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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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野上下郷諏訪神社

 板碑は、五輪塔(ごりんとう)・宝篋印塔(ほうきょういんとう)とともに中世に盛んに作られた供養塔であり、石板卒塔婆ともいう。本来、塔とは五重塔・三重塔などの仏塔のことだが、その後、エジプト新王朝時に、ピラミッドの代わりに盛んに造られたオベリスクのような形の先端のとがった細長い建築物のことも塔と呼ばれるようになった。この板碑は鎌倉時代は地方豪族や僧侶によって立てられたが、南北朝・室町時代には庶民層による造立も盛んになったという。
 この板碑は北海道から九州まで日本全国に分布しているが、特に中世の関東地方で多く作られた。関東地方には4万基を数えるとされているが、その中にあって埼玉県には現在2万基以上の板碑が確認されていて、これは質・量ともに全国一といわれている。分類上「武蔵型板碑」とも言われ、原料の石材は荒川上流の長瀞や槻川流域の小川町下里などから産出される緑泥片岩と呼ばれる青色を帯びている石を加工して造っているため青石塔婆とも呼ばれていている。
 寄居から国道140号線沿いにある樋口駅手前200mに国指定史跡「野上下郷板石塔婆」がある。台上高約5,37m・幅約1m・厚さ13㎝のこの塔婆は現存する青石板塔婆としては日本一の大きさであり、1928年(昭和3年)国指定史跡に指定された。
 この野上下郷板石塔婆のある道を北上すると、山の斜面上に野上下郷諏訪神社は静かに鎮座している。
所在地    埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷467
御祭神    建御名方神
社  挌    旧村社
例  祭    例大祭 3月17日

        
 野上下郷諏訪神社は国道140号を長瀞町方向に進み、「国指定史跡 野上下郷板石塔婆」と表示された看板の先のT字路を右折する。するとすぐ右側に野上下郷板石塔婆が見える。この板碑は高さ約5mの日本最大の板碑であり、地下の板の長さを加えると約7m余りの長さではないかと言われている。この野上下郷石塔婆の前の道を北に向かい、直進して長瀞小坂団地を過ぎたら右に曲がると左側にこの社の参道が見えてくる。
           
           
 傾斜地に鎮座している為であろうが、長瀞地方の豊富な石材をふんだんに使用して土台として石垣状にしているのが良く解る。また谷積みと言われる石材を斜めに使った石積み方法で積み上げているようだ。
            
 古くは諏訪大明神、仲山城のふもとにある。南北朝時代、仲山城を築いた阿仁和基保が、自ら帰依する信州の諏訪大明神を勧請したのが起源といわれる。後の鉢形城主北条氏邦も崇敬した。

    社殿前にある石段の左側にある手水舎             手水舎の奥にある案内板

 諏訪神社   所在地 秩父郡長瀞町大字野上下郷

 諏訪神社の祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)で、正和元年(1312年)、阿仁和兵助橘基保が仲山城を築き当地を支配した時、基保が常に厚い信仰をささげていた信州一之宮の諏訪大明神の分霊を勧請して、ここに祀ったのが始まりと伝えられる。
 基保が没してから後、鉢形城主北条氏邦は当社を厚く崇敬し、
拝殿や神楽殿を造営、神域を拡張して当地方の総鎮守としたが、北条氏の滅亡とともに社殿の修理等も行われないまま衰微した。
 その後、弘化元年(1844年)に、西光寺法印が広く浄財を募り、社殿を再建し、現在に至っている。
 昭和五十八年三月  埼玉県
                                                                案内板より引用
            
                                拝    殿
 野上下郷諏訪神社の
拝殿の彫刻は見事なもので、時間を忘れて見入ってしまった。この拝殿の彫刻に関しての詳細な記録は現在調べても解らない。残念。
            
              拝殿向背部の見事な彫刻。社殿の再建時は色彩も見事であったろう。

 若干色彩が残っている場所もあるが、その全体像までは解らない。この彫刻は拝殿側面部にまで施されている。野上下郷地区という正直閑散とした地にこの素晴らしい社が存在すること自体、驚きという以外ない。


                 拝殿の脇障子にも細かく多彩な彫刻が施されている。

 境内社が社殿の周りに鎮座している。ほとんど詳細不明。

   社殿の右側奥にある石祠、詳細不明。         社殿の左側にある境内社、こちらも不明。

    社殿左側に境内社と共にある恵比寿様             恵比寿様と並んである社日  


 長瀞町野上地区は、荒川左岸の狭い河岸段丘上に集落が点在している。ところでこの荒川の対岸である右岸地区は岩田、金尾地区であり、金尾地区は金上无の手により和銅(にぎあかがね)を発見した秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であるし、更にまた金尾地域の荒川を隔てて東側には末野遺跡という古墳時代から窯で焼成された堅い土器(須恵器)を生産していた窯跡が発掘されている。この末野遺跡には須恵器生産に関連する窯跡群の他、須恵器を生産する工房の跡や材料の粘土を採掘した跡に加え、鉄生産の行っていた痕跡も残している。野上地区はその金属製造地帯に内包した地域といえる。
 またこの地域周辺には、金ケ嶽(かながだけ)、金石(かねいし)、金崎(かなさき)、金尾(かなお)など鉱石に関する地名が存在する。

 長瀞町に鎮座する宝登山神社の「ホト」は火床(ホド)、つまり溶鉱炉であり、タタラ師や鍛冶師の一大集団がその周辺に存在していた一つの証拠であろう。そしてその集団は朝鮮半島から渡来した技術者集団である可能性が高いと思われるが如何なものだろうか。

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