古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

椋神社

 椋神社の鎮座する旧吉田町は、秩父市から北西部に位置し、2005年(平成17年)4月1日 吉田町が秩父市、荒川村、王滝村と合併し秩父市を新設したため吉田町は消滅した。旧吉田町はその地形上南北に秩父山系が連なり、東西は埼玉県道37号皆野両神荒川線を通じて皆野町、小鹿野町と接している。その為か、この地域は秩父市との関係よりも皆野、小鹿野両町と文化的、経済的にも密接に関係しているのが特徴的だ。
  延喜式神名帳に記載された秩父郡に鎮座する式内社である。「秩父郡に座幵ぶ/チチブグンニザナラブ」として秩父神社とともに延喜式神名帳に誌され、秩父地方においては秩父神社に次ぐ官社だと言われている。本来「くら」神社と読むのだが、他地域の人々が「むく」神社と呼ぶために改称したという。旧社地は、背後の畑地に残る井椋塚の上と伝えられ、近世には「井椋五所大明神」と記録されている。また現社殿と井椋塚を結ぶ直線を西に延ばした先にある鍛冶山の山中に奥宮があるという。また明治17年11月1日に、秩父困民党が集結し、有名な秩父事件の発端になった場所で、境内には困民党決起の碑が建っている。さらに椋神社の秋祭は奇祭「龍勢祭」として有名で、毎年10月には龍勢祭で打ち上げられる「農民ロケット」を見に全国より6万人余の人が訪れるように歴史的にも由緒ある神社である。

 地理的に見ても秩父は特異な地形だ。交通が寄居熊谷方面に限られていて、周囲が秩父山系の険しい山々に遮られて、秩父の市街地は、山域最大の盆地である秩父盆地と小鹿野・吉田など西秩父の小盆地に集中している。そのためか秩父は閉鎖的な空間を感じさせる。

 椋神社はそんな西秩父の小盆地の一角に静かに鎮座している。千数百年もの悠久の歳月を静かに見守っている。

所在地    埼玉県秩父市下吉田7377    
主祭神    猿田彦大神・武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神
社  格         式内社(小)、県社(神饌幣帛料供進指定社)
社  紋    五七の桐
 
                   
 
  椋神社は、秩父市吉田地区(旧・吉田町)の県道37号皆野両神荒川線沿いにある、龍勢祭りや秩父事件で知られる神社である。道の駅龍勢会館から西に約 800mのところにあり、国道140号線「大塚」信号(皆野寄居バイパス終点)からは、吉田方面の標識に従って約6km位の地点に鎮座している。
  秩父神社とともに「延喜式神名帳」に誌され、秩父地方においては秩父神社に次ぐ官社だといわれている。
  社伝によれば、景行天皇の世、日本武尊(やまとたけるのみこと)が秩父御巡幸の際、猿田彦命(さるたひこのみこと)が椋の木の元から立ち現れ、日本武尊命を道案内したことにちなみ、猿田彦命を祀ったと伝えられている。日本武尊命由来の神社のため、入口に狼の狛犬が鎮座している。

   
     一の鳥居から階段を上がる       階段を上がり切るとそこに神社の広い空間が広がる
    
       
                      拝   殿
由緒記
(1)人皇十二代景行天皇御宇、日本武命東夷征伐のとき、伊久良と云う処に御鉾を立て猿田彦大神を祀り給いしと云う。神殿は和銅三年芦田宿禰守孫造立すと 云う。多治比直人籾五斗並びに荷前を奉るとあり是当社造立の起源なり。清和天皇貞観十三年武蔵国從五位下椋神社に從五位上を授けられる。醍醐天皇延喜年間 神名帳に記載せられ国幣の小社に列す。社伝に曰く朱雀天皇天慶五年藤原秀郷当社に春日四所の神を合祀す。日本武尊五代の裔丹治家義五代の孫武信神領数十町 を寄附す是を供田と云う。即ち六段田是なり其後、畠山重忠太刀一口を獻ず。今遺存して神宝となす。長慶天皇永徳二年累進して從二位を授ける。元亀年中武田 信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失す。天正三年鉢形城主秩父新太郎氏邦神殿を再建す同氏獻上する処の祭具木魚二本今猶存在す。慶長九 年当社境内欅三十五本を伐採し江戸城建築の為使用す。寛永四年神殿大破修復棟札あり。宝永五子年二月拝殿修復、棟札は左の如し。
夫武蔵国秩父郡矢場田庄吉田ノ怙鎮守井椋五所神社者延喜式神名帳所載椋神社是也縁起に曰景行天皇四十年与 天慶年中子両度鎮座也  云云
上棟井椋五所大明神拝殿修造清祓御祈祷 国家安全・五穀成就 攸 芦田伊勢守 藤原守房、芦田若狭守 藤原守光、芦田長門守 藤原重斉 干時宝永五壬子天二月吉日
寛政元酉年四月本殿檜皮葺は、天正年中北條安房守氏邦再建にして弐百有余年に及び大破に及び本殿は銅を葺き弊殿拝殿とも大修復をなす。
寛政元己酉年
奏上棟椋神社幣殿拝殿造立功成就 常磐堅磐 社頭康栄 守護祈所 神主 芦田日向守 藤原保実、芦田市正 藤原守重、芦田若狭守 藤原武矩、四月二十一日、大工棟梁 赤柴村 黒石勘平
明治十五年六月十五年県社に昇格す。大正二年近隣の神社二十三社を合祀す。大正五年十一月十三日無格社八幡大神社合祀許可せらる。
大正十年拝殿幣殿の改築竣工し十月四日神饌幣帛料供進神社と指定せらる昭和九年天皇陛下より祭祀料を賜わる。昭和十七年九月社務所焼失す。
昭和二十五年十二月氏子奉納金十萬円を以つて平殿拝殿の屋根大修復。
昭和三十四年九月、工費百三十万円餘氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和四十年十月諸社合祀五十年祭を記念して氏子の奉納金により八幡本殿上屋幣殿屋根工事を完成す。
昭和四十三年十二月明治維新百年祭記念として本殿屋根修理、四十四年四月元拝殿屋根改造完成す。昭和四十八年九月氏子崇敬者の奉納により竜勢櫓用細木二百十一本柱八本奉納。細木置場を建設す。
昭和四十九年四月北條氏邦椋神社再建四百年祭を記念して奉納金其の他にて調製費二百二十万円を以つて神輿調製奉納す。五十年亦三百万円の資金にて拝殿その他諸建築物の修復を完成し調度品を購求せり。亦四十九年五月二十日埼玉県の補助により椋宮橋竣工す。

(2)人皇十二代景行天皇の御宇皇子日本武尊東夷御征行の砌、猿田彦大神の霊護を恭み、皇子御神ら猿田彦大神を當地に奉齊せられたるを起元とし、清和天皇の御宇 貞観十三年十一月従五位上を贈られ醍醐天皇の延長五年十二月延喜式神名帳に記載せられ朱雀天皇の御宇平将門誅伐の時、藤原秀郷春日四座の神を合祭して軍功 を奏し、五座の神となる。元亀年間武田信玄の兵火に罹り社殿焼失し、天正三年北條氏邦再建す。明治六年郷社となり、仝十五年六月三十日県社に列せられ、大 正十年十月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。昭和十七年九月三十日社務所焼失し、昭和三十四年九月氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和四十 九年四月北條氏邦椋神社再建四百年祭を記念して奉納金其の他にて神輿調製奉納す。昭和五十年拝殿其の他諸建築物の修復を完了。龍勢の神事は昭和五十二年三 月二十九日埼玉県選択無形民俗文化財となる。

                      
                                               本殿 秩父市指定文化財
椋神社
 日本武尊東夷ノ逆徒ヲ征伐トシテ奉命諸國ヲ巡狩シタマウトキ、甲斐國酒折宮ヨリ武藏國諸郡ヲ経テ此所二著御アリ。固ヨリ當國ハ深山幽谷ニシテ殆ト霧深 。於是日本武尊群臣等ト議曰不能進而其所ヲ知ラサルナリ。尊歎之既二軍神事勝長狭神(即猿田彦大神ナリ)二神慮ヲ請ヒテ之二進ト欲シ、暫ク此所二停止シ鉾ヲ杖トシテ相休焉コ時アリ忽然トシテ光輝顯レ斐錬ス。既二老翁井泉ノ椋ノ下二現出スルナリ。老翁示曰吾レ尊ノ爲二瞼路ヲ導ナリ。日本武尋再拝シテ立焉。一説曰忽チ光ヲ放ツ。其光耀ノ飛止ル所、尊怪以テ其処二到り既二老翁井邊ノ椋本二現出スル也。示日吾則猿田彦大神ナリ。,日本武尊ヲ導ント欲シテ此処二臨ムナリ。日本武尊再拝立焉。日本武尊神二誓ヒ東國多叛ノ夷賊等王化二背クモノ之ヲ討チ安キニ置ハ井椋神祠ヲ作ラシムナリ。忽チ神慮ヲ垂ヨ焉。時アリ風ヲ起シ霧ヲ擬ヒ雲ヲ佛ヒ山鳴り瞼路ヲ披ク。偉哉於是漸ク群臣等進ムコトヲ得テ大二賊徒ヲ討チ軍功アラハルナリ。日本武尊喜日是則大神庇護ヲ垂ルナリ。故二之ヲ謝テ神祠ヲ造立シ永ク鎭座ト爲サシムル焉。則チ井椋宮是也。亦井椋ノ本之ヲ明光場ト謂フ。本社二十町ヲ隔ツ称テ井椋社ト日フナリ。亦当社ノ西二當り櫻ノ大樹アリ、之ヲ奥ノ院ト云。井椋塚アリ。今則畠ノ中ニシテ旧井戸アリ。今民間二用ユ。亦日本武尊鉾ヲ以テ神体ト爲シ猿田彦大神ヲ祠り給フナリ。彼光耀飛立ル所則赤井坂現今華表ノ左側二在ル焉。

                                                                                                               神社に伝わる縁起

  境内には神明神社、天満神社、諏訪神社、稲荷神社、庖瘡神、産泰神社等、境内社が鎮座している.
   
              
                                            八幡宮 本殿と共に秩父市指定文化財

 
また椋神社は「龍勢祭り」でも有名である。
 龍勢祭り 毎年 10月第2日曜日

 人皇13代景行天皇の御宇皇子日本武尊詔を奉載して東征の砌当地を御通りに相なり山深く霧巻き覆い行く先を知らず暫し止り給うに持ち給へる御鉾より奇しき光 り飛んで止まりたるを怪みて其の方に至れば井泉の傍らなる椋の大樹の側に当に猿田彦大神現われ給い日本武尊を導き奉らんとしてそれより東の方赤井坂まで導 かれ御姿を隠され給う。日本武尊の武威俄に上り平定の功を奏せられ大いに喜び給い御自身の御鉾を御神体として猿田彦大神を祀られ永く東国の鎮守たれと祈請 せられ給う其の御氏子の人々が祭りを永く続け来たり旧古は祭礼当日氏子民が神社の前方吉田河原でで火を炊き其の火のついた木を投げて御神慮を慰め奉りしを 例とす。火薬が出来るに及んで火薬に依って火の光を飛ばすことを工夫し現在の特殊の煙火龍勢となり永く奉納されるに至る。竜勢の製造法は松の生木を伐って 円筒を作り竹のたがを掛けて堅く造った物へ火薬を極く固く詰め詰めの終わりの方は塞いで詰め始め即ち下の方から錐で穴を明けこれに導火薬を挿入するもので 之れに矢柄と云って竹を付けるが此の■は竜勢が垂直に上って狂いのない様にするためであり、なるべく長い方が素性よく上り勝ちになる。而して揚げるには八 間位の櫓を造り其の上方部に四角の金棒を渡し竜勢を此の金棒に掛けて導火線を長くつないで櫓の下方から点火する此金棒の水平こそ極めて肝要であり直立して 上れば櫓の側へ矢柄が落ちるので金棒を僅か傾け下方に針金を引いて矢柄を少し傾けて櫓から放れて落下する様に調節する。新調に実施する故事故もなく恒例の 行事として現在にに至る。竜勢煙火を好み給う御祭神の御神徳と竜勢を好む氏子の赤誠と練達と相一致して完全に遂行することが出来たのである。白煙を噴いて 中天高く上昇する竜勢はさながら龍の昇天を思わせ豪壮に極まりなく日本国が生んだ貴い文化財である。昭和39年9月29日吉田町指定民俗資料となり昭和 52年3月29九日埼玉県選択無形民俗文化財となる。誠に古田町が誇るに足る文化財であり、茲に氏子崇敬者一同石に刻して記念碑を建設し永く此の栄誉を後世に伝えるものである。
昭和54年10月 5日
延喜式内椋神社宮司 引馬慧書
吉田町龍勢保存会長 和久井完
                       

  椋神社本来「倉」であり、「くら」神社と読んでいたが、他地域の人々が「むく」神社と呼んだ為に改称したという
。では「倉」とはどのような意味があるのだろうか。以下のことを記述している書物があるので参考資料としたい。

倉 クラ 蔵、倉、椋のクラは、古代朝鮮語で銅(アカガネ)のことを言う。韓半島南部の金海地方にある弁辰の金官加耶は鉄・銅の大生産地で王族も鍛冶師首領の金氏である。三国志・東夷伝弁辰条に「国は鉄を出す。韓、濊、倭、皆従て之を取る。諸市買ふに皆鉄を用ふ。又、以て二郡に供給す」と見ゆ。加耶は加羅と称す。金海の弁辰安耶は安羅と称す。弁辰狗耶国(今の金海市)は狗羅(クラ)と称す。三国志・倭人伝に「郡(楽浪・帯方)より倭に至るには、海岸に循(めぐ)って水行し、韓国を歴て、乍は南し乍は東し、其の北岸狗耶韓国に到る七千余里」と見ゆ。此の狗耶国の渡来人は鍛冶・鋳物等を業として、其の居住地を倉、久良岐、倉田、倉林等の地名を付けた。

 
この地域には武蔵国山岳地域に多く存在する鍛冶・鋳物集団の居住地だったらしい。そしてその中の一つの集団は「倉」族と称していた。その後その倉一族は周囲に移住し、その土地に「倉、倉田、倉林、倉持等」の地名をつけたという。

久良岐 クラキ 新羅をシラギと称すと同じで、良、羅はラキと読む。神護景雲二年六月紀に武蔵国久良郡と見え、和名抄に久良郡を久良岐と註す。吾妻鑑卷十六に武蔵国海月(クラゲ)郡と記し、クラキと註す。久良岐郡は弁辰狗耶国の渡来人居住地なり。
倉田 クラタ 田は郡県・村の意味。倉族の集落を倉田と称す。
倉林 クラバヤシ 鍛冶・鋳物師の倉族なり。
倉持 クラモチ 車持君の後裔倉持氏 常陸国真壁郡倉持村(明野町)あり、郡郷考に「倉持は即ち車持なり。姓氏録に、車持公は豊城命八世射狭君の後」と見ゆ。下総国岡田郡蔵持村(茨城県結城郡石下町)、上総国長柄郡蔵持村(千葉県長生郡長南町)あり。是等の地名は上毛野族車持君の一族が居住して名付くと云う。しかし、下総国猿島郡・葛飾郡、武蔵国埼玉郡地方に多く存し、此の地方には車持君の伝承が無い。また、毛野族の本貫地である上野国及び下野国には倉持氏は現存無し。倉持(クラチ)は倉地にて、倉族の居住地なり。車持君とは無関係なり。

 
倉一族についての説明は上記のこと以外、現時点では解っていない。この一族のルーツはどこなのか、またこの記述以降どのような経過を経たのか、少なくとも秩父神社とともに「延喜式神名帳」に誌され、秩父地方においては秩父神社に次ぐ官社だといわれている歴史のある由緒正しい社を創建した一族である。元亀年中武田信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失した、とのことだがそれでも何か残されていないのだろうか。隠された歴史が解明される日が訪れるのだろうか。 


 

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秩父神社

    武蔵国秩父郡は武蔵国の西北部の山岳地帯に位置し、1,000~2,000m級の山々が連なっている。四囲は、児玉、那賀、男衾、比企、入間、高麗、多摩の各郡と甲斐、信濃、上野の各国と接している。おおむね現秩父市、秩父郡に属する町村、飯能市西部の吾野地区、入間郡名栗村の地域で、『和名抄』は「知々夫」と訓じている。古代には、良質な馬産地かつ銅産地であり、それを財政的な基盤にして国造(知知夫国造)や桓武平氏流秩父氏の輩出をみた。
 令制国の制定以前には、知知夫国(ちちぶのくに)として独立した存在であった時期も存在していたことは『先代旧事本記』の巻1「国造本記」に垂神天皇朝に八意思金命10世孫の知知夫彦が知知夫国造に任じられ、大神をお祀りしたと記されていているが、「先代旧事本記」自体を偽書扱いする意見もあるので真偽の程は不明である。
 この「ちちぶ」の語源はハッキリ解っておらず、(1) 「知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)」の支配する国名から、 (2) 「チチ(銀杏)・ブ(生)」で銀杏の生える地の意、 (3) 秩父山中の鍾乳洞の石鍾乳(いしのち)の形から、 (4) 「茅萱」の生える地の意、 (5) 「チ(多数を表す接頭語または美称)・チブ(崖地)」の意など多くの説がある。

    
 所在地     埼玉県秩父市番場町1-3

     主祭神     八意思兼命   (政治、学問、工業、開運の祖神)
            知知夫彦命   (秩父地方開拓の祖神)
            天之御中主神  (北辰妙見として鎌倉時代に合祀)
             秩父宮雍仁親王(昭和天皇の弟宮、昭和28年に合祀)
     社  格     式内社(小)・国幣小社・別表神社・知知夫国新一の宮・武蔵国四の宮
     創  建     垂神天皇10年(紀元前87年)
                                            
        
 
 秩父神社は国道140号線「道の駅ちちぶ」を越え、次の上野町交差点を右折し、秩父鉄道の線路を越えるとほぼ正面に鳥居が見えてくる。境内に駐車場があり数十台分の駐車スペースがある。社殿裏側にもあるそうだがそれは今回確認しなかった。
            
 
       鳥居を抜けるとすぐ左側に由来書がある         有名な秩父夜祭の案内板もあった

  秩父神社の歴史は古い。『先代旧事本紀』によれば、創建は崇神天皇の時代までさかのぼる。国造(くにのみやつこ)の知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が祖神の八意思金命(やごころおもいかねのみこと)を祀ったのが、当社の始まりとされている。

 当時の知知夫は現在の秩父および児玉地方をいう。『国造本紀』は知知夫彦命を知知夫の初代国造としている。その後、允恭天皇の御代、知知夫彦命九世孫の知知夫狭手男が知知夫彦を合わせ祀ったという。
秩父神社 由緒書
 悠遠且典雅な神秘に包まれる聖域秩父神社は躍進途上の秩父市の中央に鎮座し秩父三社巡りの三峰、宝登山両神社の中間にあって、古くから秩父総社延喜式内社、関東の古社として知られております。
 御創立は遠く二千有余年前、崇神天皇の御代秩父国造の始祖知知夫彦命が命の御祖神八意思金命を奉斎しました時と記録されております。その後東国の山域にも武家の勃興と共に漸く文化も開け、平安中期以降神仏習合の妙見信仰が加わりました。上下の尊崇、別けても朝廷の御崇敬は極めて篤く神階正四位下に進み武家の崇敬も深く現在の御社殿は戦国末期に兵火に炎上しましたのを徳川家康公が造営を進めたものです。当時の棟札が社宝とし保存されてあります。昭和三年十一月御即位の当日県社から国幣社に列格いたしました。畏くも、大正天皇は第二皇子雍仁親王殿下の宮家御創立に当り秩父宮家の称号を御宣賜あらせられ、その年殿下は親しく御奉告のため御参拝なされて乳の木壱樹を御手植えなされましたが、今は亭々として生い茂って参りましたところ、先年、宮様の薨去遊ばされるや御遺徳を偲びまつる郡市民は御由緒も深いこの聖域に御尊霊を御奉斎申し上げました。
 先年は貞明皇后、高松宮殿下の御参拝を辱うしております。なお、秩父宮妃殿下の御参拝を戴き、秩父神社復興奉賛事業完遂奉祝祭(昭和四十七年十月五日)を斎行しましたが、お歌を賜りました。
  神垣も新になりて みゆかりの 秩父のさとわ いよよ栄えむ
                    
                               神楽殿
                     
                               神  門
                     
                               拝  殿
 
 西暦708年、近くの秩父黒谷の地で自然銅が発見され、朝廷に献上された。朝廷はこれを慶事として、慶雲5年を和銅元年に改元したことはよく知られている。和銅発見以来、この地は朝廷とは深い関係にあつたようだ。しかし知知夫の国が武蔵の国に併合されて秩父郡となった後、『延喜式』神名帳に秩父郡の小社として社名が見えて以降、文献からこの社は消えてしまい、代わりに平安時代中期になって妙見信仰が導入されると、秩父神社は「妙見宮」、「妙見社」と称さ れるようになり、中世以降は関東武士団の源流、秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し長く「秩父妙味宮」として隆盛を極めた

             
                         絢爛豪華な秩父神社 本殿
 
 明治になって神仏分離令によって、社名は「秩父神社」に復した。昭和3年(1928)には、県社から国弊社に社格が上げられた。昭和28年(1953) 12月には、秩父宮殿下の霊を奉斎し、祭神として合祀した。秩父宮殿下を合祀したのは、大正天皇の第二子・雍仁親王(やすひとしんのう)の宮家創立にあた り、秩父宮家の称号が採用されたことによる。秩父宮家が創立された年、親王は当社に参拝し、宮家創設を報告されるとともに、乳の木の植樹をなされたという

 また本殿の裏には天神地祇社が鎮座している。全国の一の宮が祀られていて、全てに参拝すれば全国の一の宮へ参拝したことになるそうだ。
                
                                               秩父神社の裏にある天神地祇社

 ところで「秩父」の語源、祭神に関して奇妙な記述がある書物があり、参考資料として紹介したい。

秩父 チチブ 
 
続日本紀・和銅元年正月条に「武蔵国秩父郡献和銅、故改慶雲五年而、和銅元年為而御世年号止定賜」と、秩父郡からの和銅献上にちなみ、年号を和銅と改めるとあり。平城宮跡出土木簡に「天平十七年、武蔵国秩父郡大贄鼓一斗」と見ゆ。承平五年和名抄に秩父郡を知々夫と註す。チチブの名義について記す。日本書紀仲哀天皇八年条に栲衾新羅国。万葉集に多久夫須麻新羅。播磨国風土記に白衾新羅国。出雲国風土記に栲衾志羅紀と見ゆ。栲衾(たくぶすま)は、梶や楮などの木の皮の繊維で織った綿布の夜具で、白いから新羅(しら)の枕詞に使われた。先代旧事本紀卷三・天神本紀に「高皇産霊尊の児思兼神の妹・万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命を妃と為して、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を誕生す」と。日本書記には、栲幡千々姫(たくはたちちひめ)、万幡姫(よろづはたひめ)、栲幡千幡姫(たくはたちはたひめ)、栲幡千千姫万幡姫命(たくはたちちひめよろづはたひめのみこと)、天万栲幡千幡媛(あめのよろづたくはたちはたひめ)と、この姫神は異伝が多いが、秩父国造の祖・思兼神(おもいがねのかみ)の兄弟の万幡は多くの機織、豊秋津師は織物のすぐれた布、千々は多くの幡。千々布(ちちぶ)は布(はた)の数が多いの意味で、八幡(やはた、はちまん)の八も多いの意味である。地名辞書(吉田東吾著)に「此郡(秩父郡)崇神天皇十四年十二月、知々夫彦命を国造とし、美濃国不破郡引常の丘(岐阜県垂井町)より倭文部・長幡部を率い来り、民に養蚕を教へ大いに機織の術を開く、故に其名に因て秩父の国と称す」と見ゆ。栲幡・即ち新羅国出身の思兼神の子孫知々夫彦は織工集団の首領であり、居住地を八幡荘と唱へ、織工の奉斎神である八幡社を祀る。後世秩父氏は八幡社を氏神とし、新羅の白旗を用いる。秩父郡へ鎌倉八幡宮を勧請したわけでも無く、源氏の白旗以前から此の旗を用いていた。(中略)

 ここでは最初に正史に記された文献資料の紹介と、概略を説明してから、「白」の語源を「新羅」(しら)として、白旗も新羅が発祥であること、源氏よりも早く使用していたことを記述している。また先代旧事本記を引用して、ニギハヤヒ尊の出生も説明している。
 さて次から問題の記述が始まる。

一 秩父国造 秩父郡は古代の秩父国なり。古代氏族系譜集成に「八意思兼命―天表春命―阿豆佐美命―加祢夜須命―伊豆?命―阿智別命―阿智山祇命―味見命(秩父国造祖)、弟味津彦命(信濃阿智祝祖)」と見ゆ。延喜式神名帳の阿智神社(長野県下伊那郡阿智村智里)の祭神は思兼命と天表春命にて、思兼命を曲尺・工匠の神として建築業者の信仰となっている。先代旧事本紀卷三・天神本紀に「三十二人を令て並て防衛と為し、天降し供へ奉らしむ。八意思兼神の児、表春命・信乃阿智祝部等祖、天下春命・武蔵秩父国造等祖」。卷十・国造本紀に「知々夫国造。瑞籬朝(崇神天皇)の御世、八意思金命の十世の孫、知知夫彦命を国造(くにのみっこ)に定め賜ふ。大神(おおがみ)を拝詞(いつきまつる)る」と見ゆ。八意思金命(やごころおもいかねのみこと)は、高天原第一の智者と云われるが、思金は重い鉄(くろがね)の意味で鉱山鍛冶師の首領である。子孫の加祢夜須命の金安も鉱山師の意味がある。知々夫彦命は代々の襲名で数代・数百年の人名である。

 思兼命は古事記や日本書紀においては
「思慮」、「かね」は「兼ね備える」の意味で、「数多の人々の持つ思慮を一柱で兼ね備える神」で、思想や思考、知恵を神格化したものと考えられている。「八意」(やごころ)は多くの知恵という意味であり、また立場を変えて思い考えることを意味する。高天原の知恵袋といっても良い存在であったはずの神であるのに対して、長野県阿智神社では曲尺、工匠、建築業者の神として登場しており、国造本記では「八意思金命」と一字違いの名前。とはいえ「金」という鉱山に関する名称としてふさわしいし、その鉱山鍛冶師の首領という。
 この段において、思兼命は記紀とは全く違った系図の人物として登場している。また。『先代旧事本紀』によれば、信之(信濃)阿智祝と秩父国造の祖神とされているが、信濃国は有名な諏訪大社のお膝元で、記紀で記す思兼命と諏訪大社の祭神建御名方神は敵対関係だったはずだ。

二 祭神の大神 

 知々夫彦命は「大神を拝詞る」とあり、大神とは何神であろうか。風土記稿・妙見社条に「当社は神名帳に載せたる秩父神社なり。祭神は知々夫彦命とも、大己貴尊とも云ふ。当今の縁起には大和国三輪大明神を写など記して其説定かならず」と。秩父郡誌に「大神とは果たして何神なるべきか、知知夫彦命が御自らの祖なる八意思兼命を祀られしなるべきか。吉田東吾博士は『崇神の朝、国造を置きたまひし時より国神の祭らしめられしなれば、祭神大己貴命なること疑なかるべし』と論定す。現今県社秩父神社は八思兼命・知知夫彦命を祭神とし、大国主命・素戔鳴尊を配祀せり」と。しかし、延喜式には「秩父神社、一座」と見え、祭神は一柱であった。出雲国風土記には大己貴命(おおなむちのみこと)を大神と称している。別名大物主命、或は大国主命とも云われる。崇神紀に「三輪山の大物主命は腰紐ほどの蛇になって、とぐろを巻いていた」とあり。蛇は大物主命の化身で鍛冶神なり。常陸国風土記逸文・大神の駅家条に「新治郡駅家、名を大神と曰ふ。然称ふ所以は、大蛇(おおかみ)多に在(す)めり。因りて駅家に名づく」と。日本書紀・神代上に「思兼神、石凝姥を以ちて冶工とし、天香山の金を採りて日矛に作る。又真名鹿の皮を全剥にして、天羽鞴(風を起すふいご)に作る。此を用いて造り奉る神は、是即ち紀伊国に坐します日前神なり」と見ゆ。和歌山市秋月の日前国懸神宮の祭神は日前神宮(ひのくま)が日前大神を主神として相殿に思兼命・石凝姥命(鍛冶集団の部族長)を祀り、国懸神宮(くにかかす)が国懸大神を主神として相殿に玉祖命・天御影命・鈿女命(三命は鍛冶神)を祀る。国懸神は寛文九年刊本の日本書紀にはカラクニカラノカミと註す。日本書紀持統天皇六年条に紀伊大神は朝廷から「新羅調」を奉られている。日本書紀・宝剣出現条に素戔鳴尊の子・五十猛命を「即紀伊国所坐大神是也」と見ゆ。以上のことから、大神は天照大神では無く、其地の氏族が奉斎した祖先神である。更級日記に「武蔵国武芝寺あり、ははさうなどいふ所あり」と。足立郡大宮町氷川神社であり、葉葉染(ははそ)の古語は蛇である。秩父神社の社殿が立っている所を「母巣ノ森」と称す。ハハソと云う。妙見宮縁起に「允恭天皇の三十四とせ丁亥ともふすに、命(知々夫彦)の九かえり遠つ世継(九世の子孫)の狭手男臣(さておのおみ)をあげもふして、詔旨を蒙りたうへて、遠き御祖(みおや)の御璽を葉葉染の杜にまつらひ給ふ、此時始めて知知夫神社と請しまつり給ふ也」と見ゆ。秩父神社夜祭に縄蛇を榊樽に巻きつけている。知々彦命は祖先神の鉱山鍛冶師首領思金命を大神として斎き祭り、其の地をハハソの杜と称した。

 この記述をどのように解釈するか。これ以降の説明は長くなるので別稿にて説明したい。ただ少なくとも知知夫国造の出現以前の秩父地方の歴史のページの一端がここに覗かさている。




 



 



 

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