古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

川俣粟嶋神社

 江戸から日光への行路は、五街道の一つとしての「日光道中」の他に、「日光脇往還」があり、この脇往還は、現在の国道122号線沿いに今でも残っている。この道路は、往古より奥州への行路として利用されていたが、日光廟の建立に伴い、江戸から日光への参詣道としても利用され、「日光脇往還」と称されるようになった。行田、佐野を経由することから、「行田通(道)」「佐野道(路)」とも呼ばれていた。
 この道路は、江戸日本橋~鴻巣までは中山道と重なり、鴻巣より行田(忍)-新郷-川俣-館林の4宿を経由し佐野(天明)に至り、佐野~日光までは例幣使道と重複する。このように、「日光脇往還」は、中山道と例幣使道の中継路としても機能していた。このため、この4宿を含む鴻巣~佐野間を「日光脇往還」と狭義の意味で称する場合もある。また、この間は「館林道」とも呼称されていた。
 現在明和町川俣地域を東西に二分している道路等が「日光脇往還」にあたり、道路沿いに川俣粟嶋神社は鎮座している。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町川俣671 
             
・ご祭神 不明
             
・社 格 旧佐貫村鎮守・旧郷社
             
・例祭等 春祭 41415日 厄神除 714日〜16日 
                  
秋祭 10910
 国道122号線を羽生市から北上し、利根川に架かる昭和橋を越えた先の「川俣」交差点を右折、その後突き当たりの丁字路を再度右折し、利根川堤防方向に南下すると、右手に真新しい川俣粟嶋神社の白い鳥居が見えてくる。高架橋である昭和橋のすぐ下に社は鎮座しているので、一旦通過してから下の道に合流した後、引き返すような経路説明となる。
        
                
川俣粟嶋神社正面一の鳥居
『日本歴史地名大系 』「川俣村」の解説
 利根川左岸にあり、東は梅原村、北は大佐貫村、西は須賀村。日光脇往還が通る。利根川の渡し(富士見の渡)は元和二年(一六一六)の関東一六渡津の一つである(徳川実紀)。地名は利根川と文禄三年(一五九四)締切られた会の川が分岐していることに由来する。「館林城主記」によれば、慶長二年(一五九七)館林城主榊原康政により川俣村の堤ができたという。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方一四九石九斗余・畑方二五六石余とある。

 社の一の鳥居があるこの道沿い両側には、嘗て「
川俣宿」という宿場町を形成していて、大いに栄えていたという。
 元々川俣集落は、南北に走る旧日光脇往還を挟んで、両側に家並みが密集して形成されていて、これは江戸時代に宿場であった名残である。江戸時代には、本陣、脇本陣、旅籠屋などの宿泊施設や、荷物の運搬に要する人馬などを継ぎ立てる設備を備え、更に、南端の利根川沿いに渡船場、船着場も存在し、日光脇往還の重要な宿駅としてのみならず、利根川の渡津、利根川水運の河岸としても栄えていた。川俣宿は、寛永20年(1643年)付の古文書に「船渡やお伝馬(人馬の継立)があるので、諸役(種々の雑税)を赦免する」とあるので、この頃は宿駅として成立していたものと推定される。
 
   一の鳥居から長い参道(写真左)を真っ直ぐに進むと、二の鳥居(同右)が見えてくる。
 明和町の多くの社は南向きで、利根川に向かって建てられているのに対して、川俣粟嶋神社は東向きとなっている。江戸時代に繁栄していた川俣宿の守護神としての位置づけであったと考えられる。
        
                    鬱蒼とした社叢林の中に鎮座する社

 川俣渡船場は、元和2年(1616年)に、江戸防衛のための関東16定船場(渡津)1つに指定されている。この16定船場以外での旅人の渡船は禁止され、定船場においては、特に江戸からの出女・負傷者・不審者の厳重な取締が行われた。寛永8年(1631年)、13年(1636年)にも同様の取締り規定が公示されており、川俣の渡しは江戸防衛のための拠点の一つで、とりわけ出女の取締りが厳重に行われた。また、利根川の対岸・埼玉県側に関所があったが、その公称は「川俣関所」「新郷・川俣関所」であり、この事実も川俣が江戸防衛のための拠点であったことを物語っている。なお、渡船場から富士が美しく見え、庶民からは「富士見の渡し」と称されていた。
       
              社殿の前に一際目立ち聳え立つ御神木の黒松(写真左・右)
         明和町保護樹林指定樹木 所有者 住所川俣70 氏名 
粟嶋神社
         高さ 25m 目通り 217㎝ 指定年月日 平成28年12月12日
 
  参道左側にある神楽殿らしき建物。     右側の狛犬の基盤には「郷社 粟嶋神社」と
                         表示された社号額が置いてある。
 
 川俣河岸(船着場)は、江戸初期より廻米(年貢米)や材木の津出しの拠点として機能していたと言われている。元禄3年(1690年)に、幕府は関東10か国125の河岸について各種の調査を実施したが、川俣河岸はその対象になっている。また、明和・安永年間(176480年)に幕府は、関東全般にわたる河岸問屋の調査を行い、河岸問屋株を設定した。川俣においては、市左衛門(藤野)と又右衛門(福田)の二人に独占権が認められ、運上金も定められている。この河岸問屋2軒は、領主から廻米運送世話給を受けており、その世話は弘化3年(1846年)年頃は館林領43ヶ村のうちの27ヶ村に及んでいた。幕末から明治初期において、川俣河岸は特に繁栄し廻漕店も増加し、明治13年(1880年)には、運船が736艘あって、近辺の河岸の中では最高であったと記されている。以上のように、江戸時代に繁栄を極めた川俣宿は、明治40年(1907年)の鉄道の開通等により、その役目を終え、現在に至っている。
        
                    拝 殿
 創建時期、由緒等は不明。但し、社号額に郷社とあるので、格式の高い社であった事には間違いない。
 調べてみると、全国には淡島神社・粟島神社・淡路神社等、淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余りあるというが、群馬県明和町に鎮座するこの社もそのうちの一社なのであろう。なんでも、江戸時代に淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったため、淡島信仰が全国に広がったとの事だ。
 淡島神は住吉神の妃神で、婦人病にかかったため淡島に流され、そこで婦人病を治す誓いを立てたとする伝承もあるが、これは、淡島が住吉大社の社領となっていたことによる後世の附会と考えられている。このことにより、淡嶋神社は、婦人病を始めとして安産・子授けなど女性に関するあらゆることを祈願する神社となったという。

『明和村の民俗』によれば、「旧佐貫村の郷社。春祭は四月十四・十五日。獅子頭はあるが 、ササラ獅子舞をした覚えはない。七月十四日〜十六日に厄神除、獅子頭をかぶって村中回ったことがある。去年から納涼大会をする。秋祭は十月九日・ 十日で、食い祭りだった。以前から十月十日に祭るが、オクンチとはいわない。境内に琴平さま、天神さま、富士岳さま、三峯さま、その他の末社がある」
明治四十三年の洪水以前には獅子頭の黄色い布の中に四人も入って舞うササラがあった。獅子頭は三頭分ある。棒術使いがいて、一本使いのササラだった。井口、千津井、斗合田ではササラが盛んで、郵便局で記念スタンプも作った」との記述があった。

*追伸
明和村の民俗』川俣地域の一説に、気になる文書があったのでここに紹介する。以下の文面だ。
川俣の粟島様が粟の畑に逃げ込んだ時、粟の穂で目を突いたから、粟をつくってはいけないので、かわりにキビを作った。」
 片目伝説に出てくる文面が、この川俣地域にも存在する。何を意味しているのであろうか。

        
                           拝殿上部に掲げてある扁額       
        
 
  拝殿の向拝部、及び木鼻部には精巧な彫刻が施されている(写真上部、及び下段左・右)

 川俣粟嶋神社の祭事の一つに「厄神除け」がある。道路の東西から小学校五、六年生の男子が選ばれ、白衣を着て冠を付けた。祭り番が十軒ずつ代って当番になり、そこから男の子が出た。白衣を着た子が榊(さかき)に幣束を付けて持ち、手分けをして各戸を回る。「お祓いに来ました」といって座敷に上がり、座敷中を祓って回った。家の者はお賽銭として、お金をオヒネリにして上げた。額は二百〜五百円くらいだったが、各戸回ると、集まった金額の半分をその子供にくれた。八年ほど前から大人が出るように切り替えた。四組に二人ずつ八人が出て、四組で手分けして回る。最初リヤカー、今はトラックに太鼓を載せて叩きながら、村道を三回住復して後、毎戸を回ってお祓いする。神主も来て祝詞をあげ、午後回る。社寺総代(四人)の指示で祭り当番が働いた。以前は男が出たが、今は女性でもいい。賽銭は毎戸千円ずつもらい、集まった金額は祭典費にくり入れる。
 
  社殿左側には境内社(写真左)、石祠4基・及び猿田彦の石碑(同右)が祀られている。
               境内社や石祠の詳細は不明だ。

 当地には「禊・祓」の行事もあり、年二回、七月末と十二月末に人形を二尸一枚配る。神主が紙を切ってヒトガタを作り、世話人が隣組を通じて希望者に配る。ヒトガタには家族の名と年齢を書いて神主の所へ納めると、神主が拝んで、ミソカッパライをして利根川へ流し、厄を流した。以前は自分で川へ持って行って流した。その時、お跋いして、その幣束を丁字路(四っ辻ではない)のカドに立てるとのことだ。
 
 社殿手前で右側には合祀社や石祠・末社等が祀られている(写真左)。一番右側にある社は狐の置物があるので稲荷社である可能性があるが、その他は詳細不明。また境内一番北側にある塚上に祀られている社(同右)は『明和村の民俗』に載せられている富士岳(富士塚)であろうか。
        
              社殿から眺める長閑な境内の一風景 

『群馬県近世寺社総合調査報告書』粟島神社の項のよると、「創建年月不詳。社伝によると当神社は享保年間(171636)火災により本殿・拝殿及び由緒など焼失した。当社の創建は天正(157392)以前という。明治5年(187211月栃木県下第70戸籍区内10ヵ村の郷社に列した。同41年(1908)9月神明宮を合祀した」との事。また「東側に向いている拝殿から幣殿へと続き本殿(覆屋)が位置する。以前は南側の利根川の方から社殿に入っていた」という。


 

参考資料「日本歴史地名大系」「明和村の民俗」「明和町の文化財と歴史」「Wikipedia」
   

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