古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

金屋白髭神社

 本庄市には「九郷用水」と言われる灌漑用水がある。この用水の由緒は諸説あり、かなり古いことは確かなようだ。この用水の北側に東福寺があり、その縁起には「昔、この地方は旱魃になやまされ、農民は苦労していた。そこでこの国の国造が、金鑽神社(神川村)に祈願すると一人の童子があらわれて「私が金龍になって神流川の流れを導くから、それにしたがって水路を開き用水にしなさい。」とお告げがあった。不思議なことにその夜明け、金色の大きな龍が神流川の水中よりあらわれて、野原や田畑をよこぎり進むと、ある高台にのめり上り、姿を消した。その高台がここ東福寺で、その金龍が通った跡に堀を開いてできたのが九郷用水(灌漑面積600ha、流路長さ約15km)であると伝えられている。」という。
 この縁起に記されている「国造」は令制国以前にあった行政区分であり、このことからこの縁起が記された時代の上限はかなり古く感じられ、またこの国造が金鑚神社に祈願したことや、九郷用水周辺には多数の金鑚神社が鎮座していることから、この地域一帯は金鑚神社の信仰地域であったと思われる。さらに神流川流域では古代に開削したとみられる大溝が確認されており、当時かなりの先進技術を金鑚神社を信奉する技術集団が保持していたことを物語っている。
 そしてこの技術者集団が居住していた地域の一つがこの白髭神社が鎮座する「金屋」地区であったのではないかと筆者は推測する。
所在地    埼玉県本庄市児玉町金屋1164
御祭神    猿田彦神(推定)
社挌、例祭  不明

       
 金屋白髭神社は、国道462号線を本庄市児玉町地区より神川町二ノ宮の金鑚神社の方向に進み、途中金屋保育所交差点の手前約200m、進行方向の右側に鎮座している。境内は決して広くはないが、この社が鎮座している「金屋」という地名には興味があったし、その地域名からか社の雰囲気も中々趣のある感じだ。駐車場は北側に隣接している第二金屋公民館があり、そこに停めて参拝を行った。
           
                            金屋白髭神社正面
 この社の参道正面には社殿を遮るように御神木の大杉があり、参道もその大杉を避けて迂回して造られている。日本人古来の巨木に対する信仰がまだまだ残っていて、参拝の最初から早くもカウンターを食らった感じを覚えた。

        国道沿いにある社号標石             参道を遮る御神木に並行してある境内社
                
    金屋白髭神社参道正面に聳え立つ御神木の大杉。但し樹齢はそれほどではないように思える。
              
                              拝    殿
 この社には残念ながら由緒等の案内板がない。式内社である武蔵国二宮金鑚神社から数キロしか離れておらず、この「金屋」という地域の由来はかなり深いはずであり、その点が非常に残念だ。
           
        
             
                           金屋白髭神社本殿
  金屋白髭神社から国道462号線を西に5km程行くと金鑽神社が鎮座する。この金鑽神社は『延喜式』神名帳に児玉郡の名神大社「金佐奈神社」とみえる。現在の祭神は天照皇太神・素盞嗚命・日本武尊の三柱で、社蔵の「金鑽神社鎮座之由来記」によると、日本武尊が東征の折に火鑽金(火打金)を御霊代として山中に納め、天照大神・素戔嗚尊を祀ったのが創始という。
 社名の金鑽=金佐奈は金砂の意で、鉱物の産出を霊験として崇めたといわれ、御嶽山では鉄や銅が採鉱されたとの伝承もある。同じく文化文政期の幕府官撰地誌『新編武蔵風土記稿』は、一説として祭神を採鉱・製鉄を司る金山彦神としており、古代の製鉄に関わる技術者集団(渡来人か)が周辺に存在し、彼らが金鑽神社の祭祀集団となっていたとの考え方もある。
 さて児玉郡域には、製鉄に関連する地名が多く残る。神流川は「かんな」すなわち砂鉄・鉄穴の意とされ、児玉郡美里町阿那志は古くは「穴師」とも記され(「記録御用所本古文書」国立公文書館内閣文庫蔵)、鉄穴師(鉱工業者)に関わるものと考えられている。
 白髭神社が鎮座する「金屋」地区は古くから製鉄・及び鋳物師が存在していた。製鉄・鋳物と用水開削は一見何の関連性のない分野と思われがちだが、「掘削技術」を共通項目として考えるならばいささか早計ではないだろうか。その点は埼玉苗字辞典でも以下の記述があり、参考にしてもらいたい。
中林 ナカバヤシ
同郡金屋村(児玉町) 児玉記考に「旧家中林喜三郎、祖先を中林佐渡守と云ひ、倉林越後守の実弟なり。旧幕の頃は世々忠蔵と通称し、地頭の組頭役を勤続せり。文政の初年迄は倉林家と同じく盛んに鋳物師を営み全国百八軒の其一たりし」と見ゆ。天正年間の倉林越後守と兄弟説は附会にて、遥か是以前より鋳物師であった。多摩郡平尾村椙山神社懸仏銘(東京都稲城市)に「延徳二年壬午五月五日、武州児玉郡金屋住人中林五郎左衛門家吉敬白」。延徳二年(一四九〇)は庚戌である。延徳は私年号で寛正三年壬午(一四六二)が正確である。金屋村懸仏銘に「長享二年戊申六月吉日、武州児玉金屋中林家次」。静岡県富士山頂浅間神社懸仏銘に「天文十二年癸卯六月吉日、武州児玉金屋中林常貞」。大滝村三峰神社懸仏銘に「天文十四年乙巳八月吉日、三峰大明神、武州児玉金屋住中林次郎太郎信心施主」。小平村成身院文書に「文禄四年、阿弥陀如来座像造立之檀主中林加賀守・中林主計助・中林若狭守」。当村真福寺文禄四年墨書銘に旦那中林加賀守・中林主計助。上州世良田村東照宮元和四年燈籠奉納に金屋村中林仲次。川越鋳物師寛政六年小川文書に「児玉郡八幡山金屋村いものし・中林由右衛門・同庄右衛門・同伊左衛門・同治兵衛・同治右衛門・同太郎兵衛」。秩父郡金沢村西光寺天保十五年半鐘銘に児玉郡金屋村鋳物師中林庄右衛門。当村円通寺嘉永五年地蔵尊に中林伊左衛門・中林利七・中林定五郎母なみ・中林善兵衛母すみ・中林源治郎妻くめ・中林仙蔵妻りよ。当村元治元年二十二夜塔に中林善兵衛・中林茂助あり。
真継 マツギ 我国鋳物師の元締にて江戸時代に京都の真継能登守斎部宿祢は、足立郡川口町や児玉郡金屋村の鋳物師等を支配す。
倉林 クラバヤシ 鍛冶・鋳物師の倉族なり。
金屋村(児玉町) 金屋は金打の義で古代以来鍛冶・鋳物を業とする集団の居住地にて、小名倉林は此氏の屋敷名なり。(中略)秩父郡薄村薬師堂鰐口銘に「天正十五丁亥年十一月十五日、武州秩父郡薄之郷薬師堂鰐口処、大旦那北条安房守氏邦、武州児玉郡金屋村細工大工棟梁倉林若狭守政次」あり。風土記稿金屋村条に「天正中は倉林越前守・村民政右衛門が先祖知行せり。(中略)倉林文書(埼玉の中世文書)に「戌三月二十日(天正十四年)、伝馬三疋可出之、上州之鋳物師に被下、可除一里一銭者也、仍如件、自小田原西上州迄、宿中、垪和伯耆守奉之」あり。上州鋳物師宛てにて、前橋市上新田の鋳物師倉林氏宛てなり。金屋村倉林氏が買い求めた物であろう。児玉記考に「○旧家倉林甚四郎、先代を政右衛門と通称し、祖先を倉林越後守と云ふ、越後守は嘗て上杉修理太夫政実より旧賀美郡安保村に於て知行七貫文を与へられたる名族の後胤なり。爾来連綿同族三十有六戸皆繁盛を極む。○旧家倉林太郎兵衛、祖先は甚四郎に同じ。仁安元年(平安時代末期)始めて鋳物師となり、往時全国百八軒の其一なり。紫宸殿へ燈炉を献納し禁裏御用附となり、爾来、主上御即位毎に必ず参内せり。天福元年菊の紋章を許され現に門扉の座金に此章を附す。維新前は世々地頭の名主役を勤め苗字帯刀を許さる。



 埼玉苗字辞典では金屋地区の鋳物師は同時に鍛冶師であるという。時代は下るが平安時代以降から活躍した児玉党も金鑽神社を信奉し、崇敬していた一族という。
 金屋地区も金鑽神社を信奉する鍛冶師、鋳物師が居住していた地域だったからこそ、後世にこの地名が残ったのではないだろうか。

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