは狩野寿信門人加信の筆によるものである。
 □御祭神 祟道天王 吉備大臣 建御名方命
                                       案内板より引用

        
                                        拝 殿

 神川町中新里地区には昔から「吉備大臣」と呼ばれる民話がある。神川町HP「吉備大臣 中新里」全文を紹介する。

○吉備大臣 中新里
中新里では、昭和の初めの頃まで、きびを作ることが禁じられていたそうです。その理由は、次のような伝えがあったからです。
字の鎮守様「御霊神社」は、天津児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っていますが、一緒に「吉備大臣(きびだいじん)」を祀っています。
昔、この吉備大臣が戦に出かけ、戦場で、乗っていた馬がきびに足をとられてよろめいた際、不覚にも落馬して負傷してしまいました。このため、吉備大臣を祀る中新里では、きびを作ることを嫌ったのだということです。
もっとも、吉備大臣とは奈良時代の学者で廷臣だった吉備真備(きびのまきび)のことですから、事実とは思われません。昔の人が、吉備ときびの音が似ているので、こんな昔話を作ったのでしょう。
栃木県のある地方でも、神様がきびの葉で目を痛めその氏子はきびを作らない(日本の伝説)など、似た話は日本中にあります。
近くでは、妻沼の聖天様の松嫌いの話があります。昔、聖天様と、太田の呑竜様が戦さをし、太田の金山まで攻め込んだ聖天様が、松の葉で目をつき、難渋して以来、妻沼地方では松を植えなくなったという話が伝えられています。
      
        拝殿の南側に鎮座する石祠等。        拝殿北側にある由緒不明な石神。
    石祠は詳細不明。右は社日神。
       
             境内北東側で道路沿いに聳え立つご神木。
      ご神木の周辺には数多くの境内社・庚申塚・石碑等が囲むかのように並ぶ。
 
           石碑、庚申塔等4基。            道路沿いにある庚申塚。
        
                                中新里御霊神社 境内社 

中新里御霊神社のご祭神は「祟道天王」「吉備大臣」「建御名方命」の3柱であるが、「建御名方命」が諏訪大社のご祭神であることは周知の事だが、「祟道天王」「吉備大臣」の2柱に関して記して見たい。「吉備大神」は上記では伝説として紹介したが、史実としての人物紹介も兼ねる。

「祟道天王」
 早良親王。奈良時代末期の親王であり、第49代天皇・光仁天皇の皇子。母は高野新笠、桓武天皇、能登内親王の同母弟。桓武天皇の皇太弟に立てられた。延暦4年(785年)、造長岡宮使であり、事実上の遷都の責任者である藤原種継の暗殺事件に連座して廃され、絶食して没した。その後に桓武天皇の周囲で忌まわしい出来事が続発し、早良親王の祟りということになり、怨霊を恐れて崇道天皇と追号されたが、皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない。

「吉備大臣」
 吉備真備(きび まきび)。奈良時代の公卿・学者。氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。
 持統天皇9年(695年)備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる。下級役人の家に生まれたようで、決して出自には恵まれていたかったようだ。それでも平城京の大学寮で秀才ぶりが認められ、元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐する。唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学ぶ。
 帰国した真備は聖武朝で異例の昇進し、その後藤原仲麻呂の乱での鎮圧にも優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、最終的には従二位・右大臣へ昇進する。
 神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩じた際には、娘(又は妹)の吉備由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を演出。但し別説では後継の天皇候補として文室浄三次いで文室大市を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆いて、政界を引退する。
 真備は決して不遇な最期を遂げた「怨霊」に値する人物とは言えないと考えるが、菅原道真同様に、下級貴族から前代未聞の栄達を遂げながらも、時の政敵である「藤原氏(藤原仲麻呂、藤原永手)」に対して「皇統」を命がけで死守しようとして最終的には敗れた政治家でもある。その点菅原道真と同じ要素を持ち、「怨霊」として後世の人々が創り上げた人物かもしれない。

「怨霊」は「祟り神」ともいう。神道が日本人の精神構造の根本で、何万年もの悠久の歴史から培わされてきた観念でもある。事実神道における神は、理念的・抽象的存在ではなく、具体的な現象において観念されるため、自然現象が恵みとともに災害をもたらすのと同様に、神も荒魂・和魂の両面を持ち、人間にとって善悪双方をもたらすものと考えられている。神は、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っているといえよう。



参考資料 「埼玉の神社」「Wikipedia」神川町HP「吉備大臣 中新里」等

                        

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下阿久原有氏神社

 児玉党は武蔵七党の一つにして最大勢力の集団を形成する事となる武士団である。一説では藤原北家流・藤原伊周の家司(けりょう/かれい)だった有道惟能が、長徳2(996)に伊周が失脚したことにより武蔵国に下向し、その子息の有道惟行が神流川の中流部にあった阿久原牧を管理し、ここに住して児玉党の祖となったという。また「有」とは、有道氏の略称であり、有氏とは有道氏を指すとされる。
 古代、児玉郡大寄郷若泉庄の阿久原(現・神川町の南部)には官営牧場があり、朝廷よりの派遣官人、つまり阿久原の別当(管理者)として惟行は赴任して来た。当時は有道 遠峰 維行(ありみち・こだま・これゆき)と称した(後に児玉惟行と呼ばれる)。しかし、任務完了後も児玉郡にとどまり、そのまま在地豪族と化したと伝えられている。
 尚この下阿久原地域は、宮内若宮神社でも紹介した雨乞屋台』で紹介した昔話にも「別当が赴任した場所」として出てきており、何かしら関連性もあるようである。
        
            
・所在地 埼玉県児玉郡神川町下阿久原34
            
・ご祭神 有道惟行(ありみちこれゆき)
            
・社 格 不明
            
・例 祭 盤台祭り 1119日

 下阿久原有氏神社は神川町下阿久原地区北部に鎮座する。国道462号線と埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線が交差する「新宿」交差点を左折し、神流川に沿って南下する。その後22号は神流川西側方向に移動し、同線は埼玉県道・群馬県道289号矢納浄法寺線となるが、そのまま600m程南下すると進行方向右側に下阿久原有氏神社のこんもりとした社叢と案内板が見えてくる。
        
                            下阿久原有氏神社 社叢風景
      規模は大きくないが、境内は綺麗で、こじんまりと纏まっている印象。 
 県道沿いにある「有氏神社の舞台祭り」の看板          案内板詳細

 有氏神社の盤台祭り 
 所在地 埼玉県児玉郡神泉村(現神川町)下阿久原三十四番地 有氏神社
 指定  平成月十一日  埼玉県指定無形民俗文化財

 有氏神社は、武蔵七党の一つである児玉党の祖、有道惟行(ありみちこれゆき)をまつると伝えられている。地元では、有氏は有道の転訛であるといい、祭りを称して「アリッツァマの祭り」とか「裸祭り」とも呼んでいる。この祭りは正徳三年(一七一三)に始まったとされ、 祭日は陰暦九月二十九日であったが、現在は十一月十九日に行われている。
 
祭りの特色は、氏子が毎年交代で祭り番となり、祭りに関するすべてを行うことにある。(これを頭屋制という)。祭り当日は、頭屋宅で赤飯(小豆飯)とシトギ(水で浸しておいた粳米を臼でついたもの)を作り、赤飯は大きな盤台に盛り付けておく。準備が終わると、神官を先頭に神社に行き、社前で祭典を執り行う。
 祭典後、氏子たちはふんどし姿になって盤台を高々と持ち上げ、「上げろ、下げろ」の掛け声も勇ましく神輿のようにもんで境内を練りながら、盤台の中の赤飯を四方八方に撒き散らす。参詣者は争ってこの赤飯を受け取り、オミゴクと称していただく。この間、四、五分の短い時間であり、赤飯をまき尽すと、手じめをして祭りは終わる。
 なお、この赤飯を食べるとその年の災厄からのがれることができ、お産は安産ですむという。このため、この祭りは安産祈願、子孫繁栄、疫病退散のお祭りだと云われている。
                                      案内板より引用
        
                       県道より奥の場所にある木製の鳥居
        
         鳥居の右脇には「県指定文化財有氏神社盤台行事」の標柱あり。

 下阿久原有氏神社から南西方向1㎞程の場所には上阿久原地区があり、そこに丹生神社が鎮座しているが、嘗てこの区域近郊の台地上の場所には、児玉氏の祖であった児玉惟行の居館があったといわれていて、その館址は「政所」と呼ばれている。
 上阿久原は、中世の阿久原郷に含まれ、その郷内には阿久原牧があった。阿久原牧(阿久原牧跡は埼玉県指定旧跡)とは、承平三年(933年)四月に勅旨をもって官牧となった国有の牧場で、武蔵七党児玉党の祖・有道惟行(ありみちこれゆき)が別当(管理責任者)として赴任した。
 惟行は平安時代後期、朝廷よりの派遣官人としての任務完了後も児玉郡にとどまり、そのまま在地豪族と化し武将として、武蔵七党の一つにして最大勢力の集団を形成する児玉党(武士団)となる。尚児玉党本宗家は3代目児玉家行(惟行の孫)以後、庄氏を名乗り、その本拠地を北上して栗崎の地(現在の本庄台地)に移す事となる。その直系の家督は庄小太郎頼家で絶える事となるが、児玉党本宗家は庄氏分家によって継がれていく事となり、本庄氏が児玉党本宗家となる。
 惟行の嫡流達は児玉郡内を流れる現・九郷用水流域に居住し、土着した地名を名字とし、児玉・塩谷・真下・今井・阿佐美・富田・四方田・久下塚・北堀・牧西などなど多くの支族に分かれていった。
        
                       拝殿というべきか、本殿ともいえる小さな社。
        破風部位には,児玉氏特有の「軍配団扇」紋があしらわれている。
       
お社を中心にして境内社、石碑等が横一列に並べられている。社の右側には「有氏神祠碑」があり(写真左)、明治26年建立の石碑。左側には境内社や石祠が鎮座(同右)している。左端にある「大貴己命」の石碑以外は詳細不明。
            
          社のほぼ正面にある紙垂等が巻かれていたであろう石柱
                  石神の類だろうか。

        
                     社から道路側にある「有道氏の祖廟」の看板

 有道氏の祖廟
 武蔵野の開拓者、さらには、関東武士の元祖、として有名を馳せた児玉党の開祖である有道一族の祖廟は、詳らかでない。しかれども、有道惟行が朝廷の命により長官を勤めた阿久原の牧近くには、有道氏を祭る有氏明神があり、古くより地域の住民によりお祀りされている。日本古来の宗教観では、先祖霊や特別な功績を上げ尊敬される人々の霊を人格神として祭るのが自然である。阿久原地区には、古くより「有氏明神に隣接した北の位置にありし古い石塔を東北に移転した際に、人骨が発掘されこれは阿久原牧時代の有道氏一族の墓であろう」との言い伝えがあり、しかも、「有氏神社には御神体が存在しない」などのことより、有氏神社は、有道氏一族の霊域(墓地)に祠を建て、祭り始めたものであり、古くは霊域の重要な位置を占めたと推定される有氏明神に隣接した東北部の畑の中にある古石塔(地下に眠る遺骨)こそ有氏明神の御神体であるとの説がある。この石塔は、児玉党もしくは近在の有道氏一族の関係者によって、室町時代後期から江戸時代初期の間に建立されたものと推定されるが、品格の高い見事な石塔である。
 今回、古石塔及び周辺土地の管理者であり、長年に渡り秩父瀬地域住民の中心となって有氏神社をお祀りしてきた児玉党の流れを汲む浅見家21代当主新一氏のご尽力により、古石塔が整備復元されたことは、惟行生誕1000年を迎えるにあたり、誠に意味有るものといえよう。今後児玉党並びに有道氏に関係する方々はもとより、その恩恵を受けている地域の方々は、時に参拝し、武蔵野の開拓と土地生産性に基盤を置いた武家政治の確立に貢献した先祖の方々の往時を偲び、明日への活力としていただければ幸いである。
 平成14年正月 記 児玉党末裔
                                      案内板より引用

        
        室町時代後期から江戸時代初期の間に建立されたものと推定される「石塔」


参考資料 「神川町 HP(県指定の文化財)」「Wikipedia」等

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渡瀬木宮神社

 武蔵国の北辺に位置する賀美郡は地形上利根川や烏川、または神流川を隔てて上野国との繋がりが古来より頻繁な地域であり、神川町もまたつい最近まで神流川を中継して鬼石町との交流が盛んな地域であったようだ。この神流川流域の狭い空間にある古社(金鑚神社、鬼石神社、土師神社、丹生神社、木宮神社)には共通した文化圏を形成していたと思われ、その関連性も注目される。
 神川町渡瀬地域にはこの木の神である句句廼馳神を祀る木宮神社が鎮座している。
所在地    埼玉県児玉郡神川町渡瀬737
御祭神    句句廼馳神
社  挌    旧村社
例  祭    4月中旬の日曜日 渡瀬の獅子舞  10月14日 木宮神社座祭

       
 渡瀬木宮神社は埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線を上里町から藤岡市鬼石方向に南下し、渡瀬郵便局の先にホームセンターが左側にあり、その道路を挟んで右側に鎮座している。但し道路沿いにあるのではなく、民家のすぐ西側に鎮座しているし、道も狭い。駐車スペースも十分確保されていないので、ほぼ横付けして急ぎ参拝を行った。
           
                          南方向にある一の鳥居

   一の鳥居の手前で左側にある石祠、石碑群。      一の鳥居の手前ですぐ右側にある社日。

 この渡瀬地域は三波石の産出地である鬼石町三波石狭に近く、渡瀬木宮神社境内にも多くの石碑等がある。この三波石狭は,藤岡市南部,神流川中流の下久保ダムから下流約 1.5kmの間の渓谷。緑泥片石に石英の白い縞模様のある三波石の大転石が河床に重なり合って美しく庭石に利用されている。国の名勝・天然記念物に指定されている。

 一の鳥居付近のある大きな石碑(写真左)。何と彫られているか不明。また境内参道途中の右側には「猿田彦命」と彫られた石碑(同右)もある。どちらも石碑の上部が削られている形跡がある。
           
               「猿田彦命」の石碑の先にある「渡瀬の獅子舞」の案内板

渡瀬の獅子舞       昭和62年3月10日  町指定民俗資料
 渡瀬の獅子舞は、稲荷流といって藤岡市の大塚から、200年程前に伝授されたという。
 その昔、渡瀬に流行病があった時に、厄払いとして松山稲荷に獅子舞を奉納したのが始まりと伝えられ、当時は長男に限られていたが、現在は特に制限されていない。
 獅子舞は、春祭(4月中旬)、秋祭(10月中旬)に木宮神社でおこなわれるが、八坂神社の例祭(7月下旬)にも奉納される。
 獅子は、黒獅子・赤獅子・青獅子の三頭で、その外に、花(?)・ひょっとこ・カンカチ・天狗・花万灯持ちの役割がある。(中略)
                                                          案内板より引用
           
                         「民俗資料 座祭」の舞台
           
                          木宮神社座祭の案内板

木宮神社座祭    昭和35年3月1日 県選択無形民俗文化財
 木宮神社座祭は、木宮神社で10月14日に行われ、県内はもちろんのこと、関東地方においても類の少ない古式の祭である。 
 座祭は、渡瀬の草分け百姓と伝えられる32戸の旧家が本家筋と分家筋の二つに分かれ、それぞれ一戸ずつが組みを作り、都合16組が1年交代で頭屋を務めて行われる。この場合に本家筋を「真取り」といい、分家筋を「鼻取り」という。
 座祭は、江戸時代の慶長年間(1596~1615)に須藤新兵衛が仲田弐反歩を奉納して、ここから採れる神米で祭を賄ったことに始まったと伝えられている。
 また延享3年(1746)の座席図によると、この頃には32戸が座祭に関係していたことがわかる。
 座祭の当日は、「座奉行」が一切を取り仕切り、拝殿に対して「一の座」、左側に「二の座」、右側に「三の座」の三つの座が設けられ、それぞれの座には、中央に「本座」があり、稚児により順次御神酒・赤飯が給付される。祭の最後には、新旧頭座が中央に対座し、引渡しの儀式を行い祭の全てを終了する。
                                                           案内板より引用

 案内板に書かれている「須藤家」は神川町渡瀬地区に多く存在する。須藤家系図に「永享十二年須藤伊与守が信州諏訪より移住し、渡瀬村を開白す」と書かれ、また児玉郡誌に「渡瀬村の木宮神社は、永享年間に須藤伊与守・原大学・山口上総介・田中膳道・矢島左馬之助・大谷内蔵人、等の協力によって興隆す。慶長年間に至り、須藤安左衛門は同社に神田二反歩を寄進す」と案内板とは違った名前(須藤安左衛門)で登場する。もしかしたら同じ人物であった可能性もある。

            

                             拝      殿
           
 木宮神社の拝殿上部に掲げてある社号額はこの地の実業家である原家の別荘に来訪した伊藤博文の書である。龍宝寺安政四年三ツ具足寄附に原太兵衛。明治二年五人組帳に年番名主原太兵衛・組頭原喜十郎・組頭原庄作。明治四年戸籍に原喜十郎・原庄作・原治平・原浪太郎。太兵衛の子原善三郎(文政十一年生、明治三十二年没)は実業家にて、貴族院・衆議院議員を歴任したという。その縁故で、この地に伊藤博文が来訪したその際に書かれたものだろう。
           
           
                             本      殿

         社殿の奥にある境内社                 社殿の左側に並んだ境内社群

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阿保神社

 安保氏(阿保氏)は多治比氏を本姓とする、武蔵七党の一つで丹党の一派である。秩父(丹)綱房が初めて安保の地を領有し、その次男である実光が父綱房より武蔵国賀美郡の安保郷(現神川町元阿保)の地を譲り受け、居住し安保(阿保)氏を称したという。この実光の生没年は1142年(永治2年)から1221年(承久3年)と平安末期から鎌倉幕府創建時まで北武蔵地域で活躍した武将で、没年は80歳と当時の平均年齢では大変高齢であり、頼朝挙兵からその傘下に入り、一の谷の戦い、奥州合戦にも参加し、最後は老齢の身でありながら承久の乱にて、宇治川の戦いで討ち死(溺死)した。その功績からか、跡目を継いだ七男実員は本領とは別に播磨国の守護職を得て、鎌倉御家人として源氏3代、その後の北条執権家に忠節を尽くし、その宗家は鎌倉幕府滅亡と共に滅亡する。

 しかしその一方で、阿保神社のその創建時期が平安~鎌倉時代に活躍した安保氏よりも遥かに古く、「明細帳」によると、延暦三年(784年)に当地を来訪した伊賀国の阿保村の出身である阿保朝臣人上が従五位下・武蔵介に任命され、この地に阿保神社を創建したとも伝えている。
 丹党秩父一族が「安保」と名乗った前から、この地域はすでに「安保郷」と呼ばれていたということは、それより以前に「阿保」と因縁のある何かが介在していなければ成立せず、延暦年間の記述の信憑性も増すということだろうか。
所在地   埼玉県児玉郡神川町元阿保1
御祭神   大己貴命 素盞嗚尊 伊弉冉尊 瓊瓊杵尊 大宮女大神 布留大神
社  挌   式内社論社(今城青八坂稲実神社・今木青坂稲実荒御魂神社)
        旧指定村社
例  祭   10月19日 例大祭 

             
 阿保神社は群馬・埼玉県道22号を、上里町から神川町丹荘駅方向に進み、国道254号と交わる元阿保交差点の先の信号機のある十字路を右折すると1km弱位で左側にその社叢が見えてくる。駐車スペースは一の鳥居の先で境内に農民センターがあり、そこにはかなり余裕のある空間があり、そこに停めて参拝を行った。
 ちなみに阿保神社に通じるこの道路は、一説によると嘗ての鎌倉街道上道であったという。上野国から神流川を渡り武蔵国に入るとすぐ南側にこの阿保神社はあり、上野国との交易上の要衝であったことは容易に推察できる。
                   
                道路沿いにある古き歴史を感じさせてくれる阿保神社の社号標石


       参道正面には一の鳥居              社殿の手前右側には案内板がある。

阿保神社       神川町大字元阿保 字上六所一
 由緒
 ここ元阿保の地は、中世の丹党安保氏の本貫地とされる。丹党の秩父綱房の次子実光は安保の地に住み、安保氏をとなえ、以後在所名を姓とした。安保氏は鎌倉期から室町期、さらに戦国期までつながっていく。字上宿には安保氏館跡と伝える地があり、周囲は堀に囲まれた三百メートル四方の部分と考えられている。館跡のすぐ北西には当社が鎮座、南西側には安保泰規が室町初期に建立したと伝える大恩寺跡が隣接する。
 当社はその立地から丹党安保氏により鎌倉期以降に祀られたことが推測されるが、「武乾記」に載る由緒は更に古い。「六所明神は延喜式内の社なり。村老の伝に太古、阿保人上武蔵介の建立せし所なり。其後安保次郎実光、当国府中六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲実明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」と記載されている。
 丹党と丹生社との関わりは、字関口の池上神社の「明細帳」には「往古阿保村と一村たりしとき、六所社 丹生社同村にありしを、天正五年(1577年)三月分村の時、丹生社を本村の鎮守に分かち定め今の地に遷し祀る」とある。安保氏在住の頃は丹党の人々の結束として元阿保で祀られていた。言い伝えでは、六所社の奥であったという。
 当社は享保十二年(一七二七年)神祇管領から「正一位六所大明神」の神宣を受けた。風土記稿に六所明神社と載っているが、明治四十年から字内の神社を境内に遷し、明治四十三年に阿保神社と改称した。(以下中略)
                                                          案内板より引用
             
                              拝    殿
                       
                         拝殿とその奥にある本殿 

 阿保神社が鎮座する賀美郡は、武蔵国最北部にあたり、武蔵国内陸部よりも利根川、神流川を隔てて北岸の上野国との繋がりが遥かに多かった場所であろう。その意味において文化的にも経済的にも上野国の影響下であった時期があったと思われる。                                                                                                                    

 上野国の古墳の変遷を見ると、大体において以下の3か所が古墳の集中地域である。
  ① 太田市地域
  ② 佐野町、倉賀野町地方を含む県中央部
  ③ 藤岡市周辺地域
 藤岡市周辺の古墳は太田市周辺域や群馬県中央域と比べると出現時期は若干遅い。群馬県中央部の佐野、倉賀野地区で栄えた文化の影響からか、それとも東山道からの普及からか、5世紀前半には白石地区の猿田川岸段丘の上にある墳長175mの白石稲荷山古墳が、また6世紀前半には七興山古墳が築造されている。
                   
                              本殿内部

 七興山古墳は6世紀前半に築造されたと推定されているが、この時期に造られた東日本の古墳の中でも最大級の古墳で、同時期の埼玉古墳群の中の二子山古墳より規模は大きい。墳長146m、3段構成の前方後円墳で、その名前の由来として羊太夫伝説からきていると言われている。奈良時代多胡郡司となった羊太夫は、後に謀反の図っているとして朝廷から討伐軍を差し向けられ、羊太夫の妻女ら七人がここで自害し、それぞれ輿に乗せて葬ったので、「七興山古墳」という名前になったといわれている。

 この七興山古墳築造の時期と、羊太夫伝説には200年ほどの時代のズレがあり、後世の作り話とも、または逆説的な考え方としてこの羊太夫伝説自体が、6世紀に遡る実際に起こった事件とも思われるが、今回ここでは敢えてその真偽は問わない。それより重要なことは、白石稲荷山古墳や七興山古墳がこの白石地区、つまり多胡の地にあることだ。羊太夫伝説は伝承地が限られており、今の群馬県西南部を西から東方向に流れる鏑川流域に沿った地域を中心として、それに埼玉県秩父地域である。この地域こそ、伝説上ではあるが多胡の羊太夫が活躍した本拠地、及び勢力範囲なのだろう。

      社殿の右側にある阿夫利神社               阿夫利神社の奥に社日がある。

    社殿の左奥にある石祠群 詳細不明         社日の右側奥にズラッと並んだ境内社群
                                     
                   正面鳥居の傍にどっしりと構えたケヤキの御神木

 阿保氏は垂仁天皇の皇子である息速別王の子孫であり、息速別王が幼少の時に天皇が息速別王のため伊賀国阿保村(三重県伊賀市阿保)に宮室を築いて同村を封邑として授け、子孫はその地に住居したという。時は延暦三年(784年)、中央からのルートは宝亀二年(771年)武蔵国は東山道から東海道に属し、相模国から武蔵国沿岸を通るルートに変更されて10年程たった時期だ。当然阿保朝臣人上は官人であるため、東海道のルートを通ったろう。南側から武蔵国府中で任務を行っていた彼がどのような理由で最北の地であるこの地を訪れたのだろうか。何気なく記載された文章の意味を深く考えるといくつもの疑問が湧いてくる。

 羊太夫はどのルートで多胡地区から秩父黒谷地区に移動したのだろうか。最初に思いつくのが神川町城峰から皆野町国神を経て秩父黒谷地区に向かうルートであろう。但し藤岡市牛田地区から神流川を越えて本庄児玉町に入り、埼玉県道44号線で児玉町河内方向から皆野町国神に入るルートもある。ちなみに藤岡市牛田地区や、本庄市児玉町河内地区には羊太夫伝説、伝承が存在する。



 「多胡」は「タゴ」と読むが、「多」は「タ」の他に「オオ」とも読める。つまり、「多胡」=「大胡(オオゴ)」である。また「阿保」は「青(アオ)」であり「大(オオ)」とも読め(滑川町羽尾地区には羽尾神社があり、御祭神の藤原恒儀は青鳥城主であり、オオトリと読む)何かしら関連性があるように思えるのだが.....単なる偶然かもしれないのでそこはご容赦のほどを。



(追伸)
 この「多胡」という地名は後代「田甲、田高、田子、高生」と佳字を用いるようになる。この中で「田甲」は武蔵国吉見町に延喜式内社である高負彦根神社が鎮座する地であり、他には深谷市岡部地区や行田市皿尾地区にも存在し、意外に広がりをみせている。

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