忍者ブログ

古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


埼玉古墳群(9) 関東地方の古墳状況


      

      
            埼玉古墳群では5番目、6世紀初めから中期に築造された瓦塚古墳

 参考だが埼玉古墳群、稲荷山古墳が築造された同じ時期(5世紀中頃から6世紀初頭)に造られたといわれる関東地方の古墳状況を県単位に調べてみた。考えてみれば当たり前のことで、6世紀「埼玉の津」を中継地点として利根川流域の地方や東京湾沿岸に広がりを持つ同一文化圏の形成から見ても、交易を通じて埼玉古墳群の文化が与えた影響もあれば、逆に埼玉古墳群が影響を受けた地方も当然存在したであろう。ちなみに埼玉県、東京都は埼玉古墳群(3)を参照。

茨城県

舟塚山古墳 茨城県石岡市北根本前方後円墳186m 5世紀後半 
愛宕山古墳  〃  水戸市愛宕町前方後円墳 137m 6世紀初頭 
葦間山古墳  〃  筑西市徳持前方後円墳 141m 6世紀初頭 
 

 茨城県は神話の時代では日高見国とも言われ、常陸国風土記では「常世(極楽)の国」と謳われ、倭武天皇伝説の地である為か、古墳も豊富に存在している。5世紀後半に築造された茨城県石岡市北根本にある舟塚山古墳は全長186mで、関東では太田天神山古墳に次ぐ規模の大きさを誇り、しかも二子山古墳と同時期、又はその前期にあたる。この古墳は国造本紀に初代茨城国造として記録されている「筑紫刀禰」の古墳と言われていて、「筑紫」は狭義では現在の福岡県を示し、広義では九州全体を示す。九州は大陸の文化や技術を最も早く受け、古代から多くの豪族が出ている。常陸風土記にも九州とのつながりを示す内容が多くみられることから筑紫刀禰は九州出身の豪族だったかもしれない。ちなみにこの石岡市は奈良時代に常陸の国の国府がおかれ、常陸の国の中心であり、常陸風土記に登場する「茨城郡」の中心地ともいう。
 また舟塚山古墳築造の前後には5世紀前半には梵天山古墳(全長152m)、6世紀初頭には愛宕山古墳(全長136,5m)と古墳築造は群馬県に次いで盛んな地域だ。

栃木県

塚山古墳栃木県宇都宮市西川田町 前方後円墳 98m 5世紀後半 
笹塚古墳  〃  宇都宮市東金町 前方後円墳 100m 5世紀中頃 
琵琶塚古墳  〃  小山市飯塚前方後円墳 123m 6世紀前半 
摩利支天塚古墳   〃  小山市飯塚 前方後円墳 120m 6世紀初
 

 栃木県は茨城県より小粒な古墳が多い。栃木市にある吾妻古墳が全長128mで県内最大の前方後円墳だが6世紀後半の築造で当時はまだ出現してない。小山市は国分寺などが所在する下野国の中心的地域であったらしく5世紀後半から6世紀前半に築造された摩利支天塚古墳(全長120m)、琵琶塚古墳(全長123m)という栃木県では規模の大きい古墳が100m位の近さに存在し、両者は同形同大で、主軸も一緒ということから両者の連続性がうかがわれる。また栃木県の古墳の最大の特徴は前方後方墳が多いということだ。中でも足利市にある藤本観音山古墳は全長117mの前方後方墳で、栃木県で最大、東国では前橋八幡山古墳に次いで2位、全国でも5位の規模を誇る。4世紀後半に築造と推定されていて、西南西へ直線4kmくらいの所に太田天神山古墳がある。

千葉県

内裏塚古墳 千葉県富津市二間塚 前方後円墳 144m 5世紀中頃 
弁天山古墳   〃  富津市小久保 前方後円墳 88m5世紀後半

 千葉県は関東地方の南東部に位置する県で、『房総三国』、すなわち律令制以来の下総国の大半、上総国、安房国3ヶ国から成り立つ県である。古来より、海上交通を通じて発達し、東国の中でも政治的にヤマト王権との交流が深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多く、1990年(平成2年)時点で8665基の古墳と横穴が4083基が県内で確認されている。このうち100mを超えるものは14基を数え、最大のものは、富津市の内裏塚古墳で、墳丘の全長は、147m(周溝を含めると185m)、日本列島では74番目の規模といわれるが、5世紀の古墳としては、南関東で最大規模を誇る。
 
6世紀後半になると、畿内では前方後円墳は姿を消し、古墳は小型化し、7世紀になると仏教寺院が建立されるようになるが、東国では、成田市にある印旛沼周辺地域の下総台地上にある龍角寺古墳群のように7世紀初めまで前方後円墳が築造されていた。この古墳群では岩屋古墳(7世紀前半~中頃、方墳、一辺78m)が有名だ。

 また神奈川県は律令制において相模国と呼ばれていた。弥生時代の遺跡は少なく、小規模で質も劣る。これは、弥生文化の進出が遅れたことを示すものと考えられる。また古墳も概ね小規模(神奈川県海老名市の瓢箪塚古墳、4世紀末~5世紀初頭 全長75mの前方後円墳等)で、出現は畿内に1世紀以上後れた4世紀の中頃ないし後半とされる。

 しかし何と言っても関東地方における古墳の密集地帯は群馬県である。東国(東海・甲信・関東地方)では圧倒的な質と量を誇り、昭和10年の全県域の調査により8,423基の古墳の存在が明らかになり、全体では1万基以上が作られたと想定されている。
 下に掲示した図は群馬県主要古墳を地域別、年代別にまとめた図である。この主要古墳の変遷図を見ると大まかな勢力の移行が読み取れる。
          
                         群馬県主要古墳の変遷図
  この古墳変遷図を見ると、最初に出現した王者は前橋市朝倉の八幡山古墳の埋葬者だ。同時期に元島名将軍塚古墳と藤本観音山古墳の埋葬者も勢力を得るが、後が続かす衰退。この時期の古墳は3基ともなぜか前方後方墳で、それ以降は前方後円墳となる。八幡山古墳→前橋天神山古墳と続いた後、この勢力は力を弱めたようで、その後の古墳は規模が小さくなる。

 その後盟主権を得たのが、距離的には前橋市朝倉に近い倉賀野大鶴巻古墳(全長122m)と浅間山古墳(全長172m)の佐野町、倉賀野町地方で、少し遅れて群馬県東部の太田市で勢力を持つ朝子塚古墳(全長123m)や宝泉茶臼山古墳(全長168m)の豪族である。4世紀末、5世紀初頭はこの勢力が東西を二分していたと思われる。佐野町、倉賀野町地方は浅間山古墳後、何故か5世紀初頭に古墳築造がストップする時期があり、藤岡市の白石稲荷山古墳(全長175m)や岩鼻二子山古墳(全長115m)の地域に新たな勢力が誕生する何かがあったのかもしれない。

 それに対して太田市の勢力は益々力を持ってついに太田天神山古墳の王者に至るとその絶頂期を迎える。太田市近郊の伊勢崎市に御富士山古墳(全長125m)があり、共に5世紀中頃の築造であること、この2基の古墳のみ長持形石棺が確認されていることから、この2基の古墳は親密な関係があったと思われる。

 太田市の勢力は太田天神山古墳の埋葬された王者の後、急速に衰退し、その後古墳の勢力図は群馬県中央部と、西部藤岡市に分散し、古墳の規模も6世紀初頭の藤岡市上落合所在の七興山古墳(145m)を最後にせいぜい100mクラスの古墳に縮小されていく。但しこれは各地方共通の事項であり、外見は縮小されたが、内部石室や装飾品、副葬品は逆に豊富で豪華になる。

 このように5世紀半頃から6世紀初頭、二子山古墳が築造される以前の時期に存在していた関東地方の古墳はまさに大型古墳築造の絶頂期にあたっていた。もちろん各地方の豪族は古墳の規模の大きさによって己の力の象徴を誇り、競い合った時期だったのだろう。しかし二子山古墳築造時期はそのピークをすでに経過していた。上記群馬県の主要古墳の変遷図でも5世紀中頃築造の太田天神山古墳までは各地方は大きさを競い合っていたが、その後は1,2の例外はあれ、大半は100m以下の小、中規模な古墳が占めている。

 但し埼玉古墳群は、そもそも築造した経緯が違ったのではないかと考える。行田市周辺は他の地域に比べて築造開始時期が遅く、何の基盤も無い当地に、突如として畿内に匹敵する100mクラスの中型、大型前方後円墳が出現した。そのことは非常に重要な点である。つまりこの古墳群の王者たちは既に大型古墳を築造するノウハウを持っていた他地域の豪族であり、武蔵国出身の豪族ではなかったのではないかという事だ。元々は他地域の有力豪族が、王墓を選定する際にあらゆる条件をクリアしたこの地を終の棲家として選んだのではないだろうか。そしてそのヒントは埼玉古墳群近郊に存在する内陸の交易地「埼玉の津」ではなかったか。
 埼玉古墳群の王者にとってこの「埼玉の津」は多くの物資や文化が行き交いしていた水上交通の要衝の地だが、その一方で様々な極秘の情報を入手することが出来る政治的にも重要な地でもあったろう。その近郊に埼玉古墳群を築造することは交易から出る利益という内政面もさることながら、対外的には自身の権力の大きさをアピールできる一大モニュメントでもあった。前出したが埼玉古墳群の築造年代は5世紀末からで古墳時代では各地に比べても比較的遅れて出現した実力者だ。各地の前方後円墳を参考に模擬し、より見栄え良く、自分自身の、そして一族の繁栄の象徴としての古墳を大々的に築造する、それは他の地域ではすでに過ぎ去った過去のことだったことではあるが埼玉古墳群の王者にとってはどうしても避けて通れない、そして必然性のあることだったのではないだろうか。


 

拍手[0回]

PR

埼玉古墳群 (8)

      
 さきたま古墳群から東へ2.5Km、川里町との境界付近に小埼沼は位置している。小埼沼の北500mには旧忍川が流れ、現在あたり一面には水田が広がりのどかな田園風景が続くが、かつてこの周辺は沼の多い湿地で、旧忍川の対岸には昭和50年代まで、小針沼(別名:埼玉沼)と呼ばれる広大な沼が存在していたらしい。

 約6000年前の縄文時代この辺りは縄文海進の関係でこの地方まで東京湾が入り込んでいたといわれる。その後の関東造盆地運動により陸地が上がり、海域が後進して現在の関東平野ができたらしい。が元々荒川、利根川、多摩川、入間川などの河川が狭い東京湾に集中して排出されたため、陸地も湿地帯が広域に広がっていたと思われ、また弥生、古墳時代の3~7世紀頃までは十分に陸地化されず、現在の東京都心部は武蔵野台地付近以外は内海の一部ではなかったかと考えられる。
  現在の河川の流路は江戸時代、徳川家康の江戸転封により、人工的に流路を変えたもので、これを瀬替えという。利根川は元々東京湾に流れていたものを、鬼怒川の流路を利用し合流させ太平洋に瀬替えした。また利根川と同じく大宮台地の右側を流れていた荒川を、埼玉県の熊谷でせき止め、比企丘陵から流れてくる和田吉野川や市野川の河道に移したことにより、入間川と合流させることによって、台風で大水が発生した場合、荒川中流域である吉見地方でわざと氾濫させ、下流域の江戸の町を水害から守ったと言われその結果、江戸時代の江戸の町は大きな台風がきても意外と安全な場所となったといわれている。

 それ故に、瀬替えする前の古墳時代の河川の流路がどのような経路だったか断片的でほとんど解っていないのが実情である。そのな中小埼沼は、上代の東京湾の入江の名残りともいわれ、「埼玉の津」万葉集の遺跡とされている。

       
             小埼沼の標石。上代の東京湾の入江の名残りともいわれている。

 埼玉古墳群周辺地域は万葉集に登場する「埼玉の津」の存在からも解る通り、いわば水上交通の要衝で、古墳に使われた石をはじめ多くの物資や文化が行き交いしていたと考える。例えば埼玉古墳群には多くの埴輪が出土している。
  鴻巣市市役所近くにある生出塚埴輪窯跡は5世紀末~6世紀末、東国最大級の埴輪製作跡とされているが、この二子山古墳の周濠より出土した円筒埴輪の多くは、生出塚埴輪窯跡および東松山市の桜山埴輪窯跡で生産されたものと考えられている。また、全長53メートルの前方後円墳で6世紀前半の愛宕山古墳出土の蓋形埴輪の形状から生出塚窯跡で生産された可能性が高いとされる。またこの生出塚埴輪窯で生産した埴輪等は、千葉県(市原市 山倉古墳1号墳)、東京都(大田区田園調布 多摩川台古墳群)、神奈川県(横浜市緑区 北門古墳群1号墳)や埼玉県の諸古墳、南関東各地の古墳より生出塚埴輪窯跡で生産されたとみられる埴輪が出土している。

 また東国の人物埴輪残欠のなかには、腕が折れて断面に穴が確認される事例がみられる。これは、製作時に棒状の木を粘土でくるんで成整形したのち木を抜いて胴部に貼り付けたために生じた穴だと考えられる。このような製作技法は、埼玉県東部と茨城県北部で顕著にみられ、東国に特有の技法と考えられる。考案したのは、埼玉古墳群築造にかかわって埴輪を供給した生出塚埴輪窯の工人たちと思われ、それが常陸北部にまで伝播したことは、工人相互の人的・技術的交流が広域にわたっていたことを物語る。


 生出塚埴輪窯ではまた、上述したように直線距離にして54キロメートル離れた大田区多摩川台第1+第2号墳(西岡第45号墳)、さらには95キロメートル離れた市原市の山倉1号墳の埴輪を製作していたことが判明している。このように埴輪を遠隔地の古墳へ長距離運搬するに際しては、河川や海などの水上交通が重要な役割を担っていたものと考えられる。また、千葉県の事例では、山倉1号墳で見つかった埴輪全部が生出塚産であるのに対して、法皇塚古墳の場合は生出塚産と「下総型」との共存関係があったことは注目に値する。 


 更に古墳に使用された石材産地からも埼玉古墳群の豪族が政治的・経済的に掌握していた地域、又は友好的な地域と思われる。

・ 凝灰岩・・・周辺では、
大里・比企地方
で産出する軟らかい白色の石。
         旧江南町から嵐山町にかけての丘陵に分布。

・ 房州石・・・将軍山古墳に使用された、「房州石」は
千葉県の富津海岸周辺
より運ばれた。
         鋸山系のこの石は、穿孔貝の巣穴の付いた凝灰岩

 このように埼玉古墳群築造当時、「埼玉の津」を中継地点として関東地方各地と交易していた事が遺跡の発掘等で解り、この地が非常に栄えていたことが窺える。


拍手[0回]


埼玉古墳群 (7)

 埼玉古墳群の中央部に位置している二子山古墳は武蔵国最大138mの前方後円墳である。名前の由来は、前方部と後円部という二つの山が連結したような形からついたもので、「観音寺山(かんのんじやま)」とも呼ばれていた。墳丘は二重の堀に囲まれており、それを含めた長さは南北240m以上になる。現在、内側の堀には水がたまっているが、古墳築造当時は水はなかったと考えられている。埋葬施設は発掘調査されておらず詳しいことは不明だが、墳丘周囲の調査で出土した埴輪から、5世紀末から6世紀初頭前後に造られたと推定されている。これは稲荷山古墳に続く時期にあたり、稲荷山古墳とは、墳丘の向きが同じ、またともに、中堤の西側に「造出し(つくりだし)」と呼ばれる四角い土壇(どだん)をもつなどの共通点がある。つまり位置、時期とともに、両者の連続性がうかがわれる。これは丸墓山古墳以外の他の8基の前方後円墳にも共通することで、逆に言うと二子山古墳と丸墓山古墳には何故か直接的な連続性、共通性を感じない。また丸墓山古墳の後に築造された愛宕山古墳との関係にも同様にも言えることだ。そう、唯一丸墓山古墳だけ気高く孤高を持する感がある。

        
                        埼玉古墳群最大の古墳 二子山古墳

 少し話は横道にそれてしまうが重要な項目なので少々おつきあい願いたい。それは古墳である祭祀施設は一般的に大王の在位中に造られるものか、それとも没後に次代の大王、またはそれ以降の一族によって造られるものなのか、という問題だ。
 何故この問題を取りあげたかというと、大仙陵古墳のような大型古墳は墳長がおよそ486m、前方部は幅305m、高さ約33m。後円部は直径245m、高さ約35mで、三重の濠の外周は2.718m、その内側の面積は464,124平方mでとてつもなく巨大な古墳だ。この巨大な築造すると、人員は 一日最大2.000人従事して、工期 に15年8ヶ月要するという試算もあると言う。
 もちろんこれほどの古墳を造り上げる大王の権力の大きさは想像を超えるものだったろうが、その反面、どんなに頑強で、尚且つ強靭な精神力を持っていたとしても人の「死」は平等に、そして必ず訪れる。ましてや古墳時代の衛生、医療、食生活環境は現代とは比べ物にならないくらい悪かったはずだし、当時の平均寿命も短かったと思われる。
 ある統計によると15歳以上に達した者の平均死亡年齢の時代変遷は、古人骨より推定すると以下の年齢となるという。 
 (参考資料)各年代の平均寿命の推移
   ・ 縄文時代  男31.1歳/女31.3歳
   ・ 弥生時代  男30.0歳/女29.2歳
   ・ 古墳時代  男30.5歳/女34.5歳
   ・ 室町時代  男35.8歳/女36.7歳
   ・ 江戸時代  男43.9歳/女40.9歳
 
 
この数値が直ちに古墳時代の大王の寿命に直結するとは限らない。大王の食生活や衣食住は一般民衆より格段良かったろう。しかしそれは大王の寿命が長いとする理由にもならない。
 自然災害や人為的な災害は老若男女問わず襲い掛かる。またそのような不幸はいつ、何時起こるか予想もつかない。だからこそこのような大型古墳を築造するためにはそれらの天災、人災等をある程度予想して少なくとも在位中に設計、築造しなければならないことは自明の理だと筆者は思うのだが、それでも現在のところこの論争は専門家の中でも解決できていない。
 古代倭国で、何十万個ある古墳はその埋葬者は特定されていないケースがほとんどだが、このうち埋葬者の推定できる数少ない古墳で、尚且つ唯一生前に築造されたことが解っている古墳が一基だけある。北九州最大の古墳で、筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳(福岡県八女市)だ。
 
この古墳は東西を主軸にして、後円部が東にあるが、その北東部分に〈別区〉と呼ばれる広場状の区画がある。風土記逸文に石人と石猪が裁判の光景を再現していたとあり、磐井の政権が司法機関を備えていた可能性が指摘される。墓からは、大量の石人石馬が発掘され、被葬者の勢力の大きさを示しているという。また生前から造営されていたお墓のことを「寿陵」と言い、中国では古来より、生前にお墓を建てることは長寿を授かる縁起の良いこととされていた。岩戸山古墳について「筑後国風土記逸文」にはこのような記述がある。

 筑後國風土記曰、上妻縣々南二里、有筑紫君磐井之墳墓。高七丈、周六十丈。墓田南北各六十丈、東西各卌丈。石人・石盾各六十枚、交陣成行、周匝四面。當東北角、有一別區。号曰衙頭<衙頭、政所也>。其中有一石人、縦容立地。号曰解部。前有一人、形伏地。号曰偸人<生爲偸猪、仍擬決罪>。側有石猪四頭、号贓物<贓物、盗物也>。彼處亦有石馬三疋・石殿三間・石蔵二間。古老伝云、「當雄大迹天皇(継体)之世、筑紫君磐井、豪強暴虐、不偃皇風。平生之時、預造此墓。

 また日本書紀巻11 仁徳天皇(大鷦鷯天皇)の項には陵墓について以下の記述がある。
 六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸河內石津原、以定陵地。丁酉、始築陵
 魏志倭人伝には卑弥呼の死後、次のような記述がある。この記述からは死後築造が窺える。
 卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立 

 
上記の記述以外では古墳が生前からの築造なのか、死後築造なのか残念ながら解っていない。さすがに約1600年前の事柄ゆえに頼るべき文献も史料もない。そこでここは奈良時代に編纂された日本の神話や古代の 歴史を伝えている重要な歴史書である「日本書紀」の記述を参考資料として紹介する。
 ありがたいことにこの「日本書紀」には神武天皇からの各天皇の崩御から埋葬までの要した期間、及びその施行者までがちゃんと記載されている。「日本書紀」は完全に漢文で書かれており、天皇家の歴史に重点を置いている。そこでここでは、「日本書紀」の記述を参考に神武天皇から開化天皇までの崩御年代と埋葬年代を見ていただきたい。(字数の関係で本来は清寧天皇まで表を作ったのを公表できないのが残念)

天皇名 崩御年度埋葬年度施行者 埋葬場所

 神武天皇


神武76年春3


翌年秋9


次の天皇


畝傍山の東北


 綏靖天皇


綏靖33年夏5


翌年冬10


  〃


倭の桃花鳥田丘


 安寧天皇


安寧38年冬12


翌年秋8


  〃


畝傍山の南の窪地


 懿徳天皇


懿徳34年秋9


翌年冬10


  〃


畝傍山の南の谷


 孝昭天皇


孝昭83年秋8


孝安38年秋8


  〃


掖上博多山上


 孝安天皇


孝安102年春正月


同年9


  〃


玉手丘(御所市)


 孝霊天皇


孝霊76年春2


孝元6年秋9


  〃


片丘馬坂


 孝元天皇


孝元57年秋9


開化5年春2


  〃


剣池の丘の上


 開化天皇


開化60年夏4


同年10


(記述なし)


 

              
              *日本書紀による各天皇の没年、埋葬年度、及び埋葬の施行者
 神武天皇から清寧天皇までの各天皇の崩御年と埋葬年に平均10ヶ月の空白期間がある。これは古代日本で行われていた殯(もがり)という葬儀儀礼があり、またこのことは古墳の築造にも少なからず関係している。

殯(もがり)
 日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)という。

 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には、死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を作る。貴人は3年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ。「死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服 貴人三年殯於外庶人卜日而 及葬置屍船上陸地牽之」とあり、また、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 高麗」(後の高麗王朝のことではなく高句麗のこと)には、死者は屋内に於て殯し、3年を経て、吉日を択(えら)んで葬る、父母夫の喪は3年服す「死者殯於屋内 經三年 擇吉日而葬 居父母及夫之喪 服皆三年 兄弟三月 初終哭泣 葬則鼓舞作樂以送之 埋訖 悉取死者生時服玩車馬置於墓側 會葬者爭取而去」とある。これらの記録から、倭国・高句麗とも、貴人は3年間殯にしたことが窺える。なお、殯の終了後は棺を墳墓に埋葬した。長い殯の期間は大規模な殯の整備に必要だったとも考えられる。
 また施行者の項目を見るとほとんど次代の天皇が埋葬の施主となっている。このことから死後殯の期間中に墳墓が完成し、その後埋葬したかのような印象だが事はそんなに簡単なことではない。日本書紀の引用を信じるならば200m以上の古墳は崇神天皇から允恭天皇まで、途中反正天皇は除くが総数10名にも上る。年代も3世紀半頃から5世紀前半までの約200年間で、しかもこの時期に集中して築造されている。
 このように調べると調べるだけ謎が多くなる。少ない資料の中、以下の仮説を導き出した。

 ・ 小さな古墳に関しては基本的には殯の関係もあり、また前代の意志に沿って、また臣下との合議に基づき次代の大王が墳墓を築造し、埋葬する。
 ・ ただし、大型古墳を築造する場合は、殯の期間を念頭において、前代の在位中に前代の考えに基づき設計、築造される。

 上記の仮説に沿った場合、埼玉古墳群の9基の墳墓、特に稲荷山古墳、丸墓山古墳、二子山古墳、そして鉄砲山古墳の4基に関しては各古墳に埋葬されている大王の在位中にこの古墳を築造したと推測される。

 

拍手[0回]


埼玉古墳群(6)

丸墓山古墳②

        
                       丸墓山古墳から見た稲荷山古墳

1 何故丸墓山古墳だけ円墳なのか②
(前回に続く)
 ①の説であるが当時の状況を考えると、二子山古墳の築造中かほぼ同時期に丸墓山古墳は造られている。「何かしらの理由により円墳として急遽作り直した」というのであれば当然その影響は二子山古墳にも及ぼしていただろう。優先順位で二子山古墳の完成後、丸墓山古墳の企画を変更した、とも考えられるが、それでも丸墓山古墳を築造した際に使用した墳丘土量は二子山古墳のそれよりはるかに凌駕したらしいし、この古墳には埼玉古墳群唯一といわれる葺石を全面に使用したともいわれ、ある意味特別扱いの感がある。
 故に丸墓山古墳は企画、設計、築造の段階において何一つ支障もなく計画的に「円墳」として築造された、と推測される。

 ②の説に対して、検証するために参考となる資料がある。それは稲荷山古墳の鉄剣、いわゆる金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)の銘文とその出土状況にヒントが隠されていた。                  

(表)


辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比

(裏)


其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

書かれている文字を通常の説で解釈すると、

 「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)
 其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」


 ここに刻まれた文字の解釈には今回は
あえて触れない。問題なのは稲荷山古墳の主に対して乎獲居臣(おわけのおみ)という臣下が稲荷山古墳後円部にある副室である第1主体(礫槨)から発見された、という埋葬状況についてである。但し断っておくが乎獲居臣の人骨が発見されたわけではない。あくまで乎獲居臣と刻まれた鉄剣が多くの出土品(画文帯神獣鏡1面、勾玉(まがたま)1箇、銀環2箇、金銅製帯金具1条分、鉄剣1口、鉄刀5口、鉄矛2口、挂甲小札(けいこうこざね)一括、馬具類一括、鉄鏃一括等)と共に発見された、ということなので、正確に言うと「第1主体である礫槨から盗難逃れた出土品の中に金錯銘鉄剣があり、その剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表され、裏面の一節に乎獲居臣と刻まれた文字があり、文体の内容からこの礫槨の埋葬者はこの乎獲居臣らしい」ということになる。

 この乎獲居臣は決して大王ではない。杖刀人の首であり自ら左治天下したということから従来の説でもいっているが親衛隊長でもあり、宰相の位だったかもしれない。この稲荷山古墳で発見された金錯銘鉄剣では大王は「(獲)加多支鹵大王」と言う名前でちゃんと明記されている。この古墳の礫郭及び粘土郭は後円部の中央からややずれたところにあるため、未発掘ながら中央にこの古墳の真の造墓者の為の主体部が有ると考えられているようだ。つまり稲荷山古墳には大王である「主郭」が後円部中央に存在し、その大王を守るように「副室」があり、「主人」である「王」のすぐ側に「埋葬」されている、ということは非常に希なことであり、「臣下」として「栄誉」の「極致」であったと考えられ、それにふさわしい事績が「主郭」の人物とのあいだにあったことを示すものではないかと考える。そのことは「鉄剣」に書かれた内容についても「主郭」の人物との関係において考えるべきものであると思われる。

 つまり、大王につながる縁者であったとし、仮に大王以上の権力を有していたとしても丸墓山古墳を造る理由にはならない。むしろ稲荷山古墳の埋葬状況における「主郭」と「副室」のような埋葬方法が当時の妥当な常識ではなかったかと考えられる。

 ③の説のような別系統の王位継承の説に関して

 ・ 丸墓山古墳の後の愛宕山古墳、瓦塚古墳、奥の山古墳は100mを超えないが全て前方後円墳であったことから正式に王位を継承できたと考えるが、別系統の王者として記載されている。その説明が十分でないこと。
 ・ 二子山古墳と鉄砲山古墳がそれぞれ100mを超える古墳で王位継承権がありそれ以下の古墳には継承権がない根拠は何であろうか。また鉄砲山古墳の後の古墳はみな100m未満の古墳だがどのような扱いとなるか。
 ・ 前方後円墳のみ王位継承権がある理由、そして説明が十分でないこと。

 これら疑問を感じてしまう点が多々存在することから、それらを解決する文献なり状況敵証拠が欲しいところだ。

拍手[0回]


埼玉古墳群(5)

丸墓山古墳①
 埼玉古墳群において一際目立ちシンボル的な存在である丸墓山古墳は6世紀前半に造られた日本最大の円墳(主軸長 105m、高さ 18.9m)である。周掘をいれた直径は180mにも及ぶ。墳丘土量および高さにおいて、同じ古墳群に属する武蔵国最大の古墳二子山古墳よりも多いという試算もあり、円墳としては我が国最大の規模を誇っているという利根川の対岸、群馬県太田市にある古墳時代中期から後期(5世紀中頃から末期)、稲荷山古墳にやや先立って造られたと推定される、関東地方最大の前方後円墳である大田天神山古墳(国指定史跡)は、全長約210m、前方部幅約126m、長さ約90m、高さ約12m、後円部直径約120m、高さ約16.8mであり、丸墓山古墳は径に於いて大田天神山古墳の後円部に及ばないが、高さに於いて遙かに凌ぐ。また仮に丸墓山古墳が円墳ではなく、前方後円墳だとしたら、主軸長が200mを超える大古墳となるそうだ。

            

 丸墓山古墳は遺骸を納めた石室など埋葬施設の主体部は未調査だが周掘を検出した際に、葺石に使用された河原石と、復元すると直径が55cmにもなる、大型の円筒埴輪の破片、朝顔形埴輪片、形象埴輪、土師器、須恵器などが出土したそうだ。
 また古墳自体は高さ20m以下の小高い丘だが、斜面の平均斜度は28度。かなりの急傾斜であり登り口からの登頂は結構きつい。遠方からの観察から中段平坦面、上段平坦面の名残りが見てとれ、古代エジプト初期の階段ピラミッドと同じ三段のテラス状の古墳であることは目視による確認でも良くわかる。

丸墓山古墳

形状:円墳 直径:102m 高さ:18.9m
 
丸墓山古墳は、わが国最大の円墳といわれています。墳丘と堀の一部が復元されていますが、元の形をよく残しています。
 遺骸を納めた埋葬施設はわかっていませんが、今までの調査によって、墳丘の表面をおおっていた石(葺石)、円筒埴輪や人物埴輪が発見されています。
 これらの出土品から、丸墓山古墳がつくられたのは、6世紀の前半と考えられます。
 天正18年(1590年)に、石田三成が、この古墳の南北に堤(石田堤)を築き、忍城を水攻めにしました。古墳から南にまっすぐのびている道路は、この堤のなごりです。
                                                                               現地案内板より引用

 さてこの丸墓山古墳について現在まで解明されていないいくつかの謎が存在する。

1 この日本最大級の丸墓山古墳が、前方後円墳が連続していく埼玉古墳群の中に、なぜひとつだけ円墳という形で現れたのか、実はだれもわかっていないのである。

2 今までの発掘調査で出土した埴輪の分析や榛名山二ッ岳の火山灰のの堆積状況等において埼玉古墳群の9基の古墳の中では次の順序で作られたと想定できるという。

 稲荷山古墳(5世紀後半) → 二子山古墳(5世紀末) → 
丸墓山古墳(6世紀初頭)→ 愛宕山古墳(6世紀前半) → 瓦塚古墳(6世紀前半~中頃) → 奥の山古墳(6世紀中頃)) → 鉄砲山古墳(6世紀後半) → 将軍山古墳(6世紀後半) → 中の山古墳(7世紀前半)

 しかも二子山古墳とほとんど同時期に丸墓山古墳は築造されているという。これは一体何を意味しているのだろうか。

3 埼玉古墳群の中で、これほどの大きさを誇る丸墓山古墳は実は中心部に位置していない。埼玉古墳最初の稲荷山古墳同様北側に位置していて、中心に位置している二子山古墳を守護しているように見える。稲荷山古墳とともにこの扱われ方は非常に異常だ。 

 以下の点について考えてみたいと思う。


1 何故丸墓山古墳だけ円墳なのか①

この埼玉古墳群は9基の大型古墳が存在しているが、現存する他の古墳がすべて「前方後円墳」であるのに対し、この丸墓山古墳だけ「円墳」なのである。これだけ巨大な古墳を造れたにもかかわらず、なぜ前方後円墳としなかったのかが謎とされている。この謎に対していくつかの説があるのでここに紹介し検証したい。

① 元々は「前方後円墳」として築造されたものだが、何かしらの理由により造ることができなくなりやむを得ず「円墳」にした。
② 丸墓山古墳は稲荷山古墳の後、二子山古墳とほぼ同時期に造られた、と言われている。つまり二子山古墳の埋葬者と親密な関係にある実力者のために造られたもの、という説。(例えば妻、叔父等)
③ 100mを超える前方後円墳の築造推移は稲荷山古墳(5世紀後半)→二子山古墳(5世紀末、6世紀初頭)→鉄砲山古墳(6世紀後半)だが、この二子山古墳と鉄砲山古墳の間にはかなりの時間差がある。 そこで一族の中で宗主権が別系統に一時移った可能性が想定されている。ただしこの族長は前方後円墳を造ることが正式に認められていなかったので円墳にした、という説。この説に従えば鉄砲山古墳の埋葬者の前代に造られた愛宕山古墳(6世紀前半)、瓦塚古墳
(6世紀前半~中頃)、そして 奥の山古墳(6世紀中頃)も別系統に属する、という。

(続く)

拍手[0回]


        
  • 1
  • 2
  • 3