古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

堀切駒形神社

 嘗て武蔵国は土地が平坦で良質な牧草の生育に適していたので、各地に官牧・勅旨牧(御牧)、私牧が発達し、良馬を産した。このうち官牧・御牧は、皇室や朝廷が使用する料馬を飼養し、武蔵・甲斐・信濃・上野の四ヵ国に置かれたという。
 武蔵国には「石川牧」(東京都)、「小川牧」(東京都)、「由比牧」(東京都)「立野牧」(東京都)などの官牧のほか、「秩父牧」「小野牧」「石田牧」「阿久原牧」の名が見え、他に文献に現れない小規模な牧や私的な牧があったと考えられている。
 秩父には10世紀に畿内政権が必要とする馬を生産する「秩父牧」が置かれている。この牧は、秩父郡から児玉郡の一部にまたがる広大な地域に所在していたと推定される牧である。延喜3年(903)貢馬の記録が初見。皇室の料馬を供給する勅旨牧で、年貢馬は20疋、貢馬日は813日と定められていた。天暦5年(951)には父馬2疋が下賜されている。
 秩父市・堀切地域には、「駒形社」が鎮座しているが、この社名は、牧馬と関係のあり、地形も小丘や台地が連続して牧場に相応しい地勢を示しているといわれている。
        
              
・所在地 埼玉県秩父市堀切368
              
・ご祭神 誉田別命 神功皇后 高良玉垂命
              
・社 格 旧堀切村鎮守
              
・例祭等 例祭 319日 秋祭り 108
 小柱諏訪大神社から一旦南下し、埼玉県道43号皆野荒川線と交わる丁字路を右折、県道を南西方向に進行し『新編武蔵風土記稿 堀切村』に載っている赤平川支流の澤川に架かる長坂橋を渡り350m程進んだ先にある丁字路を右折し、暫く北上すると進行方向右手にこんもりとした堀切駒形神社の社叢林と鳥居が見えてくる。
        
                  堀切駒形神社遠景
『日本歴史地名大系 』「堀切村」の解説
 太田村の北東にあり、東は小柱村、南は蒔田村・品沢村。北端は赤平川を境に大淵村(現皆野町)。田園簿には高四六石余・此永九貫三八七文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高六八石余。享保一八年(一七三三)幕府領に復す。その後、一時下総関宿藩領となったが、のち再び幕府領となる(「風土記稿」「郡村誌」など)。
「埼玉の神社」によると、
当所は江戸期には「堀切村」と呼ばれ、一村を成していたが、明治期には太田村に属した。更に太平洋戦争中に太田・三沢・日野沢・国神と合併し「美野町」と号し、その大字となっていたが、数年にして各大字が不和となり、旧に復し、昭和20年代秩父市に合併、現在に至っているという。
        
                鳥居正面から境内を撮影
        
                    拝 殿
 駒形神社 
埼玉県秩父市堀切三六八
 社伝によると「冷泉天皇の代、奥州安倍貞任征討の折、源頼義親子膽沢郡延喜式内駒形神社に誓い誓書を捧げ勝利有りて、臣秩父十郎武綱当村へ右社分霊を勧請す、其後天正三年武田信玄当郡に襲来し処々に放火す、此折当社も消失、里人これを嘆いて宮殿を再営し、奥州駒形神社より遷座す、天正一〇年鉢形北条氏崇敬厚く太刀一口を献上す」という。
 当地は秩父駒の産地といわれ、昭和初期に酪農が普及するまではどこの家にも馬を飼っており、台所脇に馬屋を設け、人馬共一つの棟に住んでいた。社前に二つの小山(念仏宇根・ねんぶつおね)・炭釜(すみがま)があるが、この小山の西側には馬捨て馬があったという。現に鳥居前にある二群の萱(かや)は「駒形様の萱」と呼ばれ、神馬の秣(まぐさ)ゆえに刈ることが禁じられている。社殿に向かって左に「駒形様の池」と呼ばれる古池があり、神馬の水飲み場・足洗い場とされている。内陣には木製彩色の神馬一対が奉安され、拝殿には石猿一対が飾られている。このほか、村内通行の危険な所数カ所には馬頭尊が祀られている。当社の創建は、このようなところから推察すべきかと思われる。また「駒形」が「高麗方」と通じるところから、高麗王との関係を説くものもある。
 祭神は、誉田別命・神功皇后・高良玉垂命の三柱である。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
            拝殿手前で向かって左側に鎮座する境内石祠群
         左側より大黒・八坂社・稲荷社・三島社・熊野社・諏訪社
        
  「埼玉の神社」では、社殿に向かって左に「駒形様の池」と呼ばれる古池があるとの
      ことであったが、草木で覆われている状態では池があるかどうかも不明。
     
             社殿の右側に聳え立つ巨木(写真左・右)
        注連縄等はないが、御神木であっても申し分ない程の貫禄ある姿

 当所は古くから「水旱の地」といわれ、「観天望気」が広く行われ、今も「岳(たけ)の権現様(武甲山)に霧が掛かると、二・三日中に必ず雨が降る」などといわれている。このため、嘗ては雨乞いが盛んに行われていた。まず梵天を神社の神水・榧(かや)に立てる。次いで武甲山・城峯山、遠くは赤城山・榛名山とその年に合わせて方向を定めて代参し水を頂く。これは若者の役目で、一番から三番まで班を決め、リレー式に水を受け継いで神社まで運ぶ。水が村に着くと、神社の境内に円を画くように撒いて雨を待つ。この間は、雨が降るまで仕事にもならず村人は幾日も酒を飲んで過ごしたという。

 因みに「観天望気」とは、自然現象や生物の行動の様子などから天気の変化を予測すること。また広義には経験則をもとに一定の気象条件と結論(天候の変化の予測)の関係を述べたことわざのような伝承のことをいう。 昔から漁師、船員などが経験的に体得し使ってきた。
(例)
「太陽や月に輪(暈)がかかると雨か曇り」
   「おぼろ雲(高層雲)は雨の前ぶれ」
 この観天望気は科学的な観測に基づく公式な天気予報に代替できるものではないが、天気の変化の参考になるものもある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「越谷市デジタルアーカイブス」
    「Wikipedia」等

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小柱諏訪大神社


        
               
・所在地 埼玉県秩父市小柱23
               ・ご祭神 建御名方神
               ・社 格 旧小柱村鎮守
               ・例祭等 例祭(春祭り) 45日 秋祭り 105
 皆野町・大淵熊野神社から埼玉県道44号秩父児玉線を南西方向に1㎞程進む。荒川とその支流である赤平川の合流地点に架かる郷平橋を過ぎると、進行方向右側が河川の浸食によりできた段丘崖面となっていて、その頂上部に小柱諏訪大神社が僅かに見えてくる。
 但し県道から直接社に通じる道路はなく、一旦南下して「小柱」交差点を右折、その後すぐ先にある丁字路をまた右折し、道幅の狭い緩やかな上り坂の道を暫く直進する。その後、目の前には長閑な田畑風景が広がる河岸段丘特有の段丘面に到着し、その道路右側端に小柱諏訪大神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「小柱」と書いて「おばしら」と読む。「小柱」と言う地域名は、諏訪大社の神事である「御柱(おんばしら)祭」からきていると伝えられているという。
 また当社は信州・諏訪大社の御分社であり、大社には御分社が多く、明治時代の調査では、全国で
12,000余社とされている。分社の社名は「諏訪神社」「諏訪社」が多く当社のように「大神社」と讃えているのは秩父郡内では二社で全国でも11社だけであるようだ。
        
                小柱諏訪大神社 一の鳥居
『日本歴史地名大系』 「小柱村」の解説
 堀切(ほりきり)村の東にあり、東は荒川を境に皆野村(現皆野町)、北は赤平川を境に大淵(おおふち)村(現同上)。田園簿では高一二九石余・此永二五貫八六二文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となる。元禄郷帳では高一七一石余。享保一八年(一七三三)幕府領に復した。その後、一時下総関宿藩領となったが、のち再び幕府領(「風土記稿」「郡村誌」など)。
        
             河岸段丘により形成される段丘面に鎮座する社。
        現地で実見すると、平坦部の広がりをより感じることができる

  因みに写真右側は崖となっていて、バリケード等の安全面は考慮されていないようだ
        
                                   真っ直ぐな参道途中に立つ二の鳥居
 小柱諏訪大神社は、荒川と赤平川が合流する地点の南側の河岸段丘上先端部に鎮座している。西側には篠葉沢、南東には蒔田川が流れ南側には南北に細長い丘陵地帯で囲まれるという立地条件で、自然の要害に囲まれた要衝地であることが、地形上から見てもよくわかる。
 それに対して、社の周囲はなだらかな段丘面が広がり、現在では大半は畑や宅地となっているのだが、この地から周囲を見回せ、特に北側・東側が一望できる地形となっている。
        
                     拝殿覆屋
 諏訪大神社   埼玉県秩父市小柱二三(小柱字合川)
 当地は、東に荒川、北は赤平川を境としている。この両河川は村の北端で合流しており、当社はその合流地点に鎮座している。
 社記によると、創立年代は不明であるが、村の開発にあたり、氏神として信州の諏訪大社の分霊を祀ったものと思われる。諏訪大社では七年に一度御柱を立てているが、小柱の地名はこの神事に由来するという。平良文を祖とする秩父別当武網は深く当社を崇敬し、後三年の役の出陣の際には戦勝を祈願し、功あって源義家から白旗一流を賜ったことから、これを諏訪大明神の御利益と弓矢八幡の加護によるものと信じて境内に八幡宮を造営し、白旗一流と三本の傘紋印の乗鞍を奉納した。以後秩父氏累代の崇敬をうけ、秩父庄司重忠が諏訪八幡両社に武運長久を祈願した折の駒繋松、御手洗井戸等の伝説が今に残っている。
『風土記稿』小柱村の項には「諏訪社、例祭七月廿七日、村中の鎮守なり、村持」とある。明治四二年には、地内の字秋葉から秋葉社及び同境内社の竜神社を合祀し、現社号の諏訪大神社に改めたが、この後、秋葉社は旧地である秋葉山の山頂に戻された。
 現在の祀職は、金子安英が務めるが、江戸期には、慶安三年を初めとする吉田家から裁許状九通を所有する半藤家が代々努めていた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
               境内に設置されている案内板
 お諏訪様の神使は白蛇といわれ、神社境内で蛇を見ても決して殺してはならないとされている。また、言い伝えに「往時当社を深く崇敬した秩父庄司重忠がこの地に城を築こうとしたが、地鎮祭の竜柱に白蛇が巻き付いたため中止となった」とか「白蛇が通る道は決まっていて、通ると必ず神社からその南西にあたる金四塚(『風土記稿』には「金四社」とある)にかけて草は倒れ伏して枯れてしまう」等ある。
 
 社殿の奥である北側は崖面となっていて、赤平川が東西方向に流れている風景を見ることができる(写真左)。また東側も眼下の荒川や集落を見渡す事ができる(同右)。
言い伝えではあるが、往時当社を深く崇敬した秩父庄司重忠がこの地に城を築こうとしたことも、この地を実際にきてみると、なるほどと納得してしまう絶好の場所である。因みに社殿北側にはしっかりとネットフェンスが設置されている。
        
                  社殿からの一風景
 当地では、昭和初年まで、日照りが続くと雨乞いが行われていた。この行事は「ハマヤ」と呼ばれる村の共有林から松を切り出すことから始まる。この松の木は神社境内まで引かれ、手作りの竜をからませる。竜の頭は竹で編んだもの、胴体は蛇籠に新聞紙を貼り、色を塗った精巧なものである。
 なお、この頭には釜山神社から受けた水の入った竹筒を麻組で下げる。宮司の祈祷後、これを笠鉾の台車に載せ、囃子連が同乗して村内を曳き回す。秩父囃子の演奏の台詞に、音頭取りの「フップヤマノクロクモ、アメダンベエ、リュウゴウナア」の掛け声に合わせて全員で雨を呼ぶ雨乞い歌が唱えられる。願いが叶って雨が降ると、耕地ごとにお湿り祝いを催した。
 この雨乞い行事には、本社の諏訪大社の神事である御柱祭りを彷彿させるところがあり、諏訪信仰を考える上で興味深いものであるという。



【蒔田諏訪神社】
 小柱諏訪大神社から埼玉県道44号秩父児玉線を南下し、秩父市小柱地域と蒔田地域の境に流れている荒川支流である蒔田川を過ぎたすぐ先に諏訪神社は鎮座している。
        
              ・所在地 埼玉県秩父市蒔田3353
              ・ご祭神 建御名方神(推定)
              ・社格、例祭等 不明
 所在地以外、創立年代や社格、例祭等不明。ご祭神は、諏訪神社という事で、建御名方神と記したが、あくまで推定。
        
           拝殿覆屋  拝殿脇に祀られている境内社は詳細不明。
         小柱諏訪大神社もそうであったのだが、この社には壁一面に
          奉納札等がびっしりと張り付けてある。地域の風習なのであろうか。

『新編武蔵風土記稿 蒔田村』には「諏訪社 村持」としか載せられていない。但し、社に隣接している建物の名前が「森公会堂」ということで、この「森」地名は『風土記稿』にも同名が載っていて、この地が旧蒔田村字森ということは間違いないであろうと思われる。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
 

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荒川上田野若御子神社

 旧荒川村は嘗て埼玉県の南西部、秩父郡に位置していた村であり、東は秩父市、西は大滝村、南は東京都西多摩郡奥多摩町、北は両神村・小鹿野町・秩父市に接していた。北部を西から東に荒川が流れ、同川には町の西部で贄川(にえがわ)沢と谷津(やつ)川、中央で安谷(あんや)川、東部で浦山川が合流する。荒川に沿って国道140号線と、秩父鉄道(地内の三峰口駅が終点)が通る。南部は県境にある酉谷(とりだに)山から北西方と北東方へ延びる尾根に挟まれた急峻な山地で、集落はおもに北部の荒川河岸段丘上に集中している。
 2005年(平成174月秩父市に合併・消滅し、現在は秩父市の中央部を占める。
 旧村名は荒川が流れることによる。養蚕が盛んであったが、昭和40年代から衰退し、その後はソバ、野菜の栽培が行われ、ブドウ、クリなどの観光農園が多い。
 荒川上田野若御子神社は旧荒川村上田野地域に鎮座する村の鎮守様であり、秩父地方に点在する狼信仰の一社でもある。
        
             
・所在地 埼玉県秩父市荒川上田野698
             
・ご祭神 神日本盤余彦尊
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例大祭(春祭り)4月第三日曜日 神幸祭81日 
                                
新嘗祭 1123
 上影森諏訪神社から国道140号線で2㎞程西行し、コンビニエンスストア手前の十字路を左折する。因みにその十字路左手には「清雲寺・若御子神社 表参道入口」の看板がある
その後300m程進んだ細い路地の正面に荒川上田野若御子神社の一の鳥居が見えてくる。
 秩父市街地からも離れ、国道に沿って西側は秩父山系の山脈がまじかに見える。山好きの筆者にとってこの風景がたまらない。時に車を降り、澄み渡る空気を体いっぱいに吸う。
標高もやはり高いせいかひんやりと感じる中、何より一帯の空気が違う。埼玉県内にありながらもここまで違うものかと感じ入る。ここまで来れば三峰口までもうすぐの距離だ。
        
               
荒川上田野若御子神社の一の鳥居
             鳥居の前には一対の狛「狼」が迎えてくれる。
 参拝日は紅葉が見頃ギリギリの季節で、風は冷たかったが、周囲の景色も相まって素晴らしい参拝を満喫することができた。
 鳥居から真っ直ぐに伸びた先に二の鳥居があり、そこからが境内となる。社に隣接して「
清雲寺」があり、また専用トイレも併設されていて、そこの駐車スペースに車を停めてから参拝を開始した。
        
                     荒川上田野若御子神社・二の鳥居付近を撮影
『日本歴史地名大系』には旧「上田野村」の解説が載っている。
 [現在地名]荒川村上田野
 
荒川の上流右岸に位置し、西は安谷(あんや)川を境に日野(ひの)村、東は浦山(うらやま)川を境に久那(くな)村、北も荒川を境に同村。南には天目(てんもく)山等の高山が連なり、集落は北部に集中している。秩父甲州往還が荒川に沿い東西に通る。近世初めは幕府領、寛文三年(一六六三)忍藩領となる。田園簿では高三九一石余・此永七八貫三一七文とある。文政六年(一八二三)の書上帳(井上家文書)によると村高五五九石余、うち五二三石余は慶安五年(一六五二)の検地高、残る三六石余は寛文三年から文化三年(一八〇六)まで一三回行われた改畑高であった。「風土記稿」によると水田は少なく、ほぼ畑三分・山林七分の村方で、南に連なる高山のため雨期には水害を受けやすかった。耕地が石地のため干害もあり、また猪・鹿の害もあった。
        
 二の鳥居手前の道路沿いに設置されている「県指定天然記念物 若御子断層洞及び断層群」の案内板。

 社の境内から急な山道を10分ほど登っていくと、「若御子断層洞」という洞窟がある。これは秩父盆地と南側の奥秩父山地との境界をなす断層「日野断層」の一部で、断層がずれて岩石が砕けたところが水によって洗い流されてできた洞窟を「断層洞」という。
 断層がずれた際に擦り合わされて磨かれた「鏡肌(かがみはだ)」という箇所があり、線状のすり傷が見られ、 断層面が直接観察できる場所は珍しいとの事だ。

 県指定天然記念物 若御子断層洞及び断層群
 指定日 昭和3531
 若御子断層洞は、若御子神社の南約100メートルのところにぽっかりと口をあけています。断層洞のある崖は、秩父中・古生層のチャートというとても硬い岩石でできています。
 断層洞とは、断層破砕帯の中の粘土や礫が、地下水によって洗い流されたために生まれた空間のことで、世界的に見ても例の少ない、貴重なものです。洞内の岩肌には、断層によって生まれた、平らで磨かれたような断層の面(鏡肌)が見られます。また、鏡肌には、断層が生じるときのすり傷(条線)も観察できます。
 また、この一帯には、無数の断層がほぼ東西方向に走っていますが、このような断層の集まりを断層群といい、ここは「日野断層群」と呼ばれています。
 以上のように、この地域は、断層面・鏡肌・条線・断層粘土・断層角礫など、断層に関連する種々の現象が観察できる、学術的に貴重なところです。
 平成63月 埼玉県教育委員会 秩父市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                                       二の鳥居
 二の鳥居前には石段があり、そこを過ぎると神楽殿や社務所が設置された広い空間があるが、そこからまた数段の石段を登らなければ社殿に通じる空間に到着できない。境内は思った以上に複雑であるが、山岳斜面上に鎮座している社であるが故に斜面を均して平地面をつくり、土台を補強して境内を作り出す作業は困難を極めただろう。斜面を補強するために積み上げた石垣は、灯篭等の奉納品がなければまるでお城のようだ。この地にこれ程の社を作り上げたことに対する畏敬の念を感じずにいられない。
 
            二の鳥居前に鎮座する狛「狼」(写真左・右)
 この「狼」の石像は、全体的には「瘦せ型」・頭部は「扁平」。口には「牙」もあり、よく見ると左側の像は「歯」も生え揃っている。また一の鳥居の一対の狛「狼」は参道側正面を向いているが、こちらはお互い向き合っている。他の社に関しても、複数狛犬が配置されている場合で、このように「狛犬」の向き方が違うケースも時折見られるが、向き方の違いには何か法則、ないし因果関係があるのであろうか。
        
             二の鳥居を過ぎると左手に設置されている「神域改修事業奉賛記念碑」
 神域改修事業奉賛記念碑
 当平成元年は大正四年当神社若御子山旧社より御遷座七十五周年に相当す此間昭和十五年は当社御祭神「神日本磐余彦尊」神武天皇紀元二千六百年の挙国奉賀を機し境域及参道の整備等行い現今の整然たる神域を成せり以後幾度か改修もなされしが年古るに従い森厳の気漲るも風雨寇なし築礎崩壊の兆現るを危惧す此を憂い当社宮司故岩田真久氏は氏子総代と相計り神域改修事業を計画するや関与者昼夜力を合せ奔走六百有余名の氏子及当社崇敬者より浄財を蒐め工を起す併て神殿築礎の石積構築改修を行い境内新玉垣奥宮社の覆屋神宝舎の新築又境内整備等神域の大改修を行えり為に景観至処神韻瑞気漲り神徳宏大無辺弥栄に高し嗚呼偉業善哉関与者の熱誠賛助者の協力高邁也此に其功を碑に刻し永く後世に伝う
正に神明之を嘉し賜うべし(以下略)
                                   奉賛記念碑文より引用

        
                       神域改修事業奉賛記念碑の並びにある神楽殿
    神楽を奉納する舞台の右脇には、笛や太鼓等演奏用のスペースもあるあまり見ない形態。
  舞台の神楽同様に演奏者を正面に置くこの配置は「見せる演出」としては面白いと感じた。
        
 神楽殿や社務所のある境内から社殿に向かうには、数段の石段を登らねばならず、その途中には少し広めの遊び場があり、石段を中心に左側には手水舎が、右側には神賓舎が設置されている。

          手水舎                                      神賓舎
       
            手水舎のすぐ奥に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 拝殿は石段が上り終えた、その正面には鎮座していない。そこから一旦進行方向左側に曲がり、その先に鎮座している。社殿のある空間は斜面が比較的目の前に見える為、奥行きはほどほどにして、左右を広げるように削平したのでろう。そのため社殿は正面参道、ないし石段からは横を向いているように見える。
*追伸 この社は確認すると西向き社殿である。西向きという事は、その延長線上のお祭りする対象は、奈良県にある神武天皇の御陵墓か、または狼信仰のメッカである三峯神社だろうか。
 当社の由来
 当社は若御子神社と申し御祭神神日本磐余彦尊神武天皇様が奉斎されている
 若御子神社の称号は御祭神「神武天皇様」の別御呼名若御毛沼命の若御毛からではないかと推察される
 御創立は人皇第四十五代聖武天皇御宇、天平年間(西暦七三〇年代)上田野の主峰若御子山の頂きに祀斉されたのが、当神社創始の起源とされ、後延暦十三年(西暦七九四年)若御子山の峰岳にお社が造営され、若御子十二社宮と称される
 社伝縁起には醍醐天皇の御宇、延長八年(西暦九三〇年)神官従五位守屋大和守物部吉清再建とあり神社宝物の御神鏡に刻されて居る
 当社は古くより武将達の崇敬が厚く、天慶年間、藤原秀郷、平将門を討伐の時当社に戦勝を祈願したとあり、建久二年鎌倉幕府源頼朝、戦勝と武運長久を当社に祈願する。天文十四年足利将軍義晴、当社の社殿を造営せしむ。神社はこの時峰岳より旧社地若御子に遷座され、若御子十二社権現宮と称される
 永禄十二年武田軍の兵火に罹り、社殿、宝物旧記等ことごとく消失す
 慶長六年五月社殿を造営す。現在の本殿は即ち是なり
 明治二年若御子十二社権現宮を改め、これより若御子神社と称する
 大正四年神社の移転許可され、大正五年若御子山より現在地に遷座される
 昭和十五年御祭神神武天皇御即位二千六百年を記念し神域の大改修が行われる
 平成二年、当社御遷座七十五周年事業として、現神域の大改修が行われる
                                     境内案内板より引用
 
   拝殿に掲げてある扁額と神武天皇          拝殿脇から本殿を撮影
                          (関係者以外立ち入り禁止の為)
 十二所權現社
 若御子山にあり、本社二間に九尺、三社合殿、造上屋三間に四間、神體木の坐像長九寸五分狩衣烏帽子を着せり、その餘不具なる木造幾體もあり、いづれも古色なり、又十一面觀音の木立像長一尺二寸、三寶荒神の木立像長一尺七寸なるを安ず、共に古色なり、貞享年中再造の棟札に、天文十四年の建立とのせたり、一段三畝廿四步の除地あり、神職は吉田家の配下にて、守屋豐前なり、
 風穴橋 社前にあり、巨岩によりて道を設けり、長三間餘、幅四尺許、屋根ありて廊下の如し、其下盤岩に穴あり是を風穴と云、徑リ一尺四五寸、深さ知るべからず、土人是より靈風を吹出すと云う、
 鳥居 社より三町ばかり山下にあり
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

     
                     社殿前方にあるご神木(写真左・右)
       
 境内にあるご神木の近くで、斜面上に祭られている境内社。一番左は稲荷社か、それ以外は詳細不明。
       
                                  境内での一風景
        
             荒川上田野若御子神社西側に隣接している御霊神社
     「静かに佇む」という表現がピッタリの社。ご祭神、由緒、創建等全く不明。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板・石碑文」等
 

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上影森諏訪神社

『農村歌舞伎』とは、広義には村落における歌舞伎(かぶき)上演(村芝居)一般をさすが、狭義には、村芝居のなかでも専門の役者の来演を求めるのを買芝居もしくは請(うけ)芝居というのに対して、特に素人(しろうと)の地元農民が演じる歌舞伎をいう場合が多い。江戸中期より明治中期にかけての長きにわたって村落芸能の中心を占め、先行の神楽(かぐら)や獅子舞(ししまい)などの芸態にも影響を与えたという。別名「地芝居・地狂言・草芝居・田舎(いなか)芝居」ともいう。
 中央の大都市で育成された歌舞伎は、ほぼ元禄期(16881704)を画期として、そのころ地方都市に生まれた歌舞伎芸団や、役者村とよばれた村々を拠点とする芸能者集団の巡業活動を通じて、地方農村に浸透した。特に盛んであった地域は北関東から中部地方、中国地方にかけての山間部であり、それらは養蚕製糸業に代表される農村産業が隆盛をみた地帯と重なり合っており、地芝居の流行がそうした経済的発展に支えられた現象であったことを示唆している。
 農村で演じられる歌舞伎は、村の氏神の祭礼に村落共同体の行事として開催され、雨乞(あまご)いや立願をはじめ伝統的な祭式習俗とも結合し、都市商業劇場とは違った地芝居独特の世界を形づくった。当時農村で高まりつつあった都市的な娯楽への志向(演目が都市の歌舞伎そのままであったこと。派手な衣装や大道具等)を基盤にしつつも、村々で独自の特徴を持ち、何百年にもわたって伝承されてきた。
 農村歌舞伎の盛行はやがて、そのための舞台(今日、農村歌舞伎舞台とよばれる)を生み出すことになったが、それも村の施設として祭礼の場である従来の神社建築(まれに寺院建築)の一部を改変することにより、しだいに歌舞伎の上演にふさわしい形式を整える。
 こうした地芝居の流行は農村に奢侈(しゃし)的な風潮をもたらす結果となり、事実、多大な出費に耐えかねて夜逃げ同然に村を去った者もいた。したがって幕府・諸藩(のちには明治政府も)は勧農政策の一環としてしばしば地芝居を禁制の対象とし、おびただしい禁令が出された。地芝居の盛行は明治に入ってもなお持続したが、もともと娯楽性の強い芸能であっただけに、映画等 新しい娯楽の出現と共に衰退した。
 農村での娯楽の不足した第二次世界大戦後一時的に復活した所もあったが、その後の急激な都市化と娯楽の多様化の影響で廃れていきたが、埼玉県秩父郡小鹿野町の「小鹿野歌舞伎」のように、今でも地域文化として大事に受け継がれている地域はある。
 秩父市上影森諏訪神社には「諏訪神社附設舞台」がある。間口約11m、奥行7m、木造の舞台で建造年代は江戸末期から明治初年のものと推定される。
 この舞台は、秩父地方の農村歌舞伎舞台の典型的なものの一つで、二重、下座、セリ上げ装置、廻り舞台などの内部構造は古い構造をそのままにとどめており、歌舞伎等郷土の伝統芸能が隆盛であった往時を偲ばせている。
        
             
・所在地 埼玉県秩父市上影森2551
             
・ご祭神 建御名方命 八坂刀賣命
             
・社 格 旧上影森村鎮守 旧村社
             
・例祭等 節分祭 23日 春祭り 429日 夏祭り 7月第4日曜日
 大野原愛宕神社から国道140号線を秩父市街地方向に進む。「道の駅ちちぶ」を越え、4㎞程南西方向に進行すると、さすがに市街地を抜け、国道が大きく左カーブし、「上影森歩道橋」を過ぎた先の信号手前にあるY字路の細い路地を左斜め手前方向に進む。因みにこの細い路地は嘗ての「秩父甲州往還」の旧街道であったという。その路地は上り傾斜であり、高台に向かって進むと左手に上影森諏訪神社の鳥居が見えてくる。
        
                                 
上影森諏訪神社正面
         「秩父甲州往還」と旧街道の分かれ目という位置に鎮座。
      平野部に鎮座する社とはまた違った地域独特の雰囲気を醸し出している。
『新編武蔵風土記稿』には「村名の起りは武甲の大山を東南にうけし村なれば、山の影なる森と云名義とぞ土人云へり」と「影森」地名由来を説明している。またこの社は当地方にはめずらしく、かつて「椿森」と呼ばれたほど椿の多い杜であったという。
        
                 社の入口から参道を進むとある朱色の両部鳥居
 鳥居の先には記念碑があり、そこには「
椿の森に鎮座する諏訪神社参道に建つ両部大鳥居は明治時代の末下影森琴平神社に建立されたものだったが 第二次世界大戦中当椿森諏訪神社に申し受け今日に至った」との記載がある。
        
                参道に設置されている案内板
 諏訪神社 御由緒 秩父市上影森二五五-一
 ◇御神木の大杉は市指定の天然記念物
 秩父市の南西に位置する上影森は、南東に武甲山がそびえ、西に荒川が流れ、『新編武蔵風土記稿』には「村名の起りは武甲の大山を東南にうけし村なれば、山の影なる森と云名義とぞ土人云へり」とある。
 当社は当地方にはめずらしく、かつて椿森と呼ばれたほど椿の多い杜であった。現在、社殿は武甲山に向いて建てられているが、昭和三四年に焼失する以前は、氏子区域を見守るように建てられていた。
 昭和三六年(一九六一)再建の棟札には、天正五年(一五七七)・享保六年(一七二一)・宝暦十二年(一七六二)・安永二年(一七七三)・天明六年(一七八六)・文化三年(一八〇六)の本殿造営及び屋根葺き替えの棟札の写しが記されており、造営の足跡を知ることができる。
 また、境内にある歌舞伎舞台は大正六年(一九一七)に造られたもので、回り舞台になっていることから、市指定有形民俗文化財であり、当社の御神木である杉は推定樹齢約六〇〇年、胸高周囲五八〇センチメートルを超える大木で市指定天然記念物となっている。
 ◇御祭神 建御名方命 八坂刀賣命
 ◇御祭日
 ・元旦祭(一月一日) ・節分祭(二月三日) ・春祭り (四月二十九日)
 ・夏祭り(七月第四日曜日) ・月次祭(毎月二十七日
)
                                      案内板より引用
        
            鳥居脇に設置されている「神苑整備記念碑」
 神苑整備記念碑
 椿の森に神鎮まります諏訪の大神の大前に齋き奉る大鳥居 社務所など 奉齋以来いく多の星霜を閲みて腐朽著るしく早急にこれが改修をせまられた折
 この神やしろの神庭に 遠つ世の氏子諸びとたちが大神をおろがみ御神德の洽く四海に及ぼされんことを祈念し神賑の館として築ける歌舞伎舞台もまた県内まれにみる貴重な文化遺産でありながら永い風雪に耐えて破損夥しく この際両者復元により 旧態を保存して神威の昂揚につとむべしとの結論に達し神社積立金を基金としひろく氏子崇敬者の浄財寄進を勧募して神域整備の議成り過ぐる年秋工を起せしに神威たちまちにして顕現悉皆順調に進捗当初計画を容易に 凌駕して浄財の寄進を得たり
 仍ち付帯工事たる社務所増築をも併せてその完きを見面目を一新するに至る
 折しも歌舞伎舞台は秩父市有形民俗文化財の指定を受け いま先人の偉業ここに認めらる
 是偏に大神の御稜威と氏子崇敬者の篤い敬神の念の賜に他ならず 因って神苑整備と文化財指定を記念し 寄進者名の石ぶみを営みて永く感謝の誠を示すものなり(以下略)
                                   「記念碑文」より引用

 上影森諏訪神社には案内板や記念碑等が多く設置されている。これも歴史の深さから来るものであろう。
        
                     拝 殿
        
    拝殿手前左側には秩父市指定有形民俗文化財である「諏訪神社附設部隊」がある。
      大正六年(一九一七)に造られたもので、回り舞台になっているという。
 秩父市指定有形民俗文化財 諏訪神社附設舞台
 間口約11m、奥行約7m、木造の舞台で、建造年代は江戸末期から明治初年のものと推定されます。かって上影森村が戸数八十五戸であった時代に村の若者たちの手によって木材の伐採に始まり、運搬・建築と幾多の困難を克服して完成したと言われております。
 以来、諏訪神社の祭礼や農休みの年中行事として歌舞伎などが上演されて参りましたが、時代の変化とともに舞台を使用しての公演が困難になるとともに舞台も荒廃してまいりました。
 この舞台は秩父地方における農村歌舞伎舞台の典型的なものの一つで、その特色は二重・下座・セリ上げ装置・まわり舞台等内部構造は古い形をとどめています。
 昭和五十三年氏子の皆さんの浄財により一部補強修理を完了し、その保存をはかることになりました(以下略)
                                      案内板より引用

        
                                上影森諏訪神社本殿
 
 社殿の奥には幾多の境内社が祀られている。社殿左側奥に鎮座する境内社・椿森稲荷神社(写真左)。社殿正面奥にも境内社あり(同右)、こちらは由緒等不明。
 
 由緒等不明の境内社の並びには五基の境内社群が祀られているが(写真左)、こちらも詳細不明。また石垣祀られているいる「磐座」らしきものもある(同右)。 
        
            社殿右側に祀られている境内社・八坂神社
       
        境内社・八坂神社の奥に聳え立つ御神木である大杉(写真左・右)
 秩父市指定天然記念物 上影森諏訪神社のスギ一本
 秩父市大字上影森二二五~一番地
 昭和四五年九月四日指定
 このスギの木は、上影森諏訪神社の神木で樹齢六〇〇年から七〇〇年と推定され、地表より一〇メートル付近で八本の幹にわかれ特異な樹相を呈しています。
 幹の中には楢の宿木があり、子育ての名木として珍重されています。スギの木の大木としては市内最大です。
 樹高  四〇メートル
 目通り 五・六メートル
 枝張り ニ六メートル
 平成五年三月 諏訪神社 秩父市教育委員会
                                       案内板より引用

        
                境内から眺め見える武甲山



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「秩父市HP」Wikipedia
    「日本大百科全書(ニッポニカ)」「境内案内板・碑」等

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大野原愛宕神社

 
        
             
・所在地 埼玉県秩父市大野原3391
             
・ご祭神 軻具土命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例大祭 424日 七五三祈願祭 1115日 
                  新穀感謝祭 
1124日 大祓いの式 1231
 秩父市黒谷地域に鎮座する聖神社から国道140号線で南下すること4㎞程、「愛宕神社前」交差点の斜向かいに大野原愛宕神社は鎮座する。この社は秩父鉄道大野原駅から徒歩5分程度の国道沿いにあり、遠目から見ても境内一帯に広がる豊かな社叢林は、その社の神聖さを物語ると同時に、地域の方々が如何にこの社を大切に守っているかを推し量ることができよう。
 境内北側には社務所があり、「愛宕神社前」交差点を右折し、すぐ先には交差点角地付近に設置されている「多機能トイレ」と社務所との間に境内に入る道が見え、そこに入ると広々とした駐車スペースも確保されている。一応他の参拝等の客(と言っても参拝する者は筆者だけだが)に迷惑のかからない場所に停めてから参拝を開始した。
        
             大野原愛宕神社入口付近の社号標柱と鳥居
 交通量もそこそこに多い国道沿いに鎮座しているのも関わらず、境内はひっそりと静まり返っている。境内周囲を覆っている豊かな社叢林が下界との境界線を敷いているようにも感じた。午後の参拝時間で学生の帰宅時間に重なり、帰路を急ぐ学生や、境内の一角で語り合う数名の姿も見られたが、騒ぐこともなく雑談を交わしながら過ごされていて、何とも微笑ましい風景がそこにはある。不思議とこれ程広い境内にも関わらず、境内にはゴミ等も落ちていなく、日々の手入れも行き届いているようだ。
        
               参道途中に設置されている案内板
 御由緒
 愛宕神社は、一六一九(元和五)年未歳正月二十四日に現在地に建立し、杉や檜を植えて愛宕の森を作った 。祭神には、軻遇突智神と伊邪那美神を祭っている 。その後検地により、東西四十間南北五十二間の五反九畝十一歩に縮小された。
 そして、一七五五(宝暦五)年に現在の上屋を造営し、一八七一(明治四)年に大野原村の村社となる。また、一九二八(昭和三)年に拝殿を建設した。当神社は、大野原の鎮守として信仰されるとともに、火防火傷除けの神として近郷近在から信仰を集めてきた。
 当社の年中行事は、元旦祭・追難祭 (節分)・祈年祭・例大祭(四月二十四日)・七五三祈願祭(十一月十五日)・新穀感謝祭(十一月二十四日)・大祓いの式(十二月三十一日)となっている。中でも一番賑やかなのが、毎年四月二十四日の例大祭で、神楽などが行われる。
                                    境内案内板より引用
 大野原愛宕神社のご祭神である「軻具土命」は、日本神話にみえる神の名であり、火の神。『古事記』では迦具土神と記し、『古事記神話』ではヒノカグツチノカミ,ヒノカカビコノカミ,ヒノヤギハヤオノカミなど,火の光輝,燃焼などの機能に基づく異名を掲げる。
 この火神は伊奘冉尊(イザナミノミコト)が神生みの最後に生んだ神で,イザナミは陰部を焼かれて死ぬ。夫の伊邪那岐尊(イザナキノミコト)は怒って火神を斬る。その血(火の色)から刀剣,雷神,水神が生まれ,また死体から山の神々(山焼きの表象か)が生まれたという。
 母神に大火傷を負わせただけでなく、死に至らしめた神であり、生まれてすぐに父神に殺されてしまう、可哀想な神であるのだが、後世において火を扱う業者からの崇敬が高く、鍛冶業や焼き物業といった業者から高く崇敬され、防火の神、鍛冶の神、陶器の神の神格を持つ特異な神である。
 秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市)を始めとする全国の秋葉神社や愛宕神社、野々宮神社(京都市右京区、東京都港区、大阪府堺市ほか全国)などで祀られている。
       
           参道途中には1本の御神木が聳え立つ(写真左・右)
 
       参道左手にある神楽殿           右手には社務所もある。
『日本歴史地名大系 』「大野原村」の解説
 [現在地名]秩父市大野原
 
横瀬川を境に黒谷村の南、荒川右岸に位置する。南は大宮郷、東は山田村、西は荒川を境に寺尾村。秩父往還・川越秩父道の分岐点にあたる。地名は、原野が多かったことに由来するとされる(秩父志)。縄文時代中期・後期の集落跡、古墳群などがある。田園簿では高一八七石余・此永三七貫五八九文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、同領で幕末に至る。元禄郷帳では高四一七石余。天明六年(一七八六)秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると反別は田三町一反余・畑一四七町五反余。
        
                                  静かな境内
 案内板によると嘗てはもっと広い社地であり、その後検地により縮小されたと記載があるが、今でも十分に広い。
 鎮座地大野原の地名は、『秩父志』に「此村古昔ヨリ原野多ケレパ名トナルベシ」とあり、また、『風土記稿』に「墾開の年代を伝へずといへども、原野の地をひらきし村なり」とあるところから、古くはこの地に原野が広がっていたことにちなんだものという
        
                                      拝 殿
 大野原愛宕神社は、口碑によれば、元来は村の東に位置する字峰沢にある前山の山上に祀られていたが、1619年に字宮崎にある現在の境内へ遷座したという。この話に出てくる前山には、往古、妙見宮(現秩父神社)が祀られていたと伝えられ、妙見宮は、その後、宮崎、柞の森と社地を移していったという。これらの伝説と、秩父神社文書の「嘉禎の火雷後妙見宮を柞森に祭祀されその宮籬の辺りに火神愛宕の神祠を営みける」という記事と合わせて考えると、当社は、四条天皇の嘉禎元年(一二三五)九月の落雷による秩父神社が社殿焼失のために遷座した妙見宮の跡地に火防の神として祀られた社で、妙見宮がその土地を移すにしたがって、当社も前山から宮崎に社地を移したと見ることもできるが、いまだ推論の域を出ないとの事だ。
 
          本 殿             本殿東側奥には秩父鉄道の線路が見える。
        
                 社殿を横側から見る。
 拝殿は基壇上にあり、また本殿に移るにつれて高台となっている。調べてみるとこの高台は古墳のようで、周辺には「大野原古墳群」と呼ばれる古墳群が存在している。
 大野原古墳群は、横瀬川左岸の段丘上に形成され、78基の古墳が確認されている。かつては「百八塚」とも呼ばれ、立地する地区の名前をとって「黒草支群」、「大野原支群」、「蓼沼支群」、「下小川支群」の4支群に分けられている。築造時期は7世紀後半から8世紀初頭と見られている。黒谷に鎮座する聖神社には大野原古墳群出土の鉄刀、鐔、鉄鏃、蕨手刀、円筒埴輪、和同開珎が保存されている。
 この古墳群の一つである大野原愛宕神社の基壇下周辺には「大野原24号墳」があり、径13.0mの円墳という。
        
             境内南東部に鎮座する境内社・王子稲荷社
 
  稲荷社特有の赤い鳥居の列が目を引く。          王子稲荷社
        
        鳥居の右側並びに祀られている「弁財天」「浅間大神」の石祠。
 屋根付きの「囲」に丁重に祀られている。「囲」と表現したが、正式名は何であろうか。知っている方はご教授願いたい。それにしても意外と立派である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「秩父鉄道HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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