古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北吉見神明神社

 北吉見神明神社の創建は口碑によると、江戸時代初期に源氏一門新田一族の後裔であった旧大名の落人が当地を開発、住民らとともに氏神として祀ったことによるという。当社はもともと氏子総代が世襲であり、新井家を初めとする四軒の旧家が永く務めていた。この四軒は「旦那」と呼ばれ、古くから再建行事等の大きな負担のある時には多額の寄附を行って来た。また、総代の他に当番の役があり、氏子区域から家並み順に二名ずつ出て、注連繩などの祭典の準備に当たっているという。
 当社は、かつて氏子が病気の時には拝みに来て、絵馬や髪の毛を上げて願をかけ、全快するとお札参りを行ったという。現在も小絵馬が多数残されており、古くから信仰の盛んだった様子を伝えている。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡吉見町北吉見2250
            
・ご祭神 天照大神
            
・社 格 旧柚沢村八反田鎮守
            
・例祭等 元旦祭 12日 春祭り 416日 例祭 710
                 
秋祭り 1016
 吉見町大字北吉見は、吉見丘陵の南西部に位置していて、地域内に古墳後期の吉見百穴横穴墓群(国史跡)や松山城跡(県史跡)があり、昔から開発の進んだ地域であった。
 不思議とこの地域周辺は、グーグルマップ等の地図を確認すると、やたらと飛び地が入り乱れている。嘗て柚沢・根小屋・土丸・流川・久米田村は古く一村であり、各村の境界は相混じり、当村は広さなども「定かに弁し難」かったと『新編武蔵風土記稿』にも記載されていて、現在でも北吉見や久米田・南吉見等の地域には異常に飛び地が多い場所でもある。
 途中までの経路は北吉見八坂神社を参照。南側に接している埼玉県道271号今泉東松山線を700m程東行し、「JA埼玉中央農協 西吉見支店」が右手に見える信号のある十字路を左折する。その後200m程進んだ路地を左折、「八反田集会所」を過ぎたあたりの正面やや左方向に北吉見神明神社の白い鳥居とその先にある社殿が小さいながらもハッキリと見えてくる。
 但し専用駐車場等なく、路上駐車したため、前後からくる車両が来たらひとたまりもなく、また見慣れない車が不自然な場所に駐車しているのは近郊に方々には不審に思われるため、急ぎ参拝を開始した。
        
                 北吉見神明神社参道
 この真っ直ぐに伸びていない参道と周囲の田畑風景、加えてその先に見える純白な鳥居が絶妙にマッチしている。遠くから見える社殿手前の石段の按配もまた良し。近隣の人々が大切に管理しているのが分かるように小高い地に南向きに鎮座しているその眺めもいう事ない。正直北吉見地域の中でも東北端部に位置し、目立たない地に鎮座しながらも、周囲一帯のどかな風景の中に溶け込み、それでいて存在感のある社。
 嵐山町の鎌形八幡神社熊谷市の板井に鎮座する出雲乃伊波比神社小江川地域の高根神社のように、筆者の心をくすぐる社の風景がそこにはあった。ともかく雰囲気が良いのだ。 
       
            正面から見た鳥居とその先に鎮座する社殿
『日本歴史地名大系』「柚沢(ゆさわ)村」の解説
 根小屋(ねごや)村の北方に位置したが、当村および根小屋・土丸・流川・久米田村は古く一村で、各村の境界は相混じり、当村は広さなども「定カニ弁シ難」かった(風土記稿)。大体は東は和名(わな)村、西は市野の川が流れる。また「古ハ温泉アリシヨリ湯沢ト唱ヘシヲ後ニ今ノ字ニ改メシ」と伝える(同書)。元禄郷帳では高四二四石余、国立史料館本元禄郷帳では旗本竹田(武田)領。「風土記稿」成立時には旗本竹田家と大島家の二給。この二給で幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)。
        
                  参道周辺の様子
 当地は周囲が小高い丘となった小盆地状の地形であり、江戸時代に記された『新編武蔵風土記稿 柚沢村』にも記述されているように「用水は流川村の大溜井及天神溜井を引用ゆ、又村内にも二ヶ所の溜井あれど、もと水利不便な地なれば、やゝもすれば旱損すと云」と旱魃等の被害もあった地域でもある。
        
                 石段上に鎮座する拝殿
 神明神社  吉見町北吉見二二五〇(北吉見字三十八耕地)
 八反田の地は、もと旧柚沢村の小名の一つで、周囲が小高い丘となった小盆地状の中に民家が点在している。隣地の根古屋などとともに松山城跡地に当たり、正保から元禄期(一六四四〜一七〇四)にかけて久米田村から分村した。当社は、現在八反田の鎮守であり天照皇大神を祀る。その創祀由来は口碑によると、江戸時代初期の元和七年(一六二一)三月三日、新田義貞一族の後裔であった旧大名の落人が当地を開発し、住民らとともに氏神として祀ったことによると伝える。永く世襲で氏子総代を務める新井・松崎・西島・高橋の四家は、その開発に従事した人々の子孫とも考えられるが、また「天正庚寅松山合戦図」に見える新井・松崎各氏との関係もうかがわせる。
『風土記稿』柚沢村の項に、神明社のほか、稲荷社・天神社・八幡社・愛宕社があり、各社ともに「竜性院持」となっている。この竜性院は、真言宗の寺で旧御所村の息障院の末寺であったが、開山が不詳であり、中興開山は寛文二年(一六六二)と伝えている。恐らくは当社の創祀とあまり時をおかずして再興され、別当となっていったに違いない。
 当社には、現在境内社として天満宮・御嶽社・七鬼神社等が鎮座している。天満宮は、石碑によれば明治四十五年に合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  社殿左側に祀られている石碑・石祠等            社殿右側にひっそりと祀られている
 左より享保〇年奉納碑・七鬼神社・辨才天・        天満宮の石碑
   大口真神の御符がおいてある御嶽社

 当地域の氏子は、当社のほかにも様々な神仏を信仰している。安産の祈願には川島町正直の観音様に行く。子供の夜泣きが激しい時には、鴻巣市三ツ木の山王様に参詣すると治るといい、受けてきた神札を座敷の壁に貼って守護してもらう。疣(いぼ)を取るには同じ北吉見の地内にある北向き地蔵に祈願し、線香をあげてその灰を疣につけると効くという。
 加えて、春の農耕を始める前には吉見観音から神札を受けてきて、竹につけて村境に立てて村内に悪霊が入って来るのを防ぐ。この日、氏子は禦(ふせぎ)正月と称して一日中休んだという。
        
              何度振り返り見入ってしまう里風景
     筆者の心を揺さぶる社が一社追加されたような心持ちとなった今回の参拝。
    改めてこのような社と出合えたことに対して、神様に心から感謝し手を合わせた。
               本日の青天の天候と相まって、充実した時間を過ごさせて頂いた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
              

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