下江黒長良神社
また、平成2年には江黒古墳付近の道路拡張工事に伴い上江黒地内を発掘調査したところ、古墳時代の石器や土器等遺物が発見された。また、斗合田には斗合田稲荷塚古墳があり、昭和29年7月に群馬大学史学研究室が発掘調査をした結果、7世紀後半、古墳時代末期の横穴式石室を持つ古墳と判明した。
・所在地 群馬県邑楽郡明和町下江黒507
・ご祭神 藤原長良公(推定)
・社 格 旧江黒村鎮守
・例祭等 例祭 7月第三日曜日(下江黒の獅子舞)
秋祭り 11月23日
下江黒は群馬県邑楽郡明和町にある地域で、町内の北東部に位置している。利根川や谷田川が流れているこの地域は高低差のない周囲一帯広大な田畑風景が広がっており、その中には住宅や工場の集中するエリアもみられる。現在は上・下と江黒地域は分かれているのだが、嘗ては「江黒村」として一村を成していた地域。地図を確認すると、お互いの地域境に沿ってではなかろうが、『東北自動車道』が見事なまでに二つの地を分断するかのように南北方向に走っている。
途中までの経路は田島長良神社を参照。群馬県道369号麦倉川俣停車場線を東行する。途中同県道304号今泉館林線との重複路となる「上江黒」交差点で丁字路となるようにも見えるが、実際は右方向に道なりに直進となる。上記交差点から更に東行すること1.4㎞程、東北自動車道の高架橋を上に見ながら更に進むと、こんもりとした社叢林と下江黒長良神社の朱色の鳥居が進行方向左斜め前方から小さいながらも見えてくる。
因みに一の鳥居の手前には、社の脇に回り込める小道があり、周辺には車を充分停められるだけの空間もある。
下江黒長良神社一の鳥居
『日本歴史地名大系』「江黒村」の解説
[現在地名]明和村上江黒・下江黒
千津井村の北、谷田川右岸に位置。伝えによれば地名は、康平五年(一〇六二)源義家の軍馬江黒が病死、当地宝寿(ほうじゆ)寺に埋めたことに由来するという。「鶏足寺世代血脈」によると、鶏足(けいそく)寺(現栃木県足利市)二九世尊誉は、永和二年(一三七六)「佐貫江黒宝寿寺」で大日経疏を読誦している。宝寿寺は現存し真言宗豊山派。中世は佐貫庄に含まれ、応永四年(一三九七)同庄羽継(はねつく・現館林市)大袋の住人弥九郎は、知行所の「江黒郷之内こんとうかはらの御堂かいとの在家」を世良田(現新田郡尾島町)の了清に売渡しており(同年一二月二五日「弥九郎在家売券写」正木文書)、江黒郷近藤原村は同三三年一二月一九日の青柳綱政畠売券写(同文書)ほかにもみえる。
冒頭にも載せているが、現在の上・下江黒地域は嘗て「八ッ塚村」と呼ばれていたという。古墳が八つ程あったので、この名称がつけられたといわれる。永承6年(1051年)陸奥の安倍氏の反乱で源頼義は陸奥守兼鎮守府将軍として、長男の八幡太郎義家(新羅三郎義光の兄)とともに安倍貞任、宗任の征伐に向いこの村を通った時、義家の乗った愛馬の「江黒(えぐろ)」がここで倒れてなくなった。義家はこの地に愛馬をねんごろに葬ったので、このことから八ッ塚村を江黒村と改めたと言い伝えられている。
この伝承・伝説は『明和町HP』の「明和の昔ばなし」に「八ッ塚村とエノクロ」として載せられている。
「明和の昔ばなし」はこちらをクリック⇒
https://www.town.meiwa.gunma.jp/life/soshiki/seisaku/7/8/index.html
一の鳥居から参道の先に目を向けると同じく朱色の二の鳥居が見えてくる。
一の鳥居もそうであったが、二の鳥居も両部鳥居になっている。俗に両部鳥居とは、「両部神道」に属する社が設置を許可された鳥居で、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居で、名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残である。平安時代以降は、僧侶による仏家の神道理論が成立し、当時の仏教界の主流であった密教二宗のうち真言宗の教えを取り入れたのが両部神道である。と言う事は嘗て真言系寺院の管理下にあったのだろうか。
二の鳥居から境内に向かう途中には鬱蒼とした林が覆う。
社の尊厳性、神秘性を増す効果は抜群だ。やはり社には社叢林は欠かせない。
拝 殿
当社の創立年代や由緒は不明。『明和村の民俗』では、下江黒の長良神社は、瀬戸井の長良神社からの分社であるといわれている。
明和町内には獅子舞が斗合田・下江黒・千津井・江口の4地域には残されている。当地域の「下江黒の獅子舞」に関して、起源については、詳らかでないが、昔、埼玉県の大越地方から伝えられたといわれ、獅子舞の道具を格納してある長持ちに元治元年(1864)と記載されてあるところからおそらくそれ以前より行われていたものと推定されるものの詳しくは不明である。
祭日は7月13日から3日間行われたが、現在では7月の第3日曜とし、前日は準備、当日の午前を本祭り、午後は厄神除けを行っている。
流派は不明であるが、舞のやり方は前・中・後の三頭の獅子が竜頭をつけ上衣、はかまわらじをはき、太鼓を前腰につけ、叩きながら笛に合わせて四隅に花笠をのせた子供が立つ中で舞うという。明治四十三年の洪水以前には獅子頭の黄色い布の中に四人も入って舞うササラがあった。獅子頭は三頭分ある。棒術使いがいて、一本使いのササラだった。
・由緒、流派 不詳
・獅子 一頭一人立三頭組雄(獅子・中獅子・雌獅子)
・曲目 ヒラ・チュンロレ・オンベ・うず女・橋がかり・ 鐘巻・花がかり
・楽器、諸道具類 腰太鼓(三-)、笛(七穴、現在六人)、花笠、ボンデン、橋(橋がかり用)、 鐘(棒卷用、つり鐘の形をしたもの)、衣装一式(長袴、黒足袋、わらじ等)
社殿の手前で境内西側に祀られている境内社
中に神々が祠として祀られているようだが、詳細は不明だ。
下江黒の獅子舞の本祭りは、嘗ては旧暦6月15日。この朝、むらの人たちは朝飯を食べずに八坂様に集まった。そして供物に上った赤飯を食べた。このあと、獅子は行列を組んで村を廻り、主 要な箇所で、獅子舞を行った。
行列の順序は次の通りである。
花笠-笛-獅子(雄獅子・雌獅子・中獅子)-諸器の係(かかりのもの等を舞うときの大道具、小道具等)。
廻る順序や各所で演ずる曲目等は次の通りである。
八坂神社を出発するとき、まず笛は前奏曲を奏する。出発すると笛は道中笛に変る。道中笛は「一つとや」「子守唄」(ねんねこぶし)「数え唄」等五種類ほどある。
長良神社の境内に入るとき笛は「二八」の曲となる。ここでは獅子はオンベを舞う。次に八幡様(長良神社境内未社)で、チュンロレを舞う。次に氏子衆の碑前(同社境内)と金剛院の不動様の前で、同じくチュンロレを舞う。次に戦死者の供養塔等の前でチュンロレを舞って午前の部は終りとなる。
昼食後、午後は上江黒の宝寿寺で「本ニハ」を舞う。本ニハとは前述した曲目のうち、オンベ、ヒラ以外のものである。例えば「橋がかり」のようなものである。次に同寺の境内にある馬頭観音の前で本ニワを舞う。次に区長宅⇒師匠宅と廻って本ニワを舞う。(現在では省略している)次にスリコミと称して以前は獅子宿で宿礼として本ニワを舞ったが、現在では金剛院の庭で間に合わせている。
本祭りの翌日には厄神除けがあり、最初に獅子は村の神社と希望する村の家を二尸一戸廻った。獅子は縁側から家に入って各部屋を廻って、台所に下り、トボロから表に出た。これが済むと辻廻りといって、部落の境界へオンベを納めてるという。
社殿右手裏にある石碑 石碑の左側には小さな石祠が祀られて
いるが詳細不明。
社殿から眺める鳥居の一風景
上江黒地域では、男子が成年に達した年には正月十五日に的射を行ったという。後耕地では笠置(オカザキ)様で、宿耕地は天神様で行った。明治末年ごろまで行われたが、その後は絶えてしまったとの事。厄落しだという。谷田川から葦を切ってきてそれで径三尺位の的を作った。宿耕地では、「天保三年吉日」と書いてある幕を曳き巡らしてその中で的射をした。こうして弓を引いてから、その的は日本刀で切ってしまう。というのも的は厄であり、厄を切っておとすのだという。鎮守の長良様には、その成績を書いた額があるという。
下江黒地域でも的射行事はあり、正月に長良様の末社の八幡様の境内で行った。人はきまっていな い。近郷の人も来て射た。的は紙でつくり、杉の木につるしてこれを弓で射ったので、しまいに的は切って捨てたという。旧江黒村鎮守である社ゆえに、現在は上・下と行政上は分かれていても、古くからの伝統行事には現在の行政区分は関係はないのだ。
また、二月七日には「雹嵐除け」があり、長良神社の神主からボンデンをもらって来て境内の高い木の上に立てた。また百万遍の数珠を廻した。サシ番が耕地の反別割りで金を集めて村中の人が、長良神社に集まって飲んだ。この日からオレグリまでの間、板倉の雷電様へ二人ずつ組んで、雹嵐がないように日参する。その当番のことを日参番という。
参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP 明和の昔ばなし」「明和町の文化財と歴史」
「明和村の民俗」 「Wikipedia」等