古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

琴寄横沼神社

 瞽女(ごぜ)とは、目明きの手引きに連れられて、三味線を携えて僻陬の村々を唄をもって渡り歩いた日本の女性の盲人芸能者を意味する歴史的名称。その名は「盲御前(めくらごぜん)」など、中世以降の貴族などに仕える女性の敬称である「御前」に由来する説と、中国王朝の宮廷に務めた盲目の音楽家である「瞽師」や「瞽官」の読みから転じた「瞽女(こじょ)」に由来する説がある。
 近世までほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人であるという。
 瞽女は将軍・大名に仕え、箏・三弦を教授するなどして定住する者もあったが、多くは仲間と共に門付けをしながら村々をめぐり歩くため、一年の多くを旅で過ごすことになる。娯楽らしいものにも乏しかった農民は、毎年のようにやってくる瞽女を親しみを込めて「ゴゼサ」「ゴゼンボ」と呼んで温かく迎えたのであった。テレビもラジオもない時代のため、宿泊先には歌謡を聞きに付近から人々が集まり、夜の更けるまで瞽女の唄を聞いて楽しんだのであった。瞽女も農民の好みに絶えず心をくだき、唄を通じて心のふれあいが生まれた。農民にとっては、瞽女の唄ばかりではなく旅の話を聞くことも楽しみであった。廻村した地域に関するたわいない話であっても、情報の少ない農民にとっては興味深かった。また、瞽女が人々の信仰の対象ともなっていたことも注目される。瞽女が貧者に善根を施して利益を与えることに加え、子育て、蚕の孵化(ふか)、稲・麦の発芽をうながす霊力や死者の霊を慰め供養する力などを有する聖なる来訪者として意識されていたためである。そのため彼女らに対し村入用で宿を提供し、手引人足が次村まで送り届けるというように、村全体で盲人を受け入れる体制が整えられていたという。
 加須市琴寄地域に鎮座する横沼神社は、1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1912年(明治45年)の神社合祀により、周辺の神社が合祀された。その中に「護世社(ごぜしゃ)」がある。「護世」は女性盲人芸能者「瞽女(ごぜ)」のことであり、利根川の洪水で琴を持った瞽女の遺体が岸辺に流れ着き(寄り)、彼女を手厚く葬ったことが当地の地名「琴寄」の由来であるという。「琴寄」という地域名には、その優雅な響きとは相反する悲しい「瞽女」の伝承・伝説が残されている。
        
              
・所在地 埼玉県加須市琴寄344
              
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
              
・社 格 旧琴寄村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例大祭 415日 1015
 新井新田八幡神社から北上し、「間口」交差点を右折して国道125号栗橋大利根バイパスに合流後、旧栗橋町方向に東行する。その後、700m程先にある「豊野台工業団地」交差点を左折、そして1㎞程先にコンビニエンスがある交差点を右手前方向に進路変更し、そのまま道なりに暫く進むと琴寄横沼神社が左手に見えてくる。
 境内東側には社務所があり、そこには専用駐車場も確保されている。
       
                  
琴寄横沼神社正面
『日本歴史地名大系』 「琴寄村」の解説
 [現在地名]大利根町琴寄
 本村と新田が下新井村を挟んで離れており、本村は同村の南、新田は北東に位置し、本村の南西を古利根川が流れ、川沿いに堤がある。対岸の間口村との間に渡船場があった。村名は、昔利根川が満水したとき琴を抱いた瞽女が流れ寄り、この地で絶命、哀れに思った村人が厚く葬ったことに由来するという。この瞽女を祀ったと伝える護世(ごぜ)社が横沼神社に併祀されている(大利根町地名考)。
 田園簿によれば田高一一五石余・畑高六四五石余で、幕府領。このほか善定寺(ぜんじようじ)領七石がある。元禄一〇年(一六九七)の検地帳(小林家文書)によると、検地奉行は上野前橋藩家臣。畑屋敷のみで都合一七三町一反余・高四八九石余。
        
                    境内の様子
 広い境内。そしてその奥には、塚とも古墳とも思え、洪水対策なのか小高い丘上に社は鎮座している。常緑樹は社を取り囲むように聳え立っているのだが、参拝時期は2月下旬の冬時期であり、もし紅葉の時期に参拝すれば、銀杏等が金色に染まりさぞ美しいのであろうと、その点は残念な感想。ともあれ、「村の鎮守様」の雰囲気を感じさせる荘厳さを持つ社
       
       社に向かう石段の手前左側に聳え立つイチョウのご神木(写真左・右)
        
              石段の右手にある古そうな灯籠と石祠 
          灯籠群の奥には「富士〇〇大神」と刻印された石碑が建つ。
        
                 石段上に鎮座する社殿
『新編武蔵風土記稿 琴寄村』
 横根明神社 村の鎭守なり、祭神詳ならず、善定寺持、下二社持同じ、末社 稻荷 天王
 〇天神社 〇諏訪社 〇八幡社 眞福寺持 〇愛宕社 長樂院持 〇淺間社 地藏院持
 〇本護世明神社 祭神詳ならず、寶光院持、 〇湯殿權現社 長泉寺持、

 横沼神社(みょうじんさま) 大利根町琴寄三四四(琴寄字後川
 当社が鎮まる琴寄は、『大利根町誌』によると昔利根川が洪水の折、今はない後川に琴を胸に抱いた瞽女が命絶えて流れ着いたことに由来するという。
 社伝によると、往時、琴寄は鷲宮町の鷲宮神社の氏子であったが、人家が増えたため、元和年間に社を建てたのに始まると伝え、本来鷲宮神社と号すべきであったが、社殿の横に沼があったことから横沼神社の社名が付けられたという。『明細帳』に載せる祭神が天穂日命・武夷鳥命であることから、鷲宮神社の分霊を祀ったことを推察できるが、江戸期の祭神は『風土記稿』に「祭神詳ならず」とあり、その確証は得ない。
 同社名の神社として羽生市下村君の鷲神社は、『風土記稿』に「鷲明神横沼神合社」と載り、さらに「横沼明神は御諸別王の息女を祀る所といへど、是も定かなる拠をきかず」とあり、当社との関係は明らかではない。
 明治五年に村社となり、同四五年には字西後川耕地の護世社をはじめ、横沼・八幡・諏訪・天・雷電・浅間・湯殿・愛宕・塞の各社が合祀された。このうち護世社は、現在拝殿に祀られており、天正年間の創立と伝え、当地琴寄の地名の起こりとなった瞽女を手厚く葬った社といわれている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 氏子区域である琴寄地域は、琴寄本田と琴寄新田の大きく二つに分かれ、それぞれ地域も下新井地域を挟んで離れている。その中でまた小さく耕地が分かれており、その数はおおよそ10耕地である。当社に合祀された社は、本来各耕地ごとに祀られていた小さな祠であったという。
      
      社殿に向かって右側に祀られている   社殿に向かって左側に祀られている
          境内社・八坂神社          境内社・御嶽神社
       
             本殿左側奥に祀られている境内社・稲荷神社
            稲荷神社の右隣にも稲荷神社の石祠が祀られている。
       
                 社殿から境内を眺める。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「多摩市デジタルアーカイブ」
    「Wikipedia」等
   

拍手[1回]