砂原鷲神社
・所在地 埼玉県加須市砂原447
・ご祭神 天穂日命
・社 格 不明
・例祭等 お獅子様 4月11日 春祭り 4月15日 秋祭り 10月15日
北下新井地域にある大利根総合支所から埼玉県道84号羽生栗橋線を西行し、「北平野」交差点を右折、同県道345号砂原北大桑線に合流後350m程先にある「下総皖一生誕の地 童謡のふる里」の看板が設置されている十字路を右折する。暫く進むと、風景は一面見渡す限りの田畑風景に変わる。この一帯は「埼玉の神社」によると「当地は古来、洪水地帯であったが、大正三年河川改修・耕地整理が行われ、以来北埼玉一の米の宝庫と謳われた」と載せているが、この風景を見ると成程と納得してしまうほどの豊かな穀物地帯が広がっている。
埼玉県にもこのような場所があるのかと感慨に耽りながら車を更に走らせ、「稲荷木排水路」を抜けた直後の路地を右折、更に500m程先の十字路を左折すると、背中を向けた砂原鷲神社社殿が右手に見えてくる。
砂原鷲神社正面
加須市砂原地域は、利根川右岸に位置し、東西3.8㎞程・南北は最大でも1㎞程の、東西に長い利根川低地上に位置する地域である。因みに地域名「砂場」は、昔古利根川の砂が寄せた地を開発したことにちなむとされ、川筋に沿って砂山が続いたといわれる。
『新編武蔵風土記稿 砂原村』
「土人云往古利根川の砂寄たる地を開きしより此名ありと云、(中略)東西三十五町、南北五町許、(中略)村の西古利根川の跡に持添の新田あり、十間新田と云」
この地域の東側には「十間新田」という字名もあり、「風土記稿」において、「村の西古利根川の跡に持添の新田あり、十間新田と云」と載り、この十軒新田の地内に砂原鷲神社は鎮座している。
拝 殿
鷲神社(みょうじんさま) 大利根町砂原四四七
社記に「宝暦六年武蔵国南埼玉郡鷲神社の分霊を祀り耕地鎮守と称す」とある。
口碑によると、当地は古くから人の住む所で、畑の中から土器の破片が出るという。また、江戸期には相当数の戸数があったといわれ、殊に当社の創立と伝える宝暦年間が最も多かったという。旧家の街道に建つ出羽三山登拝碑などの石碑類もこの年号が多い。
しかし、その後、大利根地区で一番の低地のため、利根の乱流による水害が激しく、自然堤防付近への移転が計られ、江戸後期より明治初頭にかけて十軒余りに減少する。このことから当地は現在でも十軒と呼ばれる。また、一〇軒とは坂田・中島・羽鳥・田代・曽根・中沢・久保田・小野田・荻野・斎藤であるといい、当地は雁採場(がんとりば)といわれ、草分け坂田家はガンドン(雁殿)と呼ばれていたといわれる。
当所は、古くは鷲宮神領であり、街道に建つ石碑などからも宝暦年中の勧請はうなずけるものがあり、祭神は天穂日命である。隣接する真言宗西浄寺が元は別当であったが、明治初期に消失したという。
覆屋内に三殿があり、鷲神社を中央に、向かって右に安政五年六月配祀と伝える八坂神社を、左に宝暦七年駿河国浅間神社より分霊という浅間社を祀る。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
「埼玉の神社」より引用
境内社・稲荷神社の石祠
氏子区域は旧大利根町字十軒である。これを上組・前組・中川組・下組に分けられている。
当地は古来、洪水地帯であったが、大正三年河川改修・耕地整理が行われ、以来北埼玉一の米の宝庫と謳われ、また蓮田も作り、養蚕・川魚漁と裕福な地域となった。しかし、大雨が降ると地水が湧き、道路も水に浸かる時があり、用水路へ水車で水をはくほどであり、その生活には厳しいものがあったようだ。このために氏子は信心深く、毎月の一日・一五日の参詣を欠かす者はなかったという。
また当所では、正月三が日は餅を食べない風習があり、これは三が日の餅は神様のものだからといい、昔は子供には三が日のうちに餅を食べると吹出物ができると教えたという。
社の北側に隣接している「十軒農村センター」 農村センターの敷地内にある庚申塔3基
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地舞体系」「埼玉の神社」等