古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

須賀熊野神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市須賀4533
              
・ご祭神 家都御子神 熊野夫須美命 速玉男命
              
・社 格 旧須賀村鎮守社 旧村社
              
・例祭等 例祭日 715

 北河原十二社神社から埼玉県道59号羽生妻沼線を東へ4km程進むと、進行方向左手に須賀熊野神社の鳥居が見える。地図を確認すると「利根大堰」の東側500m程の場所に位置する。県道沿いでも目立つ社号標柱と、整備された長い参道が北方向に延びて、その先に拝殿が僅かに望める。
 須賀集落は県道沿いに集中しており、少し民家が途切れると美しい田畑と利根川の果てしなく長い堤防が見られる。社は須加の集落の中央に鎮座している。
        
                         県道側から参道正面を撮影
               
                    社号標柱
 
         鳥居の額名は「熊野大権現」               コンクリートで整備された参道が
                                                        一直線に延びている。
        
           鬱蒼とした森が背後に控え、利根川の堤防を背に社殿は鎮座している。

 ○須賀村 
 熊野社 
村の鎮守なり、本地佛弥陀を安ず、
  末社。大黒天、子安権現合社、
 別当利益寺 当山派修験、山城国醍醐三宝院末、加納院と号す。本尊不動を安ず、
                               「新編武蔵風土記稿」より引用
        
                     拝 殿
 熊野神社
 須加の地名は、川州に形成された土地であることに由来する。社伝によれば、建武年中、山城国愛宕郡当山派修験醍醐三宝院末加納院宥長がこの地に社を勧請したというが、古記録等は天正十八年の火災により焼失している。祭神は家都御子神(けつみこのかみ)・熊野夫須美命(くまのふすみのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)である。また、神仏習合時代の本地仏である阿弥陀如来立像を安置している。(中略)
 明治六年には村社となり、同四二年舟戸の神明社、大稲荷の大伊奈利社、小稲荷の小伊奈利社、矢倉の塞神社、雷電の雷神社、久保の雷神社、中郷の愛宕社、久伊豆の久伊豆社、砂原の八坂社・諏訪社、富士宮の浅間社の十一社が合祀された。しかし、大伊奈利社・小伊奈利社を除くすべての社が現在も各耕地にあり、現在も祭りが続けられている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                   拝殿部挙鼻の龍
                         龍はかなり動きのある精緻な造りである。 
 
                木鼻部の獅子(写真左・右)

『行田郷土史研究会2012 HP』には「忍の行田の昔ばなし」が紹介され、その中に須加地域の昔話もある。興味深い内容であるので全文紹介する。

 第三十話「須加の熊野神社」
 昔から、利根川べりにある須加に住む人々は、妻沼町の人との縁談は必ず不縁になると信じられておりましたので、近年になってもこの二つの町村との婚姻はなかったということであります。なんでそんなことになったのか、昔むかしのお話を紐解くことにいたしましょう。
 須加には拝殿の拳鼻彫刻龍と、木鼻彫刻による端正なお顔をした狛犬で有名な熊野神社がございます。趣のあるこの熊野神社は、社伝によりますと建武(けんむ)年中といいますから一三三四年ごろ、山城国愛宕郡当山派修験醍醐三宝院末加納院宥長がこの地に社を勧請したといわれております。御祭神は、家都御子神、熊野夫須美命、速玉男命、でございます。
 この神社には富士塚もあり、浅間大社、三峰神社その他たくさんの末社が祀られております。
 この中に、昔は聖天さまも祀られていたそうであります。
 縁結びの霊験あらたかな聖天さまでございますが、妻沼の聖天さまは、もともとはこの須加の熊野神社の境内を借りて祀られてあったのだそうでございます。
 縁結びのお力は人々の心を大変引き付け、だんだんと熊野神社では聖天さまの方が人気さかんになってしまいました。
「肝心の熊野神社の方がすたれていってしまい、このままでは熊野神社が聖天さまに取られてしまう」ということで、或る日のこと、熊野神社の氏子たちが皆で聖天さまを松葉を焚いていぶり出してしまったということでございます。
 いぶり出されてしまった聖天さまは、妻沼郷大我井の森に移転することになりました。その移転の道中、北河原村まで来たところ、嵐のような大雨に遭ってしまわれました。
 奥墨某という家でなんとか雨宿りをしましたが、雨はなかなか降りやまないので、一夜泊めてもらうことにしました。そこでこの地は「雨の袋」と地名が付き、今では「天の袋」と書きますが現在の小字にもある「天袋(あまぶくろ)」というようになりました。
 翌日この地から旧奈良村へ出て道中の休息をしたところから、ここに「時華」という地名もあるそうです。そしてようやく妻沼の大我井の森にたどり着き、安住の土地である妻沼に落ち着かれたのだということであります。
 聖天さまは須加で松葉いぶしにあってしまわれたのですが、「この世の中に松の木がなかったらこんなひどい目に会わなかったであろう。」と、それからというもの、聖天さまは松の木を非常に嫌ったといいます。一説には、聖天さまは、太田の呑龍さまと戦ったことがあるそうで、その時、金山の松で左の目を突ついて怪我をしたので、松が嫌いになったともいわれておりますが、松嫌いの聖天さまのお話はこれまたいろいろございますので、別のところでお話しいたしましょう。
 縁結びの神様がいなくなってしまった須加の熊野神社ですが、神社の風格や凛とした構えの鳥居など、本当に心が浄められる美しい神社でございます。見事な社殿彫刻をご覧になりたい方はぜひ一度訪れてみてはいかがでしょう。

 妻沼の聖天様だけでなく、日本全国に松が嫌いな神様がおられるそうだ。例えば鴻巣市安養寺八幡神社も同じ説話があり、人々から厚く信仰される神仏でも、不思議と人間くさい一面が伝承・伝説では語られている。慈悲深い神様や仏様とはいえ、争いごと等をすることもあるかと感慨深いエピソードであるが、「神様の松嫌い」この伝承・伝説にはもっと深い何かが隠されているようにも思えて仕方がない。
 

           本 殿            社殿左側には「御嶽社」・「浅間社」

 「御嶽社」・「浅間社」の右隣には倉庫らしき施設あり、神興庫であろうか(写真左)。その並びには石祠群がびっしりと並ぶ(同右)。「埼玉の神社」に記されている「舟戸の神明社、大稲荷の大伊奈利社、小稲荷の小伊奈利社、矢倉の塞神社、雷電の雷神社、久保の雷神社、中郷の愛宕社、久伊豆の久伊豆社、砂原の八坂社・諏訪社、富士宮の浅間社の十一社」であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「行田郷土史研究会 忍の行田の昔ばなし」
    「
Wikipedia」等

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