古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北下新井若宮八幡社

 松はマツ科の属の一つで、約100種が北半球の各地域に分布し、針葉樹で針のような形態の葉と、松かさ(松ぼっくり)とよばれる実がなるのが特徴である。人との関わりも深く、さまざまに利用されたり、文化や信仰の対象にもされている。
 他の樹木が生えないような岩や砂だらけの荒地でもよく育つ。霧に包まれた険しい岩山に生えるマツは仙人の住む世界(仙境)のような世界を演出し、特に中国の黄山や華山の光景は見事である。海岸地帯においても時に優先種となり、白い砂と青々としたマツの樹冠の対比の美しさは白砂青松などと呼ばれる。これは特に日本で親しまれており松島、天橋立、桂浜、虹ノ松原などが有名である。
 松の由来は、「(神を)待つ」、「(神を)祀る」や「(緑を)保つ」が転じて出来たものであるなど諸説ある。節操や長寿を象徴する木として尊ばれており、日本では「松竹梅」と呼ばれ、おめでたい樹とされた。魔除けや神が降りてくる樹としても珍重され、正月に家の門に飾る門松には神を出迎えるという意味があるという。
また、松は薬用として、特に松の皮や脂は、傷口を覆う止血に用いられた。そのため、日本の城で植えられる例が多い。
 このように松は日本人との繋がりが非常に深く、文化や信仰の対象にもされて、昔から親しみのある樹木である一方で、産土神の中には松が嫌いな神様がおられることも伝承・伝説の中で出てくることも事実である。
 熊谷市旧妻沼町の聖天様は伝承・伝説では松嫌いで有名な寺院だ。その昔、聖天様は松の葉で目をつつかれたとか、松葉の燻しにあったという理由で、とても毛嫌いしている。ゆえに、正月に門松を立てることはないし、松の木を植えない家もある。松平伊豆守と知恵比べをして負けたことから松嫌いになったとも、または群馬県太田市の呑龍様との喧嘩中に、聖天様は松葉で目をつつかれたともいう。
 同じような伝説は、行田市の須賀熊野神社、鴻巣市の安養寺八幡神社にも伝承されていて、加須市北下新井地域に鎮座する若宮八幡社にも同様な伝承がある。偶然の産物ではない何かの事象を根拠に描かれているのであろう。勿論これは悠久の昔の神話世界の話ではなく、人間が織りなした生々しい事実・事件を題材にしたものであると考える。
        
             
・所在地 埼玉県加須市北下新井461
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧下新井村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例大祭 415日 秋祭り 1015
 加須市北下新井は、加須市大利根総合支所等の旧大利根町の公共施設が集まっている地域である。埼玉県道84号羽生栗橋線が地域内を東西方向に走っていて、加須市大利根総合支所から上記県道を1㎞程東行した先に北下新井若宮八幡社は鎮座している。
        
                北下新井若宮八幡社正面
            県道に沿って境内は広がり、社殿は東向き。
『日本歴史地名大系 』「下新井村」の解説
 平野村の東に位置し、南を古利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。寛永八年(一六三一)の寄合帳(大塚家文書)では「武州騎東郡川辺之内下新井村」、同一八年の検地帳写(田代家文書)には「武蔵国騎東郡川辺之内下新井村」とみえる。田園簿によると田高二五五石余・畑高三四七石余で、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本土井領で、幕末まで同領で続いたと考えられる(天保三年「向川辺領村々高書上帳」小林家文書、改革組合取調書など)。弘化元年(一八四四)より新田三石余が幕府領として加わる(「郡村誌」など)。助郷は中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿(現栗橋町)へ出役(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
        
                 静かな境内の一風景
 元和年間(1615年〜1624年)の創建。嘗て利根川は当地の南側を流れていた為、度々洪水の被害に遭っていた。当社も水害から逃れるために盛土の上に建てられている。近くの龍蔵院が別当寺であったが、実務面の管理は当社の隣にあった龍蔵院の末寺の「寿福院」が行っていた。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1911年(明治44年)の神社合祀により、周辺の7社が合祀された。
       
          参道左側で、手水舎の近くにあるご神木(写真左・右)  
    参道左側にある「改修記念碑」         ご神木の先にある手水舎
 改修記念碑
 本村民往古より摂津国高津宮祭神大鷦鷯尊(仁徳天皇)を信仰し、元和四年(1618)祠を創立。該神を分霊し勧請す。不老山若宮八幡と称す。
 例祭を毎歳四月十五日と定め以て五穀豊穣を祈る。しかし本村地は利根川と古利根川の間に位置し洪水氾濫幾度と知れず。文政十一年(1828)村民協力して現在地に築土し祠殿を再建するも、爾来尚数十年多発する水害の為稲熟は年毎に減り村民は疲弊を極む。天保九年(1838)から利根川の築提工事と中小河川の整備により、田数百町歩を得て排滞水、水防事業が亦緒につく。村民漸くにして愁眉を開き炊煙益々盛る。これ関係者の努力の致す処なれど、神徳に非ざれば何をもってここに至る。明治三十年(1897)八月村民相図り、社殿を大修理し以て祭典を挙げる。大正十二年(1923)九月一日関東大震災の為本社殿全壊、境内神社崩壊。被害箇所整理の後大正十四年春社総代、役員協議して再建に着手。大正十五年十月完了後吉日御遷宮祭典を挙げる。
 平成元年(1989
)、再建以来六十余年の歳月を経て本殿、境内社共に老朽化著しく、各役職、氏子の諸賢、対策協議会を結成す。(中略)御遷宮の祭典を挙行し、この事業を子々孫々に伝えんが為、奉賛者各位の芳名を記し、拠ってここに記念碑を建立す。(以下略)
                                     記念碑文より引用

        
                 塚上に鎮座する社殿
『新編武蔵風土記稿 下新井村』
 八幡社 村の鎭守なり、龍藏院持、下同じ、〇雷電社
 龍藏院 新義眞言宗、下總國葛飾郡前林村東光寺末、瑠璃光山世尊寺と號す、本尊藥師を安ず、〇地福院 同末、高應山師尊寺と號す、本尊彌陀を安ず、

 若宮八幡社  大利根町北下新井四二一(北下新井字砂場耕地)
 元来、利根川は、大利根町佐波付近から加須市樋遣川の地を南流し、当地の南を通り、鷲宮町方面へ流れていた。
 口碑によると、昔利根川の北岸に集落が形成されていたが、度重なる水害により人々は堤から離れて上の方に移り、字樽場の辺りに多く住むようになったという。往時の水害の様子を物語るものとして、地内には「お谷ガ池」が今に残る。
 当社も浸水から逃れるために盛り土の上に祀られている。その創立は社伝によると元和年間とされる。正徳四年神祇管領吉田兼敬より正一位の神位を受けた。
 別当は、真言宗竜藏院が務めていたが、直接の管理は当社に隣接する末寺の寿福院が当たっていた。明治初めの神仏分離により、寺の管理を離れ、明治五年に村社となり、同四四年には村内の七社の神社を合祀したが、このうち本田耕地の三峰神社はそのまま社殿が残された。
 社殿は、大正一二年の関東大震災によって全壊し、同一五年に再建して、現在に至っている。
 主祭神は誉田別命である。内陣には、騎乗の八幡大明神像を安置し、口碑にこの神像は松の葉によって傷めたため、目に傷があり、若宮八幡様は松が嫌いであるという。また、御一新の折の神社改めに際し、神像の没収を恐れた氏子は、一時これを隠したという。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
 本殿。その左側奥には子安神社が祀られている。   本殿右側に祀られている稲荷神社。
       
      石段手前で、左側に祀られている熊野神社(写真左)・雷電神社(同右)
       
      力石も区画を設けて展示している。  力石の奥に祀られている弁天社
        
                  石段手前で、参道に対して右側に祀られている琴平神社

 ところで、北下新井若宮八幡社の春祭りで上演されるササラは、正式には「祐作流獅子舞」といい、近在に広く知られている。昔、下新井村は利根川の水害が多く、伝染病による死者が数多く出たため、悪病除けのササラを北川辺の向細間から習ったことに始まったという。
 演目は「ササラ八庭」と称し、「赤間」「平庭」「花がかり」「橋がかり」「綱がかり」「弓がかり」「笹がかり」「女獅子隠し」の八通りがあったが、現在は後継者育成により、祭りには三庭のみ演じられている。
 摺り手は樽場と砂場各耕地出身者が当たるのを慣例とし、特にこの二耕地は八幡様の宮元と呼ばれ、ササラの行事の一切を行っている。当日祭典終了後、境内でササラが上演され、その後字本田の三峰神社前で一庭摺る。また、三峰神社の行き帰りの途次、氏子から要望がああるときは、その家の前で悪病退散を祈って摺ることもあるという。
        
          境内に設置されている「北下新井のささら」の案内板
      加須市指定無形民俗文化財で、平成二七年九月八日に指定されている。 



参考資料「文化遺産データベース」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
加須市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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