古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

山ノ下稲荷神社


        
            ・所在地 埼玉県比企郡吉見町山ノ下830
            ・ご祭神 倉稲魂命 菅原道真公
            ・社 格 旧村社
            ・例祭等 不明
 山ノ下稲荷神社は、比企郡吉見町北部に位置する山ノ下地域に鎮座する社である。山ノ下稲荷神社は、松山城の攻防戦で果てた武士山崎直宗の子息山崎隼人が、当地を開発、屋敷傍に、「稲荷天神社」を氏神として永禄10年(1567)創建したという
        
                   田甲髙負彦根神社が鎮座する通称「ポンポン山」の岩礁面
                  因みにこの画像は202112月撮影時のもの
 田甲髙負彦根神社が鎮座する通称「ポンポン山」の岩礁面に沿って南北に通じる道があり、そこを南下すると、正面に山ノ下稲荷神社の社叢林が見えてくる。社の入口付近には駐車可能な路地面があり、車両の進行に支障のない場所に車を停めてから参拝を開始した。
        
                 
山ノ下稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』 「山野下村」の解説
 田甲(たこう)村の東にあり、村域は吉見丘陵の北東端部とその下の低地を占める。山(丘陵)の下に位置することが村名の由来という(風土記稿)。山下とも書いた。文明一三年(一四八一)の板碑がある。小田原衆所領役帳では松山衆の安宅七郎次郎の所領のうちに「吉見郡山下」一貫五〇〇文があった。田園簿では田高六〇石余・畑高八六石余、幕府領。日損場との注記がある。
『新編武蔵風土記稿 山野下村』
 田甲村を下り當村に至て、始て平衍の地なれば、直に村名とすといへり、民家二十五、(中略)吉見用水を引沃げども、しばヾ早損あり、永祿の頃は北條家の士、安宅七郎次郎が知行なる由【小田原役帳】に載たり、
稻荷社 鳩峰寺持、下同じ、
天神社
淺間社 村民持、
鳩峰寺 新義眞言宗、御所村息障院末、和光山と號す、本尊彌陀を安置す、 藥師堂
        
               風情ある
山ノ下稲荷神社の鳥居
        
                    拝 殿
 稲荷神社  吉見町山ノ下六五二(山ノ下字宮田)
 当社は、松山城の攻防戦で果てた武士、山崎直宗の子息隼人により建立された。
 天和元年(一六八一)十一月二十五日の「為取替申当村開発以来村系図并仕来儀定之事」(山崎家文書)によると、永禄九年(一五六六)北越の雄、上杉謙信の城攻めにより松山城守備の上田能登守朝直旗下にあった五人の武士が自害した。五人の子息である山崎隼人・小山兵庫・八木橋刑部・野沢図書・高橋采女は、遺言により当地に落ち、帰農して山ノ下村を開発した。
 この内、開発郷士筆頭である隼人は、永禄十年(一五六七)三月に屋敷そばに氏神である稲荷天神社を建立した。これが当社である。山崎家は、代々名主を務める家柄であったことから、当社もおのずから村の鎮守として祀られるようになった。また、小山兵庫は、永禄十年九月に屋敷そばへ石宮地社(石宮地稲荷社)を建立した。なお、これら五名は、永禄十一年(一五六八)三月に当社と石宮地社の別当である鳩峯寺を開基し、更に、元亀二年(一五七一)八月に当地と隣接する松崎村境に両村惣鎮守「正八幡宮」を建立した。
 なお、『風土記稿』には、当社の名が見えるが、小山家の石宮地社は同家の氏神であり続けたためか、その名が見当たらない。この石宮地社は、『明細帳』によれば明治四十年に当社に合祀されている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 上記の由緒に載せられている「山崎隼人」という人物は、山崎文書によると「松山城主上田能登守朝直入道・永禄九年四月北越へ城を渡す。菩提寺三道村常蓮寺に於て御年六十四歳に而御生害之節、山崎隼人父直宗六十一歳に而、一同伴切腹之節御遺言、依之十一月迠浪人す、十二月二日より当所に住す。慶長七年九月開発人郷士山崎隼人・高三十二石余・此地面六町四反余。天和元年、山崎隼人直成四代孫半兵衛」とあり、慶長七年九月年貢割付状では「開発人郷士頭役山崎隼人、居屋敷を除地となし、名主に任命す」と記されていて、実父の死(切腹)⇒浪人⇒当地に移住、と苦労をしながらも忍耐強く生を全うされた人物であったのであろう。
        
              拝殿の手前に祀られている境内社
  境内社中に石祠が三基祀られている。左より津島神社・富士浅間神社・富士浅間神社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」等
        

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