古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

江口諏訪神社


        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町江口10181
             
・ご祭神 建御名方神
             
・社 格 旧江口村鎮守社・旧村社
             
・例祭等 例祭 727
 群馬県明和町江口地域は、利根川中流域左岸にあり、上州三島神社が鎮座している梅原地域の西側にあたる。途中までの経緯は上州三嶋神社を参照。この社から東側に走る道路を3㎞程進んですぐ南側には利根川の土手が見える場所に江口諏訪神社は静かに鎮座している。
        
                  江口諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 「江口村」の解説
 田島村の南、利根川左岸に位置する。暦応四年(一三四一)二月一〇日および康永二年(一三四三)八月二〇日の寮米保西内島村注文(正木文書)にみえる佐貫江口又四郎は、当地に関係する人物であろう。応永三三年(一四二六)青柳綱政は「佐貫庄江黒郷之内近藤原之村」内の畠一町を江口なる者に売渡しているが(同年一二月一九日「青柳綱政畠売券写」同文書)、この江口も当地に関わりのある人物とみられる。

 社の北側には集落が東西に走る道路沿いに連なっているのだが、社そのものが集落ではなく利根川方向に向く南向きで、参道も土手へと続いている不思議な配置となっている。
       
     入口の一対の柱にはそれぞれ卵形の自然石を利用した力石がある(写真左・右)

 この力石は多田市蔵(いちぞう)という人が文政2年(1819年)に奉納したものである。多田氏の先祖の市蔵という人が千津井の日野見屋という酒屋で、この石を担げれば一升くれるといわれ、かついで持ってきたものという。市蔵は連氏の四代前。一つは長さ68㎝、高さ35㎝、刻銘「二十九メ余」(メは貫目)、もう一つは長さ68㎝、高さ35㎝、刻銘「奉納四拾貫目文政二己卯、願主江口村多田市蔵」
 力石は、関東をはじめ日本全国に見られるが、場所によっては「さいいし」と言っているところもある。その多くは神社の境内等にあるが、やはり、卵形の自然石を用いたものが多く、これを持ち上げた人の姓名、石の重量などが刻んである。また、病人のあるときは持ち上げれば全快、上がらないときは見込みが薄い等、石占いに使用した例もある。いずれにしても最初は神意を伺うものとして始まったようである。昔は村仕事として洪水による堤防の土端打作業等があったが、現代と違って作業が全て人力によって行われたので、一人前の人間として平素から身体を鍛えておく必要があった。また、同時に力のあるものはそれを誇りにするとともに、威厳を示したのである。そのために若者たちが正月、盆、農休み等の集会時に力を示すために担いだ石が力石と呼ばれている。
 30貫の力石を持ち上げると一人前と言われていたが、実際は力石に刻まれた重量より2割ほど軽いのが普通となっているという。
       
         拝殿に通じる石段手前に設置されている「社殿新築記念碑」
 社殿新築記念碑には「諏訪神社旧社殿は、安政年間の改築にかかるもので、既に百四拾数年を経て老朽化が激しく、そこで、氏子総会を開き、この対策を議し、氏子割寄付金と篤志寄付金を以て、新築することに決し、平成拾壱年、拾弐年の両年を以て、完成したものである。」との事が記されているが、創立年代等はこの碑には記されておらず、他の資料も調べたが不明である。
       
                    拝 殿
        
       石段上に祭られている境内社・子神社。その奥には神興庫がある。
 子神社は「権現様」とも称され、権現様は足の神様で、足の悪い人がお参りし、治ると金の草鞋をあげた。子の権現が権現様と呼ばれるようになったという。

 明和町の「町のトピックス」において、2023722日(土曜日)江口地域の諏訪神社において、保存会による「ささら舞い」が、家内安全・五穀豊穣を願い、4年ぶりに奉納されたという。
「明和町教育委員会」発行の『明和町の文化財と歴史』では、当地は、民俗芸能の盛んなところであり、町内に獅子舞が斗合田・下江黒・千津井・江口の4地域に残っているという。この神興庫の中に獅子舞の道具が保管されているのであろうか。
        
            境内北側に並んで祀られている石祠・石碑群
 左奥から長良大明神、八幡大神・天照皇大神宮、前鬼宮、雷〇、奉納石燈籠一基と刻まれた石塔、熊(野?)宮、稲荷宮、神〇宮、戸隠大神、(?)、辨(財?)天・大(神?)宮・天満宮、(?)、(?)、水〇〇、水神宮、水神宮、(?)。
        
                             社殿から参道方向を撮影
    鳥居のすぐ先には利根川の堤防があり、石段がわざわざ堤防上まで伸びている。

 ところで、『明和村の民俗』において、江口諏訪神社の祭礼に関して以下の記載がある。(*カナ文字に関して、筆者が可能な限り漢字に直している)。

 江口地域の鎮守社である諏訪神社の祭日は七月二十七日。これが本祭りで、前日二十六日の晩は「宵祭り」、二十八日は厄神除けであって、昔は祭礼にはササラが出た。四つの耕地にササラ番があった。一年毎に上・中・新田・下組の順にまわる。昭和五十六年は上がササラ番である。
 七月二十六日の晩は旗を上げたり、花を拵えた。これはササラ番の人が中心になってやるが、各戸一人は必ず出ることになっていた。昔はササラをやった。獅子頭は三つあり、雄獅子・雌獅子・中獅子とあった。ササラは村の人がやったが、奉公人は参加できなかった。
 ササラをやる前にボウヅカイが木刀で踊った。二十六日の晩は境内でササラをやった。
 二十七日の朝早く神官が来て拝んでくれた。この時は氏子たちもいった。境内でササラやったあと、役員の家を一軒一軒回った。役員というのは、区長、社寺総代四人.協議員各(耕地に二人ずつ)八人の計十三人である。この役員の家をまわった。昔は夜が明けてしまうこともあった。
 二十八日は厄神除けで、厄神除けをやってもらいたいという希望の家だけを回った。これをウラザサラともいった。厄除けはカミからシモにすってきた。神官が切ってくれた幣束をムラ境の上梅原・古森との境と下千津井との境の2カ所に立てた。立てる時には社寺総代と評議員もついていった。厄神除けをすると村に悪いものが入って来ないという。厄神除けの道順はきちんと決まっていて間違わぬようにした。
 なお、ササラは笛が四、五人いた。戦後暫くやっていたが、現在はやってない。道具などは諏訪神社境内の蔵に保存されている。
 
  鳥居の先にある石段を上り終えると、そこには利根川の雄大な流れが広がる。(写真左・右)
        利根川の対岸は羽生市・発戸地域、及び上村君地域である。

 昭和29年までは、江口・千津井・斗合田各地域には、渡し場があり、渡し舟で利根川を渡り、対岸の羽生市との交流を深めてきた。嘗ては羽生から簔や唐笠や金物や魚類などの、多数の行商人が舟で利根川を渡って町へやって来た。 盆・暮れなどハレの日の買い物には、こちらから川を渡って埼玉県側 に出かけて行ったとの事である。
 商売上の取り引きばかりでなく、人間自体の交流も盛んであった。村人の中には、羽生の人と縁組をする者も多く、花嫁を乗せた渡し舟が毎年のように往復したとという。




参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP」「明和町の文化財と歴史」「明和村の民俗」等
 

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