古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

栃谷八坂神社

 修験道とは、日本古来の山岳信仰と仏教の密教的信仰が結びつき、さらに神道儀礼なども取り入れた宗教である。その行者である修験者は、山野に臥し苦修練業(くしゅれんぎょうして)呪術を体得した者である。従って修験は山岳地帯を中心に発達したが、関東平野に展開する武蔵国では平地に寺院を構えていた点に特色がある。彼らは中世から近世にかけて村落に定着し、神社の勧請(かんじょう)や民間信仰に深く関係したため、里修験・里山伏などと呼ばれた。
 その流派は、中世には本山派(天台系)と当山派(真言系)に大きく二分され、並び称されるようになったが、いち早く室町時代に地方の修験を掌握し、全国的な勢力を確立したのは本山派で、このことは、武蔵国も同様で、早くから展開し盛行したのは本山派の修験寺院であった。
 秩父地域でも当山派に比べ、本山派の里修験の坊数が圧倒的に多いことがわかっていて、数でみると,当山派の7坊,羽黒派の3坊に対して、本山派は40坊を数える。
        
             
・所在地 埼玉県秩父市栃谷404
             
・ご祭神 伊弉諾命 素戔嗚尊 建御名方神 崇徳天皇
             
・社 格 旧栃谷村鎮守 旧村社
             
・例祭等 例大祭 七月最終日曜日
 皆野町三沢八幡大神社から埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線を南下すること2㎞程、進行方向右手に「秩父三十四ヶ所観音霊場札所一番 四萬部寺」の駐車場が見え、そこを通り過ぎた直後のY字路を右折すると、すぐ右側に栃谷八坂神社が見えてくる。地図を確認すると四萬部寺とは隣接している位置関係にあるといえよう。
 社の西側近隣に「栃谷集会所」があるが、正面駐車スペースにはロープが敷かれているため駐車不可能。そのため、社の正面鳥居前の僅かな路肩に急遽路駐して急ぎ参拝を開始する。
        
                  栃谷八坂神社正面
『日本歴史地名大系 』「栃谷村」の解説
 山田村の北に位置し、東は定峰村、北は三沢村(現皆野町)。川越秩父道が通る。かつて栃の木の多かったことが村名の起りと伝え、橡谷とも記した(風土記稿)。田園簿によれば高一三八石余、此永二七貫七六〇文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、同藩領で幕末に至った。元禄郷帳では高二四七石余、寛文三年・同七年・同九年と新田検地が行われ、享保二〇年(一七三五)には定峰村入山続きの二四町二反余の地が開かれ高入れされている(風土記稿)。天明六年(一七八六)の秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると反別は田四町四反余・畑六四町五反余。
 
鳥居を過ぎた先の石段手前で左側に設置された       綺麗に整備された石段を上り終えた先に
   栃谷の笠鉾三基の有形文化財指定碑          正面に社殿が鎮座している。

 当社の大祭は、創建当時は6月25日であったと伝えられるが、その後、長い間旧暦の正月7日に行われるようになり、更に、大正期に現在の7月30日(最終日曜日)に変更された。
 大祭は俗に「栃谷の祇園」と呼ばれ、多数の参詣者でにぎわうという。祭礼の中心は上郷・中郷・下郷の三基の笠鉾の引き回しである。各組ごとに飾り花が違い、上郷は梅、中郷は桜、下郷は桃で笠鉾を飾る。依代(よりしろ)としては、上郷は幣束、中・下郷はお天道様を立て、万灯には「八坂神社」「産業振興」「五穀豊穣」など、その年の祈願文が書かれる。
 笠鉾は当日の午前8時ごろに各組の笠鉾蔵を出発し、札所一番の下の辻に三基が出会う。ここで神職のお祓いを受けた後、各組の笠鉾に神職・総代が乗り込み、上郷の笠鉾を先頭に秩父囃子の調べにのって栃谷八坂神社に向かう。午前11時、曳き付けと称して笠鉾が神社境内に並び、祭典が執行され、午後からは舞台で歌舞伎芝居が上演される。夕闇の中、笠鉾のボンボリに一斉に灯がともされ、露店の裸電球にも灯が入れられるころ、にぎわいは最高潮に達する。夜9時になると、花火が打ち上げられる中。笠鉾は再び札所一番の辻へ曳き返され、祭りは終焉を迎えるという。
 栃谷の笠鉾三基は、昭和59年6月27日、秩父市指定有形民俗文化財に指定されている。
        
                    拝 殿
             見晴らしの良い高台に鎮座している社殿
   この辺りは如何にも山国の秩父の雰囲気が感じられる長閑で美しい風景が広がっている。
        
                         境内に設置されている案内板
 八坂神社御由緒   秩父市栃谷四〇四
 ◇修験が祀った栃谷を護る天王様
 社記によると、当社は、元は榛名神社と称し、神亀元年(七二四)、橡谷村開発の成功を祈って、修験の森谷某が村の西北の嶺に祠を建て、伊弉諾尊尊・建速素戔嗚尊の二柱を祀ったことに始まるという。その後、歳月を経るとともに里人の信仰は益々厚くなり、氏子繁栄・五穀豊穣の守護神として仰がれて来た。更に一千有余年の歳月を経た寛政二年(一七九〇)のころ、参詣者の増加に伴い、山上の傾斜地にある従来の境内では狭く、混雑をきたすところから、村の中央の字嶋府杉の嶺と称する地を選んで祠を建立し、山上の榛名神社には伊弉諾尊のみを残し、素戔嗚尊並びに境内末社をこの地に遷座し、末社琴平神社を新たに加え、「天王社」と称するようになったという。
 明治四年に村社となり、社号を八坂神社と改めた。また、同四〇年(一九〇七)には、旧社地に残した字曾根坂の榛名神社をはじめ、字腰の山ノ神社・字島府の諏訪神社・字越腰山の琴平社などを合祀した。
 例大祭は、「栃谷の祇園」とも呼ばれており、三基の笠鉾が曳き回され、多くの参詣者で賑わいをみせている。(以下略)
 
   社殿手前左側にある石製五重塔        石製五重塔の右隣に祀られている磐座
   
      社殿の左側隣に祀られている境内社・稲荷 秋葉社(写真左・同右)
 
      社殿の右側隣に祀られている境内社・三社社 天神社 琴平社(写真左・同右)

 ところで、秩父地域における本山派の里修験は、おおよそ越生(硯・越生町)の山本坊・秩父大宮(硯・秩父市)の今宮坊・三峰山観音院の3坊の先達の配下となっていた。先達は,本山の聖護院と霞内に居住する里修験との取り次ぎ役であり,霞内の里修験から上納金などを取り立てる権利をもっていた。
 因みに本山派修験における霞とは、個々の山伏の活動圏(縄張り)を「霞」と称し、その上に地方行政上の一〜二郡ごとに郡内の霞を統括する有力な山伏を年行事として聖護院門跡が補任した。「年行事」山伏は、郡内の山伏を形式的に支配するのみならず、彼等が熊野先達として民間に檀家を持っていた関係上、その檀家相互の契約得分についても管理権を持っており、当該地域において絶大な支配権を握っていた。年行事以下の山伏の霞の範囲は基本的に聖護院門跡によって定められ、奏者が伝える御教書形式で代々安堵されていた。
このような地方組織の掌握に努めたことから勢力拡大が進展したが、これに圧迫された真言宗系の当山派との対立が深まっていく。
 慶長年間に袈裟を巡って本山派と当山派が対立を起こすと、慶長18年(1613年)に江戸幕府から聖護院と当山派が本寺と仰ぐ三宝院に対して修験道法度が出され、一派による独占は否定され、両派間のルールが定められた。これは「霞」に対する規制をかけたもので、本山派には不利であったが、それでも江戸時代を通じて本山派の方が優勢の状態が続き、法頭とされた聖護院の下に院家-先達-年行事-直末院-准年行事-同行といった序列が整備されたという。
        
             高台に鎮座する社殿より石段下の様子
             鳥居のほぼ正面の先には武甲山が見える。

 社記によると、当社は神亀元年(724)、橡谷村開発の成功を祈って、修験の「森谷某」が村の西北の嶺に祠を建て、伊弉諾尊尊・建速素戔嗚尊の二柱を祀ったことに始まったという。その後、寛政2年(1790)参詣者の増加に伴い、山上の傾斜地にある従来の境内では狭く、混雑をきたすところから、修験の「森谷栄長」が村の中央の字嶋府杉の嶺と称する地を選んで祠を建立し、建速素戔嗚尊と境内末社を当地に遷座、末社琴平神社を新たに祀り天王社と称したという。
 創建時期とされる神亀元年(
724)の真偽はともかく、この森谷家はこの栃谷地域に代々土着していた一族であることは間違いない。そして、どの時代においても「修験」と明記されていて、この地の有力な山伏(霞)であったのであろう。
 というのも、「埼玉の神社」において、森谷家は、『新編武蔵風土記稿』に載る本山派修験大宮郷今宮坊配下の大宝院において、神仏分離まで当社の祭祀を続けたと伝えられ、現在でもその跡地には法印屋敷と呼ばれる地名が残っている。なお、当社には、享保四年・宝暦七年・天明元年の聖護院発給による院号・着衣の許状八通が所蔵されという。
        
                         社の西側にある栃谷八坂神社舞台
 栃谷八坂神社舞台 (国)登録有形文化財 令和2910日登録
 この建物は、地芝居(農村歌舞伎)のための舞台で、八坂神社境内西側の広場に建っており、棟札から明治32年の建築であることが読み取れる。建物は、寄棟造桟瓦葺の平屋建、正面は出桁造とし、差物を通して全面開放が可能である。舞台は前二間を表、奥三間を裏とし、裏には可動式の二重舞台を備えている。二重舞台は土台下端に車輪が設けられ、中央は前後、両脇は左右に動くようになっている。また、舞台両側面の框(かまち)には下座(本芸座・仮芸座)を設けるための枘穴(ほぞあな)
が確認できる。様々な舞台設定・演出を可能とする二重舞台や、他の舞台に見られない豪華な彫刻が施されている下座の意匠など、市内に現存する数少ない歌舞伎舞台の一つとして、地域の地芝居舞台の変遷を追う上で貴重な存在である。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「秩父市HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
            

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寺尾諏訪神社

 秩父市寺尾地域は、現在の行政区域において南北7㎞程、東西1.2㎞で、蛇行しながら北東方向に流れる荒川にて東側の境として、南西方向から北東方向に斜めに伸びた長い地域である。「秩父誌」によると、寺尾という地域名は、地内に七堂伽藍を有する名刹があり、この寺の前後に村落をなしていたのがこの地名の由来といわれている。
 この地域北方には、「飯塚・招木古墳群」があり、荒川左岸の寺尾地域の河岸段丘上、飯塚地区に73基、招木地区に53基の古墳が展開する秩父地方最大の群集墳である。径527m、高さ14mの円墳で構成されるが、方墳が存在する可能性もあるという。
 秩父地方でも早くから開発されていた地域の一つであったのであろう。
        
             
・所在地 埼玉県秩父市寺尾1907
             
・ご祭神 建御名方神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 元旦祭 稲荷祭 2月第2日曜日 例大祭 4月第4日曜日
                  
秋祭り 9月第3日曜日 大祓・焼却祭 大晦日
 中蒔田椋神社から国道299号線を南方向に1.2㎞程進むと、進行方向左側下方に寺尾諏訪神社が丁度背を向けているような姿で見えてくる。そのため、一旦社を通り過ぎて回り込むように進み、「JAちちぶ農業協同組合 秩父西支店」がある路地を曲がり、どうにか社の正面にたどり着くことができた
 社は斜面上の丘陵地面を背にして、東向きの日当たりの良い場所に鎮座。正面から見る境内は、社殿の回りを覆う社叢林といい、石段上に鎮座する社の姿といい、その景観は大変見ごたえがある。
             
                   寺尾諏訪神社 社号標柱
『日本歴史地名大系』 「寺尾村」の解説
 大宮郷の北西に位置し、村域は荒川左岸に沿って南北に長く展開する。南は別所村。東は荒川を境に大野原村など。北西は蒔田村、南西は田村郷。秩父巡礼道は対岸の大宮郷から梁場(やなば)渡を経て村内に入り、小鹿坂(おがさか)峠を越え、田村郷へと向かった。
 往古、地内に七堂伽藍を有する名刹があり、この寺の前後に村落をなしていたのが地名の由来と伝える(秩父志)。縄文時代前期・中期の岩陰遺跡がある。現島根県大田市南八幡宮蔵の大永二年(一五二二)銘の経筒に「寺尾住海□(秀カ)」などとの陰刻がある。田園簿に村名がみえ、高四六二石余・此永九二貫四一九文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高七五三石余。享保一八年(一七三三)幕府領に復し(「風土記稿」など)、幕末の改革組合村々取調書では旗本三氏の相給。天明六年(一七八六)の秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると反別は田二七町八反余、畑一七三町一反余で、用水は村内の溜井や渓流から取水。「風土記稿」によると農耕の合間に男は薪とり、女は養蚕や機織などをしていた。

 
 社号標柱の先には境内に続く長い参道があり、途中に木製の重厚感ある一の鳥居が見えてくる(写真左)。一の鳥居を過ぎて200m程ある参道(同右)の先に二の鳥居、及び境内が見える。
        
                         長い参道の先に見える石製の二の鳥居
 境内は程よく日光を一身に浴び、また石段上に鎮座する社殿、それを覆う社叢林との景観が眩いばかりに美しく感じた。 周辺の手入れも行き届いている様子。
       
                              境内から石段上の社殿を見る。

石段の手前で左側に嶋名鰐が巻かれ祀られている   石段手前で右側には社の案内板あり。
      所謂磐座であろうか。
 諏訪神社 御由緒  秩父市寺尾一九〇七
 ◇寺尾は日当たりの良い土地
 寺尾は長尾根丘陵の東側の山麓に開けた農業地帯である。『秩父志』には「此村日ノ照ラスコト早ク...日照尾ト称へシヲ、後二寺尾ノ字ヲ書シ...」と載っている。
 社記に「当社の創建は後三条天皇延久三年(一〇七一)とし、「天正十八年(一五九〇)時の領主鉢形城北条氏邦敗北し、家臣この地に落居して農を営み当社を再興」とある。社蔵文書の中に次の札があり、再建の年代や社僧等が知られる。
「慶安三寅年造立ノ本社去ル明和戌年極年晦日ニ炎上イタシ候ニ付此度地主村役人氏子中寄合ノ砌取極仕是迠ノ通り社僧観音寺領御頼置等ニ而世話人相立御営造立出来仕候為後日氏子中立ち合い書残置申候以上 明和四亥年五日」
 明治五年(一九〇八)に村社となり、同四十一年(一九〇八)には舞台谷の寺尾大神社、永田の諏訪神社、塩谷の諏訪神社を合祀している。境社の稲荷社は天明三年(一七八三)、蚕影社は同七年(一七八七)、泰社は明治七年(一八七四)の勧請である。(以下略)
                                      案内板より引用

       
                                 石段下からの眺め
       
                    拝 殿
 案内板には「天正十八年(一五九〇)時の領主鉢形城北条氏邦敗北し、家臣この地に落居して農を営み当社を再興」とあるのだが、「秩父志」には「寺尾村、此村の内永田と云う所あり、今に南方に土手並門の跡ありて、土手の下涅跡は田となれり。鉢形城家士の内に寺尾彦三郎なる者あり。此地つづき一丁ばかり北に寺尾明神の祠を有せり」との記述がる。
 秩父誌に載せられている「寺尾彦三郎」という人物は、おそらくこの寺尾村出身の人物であろう。武蔵七党・丹党出身かもしれない。また鉢形城家士であったというのだが、案内板にも天正
18年の小田原の役以降に土着した人物は鉢形城家臣であったという。この両者は同人物であったのであろうか。

   拝殿向拝部、木鼻部等の精巧な彫刻      拝殿に掲げてある扁額にも精巧な彫刻が
                               施されている。
       
                    本 殿

      社殿の左側に祀られている境内社・稲荷社(写真左・石段上写真は右側)
  社殿右側に祀られている境内社・合祀社     その手前に設置されている境内碑
 境内碑
 昭和五十年一月氏子の総意により社殿改修を議決し本殿並びに拜殿を銅板葺とし玉垣 末社を改造しなを境内の排水整備をなすことになり其資金とし社有林及び氏子崇敬者の志納金を以ってこれに充て工事を秩父市山田坂本才一郎に土木工事を当所引間又吉に依頼し同年十一月着工し抑年二月完成を見た次第であります
 ここに面目を新たにし神社の興隆と発展を祈念して記念碑を建立し永く後世に傳えんとするものであります
 昭和五十一丙辰年四月吉日(以下略)
     
                境内にある「拝殿改造碑」とご神木(写真左・右)
        
                              社殿から見た境内の一風景
     写真中央は神楽殿か。右側には武甲山が見える。秩父には欠かせない聖なる山だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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伊古田五所神社

 椋神社(むくじんじゃ)は、「延喜式神名帳」に掲載された武蔵国秩父郡の式内社である。
 総本社といえる秩父市下吉田地域に鎮座する椋神社の旧社格は県社。元は井椋(いくら)五所大明神と号しており「いくらじんじゃ」が本来の呼称である。近世になり地元以外から「むくじんじゃ」と読まれることが多くなり現在の呼称になったという。
 現在「椋神社」と号する社は、秩父郡に五社あり、明治政府はいずれの神社にも式内社と称することを許したという。
 ・椋神社(埼玉県秩父市下吉田)
 ・椋神社(埼玉県秩父郡皆野町皆野)
 ・椋神社(埼玉県秩父郡皆野町野巻)
 ・椋神社(埼玉県秩父市蒔田)
 ・椋神社(埼玉県秩父市蒔田)
 伊古田地域に鎮座する五所神社は、口碑に「その昔、当社は椋神社と呼ばれていた」とあり、社頭にも「椋神社」の社号額を掲げるところから、往時はこの社名を称していて、秩父市下吉田の椋神社を分霊したと言われている。
        
              
・所在地 埼玉県秩父市伊古田598
              
・ご祭神 猿田彦命 経津主命 武甕槌命 天児屋根命 姫大神
              
・社 格 旧伊古田村鎮守
              
・例祭等 例大祭(春祭り) 44日 秋祭り 927
                   
大祓 12月大晦
 太田熊野神社の南側で東西に流れる道路を西行し、「太田」交差点を左折、埼玉県道270号吉田久長秩父線に合流後、1㎞程進んだ先のY字路を右方向に進路をとる。荒川水系赤平川の支流である長森川に沿って続く道路を900m程進むと、進行方向左手に伊古田五所神社の赤い鳥居が見えてくる。
        
              道路沿いに鎮座する伊古田五所神社
『日本歴史地名大系 』「伊古田村」の解説
 品沢村の西方、赤平川支流の長森川流域に開ける。西は下吉田村(現吉田町)、北は太田村。田園簿には井古田村とみえ、高一二七石余・二五貫四五四文とある。田園簿では幕府領、同領のまま幕末に至る。「風土記稿」によると家数五〇、男は農業の合間に山で薪をとり、女は白絹・木綿を織っていた。産物は絹・煙草・大豆・干柿などで、「郡村誌」は特産として繭・生糸などをあげる。鎮守は御所明神社、ほか七社を祀り、曹洞宗大林寺ほか二寺・三堂があった(風土記稿)。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 伊古田村』
 御所明神社 村の中程にあり、祭神大日靈尊、例祭二月・八月廿七日、神司吉田家の配下、船橋某が持なり、村内鎭守、
 天滿天神社 稻荷社 諏訪社 疱瘡神社 天狗社


 五所神社  秩父市伊古田五九八(伊古田字十王殿)
 鎮座地伊古田は、荒川水系赤平川の支流である伊古田川流域に位置する山間の村である。
 創建については、その資料を欠くため、明らかにできないが、口碑に「その昔、当社は椋神社と呼ばれていた」とあり、社頭にも「椋神社」の社号額を掲げるところから、往時はこの社名で呼ばれていたことは明らかである。
 現在「椋神社」と号する社は、秩父郡に五社あり、このうち吉田町下吉田に鎮座する社は古社と伝え、「井椋五社大明神」と号していたことが『風土記稿』に見え、祭神を猿田彦大神、武甕槌命、経津主神、天児屋根命、姫大神の五柱としている。
 当社は、吉田町鎮座の椋神社をこの地に分霊したことに始まると思われ、「五所」という社名も、この五柱の祭神からきたものであろう。なお、『明細帳』では祭神を、久々能知命・大産霊命・金山彦命・埴山姫命・弥津波能売命に代えているが、これは、鎮座地の小名を十王殿と呼ぶことから、明治期の明和帳書き上げの折、冥府で亡者を裁く、十三と神導の幽世の神話と結び付けた結果と思われる。
 造営記録では、寛政九己\丁歳四月八日の本殿再建棟札があり、これには当地祀官船崎相模守と秩父大宮秩父神社祀官の宮前丹後守の名が見える。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                    神楽殿
 行事に関しては、元旦祭・春祭り(44日)・秋祭り(927日)・大祓(12月大晦日)の計4回執り行われている。
 春祭りが大祭で、市内太田の熊野神社の神楽師を招いて神楽殿で春神楽を奏するのが習わしである。現在の神楽殿は昭和43年の造営であるが、それ以前は毎年各戸から繩一房と筵一枚集めて、材木を組んで舞台を掛けたという。
 この神楽は、氏子から「太田の太々」の名で親しまれ、神楽舞の中でも大黒様やヒョットコの踊りはほかの神楽では見られない楽しさがあるという。
 
     社殿左側に祀られている境内社      社殿右側には境内社・天神社が祀られている。
       疱瘡社・稲荷社
 残念ながら、諏訪社・熊野社及び八坂社の石祠があるとされる場所は,よくわからなかった。
        
 当社は吉田町鎮座の椋神社の分社と思われるが、本社と同様に「稲の神」として祀られたものと推察され、古くから「明神様」あるいは石棒(16㎝位)を祀っていることから「マラ明神」と称されて伊古田の鎮守として厚く信仰されているという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
  

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田村神社


        
             
・所在地 埼玉県秩父市田村977
             
・ご祭神 天神七柱と地神五柱の尊 禰都波能売神
             
・社 格
             ・例祭等 元旦祭 11日 祈年祭 2月建国記念日前の日曜日
                  例大祭 4月第2日曜日 秋祭り 10月第1日曜日 
                  大祓い 
1223
 上蒔田椋神社から国道299号線を1㎞程西行し、「大寶山圓福寺」の社号標柱が見える丁字路を左折、200m先にある丁字路をまた左折する。「天龍橋」を越えた正面には上記寺院の立派な山門があるのだが、寺院の駐車場付近から右側を見ると、小高い山と共に一対の幟旗ポールが小さいながらも見えてくる。駐車場の手前にある路地を山方向に進路をとると、道幅の狭い道路の先に田村神社の正面鳥居が見えてくる。
        
                                   大寶山圓福寺正面
 正面に見えるのは大寶山圓福禅寺山門で、平成18328日に市指定有形文化財(建造物)に指定されている。この寺は、応安6年(1373)創建と伝えられ、秩父を代表する古刹である。元禄8年(1695)の火災の後、山門は享保16年(1731)に再建された。
 山門の規模は、正面7.9m、側面5m、高さ11.9mで、両側面に反りを持たせた梁(はり)の下に間柱(まばしら)を立て、横の力に強さを持たせている。また、天明7年(1787)、高辻中納言菅原胤長(たねなが)の「東關禪林」(とうかんぜんりん)の勅額が掲げられるという。
        
          大寶山圓福寺の駐車場手前の路地から社方向を撮影
 社は、鳥居正面入り口も国道から奥に入った場所にあり、更に小高い山の中腹で、鬱蒼とした森の中に鎮座している。目立つことなく、ひっそりと地元住民を見守って来たという第一印象。
        
                  田村神社正面鳥居   
  周辺には社号標柱もなく、よく見ると鳥居の社号額には「諏訪神社」と表記されている。

 正面の鳥居に一礼し、参拝を開始する。山の中腹に社は鎮座しているので山道を登ることは覚悟していた(写真左)ので、このジグザグに曲がりながらの石段を登ることは想定範囲内だが(同右)、それでも息は上がる。
 
  ジグザグの石段を登ると二の鳥居に到着        二の鳥居から参道は真っ直ぐ社殿に向かう
『日本歴史地名大系』 「田村郷」の解説
 寺尾村の南西方丘陵地にあり、北東は蒔田村、北は品沢村、南西は長留村(現小鹿野町)。丘陵谷間を流れる蒔田川の上流域に田畑が開ける。寺尾村とは小鹿坂(おがさか)峠越で結ばれる。地名の起りは往古、田村権守という者が住していたためと伝える(風土記稿)。田園簿には高二五三石余・五〇貫七六八文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高三〇一石余、享保一八年(一七三三)幕府領に復し(「風土記稿」など)、幕末の改革組合取調書によると旗本牧野領。

『新編武蔵風土記稿 田村郷』に「村名の起こり往古田村權守と云へるもの、此所に居住せしより唱へけるにや、今尚邸跡あり、又禪宗にて白崖一派の道場と稱するあり、末に載す、是を田村派と云へり、郷の唱村の字の重なるを避ての故ならんか、御打入以前は北條家の分國なるよし、されば田村權守の領せし地なるや」「屋敷跡 圓福寺の前なる大門平にあり、土人相傳へて田村權守なるもの住居せし所なりと云ふ、事跡詳かならず」と記されていて、田村の村名由来の一説に紹介されている「田村權守」という人物の正体が現在でもハッキリと分かっていないようだ。
        
                            ひっそりと静まり返った境内
 鳥居正面附近の目立たず、ひっそりと佇むという第一印象とうって変わって、この境内一帯には、鬱蒼とした木々に囲まれ神聖な雰囲気を醸し出していて、我々一般市民が住む世界とは一線を画しているような別次元の空間がそこにある。まさに「隠れ家的な社」。

    参道左側に設置されている案内板          右側には手水舎がある。
 田村神社  御由緒  秩父市田村九七七
 ◇拝殿の格天井には氏子の家紋が飾られている。
 鎮座地田村は、荒川の支流である薪田川を遡り左岸の丘陵部にあり秩父市の中央部と小鹿野町の間に開ける農業地帯である。地名の起こりを『風土記稿』では「村名の起り往古田村権守と云へるもの、此処に居住せしより唱えけるにや今尚邸跡あり」とし、『秩父志』では「田村郷ハ武光庄ニ属ス、此村名義文字ノ如ク往古ヨリ田多卜云意ヨリ田村ト称へシナルベシ」としている。
 当社は集落の南に位置する諏訪山の中腹にあり、社記は「文安三年(一四四六)勧請」としているが、口碑には「天文年中(一五三二~一五五五)の創立」ともいう。
 明治四十二年(一九〇九)二月、合計三十二社を字諏訪山無格社諏訪神社本殿へ合祀の上、社号は地名大字に基き田村神社と改称した。
 なお、本殿に安置されている石棒は、天明二年(一七八二)八月に氏子の宮田喜兵衛が地から発掘したものである。
 ◇御祭神
 ・天神七柱と地神五柱の尊
 ・禰都波能売神(以下略)
                                      案内板より引用

 田村神社の御祭神の一柱である「禰都波能売神」は「みづはのめのかみ」と読み、『古事記』では同名、『日本書紀』では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記する。神社の祭神としては水波能売命等とも表記され、淤加美神とともに、日本における代表的な水の神(水神)である。
『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。 
        
                    拝 殿
 明治422月、諏訪神社社掌宮下正作は『合祀願』の中で、字諏訪山之社・森下八社・鬼ヶ沢五社・駒沢六社・水神沢五社・諏訪平五社の計32社の社名をあげ、「右神社義は崇敬上設備の完全期し度候に付同町字諏訪山無格社諏訪神社本殿へ合祀の上、社号は地名大字に基づき田村神社と改称し度跡建物の義は売却の上保存資金として蓄積致し度候間此段奉願上候」と記している。この時、社名は直ちに決定をみたが、村社をどこにするかは話し合いがつかず、入札で当社に決まった。合祀後は、社前に合祀社名を掲げるなど神職は気をつかったが、各耕地では、残ったお堂などで従来からの日待が続けられ、問題は起こらなかったという。
 
      拝殿に掲げてある扁額        社殿の右側に祀られている境内社・八坂社
        
                社殿から二の鳥居を望む。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「秩父市HP
    「Wikipedia「境内案内板」等

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太田熊野神社


        
              
・所在地 埼玉県秩父市太田1320
              
・ご祭神 熊野権現(伊弉諾尊 伊弉册尊 天照大神
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 祈年祭 2月17日 例大祭(春祭り) 43
                   新嘗祭 11月24日  
 秩父鉄道皆野駅から埼玉県道43号皆野荒川線に合流し1㎞程西行し、荒川を越えた「皆野橋」交差点を左折する。その後、すぐ先にある「小柱」交差点を右折、周囲は山間の勾配があまりない田畑風景が広がる長閑な風景を愛でながら、赤平川に沿った上記県道を西行2.5㎞程進んだ十字路を右折し、暫く進むと、太田熊野神社の鳥居が見えてくる。
 
  まず社の参拝前に気になっていたものを紹介。太田熊野神社の鳥居のすぐ東側にポツンとある「旧大田村高札場」(写真左側。設置されている案内板は右側)。
 この高札場は、旧小鹿野街道に面し、切妻造、瓦葺で、高札場としては珍しく、装飾の多い豊かな形式で、当時この地方の平和が偲ばれる高札場であるという。
 石積み基壇上にあり。破風に懸魚を付け、腕木には装飾彫刻を付するなど高札場としては立派な構造である。
 県指定史跡 旧大田村高札場
 徳川初期の頃人々に衆知する一方法として使われたものが高札場である。
 重要な事項を掲示し、その徹底をはかったもので、後になっても続き街道筋や村々に必らず存在したものとしては、現在きわめて類が少ないものである
 高札の始めは、慶長八年三月幕府が、関東郷内に掲文し一般住民の村領主、代官関係、年貢訴訟等の事を知らせたものである。
 寛永十年七月人売買、又は一円停止、条々より高札は時折り出されたが、県内に残る制礼は正徳元年五月の親子、兄弟、茶々、駄賃及び人足、荷物、切支丹禁制等、享保六年二月鉄砲取締り、明和七年四月徒党取締り、天明八年九月浪人取締り等が主たるもので、無年貢地とし村の高札に諸設備等とも村負担でおこなったものである。
 この高札場は、旧小鹿野街道に面し、切妻作り瓦葺で、装飾の多い豊かな形式で、当時地方の技法を充分生かし、いやみのないものである。
昭和四十二年三月二十八日県指定(以下略)
                                      案内版より引用

        
                  「旧大田村高札場」からすぐ西側にある社の社号標柱
『日本歴史地名大系 』「太田村」の解説
伊古田(いこた)村の北に位置し、北東は堀切村、南は品沢村など。北は西流する赤平川を境に野巻村(現皆野町)、南西は同川を隔てて久長(ひさなが 旧吉田町)村など。地内には縄文時代中期、古墳時代後期、奈良・平安時代の集落跡がある。また太田条里遺跡があり、秩父郡丹田(にた)郷(和名抄)を当地に比定する説もある。地名の起りは一円に田が多く、多田の意(秩父志)、郡中では田の多いところであるから(増補秩父風土記)などとされる。

 秩父は昔から米作に向かない土地柄であった。山間で平地が少ないこともあるが、秩父盆地の中は荒川の流れがつくった河成段丘の段丘面の上に立地し、ここは嘗ての川原の堆積物である小石が多くて水が浸透してしまい、さらに傾斜地も多かったため、限られた場所でしか水耕ができなかった。
 米が作れない土地では収穫高の多い果樹や茶の生産を行うところもあるが、秩父は寒冷地で適さない。そこで植えられたのは「桑」である。桑は、湿地を嫌い、寒冷地や山地の痩せ地でもよく育つ植物で、蚕のエサとなる。蚕がつくる繭は、絹糸の原料で、絹織物は価値も高く、江戸時代以降、金納による年貢を担うための重要な産業になる。秩父で養蚕が盛んになったのは必然のことだった。
        
                               
太田熊野神社正面両部鳥居
 明治時代の地図をみると、秩父盆地の中は田んぼが少なく畑ばかりで、江戸時代、米の取れないこの地方では年貢を米で納めることができず、作物などをお金に換算して納める「金納」であった。
 このように水耕に適しない土壌が主である秩父盆地の中にあって蒔田地域と太田地域では、川が浅いところを流れていた。元々この地には荒川や赤平川の支流が流れていたが、本流が深いところを流れるようになると上流が本流から切断され、その後浸食を受けずに済んだという。上流から砂利が流れこまなくなったため泥質の土地となり、川が浅いので水利もよく、谷をせき止めてため池がつくられたこともあり、蒔田と太田はその地名のとおり古くから米どころであった。
        
        社号標柱から境内まで150m程の長い参道の先に社殿は鎮座する。
              赤平川を背にして社は建っている。
        
                    拝 殿
 熊野神社 秩父市太田一三二〇(太田字門脇)
 太田は、荒川支流赤平川の右岸に開ける秩父地方最大の穀倉地帯で、太田千枚田とも呼ばれ、水田が広がっている。地内には奈良期の条里制跡があり、古くから開かれている所である。
『風土記稿』に「熊野社 小名内出の鎮守とす、例祭は二月十五日、村民持」と載せている。また、社記には「文化七年十一月三日当所富田右門芳功、同吉衛門吉忠の両名により、紀伊国熊野権現を勧請す」とある。これを裏付けるものとして、社蔵の旧本殿棟札がある。
 天下泰平国家安穏大小氏子家門繁栄子孫長久、武蔵國秩父郡矢幡庄太田村鎮守、奉正遷宮熊野三社大権現伊弉諾尊伊弉冉尊天照大神、一座宮殿常磐堅磐鎮護攸・文化七(午\庚)歳十一月吉日、祭主富田右門芳功倅富田吉衛門吉忠〔裏面〕上棟信心諸願成就攸・同國榛澤郡深谷宿・棟梁坂本丈助
 富田家については、『風土記稿』に「寛政四年御代官萩原弥五兵衛支配せし頃、此地を割て伊奈小三郎が家従、富田吉右衛門が給地に給ひ云々」とある。
 明治五年に村社となり、同四一年西原の柴宮社、富田の諏訪社、山際の秋葉社、西田戸の三島社、田中の諏訪社、大ノ谷の天神社、中道の八幡社、蛭ヶ沢の石神位社を合祀し、同四三年に本殿を再建した。
 祀職は現在、御先達様と呼ばれる船崎家が奉仕している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
    拝殿上部に掲げてある扁額            社殿の左側にある土蔵
        
                   社殿右側奥に祀られている境内社、及び石祠
 境内社に関しては、左より稲荷社・諏訪社・秋葉社・琴平社・愛宕社。石祠三基の詳細は不明。
       
           社殿右側に聳え立つけやきのご神木(写真左・右)
 市指定天然記念物 熊野神社のけやき
 昭和四十七年四月六日指定
 熊野神社は、文化七年十一月紀伊国熊野権現より分身祭祀したといわれ、このときすでにこのけやきは、神域の象徴であったといわれます。
 四方に伸びる枝張りの構成もみごとで、目どおり六米四十糎、樹高三十五米、枝張り二十五米もあり、地表十米附近より六本の枝にわかれています。
 枝そのものも樹幹の相をみせて、樹勢、樹肌もよく、旺盛な感じをもつけやきで、樹令約六〇〇年を推定することができます。
 古くから、干魃の際は氏子総出で、「ぼんぜん」と称する幣を、樹上にゆわえ雨乞いをしたので、土地の人々は、雨乞いのけやきとも呼んでおります。
 秩父市教育委員会 熊野神社
                                      案内板より引用

『新編武蔵風土記稿 太田村』には、「東西凡一里許、南北凡十二町に餘れり、村内東西北の三方平坦にして、南の方に高からぬ土山の僅に存するのみ、土人の伝しに郡中にて平坦なる村は、僅に二三ヶ村なりと伝へるが、卽ち此村も其内なりとぞ、故に水陸の田多く、されども陸田よりも水田は少なし(中略)田用水は上水なくて水をつゝみ、或は溜井を用ひけるゆへ旱損の患あり」と記載され、近年までは雨乞いが盛んに行われていた土地柄でもあったようだ。
 更にこのご神木には、雨乞いの場に梵天を立てたという。この梵天とは、祭礼等に用いられる、大型の御幣で、棒の先端に球状の装飾物を着けた物ではないかと考えられる。
        
             ご神木の手前に設置されている案内板
市指定天然記念物 熊野神社のけやき」と共に「市指定無形文化財 大田熊野神社の神楽」も掲示されている。「熊野神社のけやき」は上段を参照。
「市指定無形文化財 大田熊野神社の神楽」
 昭和三十六年九月二十七日指定
 この神楽は明治十年二月秩父神社社家権代講義丹後守が、土地の風間巳之吉、富田玄内、富田馬次郎、武島喜内、富田金三郎、富田和十郎、富田倉次郎、青山巳弥吉、斉藤清五郎、鈴木健次郎の他各氏に教授したものといわれます。
 舞の形式は、里神楽岩戸神楽の系譜をひく秩父神社の神楽とほぼ同形で、舞の形式、所作をみても丹後守の直伝であることが立証されます。
 奏楽は総じて、秩父神社のものより大まかなところもありますが、伝承時の旧形態を忠実にとどめています。
 丹後守の教傳書による座は二十九座ありますが、野見宿弥の座、高千穂峰の座、オノコロ島の座、三韓征伐の座などがあることは、秩父神社の神楽と異なっています。これは荒川村白久系統や他の流派の曲目が村と村との相互関係で混入したものと思われます。
                                      案内板より引用

 神楽口伝奥書に「明治十年二月大宮権代講義丹後守殿教導伝書也」とあり、秩父神社神楽の系統であることが知られている。この神楽は秩父神社の神楽が一時中絶した時、その代わりに各地に出張し、今日でも、野坂町の秋葉神社、品沢の諏訪神社、伊古田の五所神社、野巻の椋神社などの祭礼に頼まれて奉仕している。
「埼玉の神社」によると、本来の神楽の座数は36座であったというが、現在では、奉幣に始まり、18座が舞われているという。
        
                         社殿から参道方向を撮影。
             参道の遥か延長線上には武甲山が見える。



太田地域は、東西一里許(4㎞程)・南北十二町餘(1.3㎞程)の広大な地域であったので、字毎に社が鎮座していた。故に今でも熊野神社の近隣には多くの社が祀られている。
【太田八幡神社】
        
              ・所在地 埼玉県秩父市太田14581
              ・社 格 旧太田村鎮守
              ・ご祭神・例祭等 不明
         太田熊野神社から東側300m程の近距離に鎮座している。
    長閑な田畑風景の中にこんもりとした社叢林があり、その中に社は鎮座している。
      境内西側にはしっかりとした駐車場もあり、そこに停めてから参拝を行う。
   太田八幡神社 駐車スペースから撮影          程よく手入れされている境内
 この社は「埼玉の神社」にも掲載されていない。創建時期等も不明。但し『新編武蔵風土記稿 太田村』において、「八幡社 村の鎭守、例祭八月十五日、村内龍藏寺持、」との記載があり、嘗ては太田村の鎮守社であったことがうかがえる。
       
                  社殿からの風景

【柴宮神社】
 太田熊野神社を南下し、一旦埼玉県道43号皆野荒川線に合流後、西方向に600m程進むと、県道沿いで進行方向右手に鎮座している。東側に隣接しているホームセンターの駐車場をお借りしてから参拝を行う。
        
              ・所在地 埼玉県秩父市太田395近辺
              ・ご祭神 茅姫命
              ・社 格 旧太田村田ノ原鎮守
        この社も「埼玉の神社」にも掲載されていない。創建時期等も不明。
『新編武蔵風土記稿 太田村』において、「芝宮社 小名田ノ原の鎭守、祭神茅姫命を祀ると云、例祭三月十五日、村民持、下同」との記載がある。
 
     こじんまりとした拝殿         拝殿には「柴宮神社」と記された扁額あり

 柴宮神社のご祭神は「茅姫命(かやのひめ)」で、日本神話に登場する草の神である。 『古事記』では鹿屋野比売神、『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し、『古事記』では別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。
 神産みにおいて伊邪那岐命 (いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみ)の間に生まれた。 『古事記』においては、山の神である大山津見神との間に、48柱の神を生んだ。
 神名の「カヤ」は萱のことである。
 萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった。
 別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味であるという。


太田石神迸神社
 太田熊野神社の南側にある「秩父市立太田小学校」の東側斜面上に鎮座している。周辺には適当な駐車スペースはないため、路駐にて急ぎ参拝。
        
                           斜面上に鎮座する太田石神迸神社
        
                                 拝 殿
       この社も「埼玉の神社」にも掲載されていなく、創建時期等も不明。
 それなりに趣きのある社であるのにも関わらず、『新編武蔵風土記稿』にも「石山住社」しか記載がない。「石山」「石神」と頭につく社であるので、ご祭神は「大山津見神(おおやまつみのかみ)」と推測されるのだが、調べても何も分からない。
 それより、この社の名称自体読めない。だれか分かる方お教え頂きたい。

  太田石神迸神社の左隣に祀られている    一番左側に祀られている境内社・稲荷社
       境内社。詳細不明。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ジオパーク秩父HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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