古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小針日枝神社

 古代蓮の里(こだいはすのさと)は、埼玉県行田市にある公園を兼ねる施設である。ふるさと創生事業の一環とし、行田市の天然記念物であり市の花である「古代蓮(行田蓮)」をシンボルとする公園。古代蓮は、1971年(昭和46)公共施設(小針クリーンセンター)建設工事の際に蓮の種子が掘削地の池で自然発芽し1973年(昭和48)に開花したものである。
 出土した地層の遺物や木片の放射性炭素年代測定から約1,400年から3,000年前のものと推定されたため、「古代蓮」と呼ばれるようになった。古代蓮の里は、その古代蓮の自生する付近(旧小針沼)に「古代蓮の里」として1992年(平成4年)から2000年(平成12年)にかけて整備された。
 この「古代蓮の里」の北側にひっそりと鎮座しているのが小針日枝神社である。筆者も嘗て鴻巣市の事業所で勤務していた関係で、この「古代蓮の里」には何度も利用させて頂いたが、そのすぐ北側にこのような不思議な雰囲気のある社が鎮座しているとは全く知らなかった。まさに『灯台下暗し』とはこのことだろう。
 この社に参拝する際にまず、その失礼をお詫びしてから、神妙な面持ちで境内に入らせて頂いた次第だ。
        
              
・所在地 埼玉県行田市小針1990
              ・ご祭神 大山咋命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等
 埼玉県道128号熊谷羽生線を行田市街地、工業団地を通り過ぎた先の「下須戸」交差点を右折し、同県道364号上新郷埼玉線を南下すると、左手前方に「古代蓮の里」が見えてくる。その手前にある押しボタン式信号のある十字路を左折し、200m程進んだ先の十字路を右折すると右手に小針日枝神社が見えてくる。前項で紹介した下須戸八坂神社の南方で、直線距離にして1.5km程の場所に鎮座している。
 社の北側に隣接している「小針自治会集会所」に車を止めてから参拝を行う。
        
                  
小針日枝神社正面
『日本歴史地名大系』には「小針村」の解説が載っている。全文紹介する。
 [現在地名]行田市小針
 加須低地西端の洪積層微高地に接する沖積低地にあり、北は若小玉村、東は見沼代用水を隔てて下須戸・藤間の二村。「是より西、忍領」の封標が下総・常陸へ通じる幸手道にあった。
 約一千四〇〇年前の実から発芽した、いわゆる「行田ハス」(豊田清修氏による古代蓮)は当地で発見された。寛永一〇年(一六三三)忍藩領となり、幕末に至る。同一二年の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、役高四六九石余。田園簿によると村高は高辻帳に同じで、反別は田方一五町九反余・畑方四七町四反余。享保一三年(一七二八)埼玉沼を干拓した持添新田三三八石余は初め幕府領であったが(郡村誌)、明和七年(一七七〇)と推定されるが川越藩領になった(松平藩日記)。

『小針』という地名は「開墾地」を意味するらしい。その昔、
星川と忍川に挟まれた後背湿地に位置する旧小針村は、忍藩諸村(埼玉郡埼玉村・小針村・若小玉村・長野村)の悪水溜井となっていて、恒常的な排水不良に悩まされていたという。
        
                    境内の風景
 小針日枝神社は加須低地西端の沖積低地内に位置し、四方を水田に囲まれて鎮座している。嘗て当社境内の南側には小針沼という大きな沼が広がっており、この沼は古くには尾崎沼と称されていた縦約10町(約1090m)・横16町(約1745m)・面積約50町(約49.6ha)の沼地であり、星川と忍川に挟まれた後背湿地として埼玉郡埼玉村・小針村・若小玉村・長野村にまたがり所在していた。この当時は忍藩諸村の悪水溜井となっていた。後に小針沼(こばりぬま)と呼ばれていたが1696年(元禄9年)に小針村と埼玉村との間で沼の名称問題が発生し、幕府の裁許によって埼玉沼へと改められたと伝えられている。
 その後1728年(享保13年)になると、幕府の命を受けた井沢弥惣兵衛と埼玉村・小針村・若小玉村・長野村の4村の住民らにより新田開発が行われた。沼の中央に排水路として小針落が開削され、小針落は旧忍川を伏せ越し野通川へと至る流路形態となっている。また、沼の北側には長野落が附廻堀として整備され、当初は見沼代用水へと至る流路となっていたが、後に旧忍川を伏せ越し、野通川へ流入する流路へと付け替えられている。
 しかし水はけがあまり良くなく、たびたび水害が発生していたため、1754年(宝暦4年)に新田の中央部に南北に貫く380間(約691m)の中堤(なかつづみ)と称する堤防が設置され、堤防の東側の下沼(したぬま)は耕地として利用され、西側の上沼(うわぬま)は元の沼地のようになった。堤防の設置により、水害は減少した。その後、沼地に戻されていた上沼において再び開田計画が起り、1934年(昭和9年)より1935年(昭和10年)まで工事が行われ、1934年(昭和9年)より1935年(昭和10年)まで工事が行われ、約27haの「昭和田(しょうわでん)」と称される水田となった。
 今日の埼玉沼は古代蓮の里や埼玉県行田浄水場、圃場整備事業のなされた通常の水田などに整備され、かつての沼地の面影はあまり残されていなく、埼玉県行田浄水場と古代蓮の里との間に位置している県道上新郷埼玉線は380間(約691m)の堤防の名残である。現在では名称について再び小針沼とも称されている。
        
  鳥居正面左側には幾多の石碑・石祠があり、右側の石碑の奥には境内社も祀られている。
「明細帳」によると、境内社として八坂神社と前玉神社があったが、現在は本殿に合祀されている。明治五年に村社となり、同四〇年に字星川と字本郷からそれぞれ御嶽神社を合祀したが、これらは前出の蔵王権現社であり、星川の旧社地を「ゾウ様屋敷」と呼ぶのがその名残である。更に同年字大沼(弁天)の厳島社、字沼通の宇賀社を合祀したというので、そのうちの一社であろうが、詳細は不明だ。
 
  石祠・石碑等の並びに鎮座する境内社。   その境内社の右側には庚申搭等も祀られている。
        
                     拝 殿
 行田の神々25 日枝神社(小針)
 古代蓮の里のすぐ北側に鎮座している日枝神社の創建については明らかでなく、『新編武蔵風土記稿』では、村内の鎮守としては蔵王権現二社が載せられています。
 主祭神は、大山咋命で、この神は、最澄の開いた天台宗延暦寺のある比叡山の麓の日吉大社、京都嵐山に近い松尾大社の祭られている神として知られています。
 神々の系譜上この大山咋命は、スサノオノミコトの子の大年(おおとし)神が天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)を娶って生まれた子の一人で、別の名前を山末之大主(やますえのおおぬしのかみ)と称しています。
 大山咋命の神名の意味は、大と山咋に分け、偉大な山の境界の棒の意味で、山頂の境界を示す棒くいを神格化したもの。また、別名の山末之大主は山の頂上の偉大な主人の神の意味であるといわれています。
 小針の当社は縁結びの神として信仰をあつめていますが、神社に伝わる話では、鴻巣市三ツ木の山王社(現在の三ツ木神社)は当社から分社したもので、当社が男の神様、三ツ木の山王社が女の神様であり、女性が良き男性を探す時は当社に、男性が良き女性を探す時は三ツ木の山王社に祈願すると良縁が成就するといわれています。
 また昭和初期まで行われた当社の例大祭の行事である「浮かし灯籠」は、神社の西に広がる上沼、(現在の県営浄水場)に、枠灯籠一千基を浮すもので実に壮観であったといいます。

 主祭神が大山咋命である小針日枝神社の創始に関わる史料がなく不詳とされ、「新編武蔵風土記稿」にも「蔵王権現社二宇 共に村内の鎮守なり、一つは大福寺持、一は神仙寺持」とあり当社は載せていない。口碑には鴻巣市三ツ木の山王社を当社から分霊したことが伝えられているだけで、おそらく旧くから鎮座していたと考えられているが、それ以外の詳細は分かっていない。
 因みに拝殿の手前右側には、既に何かしらの原因で倒木してしまった巨木が幹部分を屋根で覆い保存されている。「埼玉の神社」に記されている「舟つきの松」であろうか。
        
                     本 殿
            
 本殿の両側には狛犬ならぬ「狛猿」が設置されている。日枝神社の神使は「猿」であるためであろうが、考えてみると鳥居から境内に入り、拝殿に至るまで、狛犬等は存在していなかった。どちらにしてもこのような配置は珍しい。
 
            本殿に描かれている見事な彫刻(写真左・右)
        
        小針日枝神社の南側には「古代蓮の里」公園の豊かな林が一面に広がる。

 行田市小針地域には、古墳時代前期頃から平安時代かけて発展した「ムラ」の遺跡である『小針遺跡』が発掘されている。
 当遺跡は、埼玉古墳群東南2km程離れた旧忍川を望む台地辺にあり、行田市一帯のなかでも拠点的な「ムラ」であると考えられ、「ムラ」が展開する以前の方形周溝墓も5基みつかっている。やや離れた行田市野に展開した築道下(つきみちした)遺跡とともに、埼玉古墳群の造営を支えたムラであると考えられている。古墳群の造営の背景には、こうした大規模な「ムラ」の存在があったという。
 この
小針遺跡から出土したものには平安時代頃の「紡錘車」がある。紡錘車は「ぼうすいしゃ」と読み、糸を紡ぐ道具であり、日本では弥生時代から紡錘車が使われはじめた。紡錘車は、糸紡ぎだけではなく、祈りや呪いをするまつりの場でも使われていたようで、他にも文章や絵などが刻まれた紡錘車などが遺跡から出土することがあるという。

 ところで小針遺跡から出土した平安時代頃の紡錘車は、直径約4.5㎝の円すい台形で、蛇紋岩という石でできていて、側面には「丈部鳥麻呂(はせつかべのとりまろ)」という名前が刻まれていた。「丈部」は、地方から出向き、古代に朝廷の警備などをした部民という。おそらくこの地域で暮らしていた豪族の1人だったのではないだろうかと考えられている。
 さきたま古墳群の埋葬者の特定も今だに解明されていない中、発掘によりこのような人物の固有名詞が突如登場した珍しいケースだ。今まで土器や住居跡の出土・検出によって、そこに確かに人間がいたことは分かっていた。但しあくまで「人々・集団」等であり、名前を持たない人々・集団であった。
 ところが、小針遺跡から丈部鳥麻呂という人名が発掘された。これは歴史学的にも考古学的にも新たな視点を与える史料となる可能性は大きい。

 さて丈部鳥麻呂なる人物はどのような出自、性格で、家族構成は、年齢等はこの発掘のみでは分かる由もないが、この鳥麻呂を始め、人々がこの地でどのような営みをしてきたのだろうかと、筆者の想像力がますます膨らみそうな人物であることは確かなようだ。
 またこの紡錘車に人名を刻んだ人物は(当人か、第三者だったかは分からないが)、どのような願い・思いをかけていたのであろうか。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「行田の神々HP」
    「行田市郷土博物館 案内板」「古代蓮の里HP」「Wikipedia」等
              

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下須戸八坂神社


        
             
・所在地 埼玉県行田市下須戸2840
             
・ご祭神 素盞嗚尊
             
・社 格 旧下須戸村鎮守 旧村社
             
・例祭等 7月第2土日曜日
 埼玉県道128号熊谷羽生線を行田市街地、工業団地を通り過ぎた先の「下須戸」交差点を左折し、同県道364号上新郷埼玉線を900m程北上する。その後十字路を左折して500m程道なりに進むと、右側に下須戸八坂神社の鳥居が見えてくる。
        
                  下須戸八坂神社正面
 行田市中部東端に位置する下須戸地域は上星川が同市小見地域で見沼代用水と合流し、南東方向に流れるその左岸にある広大で肥沃な田園地域である。
 社の鎮座する「須戸」という地域名の語源は「洲門」であり、すなわち中洲の先端を意味するものといわれ、嘗ては利根川流域に多くあった地名であったという。
 不思議なことに下須戸近郊にはそれに対する「上須戸」は存在しない。ここから10km以上北西方向に離れた旧妻沼町に「上須戸」が存在し、この両村で対をなしているようだ。
『新編武蔵風土記稿』埼玉郡之十九 忍領
「郡中に上須戸と云村なし、ここより北の方三余里を隔てて幡羅郡上須戸村ありて、下須戸村なし、是両郡に跨て上下を唱へしものなるべし」
 言い伝えによれば、約700年前鎌倉幕府の迫害を受けた一人の僧が、牛頭天王の像を奉じて当地に住み着いたという。これが当社の旧別当真言宗天王院医王寺の開基であり、同寺の寺鎮守として牛頭天王像を祀ったことが当社の創始である。
        
                  
下須戸八坂神社境内
        
                     拝 殿
「行田の神々」23 八坂神社(下須戸)
 行田市の東側、国道125号沿いにある太田西小学校の近くに鎮座しています。
 言い伝えによれば、鎌倉幕府から追われた一人の僧が、牛頭天王像を奉じて当地に住み着きました。この僧が当地に真言宗医王寺を開き、この寺の鎮守として、牛頭天王像を祭ったのが始まりであるといわれています。
 古くは牛頭天王社と呼ばれていましたが、明治時代の神仏分離により、医王寺の管理を離れ、社名も八坂神社に改められ、主祭神も農耕の神様として信仰されているスサノオノミコトが祭られています。
 社殿のかたわらに小さな池がありますが、昔、周辺の村々に疫病が流行したとき、医王寺の僧が村人に疫病感染の原因である生水を飲むことをやめさせ、代わりにこの水を沸騰して飲むことを進めたお陰で、この村は疫病から守られたといいます。
 当社が牛頭天王社として信仰されていた江戸時代において、下須戸村は一時忍領であったこともありますが、長く幕府領でした。
 さらに、下須戸の須は、州で中州の先端を意味するといわれます。行田市の地図を見ると見ると良く分かりますが、南の荒川、北の利根川がかつて低地である行田市内を、乱流した痕跡が良く残されています。下須戸付近も乱流した川の痕跡が明らかに残る所であり、こうした地形から地名が付けられたのかも知れません。 
        
               社殿の左側には小さな池がある。
 上記「行田の神々23 八坂神社」に記されているように、昔近郊一円に疫病が流行り、医王寺の僧は感染の原因となる生水の飲用を村人にやめさせ、代わりにこの池の水を沸かして与えたところ、当地は疫病から守られたと伝わっていて、古くからの信仰の中心といわれていたのであろう。
 今ではその面影はなく、バリケードで張り巡らされているなど、寂しい状況となっているが、嘗てはこの池の水に対する信仰があり、遠くからはるばるこの水を受けに来るものが後を絶たなかったという。
        
                    本 殿  
          
                            拝殿手前左側に祀られている
                           若宮八幡社・辨才天等の石祠、石碑。
 この「辨才天」は下須戸地域の南方にある埼玉地域に鎮守する宇賀神社同様、出自不明の蛇神である「宇賀神」と同神であると考えられる。この宇賀神は、日本で中世以降信仰された神であり、神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと一般的には考えられていて、その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと諸説あり一様ではない。
 元々は宇迦之御魂神などと同様に、穀霊神・福徳神として民間で信仰されていた神ではないかと推測されているが、両者には名前以外の共通性は乏しく、その出自は不明である。
 社の鎮座する場所の多くが、河川に隣接する所もあり、水との関連性が強いといわれる蛇神・龍神の化身とされることもある。
        
                    境内の一風景
 埼玉地域の宇賀神社には河川に関連した伝承である「おさき伝説」が今なお語り継がれていて、「いつのころかこの村に、おさきという娘がいた。ある時おさきが、かんざしを沼に落とし、これを拾おうとして葦で目を突いたあげく、沼にはまって死んでしまったため、村人たちは、おさきの霊を小祠に祀った」。また「おさきという娘が、ある年日照りが続き百姓が嘆くのを見て、雨を願い自ら沼に身を投じたところ、にわかに雨が降り地を潤し百姓たちはおおいに助かり、石祠を立て霊を祀った」とあり、当初は霊力の強い神霊を祀ったものが時代が下がるに従いこの地が水田地帯であるところから、農耕神としての稲荷信仰と神使のミサキ狐の信仰が習合し現在の祭神宇賀御魂神が祀られたと考えられている。

 八坂神社は、神道と仏教の融合・神仏習合の典型例といえる神社で、一説では、斉明天皇2年(656)新羅の牛頭山に鎮座していた素盞嗚尊の霊を迎えて創祀されたとされているこの神様は神仏習合の中で祇園精舎の守護神であり、疫病を鎮める仏教の神・牛頭天王と同一視され、明治の神仏分離令まで牛頭天王を称していた。こうした起こりから、八坂神社は厄難退散の性質が色濃く出ている神社でもある。
 この下須戸八坂神社は「素盞嗚尊」を祭神とした社であり、神話において描かれている「素盞嗚尊」のヤマタノオロチの大蛇退治伝説の話は、出雲の斐伊川の治水事業を象徴した話であるという解釈もある。社の鎮座する「須戸」という地域名の語源は「洲門」であり、すなわち中洲の先端を意味するものといわれ、河川に関連した地域名であることから、当時の地元住民の方々が子孫繁栄・五穀豊穣を祈り、「素盞嗚尊」をご祭神とする八坂神社を創建した一方で、弁財天を祀ったと考えることもできよう。



参考資料「
新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「行田の神々」「忍の行田の昔話」
    Wikipedia」等
 

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若小玉勝呂神社

 若小玉勝呂神社のご祭神は中筒男命(なかつつのおのみこと)で、住吉大神の1柱であり、航海の神で、住吉系の社である。この住吉神社の「住吉」という社名由来は、神功皇后が住吉大神をお祀りされる際、それに相応しい土地を探したが、この地を見つけた時に、「真住吉」との託宣を得られ、この地を住吉と名づけて鎮座したという
現在、この「住吉」は、スミヨシと読むが、古くは「墨江(スミノエ)」と読んでいたり、時には「清江」と表記される事もある。
『古事記』
 其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也、
 スミノエの「エ」とは、今でも関西圏では、良い事を「ええ」(良い)というのと同じで、神さまが「住むのに良い」という意味で、神さまの御心にかなう土地ということで住吉となった。また住吉大神は祓の神様でもあり、昔の住吉の海岸は水が美しかったということもあり、正に「澄み良し」という意味もある。
 勝呂神社が鎮座する若小玉地域は、「埼玉の津」で有名な埼玉古墳群の北方近隣にあり、嘗ては利根川や荒川水系河川等が流れる自然豊かな地域であったのであろうか。
        
              
・所在地 埼玉県行田市若小玉2630
              
・ご祭神 中筒男命 外四柱
              
・社 格 旧若小玉村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例祭(若小玉の獅子舞) 920日に近い日曜日

 国道17号線を熊谷市街地からJR行田駅方面に進み、「佐谷田」交差点を左折する。途中までの経路は「佐谷田神社」「菅谷八幡神社」を参照。埼玉県道128号熊谷羽生線に合流後、暫く道なりに進み、行田市街地を抜け、武蔵水路を越えた「富士見」交差点から450m程先にある信号を左折する。左折する変則的な十字路の右側にはコンビニエンスがあるため分かりやすい。左折後320m先の十字路を左方向に進むと若小玉勝呂神社の正面に到着する。
 余談となり社とは全く関係のない話となるが、昔は国道125号といえば、上記「佐谷田」交差点から国道17号から分岐し、行田・加須方向に進行する道路と、新たにこの道路の北側を並列して進む「国道125号バイパス」の2本がある、との認識でいたが、調べてみると2018年(平成30年)330日に、熊谷市内の全区間(熊谷市佐谷田地内、行田・熊谷市境 - 終点間)の旧道が指定解除され、埼玉県道128号熊谷羽生線へ降格されたとのことだ。
 勝呂会館が社の北側に隣接しており、そこには駐車スペースも確保されていて、そこに止めてから参拝を開始する。
        
                  
若小玉勝呂神社正面
 
 鳥居の額には「正一位勝呂大明神」と表記      鳥居の右側にある社号標柱
       
                参道の先に見える二の鳥居
 旧若小玉村鎮守・旧村社で、参道周りの社叢林も勢いよく生い茂っており、静かで落ち着いた佇まいの神社。これほどの規模の社であるにも関わらず、残念ながら境内を見回しても案内板等は無く、後日ネット等で調べても勧請年月・縁起・沿革等は全て不明。
          
               二の鳥居の額には「勝呂神社」と表記      
 社には直接関係はないが、『日本歴史地名大系』には 「旧若小玉村」の解説が載っている。
 [現在地名]行田市若小玉・藤原町
 長野村の東、小見村の南に位置し、東は見沼代用水を隔てて下須戸村。八幡山古墳地蔵塚古墳などを含む若小玉古墳群が分布する。「万葉集」巻二〇に収める防人歌の作者埼玉郡防人藤原部等母麿遺跡として県の旧跡に指定されている。「吾妻鏡」嘉禎四年(一二三八)二月二三日条の参内する将軍に供奉した御家人のなかに若児玉小次郎の名があり、また同書建長二年(一二五〇)三月一日条に載る閑院殿造営雑掌のうちには若児玉次郎とあって、これらは当地在住の武士であろうという(風土記稿)。永仁三年(一二九五)九月一三日の関東下知状(別符文書)に若児玉氏元後家妙性尼がみえる。
 
       
                     拝 殿
行田の神々22 勝呂神社(若小玉)
国道125号線(現埼玉県道128号熊谷羽生線)の行田バイパスが武蔵水路、秩父線を跨ぐ行田大橋の南側に位置しています。
神社の周辺は、現在大字名を若小玉(わかこだま)と呼び、鎌倉時代の『吾妻鑑』には、若児玉小次郎、若児玉次郎の名前が記載されており、このあたりに館をかまえていた武士と思われます。
鞘戸(さやど)耕地に小次郎の館があり、屋敷鎮守の祠が残されていたが、江戸時代にはすでにみな陸田になり、痕跡は残っていない状態であったことが記録に残されています。このように古くは若児玉の字が使われており、さらに『群村誌』によれば若子玉から若小玉へと変わったといいます。
神社の祭神は中筒男命(なかつつおのみこと)。いつ創建されたかについては明らかでありませんが、江戸時代までは、近くにある真言宗遍性寺が別当を勤めていました。
勝呂神社は、近くでは南河原村にもあります。当社との関係は明らかでありませんが、南河原村の勝呂神社は、生田の森で先陣を取り討ち死にした河原兄弟で知られる河原氏が、もとは入間郡の勝呂村の出身で、移住するにあたり当所の住吉神社を勧請したもので、名前も地名を取り勝呂神社にしたと伝えられています。
若小玉の当社では九月二十日の祭礼にササラ(獅子舞)が奉納されます。古くは雨乞いササラとも呼ばれ、『鐘巻(かねまき)』が代表的な演目として残っています。
        
                拝殿向拝部には精巧な「龍」の彫刻が施されている。

              木鼻部左右の「獅子」(写真左・右)
 
    拝殿正面左側の欄間には「獅子」       拝殿正面右側の欄間には「鳳凰」
 
   拝殿の左側には境内社が祭られている。          本 殿
        
               社殿の右側に並列して祀られている境内社・榛名社。
         規模は小さいながらも、社としても立派な造りである。

 若小玉地区に伝わる民俗芸能である「若小玉の獅子舞」は、現在若小玉獅子舞保存会が保存・継承し、五穀豊穣、悪魔退散、村内安全を祈願して村の総鎮守である勝呂神社の大祭の際に奉納されている。起源については、江戸時代後半の文化11年(1814)に、村内の中里家に集まる若者を中心に始められたと伝えられている。
 獅子は法眼(ほうがん)、中獅子(なかじし)、雌獅子(めじし)の三匹獅子舞で、他に面冠(めんか)、おかめ、火男(ひょっとこ)、笛方、歌方、万燈、花笠などで構成されている。
 曲目は「橋掛り(はしがかり)」、「花掛り(はながかり)」、「鐘巻(かねまき)」の3曲でいずれも神話を題材としている。
        
                                境内に建つ神楽殿
 勝呂神社拝殿前で「橋掛り」を舞った後、村回りを行い、稲荷神社または諏訪神社(1年交替で獅子舞が演じられる)で「橋掛り」、秋葉神社で「花掛り」を奉納し、夜には勝呂神社で「鐘巻」、「花掛り」を奉納します。「鐘巻」は須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する場面の舞で、若小玉を代表する曲目です。舞の最後には、子どもたちが元気に育つようにとの願いを込め、面冠が見物客の中にいる子どもたちを鐘の上に座らせるほほえましい光景も見られる。
 現在は920に近い日曜日に実施されている。

○若小玉の獅子舞
・読み わかこだまのししまい
・区分 市指定民俗文化財
・種別 無形民俗文化財
・形態 三匹獅子舞
・指定年月日 平成21730
・所在地 行田市若小玉  勝呂神社 埼玉県行田市若小玉2630



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「朝日日本歴史人物事典」
    「住吉大社HPWikipedia」「行田の神々」等

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小沼氷川神社


        
               
・所在地 埼玉県坂戸市小沼840
               
・ご祭神 素戔嗚尊
               
・社 格 旧小沼村鎮守 旧村社
               
・例祭等

 越辺川(おっぺがわ)が東流から南流に流路が変わる右岸部に島田・赤尾・小沼という地域が続いていて、小沼氷川神社は赤尾金山彦神社の南東で直線距離にして約2kmの場所に鎮座する。赤尾金山彦神社から一旦埼玉県道74号日高川島線に合流し、そこから南西方向に進み、約1km先の十字路を左折、そこから首都圏中央連絡自動車道 坂戸ICを目指し、小沼地区の集落中央部に小沼氷川神社は鎮座している。
 残念ながらこの社までのルートは一本道がなく、また道路も入り組んでいるため、正確を期すためには、より細かい説明となってしまうので、このような曖昧な表現となってしまったことをお詫びしたい。
 社に隣接して「小沼集会所」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                  小沼氷川神社正面
            社の正面鳥居からは日当たりもよく明るい雰囲気
 小沼地域は越辺川右岸の低地から台地に位置する。地域内には弥生後期の集落跡小沼新井遺跡、古墳後期の雷電山古墳群、雷電塚古墳(県文化財)があり、さらに元暦・正和・文和・貞和・永徳などの年号を刻む板碑が各所に点在し、古くから住居地になっていたらしい。
         
     鳥居の右側にある社号標柱        鳥居を過ぎると境内が左方向に見える。

『日本歴史地名大系』には「小沼村」の解説が載っている。全文紹介する。
[現在地名]坂戸市小沼
塚越村の東にあり、南西は青木村、東は南東流する越辺川を境に比企郡上伊草村(現川島町)。入間郡河越領に属した(風土記稿)。田園簿では田五〇七石・畑二二二石、川越藩領(六一〇石)と旗本酒井領(一一九石)。川越藩領分は寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高六三六石余、反別は田五四町四反余・畑四四町六反余。同帳に書き加えられた新田分は田九八石余、反別は田八町四反余・畑六町八反余。元禄一五年(一七〇二)には全村が川越藩領で(河越御領分明細記)、宝永元年(一七〇四)には同藩領を離れた。その後旗本島田領となり(国立史料館本元禄郷帳など)、化政期には川越藩領(文政一〇年「組合村々定方につき申上書」林家文書など)
        
                     拝 殿
八幡社
古は村の鎮守にて、民家も多く此社邊に住せしが、當社は越邊川の上にあれば、水溢の患ありとて今の所へ民家を移せしより、村内實蔵寺境内の氷川明神を産神とせり、村内東光寺持、
寶蔵寺
新義眞言宗、勝呂大智寺末、氷川山と號す、本尊は不動を安ぜり、
氷川社 村の鎮守なり
                               『新編武蔵風土記稿』より引用
 文化・文政年間に編集された「新編武蔵風土記稿」には小沼村の「産土神」として第一に「八幡神社」を載せている。しかし同時に氷川社も寶蔵寺境内に「村の鎮守なり」として祀られていた。「埼玉の神社」ではその経緯を次のように述べている「当地は慶長年間以前、二つの集落に分かれていて、越辺川の付近に一八戸が居住し八幡神社を産土の神と祀り、高台に三十数戸が居住し氷川神社を産土の神と祀る。常に両鎮守と称して崇敬されてきたが、越辺川は毎年水害を被り困難を来したために、寛永の頃高台の集落に全戸移転し、八幡神社はそのまま堤外に残した」と。
        
                       拝殿に掲げてある「正一位氷川大明神」の扁額
 その後、明治五年の社格制定にあたり、往時から住民は両社を鎮守としてきたところから、氏子一同話し合いの上、両社に氏子が分かれ、別々に村社に申し立てたが、同四〇年に八幡神社が氷川神社へ合祀され、同時に字西廊の八坂神社も合祀された。そのため、一間社流造りの本殿には、氷川大明神像とともに騎乗の八幡大明神像を安置している。
                                  「埼玉の神社」から引用
 
 境内社・稲荷神社・金刀比羅神社・神明神社       合祀社に掲げてある扁額
          合祀社

 ところで、島田天神社で紹介した伝承・伝説を改めて紹介する。そこには島田・赤尾・小沼という地域に共有する洪水に纏わる住民同士の対立を、「神様(竜神)の争い」としてぼかして語られているようにしか解釈できない説話であるからだ。
「島田のお諏訪さま」
 赤尾のお諏訪さまと島田のお諏訪さまは夫婦であるといわれていた(姉弟であるとも)。また、島田のお諏訪さまは小沼の方を睨むように耕地の中に建っており、島田と小沼は仲が悪く、未だに縁組みをしてはならないともいう。それは次のような話があるからだ。
 昔、越辺川が洪水となり、島田に大水が出そうになった時、島田のお諏訪さまと赤尾のお諏訪さまが竜神となって、小沼にある堤防を壊しに行った。または、二つのお諏訪さまから火の玉が上がり、小沼へと向かったともいう。
 そうして下流部の小沼の堤が竜神に切られ決壊すると、上手の島田や赤尾の水は引いて水害は無くなるのだった。この際、小沼のお諏訪さまからも竜神が出て、これを防ごうと大変な争いになったという。だから、島田と小沼は仲が悪かったのだ。

但し小沼地域にも上記の内容とは違った説話もあり、紹介したい。
「水害を救った梶坊」
 いつごろのことか定かではないが、まだ三芳野耕地が大雨のたびに水害になやまされていたころのこと、小沼の東光寺に梶坊という僧侶が住していた。この梶棒が洪水のたびになげき苦しむ里人の姿を見て、その害を除く祈禱をしたところ、対岸の赤尾と島田にある諏訪明神があばれ、堤を破壊するのだというお告げを得た。そこで梶坊は、自ら堤の守護神となって水害を防ぐことを決意し、八大龍王をまつり、生きながら龍神となるべく堤防下の沼に身を投げたという。それ以来、堤防の決潰はなくなったので、その徳を慕った里人は沼のほとりに梶房大権現として祀ったのである。

「島田のお諏訪さま」では結局のところ島田・小沼の仲違いの原因が、島田・赤尾のお諏訪さまが、小沼の堤防を壊したためとなっているが、「水害を救った梶坊」では、赤尾と島田の諏訪明神が堤を破壊することを小沼村の東光寺にいて、祈祷によるお告げで知った「梶坊」という僧侶が、自らを犠牲にして堤防下の沼に身を投げた。その僧侶の思いの根底には、島田、赤尾両村と小沼村の住民がいつまでも仲良く暮らしてほしい、という切実な願望からきているものであろう。そういう意味において水害を救った梶坊」は、小沼村サイドに立った優しい説話として、記されているように筆者は考える。
 因みに諏訪神社の神紋は「梶の葉」である。小沼村東光寺の梶坊」という人物は、本来「小沼のお諏訪さま」であったものが、「梶坊」という僧に変化して語られたものだったかもしれない。

 さて社殿の奥には、緑豊かな大木が覆うように育っている。
         
             
 坂戸市では、良好な自然と生活環境を増進するため、坂戸市環境保全条例を設け、一定基準に達した樹木や樹林などを保存樹木として指定し、樹木の保存と緑化に努めているとのことだ。


参考資料「新編武蔵風土記講」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「坂戸市環境政策課HP」
    「坂戸市史 民俗史料編 I 」等
                         

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赤尾金山彦神社


        
              
・所在地 埼玉県坂戸市赤尾1867
              
・ご祭神 金山彦命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等

 赤尾金山彦神社は、島田天神社から赤尾白山神社に向かう進路の途中で、偶々出会った社である。赤尾白山神社から直線距離にして800m程南方向に位置し、この社も南方向に流れる越辺川を背にして、三方は全て田畑が広がる中、ポツンと静かに祀れている。
 赤尾金山彦神社のご祭神は金山彦命。この神は日本神話に登場する神である。神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。この神は古来より剣・鏡・鋤・鍬を鍛える守護神で、製鉄や鍛冶生産を守護する神として信仰されている。 
        
            越辺川を背にして静かに鎮座する赤尾金山彦神社

 同じ赤尾地域内の白山神社には一目連神社の石祠が祀られている。一目連神社は天目一箇神を祭神とする伊勢国二ノ宮多度大社の別宮名である。因みに多度大社は本宮である多度神社と共に、別宮である一目連神社の2社セットで多度両宮とも称している。
 この一目連神社のご祭神である天目一箇神は、天津彦根命の子である。鍛冶の神であり、『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶をしていると見られる天津麻羅と同神とされる。神名の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」(片目)の意味であり、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、または片目を失明する鍛冶の職業病があったことからとされている。これは、天津麻羅の「マラ」が、片目を意味する「目占(めうら)」に由来することと共通している。
『坂戸市史 民俗史料編 I 』には「片目になった赤尾のお諏訪さま」という伝承・伝説が今に語り継がれている。
 昔、大雨が降り、越辺川が氾濫し島田が危なくなった時、島田のお諏訪さまと赤尾のお諏訪さまの姉弟が竜神となってあらわれ、小沼にある附島の土手をきろうとした。すると、小沼のお諏訪さまが槍を持ってあらわれ、大ゲンカとなった。そのとき、赤尾のお諏訪さまは槍で目をつかれたのがもとで、片目になったといわれている。
「赤尾のお諏訪さま」とは同じ地域に鎮座し、埼玉県道74号を挟んで南方向に鎮座する諏訪神社のことであるが、同じく越辺川右岸に鎮座する社でもあり、お互い距離も近いため、民衆レベルの交流は当然あったと思われ、赤尾地域として同じ伝承・伝説を共有していたと考える。
 ともあれ赤尾地域は嘗て鍛冶・金属加工が盛んな地だったのではないかと、勝手に想像を膨らましてしまいそうな社名である。
 
 
       赤尾金山彦神社正面               鳥居の社号額
 おそらく社殿と共に鳥居も近年改修されているのであろう。朱色の両部鳥居は、周囲が田畑風景の中において、ひと際目立ち、社号額も目新しくなっている。境内もきれいに手入れされており、この地域の方々の社に対する思いを感じた次第だ。
        
                     拝 殿
 金山彦神社 坂戸市赤尾一八六七
 当社は入間郡の北端、越辺川流域の低湿地に位置する農業地帯である赤尾に鎮座し、金山彦命を祀る。
 その創建については、寛延年間の洪水により、社殿とともに由緒書など、ことごとくを流失してしまったため明らかではないが、氏子の間では、南北朝時代に赤尾開村の折、鎮守として勧請したもので、それゆえ鎮座地の地名を本村と呼ぶのだといわれている。(中略)
 当社は、金山様の通称で氏子に親しまれているが、年配の人々は氏神様とも呼び、毎月一日・十五日には月参りに来る人もある。このほかオビアゲ(初宮詣)・帯解き(七五三詣)・新婚宮参りなど、祝事があった時には必ず当社に参詣し、神恩に感謝するとともに、より一層の幸を祈願する。
 赤尾は、川沿いの低地であるため、往古より「蛙の小便で水が出る」といわれるほど、度々水害を被り、家屋や田畑が流出した。そこで、水害を防ぐため、昭和三四年に越辺川の河川改修が行われることとなったが、この際、当社の境内地が堤塘敷となることになった。このため、字本村から字川久保の現在の鎮座地へ遷宮が行われ、また、これを機に社殿も新築された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   社殿右側に鎮座する境内社・御嶽神社。       御岳神社と社殿の間には
  社の中には不思議な石編が祭られている。      桜の老木・巨木が聳え立つ。
        
             社の東側には真っすぐに越辺川の土手が続く。

 ところで金山彦神の神格は、『古事記・天の石屋』の段において「天の金山の鉄を取りて、鍛人の天津麻羅を求めて、伊斯許理度売命に科せ、鏡を作らしめ」とあり、この段の文脈や同時に生まれた神々全体の理解のしかたによって異なる解釈が導き出されている。
(1)この神々の誕生を火山の噴火の表象と捉え、嘔吐が溶岩の流出を表して、その中に鉱石が存在することを金山の二神が表しているとする説。
(2)鎮火祭に由来する神話と捉え、火を鎮める刀剣関連の神々が次に生まれてくるのに先立って、刀剣の材料としての鉄を表しているとする説。
(3)金属の中でも生活に重要な鍬を司る神であるとする説。
(4)誕生した神々がみな火の効用を表すと捉え、この神は冶金のための火の効用を表しているとする説。
(5)この神々を、伊耶那美神の復活を祈る神招ぎの香具山祭祀における一連の呪具の神格化とし、天の石屋の段で呪具の材料の拠り所となる「天の金山」と対応した神名とみる説。
等がある。


『新編武蔵風土記稿』には、越辺川の上流域から坂戸市の市域には鍛冶などの小字名が、広範囲に分布していて、越辺川の流域では金属の精錬が行われていた可能性がある。
白山神社や金山彦神社が鎮座する赤尾地区。「赤尾」の「赤」を冠に持つ地名や川や沼は、古来から砂鉄に関連しているという。恐らく、鉄が酸化すると酸化鉄として赤くなることに由来するのであろう。
 
赤尾地域に近い坂戸市石井地域には勝呂神社が鎮座しているが、そもそも「勝呂」という地名は朝鮮語の村主(すくり)からきているという。村主とは、渡来人技術者集団の統率者を意味する語であり、つまりは、技術に優れた集団が、しっかりとした目的をもって「村主=勝呂」を目指し、移住したと考える。その一派が赤尾地域に移住したのではあるまいか。



参考資料「新編武蔵風土記
稿」「埼玉の神社」「國學院大學 古事記学センターウェブサイト」
    「
坂戸市史 民俗史料編 IWikipedia」等
 

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