古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

古名氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町東野3156
             
・ご祭神 
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等
 吉見町古名地域は丸貫地域の南部にあり、荒川と市野川の間にある自然堤防と低地に位置する。途中までの経路は北下砂氷川神社及び丸貫熊野神社を参照。丸貫熊野神社前の道路を200m程南下し、十字路を左折する。その後埼玉県道76号鴻巣川島線に交わる十字路を右折、県道合流後450m程道なりに進み、十字路を右折すると「古名」交差点が見えてくる。その交差点左手に古名集会所が見え、その集会所の奥手に古名氷川神社が鎮座する広い空間が現れる。
        
                  古名氷川神社正面
『日本歴史地名大系 』での「古名村」の解説
 [現在地名]吉見町古名
 丸貫(まるぬき)村の南に位置し、東は幕末に当村から分村した古名新田、南は大和田(おおわだ)村。地内には文永一二年(一二七五)の画像板碑、応安二年(一三六九)の阿弥陀一尊板碑、寛正六年(一四六五)の阿弥陀三尊板碑などがある。古くは北下砂(きたしもずな)村・丸貫村と一村で下砂村と称していたが、元禄郷帳・元禄国絵図作成時頃までに北部が北下砂村として分村、残余の下砂村がその後、当村・丸貫村の二村に分れた。
        
          境内は思いのほか広く、社殿は塚のような高台上にある。
 参拝日は10月上旬。社殿の前にあるキンモクセイが開花し、甘い香りが境内を包みこんでいた。

 吉見町古名、「古名」と書いて「こみょう」と読む。なかなか意味深さ地域名だ。この不思議な地域名の由来に関して『新編武蔵風土記稿』の編者は意外と長めに、更に2通りの説明している。因みに旧字には(*)をつけて筆者が現代語に直している。

「村(古名)の沿革を尋るに、正保の国圖(*図の旧字・ず)に下砂村あり、元禄改定の圖に下砂・北下砂の二村あり、又古名・丸貫の二村を載せて、下砂村之内と記し、(中略)然れば古名・丸貫の二村は、下砂に隷するものにして、別に村落をなしたるにはあら其後何の年にや、下砂村の地を二分して、當村丸貫の二村に配當し、(中略)【小田原役帳】松山衆知行の内に、狩野介二十貫文吉見郡下須奈(*下砂の旧字体)卯檢見辻とのす、是下砂村なるべし、按に元禄以前分村せざる間は、古名・丸貫の地名は下砂村の小名なりしを、後に各一村となりしかば、下砂の名亡びしなるべし」
「又當村古は横見村と號(*号の旧字・ごう)せしが、洪水にかゝり一旦退轉(*転の旧字・てん)
せしを、丸貫村より再び開墾し、村名を古名と改む云説あれど、今土人は傳へず(中略)」

 つまり、最初の内容では、当所古名・丸貫の二村は下砂村に属していて、その後分村したと記されていて、古名・丸貫の地名は下砂村の小名(小字)であり、それが後年「古名」と変化して地域名となったという。別説では、この地は元々横見村と名乗っていたが、洪水の為一旦避難し、その後再び開墾して吉見の地名のルーツにもなっている古の名前(横見)は使わずに、「古い名=古名」としたという。但しこの別説には尾ひれがついていて、「云説あれど、今土人は傳へず」と本当かどうかはわかりません、と注釈はついている。
『新編武蔵風土記稿』の編者は、この地域名の由来に対してよっぽど興味があったのか、それともこの地域の伝承等を、手抜きをしないで正直に編集しようと真面目に取り組む日本人としての勤勉さからきているのかどうかは不明だが、この小さな地域名にこれだけの活字を使用して説明しているのも面白く、興味深いことだ。
        
                     拝 殿
 氷川神社 吉見町古名一〇四
 当地は荒川と市野川の間にある自然堤防と低地に位置する。『風土記稿』によれば、古名はもと下砂村の小名の一つであったが、元禄年間(一六八八-一七〇四)以降に分村した。一説に、古くは横見村と呼んでいたが、洪水により荒廃したのを、丸貫村より村民が来て再び開墾し、村名を古名と改めたという。
 旧家は久保田家と秋葉家である。久保田家は京から三兄弟がこの地にやって来て開発の鍬を振るったと伝え、また秋葉家は久保田家よりやや下ってこの地に土着し、江戸期を通じて名主職を務めたと伝えている
 社伝によれば、当社の創建は宝暦三年(一七五三)のことである。分村から五〇年余を経たこの時期に村としての形を整え、久保田家や秋葉家が中心となって、「一の宮」として一般に名を知られ、また水神としても名高い氷川神を鎮守に勧請したものであろう。
『風土記稿』は「氷川社 村の鎮守なり、妙音寺持」と載せる。これに見える妙音寺は今泉村金剛院門徒の真言宗の寺院で、当社の北側に隣接して堂を構えていたが、幕末に火災に遭い焼失した。この時、当社も類焼したため、嘉永四年(一八五一)に至り、当地から分村した古名新田の氷川神社から分霊を受け再興を果たした。
 明治四年に村社となり、同四十年に古名新田の伊勢社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                 境内社 稲荷社・天神社
 
 境内は広く、社殿は東側の一角にひっそりと鎮座しているが、その南側並びには一対の灯篭の先に仏様立像が厳かに祀られている(写真左)。冠やブレスレットを身に付けてないシンプルなお姿から、薬師如来(同右)なのかもしれない。
             
        仏様の立像が祀られている近くにある青面金剛・馬頭尊の石碑。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」等



        
 

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