古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

棚田神社

 現在の元荒川は源流地点から熊谷市久下地域までは、多少の蛇行はあるが、概ね南東へと真っ直ぐに流れて来る。しかし、地図で確認すると、元荒川主河道とは別にJR高崎線と上越新幹線に挟まれたこの地域(門井町、棚田町、壱里山町など)で北東方向へと大きく蛇行している河道がある。つまり、この地点から行田市棚田町一丁目付近まで北東へ向かって流れ、そこから流れを再び南西へと変え、ここから600m下流の行田市清水町で本来の流路へと戻ってくる。
 このように旧元荒川が大きく蛇行しているために、行田市と熊谷市と鴻巣市(旧吹上町)とが入り組んでいる地域でもある。
 嘗て旧元荒川が乱流し、頻繁に蛇行を繰り返していた痕跡をこの地形は物語っている。
        
             
・所在地 埼玉県行田市棚田町1-53
             
・ご祭神 日本武尊 菅原道真公
             
・由 緒 旧鷺明神社及び天神社等合祀社
             ・例祭等
地図 https://www.google.com/maps/@36.1213883,139.4304318,17z?hl=ja&entry=ttu
  棚田神社が鎮座する行田市棚田地域は熊谷市の大井、久下地域に西・南側を囲まれた地域で、嘗て元荒川の蛇行により形成された楕円形の突出部に沿ってできた道路の外縁に位置するといった不思議な行政区分となっている。
                      
                   棚田神社正面
            鳥居の額には「天満宮」と表記されている。
 現在の行田市棚田町地域は、嘗て「棚田村」と称し、北は持田村、西は太井村(現熊谷市)、南は元荒川を隔てて大里郡久下村(現同上)。当村は丁度元荒川の河道がU字形に屈曲した外側に位置していて頻繁に水害を受けたようで、小名に砂畠(すなはたけ)・砂原(すなはら)・深水・押出(おしだし)などの名称が残っている。江戸時代は忍藩領に属し、元禄―宝永期(一六八八―一七一一)の忍領覚帳によれば大井四ヵ村のうちで、高六一二石余という。  
        
         参道の左側には数多くの石灯篭や石祠等が参道に沿って設置されている。

 国道17号をJR行田駅方向に進む。因みに行田市には同名の駅が2つあり、一つはJRの「行田駅」もう一つは秩父線の「行田市駅」である。国道17号とJR行田駅前通りとの交点にある「壱里山町」交差点の手前にある「久下」交差点を左折、400mほど進んで狭い十字路を再度左折し、しばらく進むと左側に棚田神社が見えてくる。
 社の東側隣には「真言宗智山派長盛山不動院真福寺」が管理する墓地があり、嘗て「「鷺明神社」と呼ばれていたころの別当時である。
「久下」交差点左側にはコンビニエンスがあり、そこの駐車場をお借りしてから徒歩にて社に向かう。
        
            参道の突き当り付近にある「社殿竣工記念碑」
              因みに参道はここから直角に曲がる。
 社殿竣工記念碑
 古来棚田の鎮守は、当社鷺明神社で真言宗真福寺の持ちでありました。
真福寺の境内には天神社が祀られておりましたが、明治の神仏分離により天神社を当社に合祀し、社名を天神社と改めました。
 更に明治41年字砂畑の鷺明神社と同境内社三峰神社及び同字の諏訪社・三嶋社・天神社を合祀し、社名天神社を棚田神社と改め現在に至っております。
 主祭神は日本武尊と菅原道真公であります。
 当社の鎮座する棚田は、元荒川の河岸段丘に位置し、水利に恵まれておりましたが、昔はしばしば洪水に見舞われ、その名残で砂畑・砂原・深水・押上等の地名が残っております。天正18年(西暦1590)の忍城の水攻めに使われた石田堤の端が当地に至っており、当社の境内もこの堤の一部でありました。
 当社の氏子は白鷺を神の使いとして大切にし、白鷺が水田で羽を安め田を守るように見えたところから、当社は五穀豊穣を祈る神社でありました。
長い間、五穀豊穣を祈る神、学問成就を祈る神として厚い信仰を集め数々の伝統を受け継いでまいりました当社でしたが、第二次大戦の終戦前夜からの米軍機B29の空襲で昭和20814日夜半、社殿は焼失してしまいました。
 その後、昭和3310月応急の社殿が建立されましたが三十年以上も経過し老朽化が著しく、平成72月社殿新築委員会を組織し社殿・社務所・境内整備を竣工することができました。
 当棚田は国鉄行田駅の開業や土地区画整理事業による道路整備により住宅の増加が著しく、現在では約500世帯1500人の人口を擁し、当社の参拝者は年々増加しております。
 時代の幾多の変遷にもかかわらず、町内の方々及び当町を古里にしている方々の今に続く清純な神社崇拝の心と、浄財の拠出によって今日の竣工を迎えることができました。ここに竣工を記念するにあたり、町内の方々及び当町を古里にしている方々の隆盛を祈念し併せて当神社を心のより処として当地区が平和で豊かな明るい郷土として末永く発展することを念願し碑文といたします。
                                   境内記念碑文より引用
        
                 鳥居・社殿方向を撮影
 棚田地域の住宅街の一角に鎮座する。 周囲は新しい家ばかりであるが、社の境内はどこもきちんと手入れされていて参拝にも気持ちよく望めた。
        
                     拝 殿
「新編武蔵風土記稿 太井村条」に鷺明神社二宇とあり、それぞれ棚田の鎮守、門井の鎮守と記載されている。また合祀したという三島社も記載されている。

○鷺明神社二宇
 一は門井の鎮守にて、徳円寺持、
 一は棚田の鎮守とす、真福寺持、
 三島社、真福寺持、
                          『新編武蔵風土記稿 太井村条』より引用

 また当地にもともと鎮座していた天神社は、真福寺の境内社だったといい、新編武蔵風土記稿真福寺項に記載されており、神体は元大里郡佐谷田村小名田中(熊谷市佐谷田)にあったもので、久下權頭直光の守護神だったといい、享保年中に領主(忍藩阿部家)に願い出て、当地へ遷したという。

天神社
神体は木像なり。久下權頭直光の守護神にて、元大里郡佐谷田村の内、小名田中と云所にありしを、享保の頃領主へ願ひ境内へ移せりと云。この直光が事同郡久下村に出たれば、爰には略す、
                       『新編武蔵風土記稿 太井村条真福寺』より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系(棚田村)」「境内記念碑文」等

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