弥兵衛鷲神社
・所在地 埼玉県加須市弥兵衛476
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命 誉田別命 素戔嗚命
・社 格 旧弥兵衛村鎮守・旧村社
・例祭等 春祭り 4月15日 秋祭り 10月15日
「道の駅 童謡のふる里おおとね」の東側で、埼玉県道46号加須北川辺線を北上し、「埼玉大橋」高架橋下の道路を利根川右岸土手沿いに500m程東行すると、進行方向右手に弥兵衛鷲神社が見えてくる。
弥兵衛鷲神社正面
『日本歴史地名大系』「弥兵衛村」の解説
新川通(しんかわどおり)村の西に位置し、村の北東を利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。村名は飯積(いいづみ)村(現北川辺町)の平井外記とその子弥兵衛が開発したことによるという(風土記稿)。また、貞享三年(一六八六)の利根川通関所之外脇渡場改覚(竹橋余筆)には、飯積村名主善左衛門が六〇年以前田地を求めて引越し、弥兵衛村名主を勤めたとある。その後平井家が代々名主を勤めた。田園簿には弥兵衛新田とみえ田高八石余・畑高一八六石余で、幕府領。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領。享和二年(一八〇二)には三卿の一家である一橋領(「向川辺領大難渋之始末書上帳」小林家文書)、天保三年(一八三二)の向川辺領村々高書上帳(同文書)では幕府領。
鳥居には藁で作られた大蛇が掛けられている。
また社号額には「八幡社」「八坂大神社」「鷲神社」「愛宕神社」とある。
拝 殿
鷲神社(てんのうさま) 大利根町弥兵衛四七六(弥兵衛字上分)
『風土記稿』に「彌兵衞村は鷲宮鄕と唱う、当村古へ平井外記と云者飯積村(現北川辺町飯積)より当所に来り開発し、其子弥兵衛もともに開発のことを司りしより村名となりし」とある。隣村の外記新田鷲神社社記に鷲宮大明神を勧請したものという。しかし明治四五年当社に合祀された八幡社の旧鎮座地は小字焼畑(やけっぱら)であり、その社記によると「景行天皇の代御宝別命、天皇の命により東国を治めるに当り、賊徒に対して火矢を射る、その時矢が当たり焼けたため地名をヤケッパラと呼ぶ」といい、口碑に「この附近は古くから開けた所で、八幡社も鷲神社も新田開発前に住んでいた者が祀った」ともいう。
大正二年、当社は旧別当真言宗鷲宮山龍福院境内から八坂大神社の鎮座していた現在地へ遷座し、同時に八坂大神社を合併して村社となる。八坂大神社は「元文三年悪疫流行の時、村人が愛知の津島神社に祈祷し功験著しく、よって同社分霊を行い創祀す」と社記にある神社であり、古くは天王様と呼ばれ江戸中期作の神輿がある。
祭神は天穂日命・武夷鳥命・誉田別命・素戔嗚命で、ほかに愛宕社祭神火之夜芸速男神(ひのやきはやおのみこと)を祀るというが不明であり、焼原の八幡社の合祀社であったとも思える。境内末社は地租改正の折、同字内の愛宕社・浅間社・三峰社を合祀したという。
「埼玉の神社」より引用
『加須市HP』や『埼玉苗字辞典』によると、この「平井外記」という人物は、正保四年(1647)没となっている。
*平井家系譜「平井稲葉(稲泉道栄居士・文禄二年没)―伊豆(平安浄貞信士・慶長十三年没)―佐渡(源誉路安信士・寛永十七年没)―外記(信誉浄金信士・正保四年没)―太郎左衛門(全冬安永信士・宝永三年没)―四郎兵衛(元禄十四年没)―太兵衛(元文二年没)―庄兵衛(明和二年没)」
平井家は代々摂津源氏頼光の輩下にあったが、頼光の玄孫三位頼政が宇治平等院で敗れてからは数代にわたって諸国を流浪し、ついに頼政を祀る古河に至り、北川辺飯積の地に帰農した。
その後、平井外記は単に飯積にとどまらず、広く東方に開墾の鍬をふるい、飯積三軒・高野・大曾・前谷・駒場・外記新田等を豊穣な地として、北川辺領開発の租となった。
多くの餓死者を出した正保(1644年~1647年)の飢饉のとき、救済の策尽きた外記は敢えて領主の法度にそむいて筏場の米倉をひらき、飢えた農民を救った。
そのため家は取潰しとなり、外記自身は責を負って自刃した。時に正保4(1647年)年8月6日。農民たちは挙げて助命運動を行っていたが、辛うじて罪一等を減じて末の一女を恕されて平井家断絶の最悪の事態を避けることができた。
平井外記は単に一族の祖、一村草創の人でなく、北川辺領開発の人であり、常に農民の側にあって権力に屈せず、農民存亡にあたってはその盾となった人であったという。
拝殿正面に飾られている「雷電神社神璽」と「榛名神社御祈祷御札」
この地域には「講社」という各地の神社・寺院へ参拝するための数多くの講があり、「榛名」「三峰」「雷電」「御嶽」「富士」の各講がある。上記の榛名には毎年3月に代表して参拝する「代参講」が行われ、雷電には毎年2月下旬にと七月に「代参講」が行われる。
社殿左側に祀られている仙元宮 仙元宮の右側隣に御嶽神社の石祠が祀らている。
仙元宮の左側奥に祀られている稲荷大明神 社殿右側には天満宮が祀られている。
稲荷大明神の左隣は三峰社であろうか。
当社の氏子区域は大字弥兵衛全域であり、これを西・東・前・横手・焼原の五耕地に分け、神社の仕事は一耕地一年交替で努め、これを黽番(かまばん)と呼ぶ。
当社の大祭は、四月十五日の春祭りと十月十五日の秋祭りで、四月は豊作祈願、十月は収穫感謝であるという。当日は総代が祭典を奉仕し、集会所で直会を行う。
また悪疫除けの行事として「天王様」があり、これには神輿が出る。因みに、天王様の日には、鳥居には藁で作られた大蛇を掛ける風習がある。七月一日に黽番は神輿を出して清掃・備品の点検・警察との打ち合わせを行い、同六日は幟立て、同七日は神輿に拝殿で祭り込みを行う。七日の晩から氏子がお参りをするため、総代がお祓いをする。同一五日夕刻に集合し御神酒を頂き、嘗ては耕地中を揉んだが、現在は境内で揉むという。翌日一六日には還御ノ儀(かんぎょのぎ)を行い、午後に幟倒しを行い天王様は終了するとの事だ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須市HP」「埼玉の神社」
「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等