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古社への誘い 神社散策記

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埼玉古墳群(6)

丸墓山古墳②

        
                       丸墓山古墳から見た稲荷山古墳

1 何故丸墓山古墳だけ円墳なのか②
(前回に続く)
 ①の説であるが当時の状況を考えると、二子山古墳の築造中かほぼ同時期に丸墓山古墳は造られている。「何かしらの理由により円墳として急遽作り直した」というのであれば当然その影響は二子山古墳にも及ぼしていただろう。優先順位で二子山古墳の完成後、丸墓山古墳の企画を変更した、とも考えられるが、それでも丸墓山古墳を築造した際に使用した墳丘土量は二子山古墳のそれよりはるかに凌駕したらしいし、この古墳には埼玉古墳群唯一といわれる葺石を全面に使用したともいわれ、ある意味特別扱いの感がある。
 故に丸墓山古墳は企画、設計、築造の段階において何一つ支障もなく計画的に「円墳」として築造された、と推測される。

 ②の説に対して、検証するために参考となる資料がある。それは稲荷山古墳の鉄剣、いわゆる金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)の銘文とその出土状況にヒントが隠されていた。                  

(表)


辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比

(裏)


其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

書かれている文字を通常の説で解釈すると、

 「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)
 其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」


 ここに刻まれた文字の解釈には今回は
あえて触れない。問題なのは稲荷山古墳の主に対して乎獲居臣(おわけのおみ)という臣下が稲荷山古墳後円部にある副室である第1主体(礫槨)から発見された、という埋葬状況についてである。但し断っておくが乎獲居臣の人骨が発見されたわけではない。あくまで乎獲居臣と刻まれた鉄剣が多くの出土品(画文帯神獣鏡1面、勾玉(まがたま)1箇、銀環2箇、金銅製帯金具1条分、鉄剣1口、鉄刀5口、鉄矛2口、挂甲小札(けいこうこざね)一括、馬具類一括、鉄鏃一括等)と共に発見された、ということなので、正確に言うと「第1主体である礫槨から盗難逃れた出土品の中に金錯銘鉄剣があり、その剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表され、裏面の一節に乎獲居臣と刻まれた文字があり、文体の内容からこの礫槨の埋葬者はこの乎獲居臣らしい」ということになる。

 この乎獲居臣は決して大王ではない。杖刀人の首であり自ら左治天下したということから従来の説でもいっているが親衛隊長でもあり、宰相の位だったかもしれない。この稲荷山古墳で発見された金錯銘鉄剣では大王は「(獲)加多支鹵大王」と言う名前でちゃんと明記されている。この古墳の礫郭及び粘土郭は後円部の中央からややずれたところにあるため、未発掘ながら中央にこの古墳の真の造墓者の為の主体部が有ると考えられているようだ。つまり稲荷山古墳には大王である「主郭」が後円部中央に存在し、その大王を守るように「副室」があり、「主人」である「王」のすぐ側に「埋葬」されている、ということは非常に希なことであり、「臣下」として「栄誉」の「極致」であったと考えられ、それにふさわしい事績が「主郭」の人物とのあいだにあったことを示すものではないかと考える。そのことは「鉄剣」に書かれた内容についても「主郭」の人物との関係において考えるべきものであると思われる。

 つまり、大王につながる縁者であったとし、仮に大王以上の権力を有していたとしても丸墓山古墳を造る理由にはならない。むしろ稲荷山古墳の埋葬状況における「主郭」と「副室」のような埋葬方法が当時の妥当な常識ではなかったかと考えられる。

 ③の説のような別系統の王位継承の説に関して

 ・ 丸墓山古墳の後の愛宕山古墳、瓦塚古墳、奥の山古墳は100mを超えないが全て前方後円墳であったことから正式に王位を継承できたと考えるが、別系統の王者として記載されている。その説明が十分でないこと。
 ・ 二子山古墳と鉄砲山古墳がそれぞれ100mを超える古墳で王位継承権がありそれ以下の古墳には継承権がない根拠は何であろうか。また鉄砲山古墳の後の古墳はみな100m未満の古墳だがどのような扱いとなるか。
 ・ 前方後円墳のみ王位継承権がある理由、そして説明が十分でないこと。

 これら疑問を感じてしまう点が多々存在することから、それらを解決する文献なり状況敵証拠が欲しいところだ。

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