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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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倭文神社

 倭文神社が鎮座する伊勢崎市(いせさきし)は、群馬県の東南部に位置し、市の北部に一部丘陵地があるほか、ほぼ平坦地である。市の南部には利根川が流れ、その支流である広瀬川、粕川、早川などの河川や池沼がある。道路交通網では、北部を横断する北関東自動車道、国道50号、また、市の東北部を通過する国道17号(上武道路)や南部を横断する国道354号、中央部を縦断する国道462号などが整備されており、さらに、鉄道網では、JR両毛線、東武伊勢崎線が結節する交流拠点として更なる発展が期待されている。
 2005年(平成17年)1月1日に行われた1市2町1村の合併によって人口が20万人を突破し、2007年(平成19年)4月1日に東に隣接する太田市とともに特例市に移行した。不思議な事に この市の人口は現在でも増加傾向にあり、群馬県内でも屈指の人口増加が持続する地域であるそうだ。子どもが増えている一方で、高齢化も緩やかに進んでいる。また、就業者は、サービス業の従事者が増加している。

 伊勢崎市の地名の由来は、1561年(永禄4年)に由良成繁が赤石城を攻め落とし、赤石郷の一部を伊勢神宮に寄進して、伊勢宮を守護神として奉った。以来、「伊勢の前(いせのさき)」と呼ばれるようになり、転じて「伊勢の崎」、「伊勢崎」となったとされる。
所在地    群馬県伊勢崎市東上之宮町380
主祭神    天羽槌雄命         
         (配祀)倉稻魂命 菅原道真 豊受姫命 木花咲耶姫命
             大己貴命 大山祇命 誉田別命 素盞嗚命 菊理姫命
社  挌    上野国延喜式内社 九の宮  旧郷社、那波郡鎮座 
例  祭   
4月16日 春季例大祭  10月17日 秋 祭 

          
 倭文神社は、伊勢崎市の南西3㎞ほどの利根川と廣瀬川の間に挟まれた地形で、周辺はさほど多くの民家はなく、田園地帯の中に鎮座している。駐車場は境内裏側に数台停められるところがある。意味深にも利根川の対岸に下の宮という地があり、そこには式内社である火雷神社が鎮座している。
 「倭文」と書いて「しとり」と読む。創立年代・由来は一切不詳だが、一説には、垂仁天皇の御宇3年という。社名から倭文部の創祀した神社と思われ。祭神、天羽槌雄命は、倭文部の遠祖で、織物の神。伊勢崎市は周辺の桐生市も含め古くから織物の里として栄えている関係もあるのだろうか。
               
                    正面入口から入ると朱の両部鳥居がある。
 貞観元年(859)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録) その後、延長5年(927)に撰集された『延喜式』神明帳の中に 倭文神社の名が載せられ、上野神明帳には、『従一位倭文大明神』とあって 上野国の九之宮とも称された由緒ある社だ。倭文氏の氏神を祀った神社なので、奈良県葛城市に鎮座する「葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらぎしとりにいますあめのはいかずちのみことじんじゃ)」が本家の神社のようだ。

倭文神社略由緒
鎮座地    伊勢崎市東上之宮町380番地
延喜式内  上野十二社 九之宮
主祭神    天羽槌雄命
配祀神      倉稻魂命 木花咲耶姫命 譽田別命  菅原道眞命 大己貴命 素盞嗚命
               
豐受姫命 大山祇命 菊理姫命
 当社の御祭神は、天羽槌雄命で、その歴史は古く機織の祖神として、また農耕、養蚕の神として尊崇されてきた。その創建は、人皇第11代垂仁天皇の御宇3年と伝えられているが、これを明らかにする証跡は、現在不明となっている。
 貞観元年(859)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録)その後、延長5年(927)に撰集された『延喜式』神明帳の中に倭文神社の名が載せられ、上野神明帳には、『従一位倭文大明神』とあって上野国の九之宮とも称された。
 その後、戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、元和年間(1615~23)から寛永年間(1624~43)に入る頃は、社殿も再建され、別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。三代将軍家光のれ慶安元年(1648)9月には、御朱印地十石を賜わり、漸く安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。その後約80年を経て、享保12年(1727)8月には、八代将軍吉宗から社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内からも浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめた。しかし、この社殿も慶応2年(1866)11月9日再度火災に会い、悉く灰燼に帰してしまった。
 現在の社殿はその後、明治13年10月24四日(上棟)に再建されたものである。なおさきの御朱印地十石の斎田は、明治維新の際上納され、また明治元年の神仏分離令により、別当寺や社僧の制も廃止され、神職によって祭祀される現在の姿となった。その後区内の小社祠の整理合祀も行われ、この間郷社に列せられた。また大正14年には、神饌幣帛料供進社に指定された。
 今次大戦後は、国家神道や社格もなくなり、純粋な上之宮町の鎮守として今日に至っている。
                                                           案内板より引用
                               
                              拝    殿
                               
                              本    殿
 倭文神社はその後戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが 徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、 元和年間(1615~23)から寛永年間(1624~43)に入る頃は、社殿も再建され、 別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。
 以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。三代将軍家光の慶安元年(1648)9月には、御朱印地十石を賜わり、 安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。享保12年(1727)8月には、八代将軍吉宗から 社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内から浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめた。 しかし、この社殿も慶応2年(1866)11月9日再度火災に会い、悉く灰燼に帰してしまった。現在の社殿はその後、明治13年10月24日(上棟)に再建されたものである。
              
倭文神社

伊勢崎市指定重要無形民俗文化財
倭文神社の田遊び
平成19年8月17日指定
 倭文(しどり)神社の田遊びは、上之宮町の倭文神社で毎年1月14日に行われる田植えの予祝行事です。笹竹を持つ祭員が笹竹を振り、ご神歌を奉唱しながら鳥居と拝殿を三往復した後、町内を巡行します。戻ると再び鳥居に整列し.鳥居と拝殿の間を三往復します。
 昔は最後に参会者による笹竹の奪い合いがあり、この竹で蚕箸を作ると蚕が当たるとされていました。
 この田遊びの、ご神歌は中世期まで遡り、貴重です。
御神歌
 工ートウ、工ートウ
 まえだの鷺が御代田にぎろり
 ぎろぎろめくのは なんだんぼ
 一本植えれば千本になる
 とうとうぼうしの種

 工ートウ、工ートウ
 乾(いぬい)のすまの掃部(かもん)の長者
 つじゅう十石ざらり
 ざらざらめくのは なんだんぼ
 一本植えれば千本になる
 とうとうぼうしの種

  平成20年3月1日     伊勢崎市教育委員会
                                                          案内板より引用

 拝殿を左手方向に進むと巨大な岩が祀られている。       拝殿の西側には神楽殿がある。
          磐座の類であろう。

 境内右側には道路沿いに鳥居があり(写真左)、そこからも出入りができる。ただ鳥居近くに社日があったが見落とした為、撮影できなかった。少々残念。またこの鳥居を入るとすぐ右側に石祠群があり、左から少彦名神、道祖神、双体道祖神、道祖神が並んでいる。

 また社殿の奥にも多数の境内社が存在する。
        
         熊野社           市杵嶋社、八幡社、天満社         八坂社等 境内社

  ところで、この倭文神社から真南に約1㎞位、利根川を挟んで式内社、火雷神社が鎮座している。倭文神社が九宮で火雷神社が八宮であり、地名も倭文神社が上之宮町に対して、火雷神社は下之宮町。祭神が倭文神社は天羽槌雄命であるのに対して火雷神社は「神名帳考證」では「香々背男」。この香々背男は「天津甕星」とも言い、星の神という。
 群馬県利根川中流域の川を挟んで南北に僅か1km程の狭い地域の中に日本書紀葦原中国平定の際に登場する正悪相対する2神が鎮座する社が存在するという事はどういう意味があるのだろうか。
    



 


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