古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

品沢諏訪神社

        
              ・所在地 埼玉県秩父市品沢1012
              ・ご祭神 建御名方神
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 例大祭 4月第3日曜日 祈年祭 2月 新嘗祭 12月
 品沢諏訪神社は国道140号を皆野町、秩父市方向に進み、「大塚」交差点で交わる皆野秩父バイパス方向に道路変更し、蒔田地区方向に進む。トンネルを2か所過ぎた次の出口方向に車線変更し、埼玉県道270号吉田久長秩父線と交わるT字路を右折する。南方向から北西方向に進路が変更するが、暫く道なりに直進し、同43号皆野荒川線の交わる十字路をそのまま直進する。県道同士が交差する十字路から150m程北方向に進むと左手に諏訪神社が見える。
 県道沿いに社は鎮座していて、境内に入る道もあり、その一角に車を停めて参拝を行う。
         
                                 品沢諏訪神社 鳥居正面
        
                                    品沢諏訪神社境内
      境内には,社務所、品沢集会センター、神楽殿もあり、広々としている。
       県道沿いに鎮座しているが、車両の往来は少なく、また境内も静か。
 
   拝殿に通じる石段手前にある案内板             神楽殿

諏訪神社 御由緒 秩父市品沢一〇一七
◇村社様と呼ばれ、昇格の苦心話が伝わる
 品沢は、皆野から小鹿野へ通ずる道路に沿って集落のある、山間の農業地域である。地名については『秩父志』に「往時篠竹沢辺ニ多生ジテ篠沢ト称へシヲ、後音転ジテ志奈坐波ト称ヘ」とある。社蔵棟札により、正徳五年(一七一五)に社殿を造営したことが知られるが、それ以前は不明である。
 当地の旧家である引間家には寛永二十年(一六四三)の五人組帳があり、当時の村人であった六十余名の名前が残っている。
当地の草分けは関ケ原の落ち武者五軒であったとの口碑があり、これらの人々が当社の創建にかかわったと推定できよう。
『新編武蔵風土記稿』には地内の神社について「聖権社・居野間権現・熊野社・榛名社・金山社・諏訪社・天満天神社・熊野社」と載せているが、これらの多くは明治四十二年(一九〇九)に当社に合祀された。当社も明治五年(一八七二)に村社となるまではこれら耕地の神社と同格、同様の社であったと思われ、「村社になるにはたくさんの金が要り苦心した」という口碑が残り、この時尽力した島村某・富田某の名を今に伝えている。
                                      案内板より引用 


 案内板に記載されている「引間」氏は、日置の集落を引間、曳間、曳馬と称し、秩父郡に多く存在する苗字である。
○旧下吉田村
・永法寺文書
「享保九年鐘銘、引間善左衛門・引間金左衛門・引間四郎兵衛・引間惣左衛門・引間喜兵衛・引間十郎左衛門・引間五兵衛・引間新左衛門。文化六年寄附、吉田町引間重郎右門。文化十二年寄附、取方・引間丈左衛門・引間藤太郎妻。(以下略)」
○旧久長村
・阿熊村彦久保文書
「天正十年二月二十五日、秩父衆着致、一本鑓・一騎馬上・以上二人・引間弾正」
○小鹿野町
・小鹿野町古老覚書
「古風庭、引間久兵衛先祖地庭、後に寺に成る飯田村光源寺の末寺」
○旧日野村
・秩父往還(太田巌著)
「秩父郡日野村に永禄十三年武田氏の臣引間平左衛門が春日山地西庵を建立す」
        
                       拝 殿
『秩父志』には「品沢村は篠沢と称へしとを、後音転じて志奈坐波と称す」と見える。『新編武蔵風土記稿』では「品澤村は郡の西側にあり、武光庄に属す。篠葉澤郷と称すと云、村の名義は傳えず、(中略)皆山谷を境とせり。東西僅かに三町許、南北一里半程。土性は皆眞土なり。地形谷合の村にて、細く長くして民戸多く谷合或いは山腹に住し、家敷九十五件所々に散住し、男は農事の餘に、冬より春までは山に入て薪采り、女は養蠶を専らとし、綿・横麻又は木綿などを織出す」と記載され、村の旧名やその領域、土地柄、生活状況等を細かく説明されている。
        
           社殿の奥には、境内社がひっそりと鎮座している。
 
新編武蔵風土記稿』には地内の神社について「聖権社・居野間権現・熊野社・榛名社・金山社・諏訪社・天満天神社・熊野社」と載せているが、これらの多くは明治四十二年(一九〇九)に当社に合祀されたという。これらの社は、そのうちのどちらかであろう。写真左側の合祀社は、熊野社に関わりのある社と思われ、同右の写真は置物から稲荷社と思われる。

   

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三峯神社

 秩父山地一帯には「お犬様」と称してオオカミを祀っている神社が多数あり、三峯(みつみね)神社など計21社とも言われ、全国的にも個性的な地域である。江戸時代に始まったとされるお犬様信仰は、関東甲信地方へ広がりをみせ、その信仰は現在もなお続いている。
 その為この地域では、現在も毛皮や頭骨を保存している家が何軒もあり、オオカミにまつわる伝承や伝説も各地で聞くことができる。
 神様のお使いは動物に姿を借りて現れるが、これら神様のお使いのことを「神使(しんし)」や「眷属(けんぞく)」と言い、代表的なものは、稲荷神社のキツネ、八幡神社のハト、春日大社のシカ、日吉神社のサル、熊野大社のカラスがある。神様と眷属の関係は、神話や祭神との特別な関わり、語呂合わせ、その地域に多く生息した生き物や名物等様々で、一定の決まりはないようだ。
 お犬様は、山犬・オオカミが持つ類いまれな能力に、人々が畏怖(いふ)と畏敬(いけい)の念を抱き、その強い力にご神徳を求め、神様のお使いとして信心されている。秩父郡内では、三峯神社や寳登山(ほどさん)神社、両神(りょうがみ)神社(2)、龍頭(りゅうず)神社、城峯(じょうみね)神社などがお犬様を祀っている。
 この中には、神の意を知らせる兆しとして現れたお犬様に、その霊力を遺憾なく発揮していただくため、毎月の又は特定期間の特定日に「お犬様の扶持(ふち)」、「お犬様のエサ」、「お炊き上げ」と呼び習わして、赤飯・小豆飯或いは白米を生饌(せいせん)のままや熟饌(じゅくせん)に調理し供える神事を行う神社もあるようだ。
 旧大滝村、埼玉県秩父市三峰にある三峯神社は秩父多摩甲斐国立公園内の標高約1100mに鎮座している。秩父三大社のひとつとして数えられ、ヤマトタケル伝説やお犬様信仰など伝説が数多く残っており、関東屈指のパワースポットとしても有名な社である。
        
                          ・所在地 埼玉県秩父市三峰298-1
             ・ご祭神 伊弉諾尊 伊弉册尊
             ・社 格 旧県社
             ・例 祭 例大祭48日 53日奥宮山開祭 109日奥宮山閉祭
                  122日冬季大祭等

 三峯神社は、今から1900年ほど前に第十二代景行(けいこう)天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の帰り道に山梨県から奥秩父の山々を越えて三峰山に登り、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)をお祀りしたのが始まりとされている。
 また景行天皇の東国巡行の際、天皇は社地を囲む白岩山・妙法ヶ岳・雲取山の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える。伊豆大島に流罪になった役小角が、三峰山で修業をした際、三山を雲取山・白岩山・妙法岳と呼び、聖地と定め平安時代には僧空海が登山、三峯宮の傍らに十一面観音像を奉祀して天下泰平を祈ったと『縁起』には伝えられる。
 秩父の多くの社に関わるお犬様は、神の眷属というよりも、神そのものとされ、故に「大口真神」(おおくちのまかみ)と神号で呼ばれ、山犬=オオカミ、即ち大神として猪、鹿に代表される害獣除け、火防盗難除け、魔障盗賊避け、火防盗賊除け、憑物除けや憑物落しの神と崇められている。
        
            三ツ鳥居、別名三輪鳥居(みわとりい)ともいう。
        1つの明神鳥居の両脇に、小規模な2つの鳥居を組み合わせた珍しい形式の鳥居。

 一概に「狼」といっても現実絶滅してしまった種族であり、はく製や図鑑、インターネットでの閲覧等で、間接的にもつイメージしか浮かばない。日本人の精神構造の根本に根付いている「自然との共生」概念が今も色濃く残っていて、自然は「台風・地震・火災」等の自然災害に対する恐怖とは逆に、自然から受ける豊かな恵み、景観の美しさ等恩恵に対して畏敬の念を持ち続けていて、それらの正邪併せのむ現実を踏まえながら、何万年かけて日本人はその両面を全て包み込むように合理的な解決策にたどり着く。これが日本人独特の「神道」の根底概念でもあろう。

 秩父地域に今尚残る「狼」信仰はある意味「神道」の考え方に通じる所があるが、この考え方は西洋とは違った文化として残されている。西洋で「狼」というと、童話『赤ずきん』や『三匹の子豚』では、ずる賢く知恵を働かせ、主人公らを大きな口で食べようとする“悪役”として描かれている。中世ヨーロッパにおいては『ジェヴォーダンの獣』や『狼男』など、オオカミのような未確認生物が人間の敵として登場している。農耕・牧畜が主流だった中世の西洋社会においては、家畜を食べてしまう狼という存在は、人々にとって忌むべき対象と考えられていたのかもしれない。
 一方、古来より農業を営んできた日本において、狼は田畑を荒らす害獣を食べてくれる“益獣”として畏敬の念を抱く存在だったという。オオカミを漢字で書くと「狼」。「良い獣」。遥か昔の弥生時代、オオカミの骨などが神事や装飾の道具として用いられていたというから、あるいはその頃からオオカミは神様の使いとしての片鱗を見せていたのかもしれない。そのような歴史の経緯を踏まえ、後世日本人により神格化され、ついには山の神、又は大神(おおかみ)としての側面を持つようになったのではなかろうか。
            
 三ツ鳥居を過ぎてから200m位進んでT字路を左に曲がると、1691年に建立された隋身門がある。専用駐車場から三ツ鳥居までのルートは、看板や食事処等もあり、観光地らしさが漂うが、鳥居を過ぎると、巨木・老木等の樹木や石灯篭が参道の両側に立ち並び雰囲気は一変する。当日は平日で、小雨交じりの曇りの天候乍ら、多くの参拝客がいたが、まず神秘的で厳かな雰囲気に圧倒されたように、私語は全くといってなく、身が引き締まる思いを多くの参拝客も強く感じたのではないだろうか。とにかく空気感が全く違う。時折、周囲が霧で覆われるような場面もあったが、それが逆に神秘性を増幅させてしまったようだ
      
 隋神門を通過し、暫く下り坂の道を暫く進む。そこから90度右側に石段の階段(写真左)となり、その先には青銅製の鳥居が見えてくる(同右)。よく石段を見ると参拝が終わり、下ってくる方向には参拝客が全く見えない。参拝終了後に知ったことだが、三峯神社で参拝後、日本武尊像のほうに行くため、この石段を下る客はほとんどいないようだ。また参拝をすませ、右側に鎮座する境内社方向にも道があり、そこから帰路に向かう道が近道となってもいる。
      
 石段を登り切ると、左側には手水舎がある(写真左)。柱は白を基調としていて、一見コンクリート製に見えるが、実は木造で、その上には素晴らしく美しい龍の彫り物に彩色豊かな装飾が施されている。豪華絢爛というのに相応しく、これだけでも一見の価値あり。
 
また参道を挟んで手水舎の向かい側には、「八棟木灯台」と云われる安政4年(1857)建立の飾り灯台(同右)があり、手水舎同様、灯台全体に細かな彫刻が施されていて、眩しいくらいの朱色が目にとまる。高さ6m。
        
                     拝 殿
         拝殿の手前には樹齢700年と伝えられる重忠杉が聳え立つ。

「Wikipedia」「埼玉の神社」等によれば、『中世以降、日光系の修験道場となって、関東各地の武将の崇敬を受けた。養和元年(1182年)に、秩父を治めていた畠山重忠が願文を収めたところ霊験があったとして、建久6年(1195年)に東は薄郷(現・小鹿野町両神あたり)から西は甲斐と隔てる山までの土地を寄進して守護不入の地として以来、東国武士の信仰を集めて大いに栄えたが、正平7年(1352年)、足利氏を討つために挙兵し敗れた新田義興・義宗らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続いた。
 その後文亀年間(1501-1504年)に修験者の月観道満がこの廃寺を知り、30数年勧説を続けて天文2年(1533年)に堂舍を再興させ、山主の龍栄が京都の聖護院に窮状を訴えて「大権現」を賜った。以後は聖護院派天台修験の関東総本山とされて隆盛した。本堂を「観音院高雲寺」と称し、「三峯大権現」と呼ばれた。以来、歴代の山主は花山院家の養子となり、寺の僧正になるのを常例としたため、花山院家の紋所の「菖蒲菱(あやめびし)を寺の定紋とした」という。
              
                      本 殿
              今から約340年前(1670年頃)の建立。

 秩父でお犬さま(御眷属様)信仰が始まったのは、享保5(1720)、三峯神社に入山した大僧都「日光法印」が、境内に狼が満ちたことに神託を感じ、「御眷属拝借」と称して、山犬の神札の配布を始めたのが最初だと言われている。以来信者も全国に広まり、三峯講が組織され、三峯山の名は全国に知られた。現在も奥州市の衣川三峯神社をはじめとして、東北各地に三峯山の影響力が残っている。
 山里では猪鹿よけとしての霊験が語られていたが、江戸時代、江戸の町を中心に関東地方でオオカミ信仰が流行した理由は、主に火防・盗賊除けの守り神としてだったという。浅草寺境内にも三峯神社があり、他のお堂はみな南を向いているが、三峯神社は本堂を向いている。本堂を火災から守るためだという。狼や犬は火事がボヤのうちに気が付き、また盗賊が店や蔵に侵入したときも騒いで知らせ、賊を襲うという習性があることから、火防・盗賊除けの守り神となった。江戸は「火災都市」と呼ばれるほど、大火が頻繁に発生した。ちなみに1601年から1867年の267年間に、江戸では49回もの大火が発生したという。
 火を消す水の水源地が三峯など秩父の山であったということも関係したようだ。いくつもの三峯講が組織され、多くの人が参拝に訪れた。現在、関東各地の神社の境内に三峯神社が祀られているのは、三峯講があった証(あかし)ともいえる。
 
      木のぬくもりを感じる神楽殿                 社殿の右側には祖霊社が鎮座
 社殿や境内社等との極彩色との違いが分かる。  元聖天堂。社に縁の深かった方の御霊を祀る。
      
       祖霊社の右隣に鎮座 国常立神社    国常立神社の右側に鎮座 日本武尊神社
        
                  日本武尊神社の並びには多くの境内社・摂社・末社が鎮座。
                                まずは伊勢神宮。  
 
 伊勢神宮の右並びには、末社群が立ち並び、左より月読神社・猿田彦神社・塞神社・鎮火神社・厳島神社・杵築神社・琴平神社・屋船神社・稲荷神社・浅間神社・菅原神社・諏訪神社・金鑚神社・安房神社・御井神社・祓戸神社(写真左)。
 祓戸神社の右隣には東照宮・春日神社・八幡宮・秩父神社・大山祗神社(同右)。

        
                          「日本武尊(やまとたけるのみこと)銅像
 筆者は三峯神社を訪れるのは3度目だが、当日境内に霧がかかっている時が多く感じる。標高を考えれば、霧というより雲の中にいるというのが正しいのかもしれないが、まさに“神秘的”な雰囲気に包まれているという感覚が、直接肌を通して感じることができる。
               
                       奥宮遥拝殿から見た妙法ヶ岳。

 現在、三峯神社は関東屈指のパワースポットとして知られている。これは、現代版の自然崇拝・狼信仰と言えなくもないだろう。三峯神社の狼信仰も時代とともに形を変えて生き続けているようだ。


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中蒔田椋神社

所在地    埼玉県秩父市蒔田2167  
主祭神    猿田彦命 大己貴命 天下春命
         (合祀)菅原道眞 大山津見命 素盞嗚命 大山津見命 武御名方命 大地主命
社   格    式内社 旧村社 
社   紋    抱き稲
例   祭    3月3日

 
                   
地図リンク
  中蒔田に鎮座する椋神社は、秩父鉄道大野原駅から、直線で北西2kmほどの場所にある。秩父橋を越えて、299号線を西へ道なりにまっすぐ進むと大きくカーブしている場所があり、蒔田交差点の手前のT字路を右折すると正面に蒔田椋神社のこんもりとした森の空間がそこにある。
  東南向きに小じんまりとした境内があり、中央に社殿がある。また社殿の左右に、二つずつの小祠の境内社がある。
  永禄年間に甲斐国領主武田信玄の進行に遭い兵火に罹り、社殿・古記録を焼失し、社領も没収されたという。その後宝暦十三年に社殿を再建し、明治六年に、熊谷県より、延喜式内と称することを許可された。
                      
                      
椋神社
 当神社は往古より延喜式内の社と古老の口碑あり。然るに永緑年間の兵火に依り旧殿旧記書類悉皆焼失し、社領没収せらる。社領旧社地は神畑田耕地の字名として現存す。石器時代の遺物石杵は當社の宝物にして今尚存し神宝石と称し來れり。里人愁ひて後年仮宮を造営し古例の如く執行。宝暦13年未本社再建。明治6年7月2日熊谷縣に於て延喜式内の社と可称旨達あり。同7年4月8日同縣に於て祠掌を置かる。明治9年6月10日熊谷縣に於て村社に列せらる。同年10月5日拝殿再建す。
                                                  昭和27年神社明細帳
            
                                本   殿
  
中蒔田椋神社は、秩父地方でも古風の形態の神楽である秩父神社系神楽を今日も百数十年間も継承し、秩父市指定無形文化財に認定されているそうだ
   

市指定無形文化財
中蒔田椋神社の神楽
 秩父地方に数多い神楽も、その由来や舞の型態等によって、いくつかの系統に分かれます。なかでも古風な舞をもち、盆地内に広く分布し、その主流をなしているものは秩父神社系神楽です。
 この秩父神社の神楽も幕末から明治の一時期にかけて、後継者不足から休止のやむなきに至ったといわれ、その断絶を憂えた秩父神社の神楽師佐野宗五郎は、蒔田椋神社祠掌設楽一貫と計り、椋神社氏子に伝授したと伝えられています。
 明治7年3月の「太々神楽装束勧進録」には、「天朝庚平区内安全五穀成就氏子一統開化進歩へ時勢二不渡戸々家々為繁栄祈念年々祭日永代太々神楽を奏する事」。とみえることから明治7年には既に伝授されていたものと考えられます。その後座や舞の変革はほとんど行われていないので、当時の秩父神社神楽の形態を伝えるものといえます。
 昭和47年4月6日 指定
 秩父市教育委員会
                                                                                                                 境内案内板より引用

 
     
社殿右側境内社八坂・産泰神社        社殿右側に鎮座する境内社稲荷・八幡神社

 


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上蒔田椋神社

  創立年度は不詳ながら、一説によると景行天皇の時、日本武尊東征の際、矛を杖にして山路を越えると、矛が光を放って飛んでいった。尊は不思議に思って光が止まったところまで行ってみると、井の辺のムクの木陰から猿田彦命が現れ道案内をしたという伝説から、尊は持っていた矛を神体として猿田彦命を祀ったことに始まるという。その後当所の椋の大樹の下に大己貴命を奉齋して椋大神と称したという。
 永禄12年(1569年)に武田信玄によって焼き払われ、その後は衰退し、江戸期は秩父神社によって管理されていた。
 毎年3月3日にはお田植え祭が行われる。この祭は、椋神社の境内を田んぼに見立てて、酒を飲んで赤ら顔になった氏子代表12人が神部となり、ユーモラスに田植え唄を歌いながら模擬的な農作業を行い今年の豊作を祝う祭である。

所在地    埼玉県秩父市蒔田2842  

主祭神    大己貴命 (配祀)猿田彦命
社  格     式内社 旧村社 
社  紋    葵
例  祭    3月3日(お田植え祭)


地図リンク
  
 上蒔田に鎮座する椋神社は、中蒔田椋神社より南西に約2㎞弱、国道299号を小鹿野町方向に進むと道路の北側にあり、参道入口の鳥居が見える。小さな丘を背負う立地条件で拝殿の奥は山林が続くがこれはこれで大変趣がありなんともいえない気持ちの良い時間が流れる。天気も良く、また開放的な空間にこの社は鎮座しているため、なんとなく長居をしてしまった。
 社地の500メートル手前には蒔田川がながれる。この蒔田川は荒川水系の一支流で、丁度皆野町の椋神社や大塚古墳あたりで荒川と合流する河川であり、この皆野地方の椋神社が河川にも関係があるのではないかと想像を膨らましてしまうところだ。
 
    
国道299号線沿いに一の鳥居と社号標がある。
 
     参道の先に二の鳥居や社殿が見えてくる。
 
      拝殿。拝殿の家紋は葵の紋が付けられていた。
 
市指定民族資料
蒔田椋神社御田植神事
 この社は遠く「延喜式」に載る古社で、ここに伝わる御田植神事は春の農作業に先がけた三月三日(旧暦の頃は二月三日)今年の稲作の豊穣を願って行われます。境内にしめ縄を張りめぐらして御田代に見立て、鳥居の外には、わらで龍を形どった水口が設けられます。
 毎年氏子の中から十二人の神部が選ばれ、その中の二人が作家老となって神事の主役となりますが、神部のいでたちは、烏帽子に白装束で、手には鍬を模した竹製の農具をもって演じます。
 祭典ののち坪割り(四方固め)つづいて水乞い神事に丹生神社までまいり、水ぬさと呼ぶ御幣をいただき御田代水口に立て、田仕事が始まります。苗代つくりから種子播き、本田の耕起から田植までの実際の農耕順序にしたがい「御代の永田に手に手をそろえて、いそげや早苗手に手をそろえて」と田植唄をうたいながら演じる所作は、多くの古風な習俗を伝承している貴重な民族資料です。
                                                    秩父市教育委員会
 
                 本   殿

                                                                                    
  





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聖神社

  秩父市黒谷に鎮座する聖神社は、秩父盆地の中央部やや北寄りに聳える蓑山(現箕山、美野山、美の山)から南西にかけて延びた支脈である和銅山山麓に鎮座し、簑山を水源とする川が流下する社前は和銅沢(旧称銅洗沢)と称されている。慶雲5年(708)に高純度の自然銅(ニギアカネ)が発見され、和銅改元と和同開珎鋳造の契機となった神社とされている。
  この神社の西方を流れる荒川の対岸、大字寺尾の飯塚、招木(まねき)の一帯に、比較的大規模な円墳の周囲に小規模のものを配するという形の群集墳があり、現在124基が確認されているが、開墾前は200基を越えるものであったと推定される盆地内では最大規模の古墳群を形成している(県指定史跡飯塚・招木古墳群)。築造年代は古墳時代の最終末期(7世紀末から8世紀初頭)と見なされるが、被葬者と和銅の発見・発掘とを関連づける説もあり、更にその主体を渡来系民族であったと捉える説も出されており、また、荒川と横瀬川の合流地点南方の段丘上(神社の西南)からは和同開珎を含む古銭と共に蕨手刀も出土している。
  鎮座地和銅山の主峰簑山には、初代の知知夫国造と伝わる知知夫命に因む故事がある。

  当地方を霖雨が襲った時に命がこれを止めんと登山して祈願したといい、その際に着ていた蓑を山頂の松に掛けた事によって「簑山」と呼ばれるようになったという。 

  その知知夫命は美濃国南宮大社境内に居住していたとの伝もある事から、南宮大社が古来鉱山・冶金の神として信仰を集めている事や「美濃(みの)」と「簑(みの)」との照応が注目されている。
  最近では和同開珎ゆかりの神社ということから「銭神様」とも呼ばれ、金運隆昌の利益にあやかろうという参拝者も多い。


所在地    埼玉県秩父市黒谷字菅仁田2191
御祭神    金山彦命 鍛冶屋の神、金工職人の職神、金物商の神
         国常立尊 始源神・根源神・元神(神世七代最初の神)
         大日?貴尊 皇祖神のひとつ、太陽の神
         神日本磐余彦命 日本国初代天皇
         元明金命 奈良時代初代天皇、第43代天皇(女帝)
社  格    旧村社(神饌幣帛料供進神社)
創  建    伝 和銅元年(708年)
例  祭    4月13日   ( *和銅出雲神社 11月3日)

     
地図リンク
 聖神社は国道140号線(彩甲斐街道)を秩父方面に進み、皆野町を過ぎると左側に「和銅遺跡」入口の看板と聖神社の社号標石があり、そこを左折すると100m弱で聖神社の駐車場に到着する。(但し駐車場スペースは4、5台位停めるのがやっとで非常に狭い)
 この黒谷という地域は、秩父市の主要道である国道140号線の北端に位置していて、いわば秩父の玄関口とも言える。行政上秩父市の管轄ではあるが、地形上の関係で、皆野町との経済的、文化的な交流が盛んだったろうと推察される。皆野町椋神社は聖神社の北側3km足らずに鎮座し、その中間地点には、秩父地方最大の古墳である円墳大塚古墳がある。

円墳大塚古墳
 秩父市との行政境に近く、荒川右岸に形成された低位段丘に立地している。付近には、中の芝古墳や内出古墳群など数基の古墳が残る。墳丘は、直径約33m、高さ約5mで、墳頂には小祠が祭られている。円礫の葺石で覆われており、墳丘をほぼ一周する。深さ約1m、幅約4mの周溝が確認された。石室は横穴式で、南南西の方向に開口し、胴張両袖型で、側壁は片岩の小口積みが用いられ、当地方の特徴が現れている。築造年代は古墳時代後期(7世紀中頃)
 
      円墳大塚古墳 石室部撮影                   大塚古墳 案内板
   
  
第43代元明天皇の時代に武蔵国秩父郡から日本で初めて高純度の自然銅(ニギアカガネ、和銅)が産出し、慶雲5年正月11日に郡司を通じて朝廷に献上、喜んだ天皇は同日「和銅」と改元し、多治比真人三宅麻呂を鋳銭司に任命して和同開珎を鋳造させたが、その発見地は当神社周辺であると伝える。

                                       
                       国道沿いに建つ社号標
 社伝によれば、当地では自然銅の発見を記念して和銅沢上流の祝山(はうりやま)に神籬(ヒモロギ)を建て、この自然銅を神体として金山彦命を祀り、銅の献上を受けた朝廷も銅山の検分と銅の採掘・鋳造を監督させるために三宅麻呂らを勅使として当地へ派遣、共に盛大な祝典を挙げた後の和銅元年2月13日に清浄な地であると現社地へ神籬を遷し、採掘された和銅13塊(以下、自然銅を「和銅」と記す)を内陣に安置して金山彦命と国常立尊、大日?貴尊、神日本磐余彦命の4柱の神体とし、三宅麻呂が天皇から下賜され帯同した銅製の百足雌雄1対を納めて「聖明神」と号したのが創祀で、後に元明天皇も元明金命として合祀し「秩父総社」とも称したという。
 

                   社殿にある由来書と和銅
説明書き
 なお、『聖宮記録控』(北谷戸家文書)によると、内陣に納めた神体石板2体、和銅石13塊、百足1対は紛失を怖れて寛文年間から北谷戸家の土蔵にて保管され、昭和28年(1953年)の例大祭に併せて挙行された元明天皇合祀1230年祭と神寶移還奉告祭により神社の宝蔵庫に移還されたが、現存される和銅は2塊のみである。
             
 
本殿は一間社流造銅板葺。宝永6年(1709年)から翌7年にかけて、大宮郷(現秩父市)の工匠である大曽根与兵衛により市内中町の今宮神社の本殿として建立されたものであるが、昭和39年(1964年)に当神社本殿として移築された。彫刻に桃山文化の遺風が僅かに残り、秩父市内における江戸時代中期の建造物としても優れている事から、昭和40年1月25日に市の有形文化財(建造物)に指定された。
           
 
また本殿左脇に大国主命を祀る和銅出雲神社が鎮座する。11月3日に例祭が斎行され、黒谷の獅子舞が奉納される。昭和39年に旧本殿(文化4年(1807年)の竣工)を移築したもので、一間社流造銅板葺、向拝中央に唐破風、脇障子に彫刻を飾る。加えて本殿右手には八坂神社が鎮座する。

 ところで荒川と横瀬川の合流地点南方の段丘上(神社の西南)からは和同開珎を含む古銭と共に蕨手刀が出土している。この蕨手刀は注目に値する。


蕨手刀
 古墳時代終末期の6世紀から8世紀頃にかけて東北地方を中心に制作される。7世紀後半頃の東北地方北部の古墳の副葬品の代表例。太刀身の柄端を飾る刀装具である柄頭が、蕨の若芽のように渦をまくのがデザイン的特徴である。また、柄には木を用いず、鉄の茎(なかご)に紐や糸などを巻いて握りとしている共鉄柄(ともがねつか)である。
                                           
日本全国で200点以上が確認されている。ほとんどが古墳や遺跡からの出土である。発見場所の分布は北海道・東北地方が多く特に岩手県からの出土が70点以上と極めて多い。甲信越地方にも例が見られ、四国九州にも若干存在する。なお、正倉院にも蕨手刀(「黒作横刀」)が保存されている。




 現在のところ中国大陸や朝鮮半島に結びつく直接的な証拠がないため、わが国独自に発生したものとする考えもあるがまだ断定できていない。全国での出土例は二百数十例、その中で東日本や北海道からの出土が多く、とりわけ岩手では七十数例と群を抜いていることから、蕨手刀が作られた背景やこの地方とのつながりなどが注目されている。岩手では奈良時代の刀と言われている『蕨手刀』だが、東北地方には7世紀末から8世紀初めにかけて信州地方から東山道(ことうさんどう)を経由して伝えられたと考えられている。製品として伝えられた蕨手刀がのちのち砂鉄の豊富なこの地で多く作られるようになった可能性は高く、また北上川中流域に分布する奈良時代の終末期古墳群、とりわけ川原石積(かわはらいしづみ)の石室をもつ古墳(こふん)からの出土が多く、集落からの出土は少ないという点が特徴だ。
 出現期の蕨手刀は剣と同じように「突く」機能を優先させたものだったが、岩手県を中心とした東北地方北部で形態的(けいたいてき)に変化し、「突く」ことから「切る」あるいは「振り下ろす」機能へと変質していく。蕨手刀はその後も「切る」機能を強化され、9世紀後半以降には〔毛抜形(けぬきがた) 蕨手刀〕、柄のところに強い反りをもつ〔奥州刀(おうしゅうとう)〕、そして現在の〔日本刀〕へとつながっていったと言われている。

 関東地方で見つかるのは珍しい蕨手刀が聖神社周辺で発見されたことから、蕨手刀発祥の地に推定される信濃諏訪、佐久地方と東北蝦夷地方と東山道を通じてこの地が大きな関わりを持っていたと思われるが詳細は不明だ。

  またこの黒谷地域及び秩父地域には多胡碑で有名な羊太夫伝説が数多く点在する。
 小鹿野町の「16地区」には羊太夫が住んで写経をしたという伝説が残り、「お塚」と呼ばれる古墳は羊太夫の墓だとする言い伝えもある。この「お塚(古墳)」は小鹿野町指定史跡になっている。文化財解説によると「お塚」とよばれるこの古墳は、長留川左岸の段丘に位置し、高さ3米、直径15米の円墳である。墳項部には「お塚権現」と称する小祠が祀られている。古墳時代後期、7世紀ごろのものと推定される。地元では「お塚」を羊太夫の墓とする言い伝えがある。羊太夫とは群馬県吉井町にある多胡碑にまつわる伝説上の人物であると思われ、当地域の伝説との関連が注目される。」とある。そして、俗に「お舟観音」と呼ばれる札所32番法性寺には羊太夫が納めた大般若経があったという。さらには、札所1番の四萬部寺の経塚は、羊太夫が納経したとも言われている。

 
羊太夫伝説の伝承地の3分の2は群馬県多胡郡周辺に集中するが、このように埼玉県西部山岳地帯にもその痕跡は存在する。この事柄は何を意味するのか。蕨手刀、和同開珎と共に聖神社周辺には古代武蔵国のいくつかの謎を解く鍵を握っている地帯であるように思えてならない。


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