栃谷八坂神社
その流派は、中世には本山派(天台系)と当山派(真言系)に大きく二分され、並び称されるようになったが、いち早く室町時代に地方の修験を掌握し、全国的な勢力を確立したのは本山派で、このことは、武蔵国も同様で、早くから展開し盛行したのは本山派の修験寺院であった。
秩父地域でも当山派に比べ、本山派の里修験の坊数が圧倒的に多いことがわかっていて、数でみると,当山派の7坊,羽黒派の3坊に対して、本山派は40坊を数える。
・所在地 埼玉県秩父市栃谷404
・ご祭神 伊弉諾命 素戔嗚尊 建御名方神 崇徳天皇
・社 格 旧栃谷村鎮守 旧村社
・例祭等 例大祭 七月最終日曜日
皆野町三沢八幡大神社から埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線を南下すること2㎞程、進行方向右手に「秩父三十四ヶ所観音霊場札所一番 四萬部寺」の駐車場が見え、そこを通り過ぎた直後のY字路を右折すると、すぐ右側に栃谷八坂神社が見えてくる。地図を確認すると四萬部寺とは隣接している位置関係にあるといえよう。
社の西側近隣に「栃谷集会所」があるが、正面駐車スペースにはロープが敷かれているため駐車不可能。そのため、社の正面鳥居前の僅かな路肩に急遽路駐して急ぎ参拝を開始する。
栃谷八坂神社正面
『日本歴史地名大系 』「栃谷村」の解説
山田村の北に位置し、東は定峰村、北は三沢村(現皆野町)。川越秩父道が通る。かつて栃の木の多かったことが村名の起りと伝え、橡谷とも記した(風土記稿)。田園簿によれば高一三八石余、此永二七貫七六〇文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、同藩領で幕末に至った。元禄郷帳では高二四七石余、寛文三年・同七年・同九年と新田検地が行われ、享保二〇年(一七三五)には定峰村入山続きの二四町二反余の地が開かれ高入れされている(風土記稿)。天明六年(一七八六)の秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると反別は田四町四反余・畑六四町五反余。
鳥居を過ぎた先の石段手前で左側に設置された 綺麗に整備された石段を上り終えた先に
栃谷の笠鉾三基の有形文化財指定碑 正面に社殿が鎮座している。
当社の大祭は、創建当時は6月25日であったと伝えられるが、その後、長い間旧暦の正月7日に行われるようになり、更に、大正期に現在の7月30日(最終日曜日)に変更された。
大祭は俗に「栃谷の祇園」と呼ばれ、多数の参詣者でにぎわうという。祭礼の中心は上郷・中郷・下郷の三基の笠鉾の引き回しである。各組ごとに飾り花が違い、上郷は梅、中郷は桜、下郷は桃で笠鉾を飾る。依代(よりしろ)としては、上郷は幣束、中・下郷はお天道様を立て、万灯には「八坂神社」「産業振興」「五穀豊穣」など、その年の祈願文が書かれる。
笠鉾は当日の午前8時ごろに各組の笠鉾蔵を出発し、札所一番の下の辻に三基が出会う。ここで神職のお祓いを受けた後、各組の笠鉾に神職・総代が乗り込み、上郷の笠鉾を先頭に秩父囃子の調べにのって栃谷八坂神社に向かう。午前11時、曳き付けと称して笠鉾が神社境内に並び、祭典が執行され、午後からは舞台で歌舞伎芝居が上演される。夕闇の中、笠鉾のボンボリに一斉に灯がともされ、露店の裸電球にも灯が入れられるころ、にぎわいは最高潮に達する。夜9時になると、花火が打ち上げられる中。笠鉾は再び札所一番の辻へ曳き返され、祭りは終焉を迎えるという。
栃谷の笠鉾三基は、昭和59年6月27日、秩父市指定有形民俗文化財に指定されている。
拝 殿
見晴らしの良い高台に鎮座している社殿
この辺りは如何にも山国の秩父の雰囲気が感じられる長閑で美しい風景が広がっている。
境内に設置されている案内板
八坂神社御由緒 秩父市栃谷四〇四
◇修験が祀った栃谷を護る天王様
社記によると、当社は、元は榛名神社と称し、神亀元年(七二四)、橡谷村開発の成功を祈って、修験の森谷某が村の西北の嶺に祠を建て、伊弉諾尊尊・建速素戔嗚尊の二柱を祀ったことに始まるという。その後、歳月を経るとともに里人の信仰は益々厚くなり、氏子繁栄・五穀豊穣の守護神として仰がれて来た。更に一千有余年の歳月を経た寛政二年(一七九〇)のころ、参詣者の増加に伴い、山上の傾斜地にある従来の境内では狭く、混雑をきたすところから、村の中央の字嶋府杉の嶺と称する地を選んで祠を建立し、山上の榛名神社には伊弉諾尊のみを残し、素戔嗚尊並びに境内末社をこの地に遷座し、末社琴平神社を新たに加え、「天王社」と称するようになったという。
明治四年に村社となり、社号を八坂神社と改めた。また、同四〇年(一九〇七)には、旧社地に残した字曾根坂の榛名神社をはじめ、字腰の山ノ神社・字島府の諏訪神社・字越腰山の琴平社などを合祀した。
例大祭は、「栃谷の祇園」とも呼ばれており、三基の笠鉾が曳き回され、多くの参詣者で賑わいをみせている。(以下略)
社殿手前左側にある石製五重塔 石製五重塔の右隣に祀られている磐座
社殿の左側隣に祀られている境内社・稲荷 秋葉社(写真左・同右)
社殿の右側隣に祀られている境内社・三社社 天神社 琴平社(写真左・同右)
ところで、秩父地域における本山派の里修験は、おおよそ越生(硯・越生町)の山本坊・秩父大宮(硯・秩父市)の今宮坊・三峰山観音院の3坊の先達の配下となっていた。先達は,本山の聖護院と霞内に居住する里修験との取り次ぎ役であり,霞内の里修験から上納金などを取り立てる権利をもっていた。
因みに本山派修験における霞とは、個々の山伏の活動圏(縄張り)を「霞」と称し、その上に地方行政上の一〜二郡ごとに郡内の霞を統括する有力な山伏を年行事として聖護院門跡が補任した。「年行事」山伏は、郡内の山伏を形式的に支配するのみならず、彼等が熊野先達として民間に檀家を持っていた関係上、その檀家相互の契約得分についても管理権を持っており、当該地域において絶大な支配権を握っていた。年行事以下の山伏の霞の範囲は基本的に聖護院門跡によって定められ、奏者が伝える御教書形式で代々安堵されていた。
このような地方組織の掌握に努めたことから勢力拡大が進展したが、これに圧迫された真言宗系の当山派との対立が深まっていく。
慶長年間に袈裟を巡って本山派と当山派が対立を起こすと、慶長18年(1613年)に江戸幕府から聖護院と当山派が本寺と仰ぐ三宝院に対して修験道法度が出され、一派による独占は否定され、両派間のルールが定められた。これは「霞」に対する規制をかけたもので、本山派には不利であったが、それでも江戸時代を通じて本山派の方が優勢の状態が続き、法頭とされた聖護院の下に院家-先達-年行事-直末院-准年行事-同行といった序列が整備されたという。
高台に鎮座する社殿より石段下の様子
鳥居のほぼ正面の先には武甲山が見える。
社記によると、当社は神亀元年(724)、橡谷村開発の成功を祈って、修験の「森谷某」が村の西北の嶺に祠を建て、伊弉諾尊尊・建速素戔嗚尊の二柱を祀ったことに始まったという。その後、寛政2年(1790)参詣者の増加に伴い、山上の傾斜地にある従来の境内では狭く、混雑をきたすところから、修験の「森谷栄長」が村の中央の字嶋府杉の嶺と称する地を選んで祠を建立し、建速素戔嗚尊と境内末社を当地に遷座、末社琴平神社を新たに祀り天王社と称したという。
創建時期とされる神亀元年(724)の真偽はともかく、この森谷家はこの栃谷地域に代々土着していた一族であることは間違いない。そして、どの時代においても「修験」と明記されていて、この地の有力な山伏(霞)であったのであろう。
というのも、「埼玉の神社」において、森谷家は、『新編武蔵風土記稿』に載る本山派修験大宮郷今宮坊配下の大宝院において、神仏分離まで当社の祭祀を続けたと伝えられ、現在でもその跡地には法印屋敷と呼ばれる地名が残っている。なお、当社には、享保四年・宝暦七年・天明元年の聖護院発給による院号・着衣の許状八通が所蔵されという。
社の西側にある栃谷八坂神社舞台
栃谷八坂神社舞台 (国)登録有形文化財 令和2年9月10日登録
この建物は、地芝居(農村歌舞伎)のための舞台で、八坂神社境内西側の広場に建っており、棟札から明治32年の建築であることが読み取れる。建物は、寄棟造桟瓦葺の平屋建、正面は出桁造とし、差物を通して全面開放が可能である。舞台は前二間を表、奥三間を裏とし、裏には可動式の二重舞台を備えている。二重舞台は土台下端に車輪が設けられ、中央は前後、両脇は左右に動くようになっている。また、舞台両側面の框(かまち)には下座(本芸座・仮芸座)を設けるための枘穴(ほぞあな)が確認できる。様々な舞台設定・演出を可能とする二重舞台や、他の舞台に見られない豪華な彫刻が施されている下座の意匠など、市内に現存する数少ない歌舞伎舞台の一つとして、地域の地芝居舞台の変遷を追う上で貴重な存在である。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「秩父市HP」
「Wikipedia」「境内案内板」等