古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

若小玉勝呂神社

 若小玉勝呂神社のご祭神は中筒男命(なかつつのおのみこと)で、住吉大神の1柱であり、航海の神で、住吉系の社である。この住吉神社の「住吉」という社名由来は、神功皇后が住吉大神をお祀りされる際、それに相応しい土地を探したが、この地を見つけた時に、「真住吉」との託宣を得られ、この地を住吉と名づけて鎮座したという
現在、この「住吉」は、スミヨシと読むが、古くは「墨江(スミノエ)」と読んでいたり、時には「清江」と表記される事もある。
『古事記』
 其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也、
 スミノエの「エ」とは、今でも関西圏では、良い事を「ええ」(良い)というのと同じで、神さまが「住むのに良い」という意味で、神さまの御心にかなう土地ということで住吉となった。また住吉大神は祓の神様でもあり、昔の住吉の海岸は水が美しかったということもあり、正に「澄み良し」という意味もある。
 勝呂神社が鎮座する若小玉地域は、「埼玉の津」で有名な埼玉古墳群の北方近隣にあり、嘗ては利根川や荒川水系河川等が流れる自然豊かな地域であったのであろうか。
        
              
・所在地 埼玉県行田市若小玉2630
              
・ご祭神 中筒男命 外四柱
              
・社 格 旧若小玉村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例祭(若小玉の獅子舞) 920日に近い日曜日

 国道17号線を熊谷市街地からJR行田駅方面に進み、「佐谷田」交差点を左折する。途中までの経路は「佐谷田神社」「菅谷八幡神社」を参照。埼玉県道128号熊谷羽生線に合流後、暫く道なりに進み、行田市街地を抜け、武蔵水路を越えた「富士見」交差点から450m程先にある信号を左折する。左折する変則的な十字路の右側にはコンビニエンスがあるため分かりやすい。左折後320m先の十字路を左方向に進むと若小玉勝呂神社の正面に到着する。
 余談となり社とは全く関係のない話となるが、昔は国道125号といえば、上記「佐谷田」交差点から国道17号から分岐し、行田・加須方向に進行する道路と、新たにこの道路の北側を並列して進む「国道125号バイパス」の2本がある、との認識でいたが、調べてみると2018年(平成30年)330日に、熊谷市内の全区間(熊谷市佐谷田地内、行田・熊谷市境 - 終点間)の旧道が指定解除され、埼玉県道128号熊谷羽生線へ降格されたとのことだ。
 勝呂会館が社の北側に隣接しており、そこには駐車スペースも確保されていて、そこに止めてから参拝を開始する。
        
                  
若小玉勝呂神社正面
 
 鳥居の額には「正一位勝呂大明神」と表記      鳥居の右側にある社号標柱
       
                参道の先に見える二の鳥居
 旧若小玉村鎮守・旧村社で、参道周りの社叢林も勢いよく生い茂っており、静かで落ち着いた佇まいの神社。これほどの規模の社であるにも関わらず、残念ながら境内を見回しても案内板等は無く、後日ネット等で調べても勧請年月・縁起・沿革等は全て不明。
          
               二の鳥居の額には「勝呂神社」と表記      
 社には直接関係はないが、『日本歴史地名大系』には 「旧若小玉村」の解説が載っている。
 [現在地名]行田市若小玉・藤原町
 長野村の東、小見村の南に位置し、東は見沼代用水を隔てて下須戸村。八幡山古墳地蔵塚古墳などを含む若小玉古墳群が分布する。「万葉集」巻二〇に収める防人歌の作者埼玉郡防人藤原部等母麿遺跡として県の旧跡に指定されている。「吾妻鏡」嘉禎四年(一二三八)二月二三日条の参内する将軍に供奉した御家人のなかに若児玉小次郎の名があり、また同書建長二年(一二五〇)三月一日条に載る閑院殿造営雑掌のうちには若児玉次郎とあって、これらは当地在住の武士であろうという(風土記稿)。永仁三年(一二九五)九月一三日の関東下知状(別符文書)に若児玉氏元後家妙性尼がみえる。
 
       
                     拝 殿
 行田の神々22 勝呂神社(若小玉)
 国道125号線(現埼玉県道128号熊谷羽生線)の行田バイパスが武蔵水路、秩父線を跨ぐ行田大橋の南側に位置しています。
 神社の周辺は、現在大字名を若小玉(わかこだま)と呼び、鎌倉時代の『吾妻鑑』には、若児玉小次郎、若児玉次郎の名前が記載されており、このあたりに館をかまえていた武士と思われます。
 鞘戸(さやど)耕地に小次郎の館があり、屋敷鎮守の祠が残されていたが、江戸時代にはすでにみな陸田になり、痕跡は残っていない状態であったことが記録に残されています。このように古くは若児玉の字が使われており、さらに『群村誌』によれば若子玉から若小玉へと変わったといいます。
 神社の祭神は中筒男命(なかつつおのみこと)。いつ創建されたかについては明らかでありませんが、江戸時代までは、近くにある真言宗遍性寺が別当を勤めていました。
 勝呂神社は、近くでは南河原村にもあります。当社との関係は明らかでありませんが、南河原村の勝呂神社は、生田の森で先陣を取り討ち死にした河原兄弟で知られる河原氏が、もとは入間郡の勝呂村の出身で、移住するにあたり当所の住吉神社を勧請したもので、名前も地名を取り勝呂神社にしたと伝えられています。
 若小玉の当社では九月二十日の祭礼にササラ(獅子舞)が奉納されます。古くは雨乞いササラとも呼ばれ、『鐘巻(かねまき)』が代表的な演目として残っています。
        
                拝殿向拝部には精巧な「龍」の彫刻が施されている。

              木鼻部左右の「獅子」(写真左・右)
 
    拝殿正面左側の欄間には「獅子」       拝殿正面右側の欄間には「鳳凰」
 
   拝殿の左側には境内社が祭られている。          本 殿
        
               社殿の右側に並列して祀られている境内社・榛名社。
         規模は小さいながらも、社としても立派な造りである。
 境内社の榛名神社は氏子から群馬の本社と同格であるといわれ、古老の中には、こちらの神社の方が格が高いとする人もいる。そのために当地では本社に代参を行うことはない。
 四月三日は電嵐除けを祈願して「電祭り」を行う。当日「榛名神社祈祷神璽」の神札が農家に配布され、笛代や畑に立てられる。「榛名様のお陰で今年は作物がよくできた」とは、地元でよく耳にする話である。

 若小玉地区に伝わる民俗芸能である「若小玉の獅子舞」は、現在若小玉獅子舞保存会が保存・継承し、五穀豊穣、悪魔退散、村内安全を祈願して村の総鎮守である勝呂神社の大祭の際に奉納されている。起源については、江戸時代後半の文化11年(1814)に、村内の中里家に集まる若者を中心に始められたと伝えられている。
 獅子は法眼(ほうがん)、中獅子(なかじし)、雌獅子(めじし)の三匹獅子舞で、他に面冠(めんか)、おかめ、火男(ひょっとこ)、笛方、歌方、万燈、花笠などで構成されている。
 曲目は「橋掛り(はしがかり)」、「花掛り(はながかり)」、「鐘巻(かねまき)」の3曲でいずれも神話を題材としている。
        
                                境内に建つ神楽殿
 勝呂神社拝殿前で「橋掛り」を舞った後、村回りを行い、稲荷神社または諏訪神社(1年交替で獅子舞が演じられる)で「橋掛り」、秋葉神社で「花掛り」を奉納し、夜には勝呂神社で「鐘巻」、「花掛り」を奉納します。「鐘巻」は須佐之男命(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する場面の舞で、若小玉を代表する曲目です。舞の最後には、子どもたちが元気に育つようにとの願いを込め、面冠が見物客の中にいる子どもたちを鐘の上に座らせるほほえましい光景も見られる。
 現在は920に近い日曜日に実施されている。

○若小玉の獅子舞
・読み わかこだまのししまい
・区分 市指定民俗文化財
・種別 無形民俗文化財
・形態 三匹獅子舞
・指定年月日 平成21730
・所在地 行田市若小玉  勝呂神社 埼玉県行田市若小玉2630



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「朝日日本歴史人物事典」
    「住吉大社HPWikipedia」「行田の神々」等

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