古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

東富田熊野十二社神社


        
              ・所在地 埼玉県本庄市東富田
301
              ・ご祭神 国常立尊
              ・社 格 旧富田村鎮守 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 219日 夏祭 715日 
                                     秋例大祭 
1019日 新嘗祭 1214
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2238501,139.1753852,17z?hl=ja&entry=ttu
 
東富田熊野十二社神社は、国道17号を本庄市街地方面に進み、「鵜森」交差点を左折し、道なりに真っ直ぐ進む。途中本庄総合公園を左側に見ながら、尚も進み、北堀地区のT字路に到達する。T字路は左折して次の北堀地区「北泉小学校前」交差点を右折し、そのまま10分程進むと、道路沿いに面した右側に東富田熊野十二社神社が見えてくる。
 東富田熊野十二社神社の右手には愛宕神社があり,更にその右手には金鑚神社・八坂神社相殿があって,それぞれに鳥居がある。そのため,3つの神社が並列しているように見えるが、東富田熊野十二社神社は旧村社の格式があり、その他の神社は境内社と呼んでいいのかと思う。真ん中の愛宕神社は熊野十二社神社古墳と呼ばれる古墳の墳頂に鎮座していている。
       
               道路沿いに面して鎮座する社
 
         鳥居の右側に社合標柱あり           鳥居上部には社合額
       
                    拝 殿
    
        東富田熊野十二社神社、鳥居の両側に掲げている案内板(写真左・右)

熊野十二社神社 御由緒    本庄市東富田三〇一
 御
縁起(歴史) 
 東富田は、かつては隣の大字西富田と一村で富田村と称していた。分村した年代は明らかでないが、天正十八年(一五九〇)四月の「信茂判物」(鈴木家文書) には、「両富田之村」とあることから、中世末期には、既に二村に分かれていたと考えられる。
 旧富田村は、鎌倉街道が通り、平安末期には武蔵七党児玉党の氏族富田氏の本拠地であり、富田三郎親家が居館を構えていた。口碑によると、この親家が当社を紀伊国(和歌山県)の熊野那智大社から勧請するとともに、境内のすぐ北隣に、祈願所として富田寺を開基し、当社の社務を兼帯させたという。創建の経緯については、親家のころに書かれたと思われる「児玉在所引旦那名字注文写」(熊野那智文書)には「とミた」と同氏の名が見えることから、恐らくは熊野修験の当地周辺での活動が背景となり奉斎されたものであろう。
 ちなみに、当社名の「十二社」とは、熊野三所権現と五所王子さらに四所宮を合わせた十二社権現であったものを明治以降、天地修固の天神七代地神五代の十二代の神霊としたものである。
 明治五年当社は村社となった。 更に同四十年、字山根の浅間神社、字下田の金佐奈神社、字元屋敷の熊野十二社神社の三社を合祀した。なお、社殿は延享年間(一七四四-四八)に建てられたといわれ、その後、平成二十五年損傷の著しい社殿を造り替え、現在に至っている。
                                      案内板より引用

○熊野十二社神社  所在地 本庄市東富田三〇一
 熊野十二社神社の祭神は、国常立尊で、延享年間(一七四四~一七四八)に勧請したと伝えられ、社殿は現在覆屋の中にある。
 社殿のある小高い丘は、古墳であり、同様なものが周辺に分布している。この古墳群は、東富田古墳群といい、特に、今の種子センターの地にあった公家塚古墳は、県下でも数少ない古墳時代初期のものであった。

 また、神社の北にある冨田寺は、山号を愛宕山照明院といい、本尊は阿弥陀如来である。
 昔、児玉党一族の富田氏の祈願所であったと伝えられ、西方には、「代官屋敷」と称される屋敷址があったと言われている。

                                      案内板より引用
     
         拝殿上部右側に掲げてある奉納額           本 殿

 東富田熊野十二社神社の隣には古墳墳頂に愛宕社、その古墳の麓付近に金鑚神社・八坂神社相殿が鎮座する。
 
            境内社 愛宕社           境内社 
金鑚神社・八坂神社相殿
 
 愛宕社が鎮座する古墳は、熊野十二社神社古墳と呼ばれる。直径26.5m、高さ5.2mの円墳。5世紀中葉築造(推定)。葺石あり。未発掘。古墳東側は道路や宅地で削られているが、熊野十二社神社の境内として高い墳丘が残されている。
 東富田古墳群と言われる古墳群を形成されていたようで、特に、今の種子センターの地にあった公家塚古墳(直径
70m、高さ1m 円墳)は、県下でも数少ない古墳時代初期の大型古墳であったようだ。


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入浅見金鑚神社

神流川は、長野・群馬・埼玉の県境、三国山(1818 m)に源を発し、南から北へと向きを変えて急流を一気に下り、北東に向きを変える神流川頭首工のある辺りからは、なだらかに広がる扇状地をゆっくり流れる。その後、烏川に流入して利根川に合流する流路延長 87.4km、流域面積 407 ㎢の一級河川である。
 古代律令時代には、条里制田畑が広がっていたといわれ、条里制田畑に水を供給する用水堀やため池が発達した。一説によると九郷用水は条里制施行時に用水路として造られたといわれている。 
 九郷用水は神流川から取水する用水で、全長約16㎞。その要所には不思議と金鑚神社が祀られている。これらの所在地は武蔵七党の一つ児玉党の勢力範囲と一致するといわれていて、この用水の開削伝承に、金鑽神社が登場する。
 昔は台風が来ると大水もたびたび出た。ある台風の後、よく晴れた中お百姓さんが川原の畑にくわ切に出かけた。ひと仕事して一服しようと、大水で流れ着いた大木に腰かけた。
すると、その大木が動き出し、実は天にも届くような大蛇であったと知れた。百姓は驚いて腰が抜け動けなかったが、暫くして我に返ると大蛇はおらず、その這った跡が東方に向かっていた。その筋が後に九郷用水になったという。
 九郷用水については次のような伝もある。大昔一帯が日照りに悩まされることが多く、これを知った国造が金鑽神社にこもって、その惨状を訴え祈願したという。すると社殿に童子が現れ、自分が金竜となり神流川の水を導くゆえ、それに従い水路を掘るように、との託宣があった。
 はたして翌朝、金色の大蛇が新宿附近の神流川に現れ、岸に上がると本庄市北堀まで進み、浅見山へ消えたという」
 用水開削時期については、古代の条里制施行時に開削されたとする説や,平安末期から武蔵(むさし)七党のうちの児玉党によって開削されたとする説などがあり、ハッキリとした時期は分かっていない。しかし、神流川流域では古代に開削したとみられる大溝が確認されており、当時かなりの先進技術が金鑚神社を信奉する技術集団が保持していたことを物語っている。
        
                      ・所在地 埼玉県本庄市児玉町入浅見899
                      ・ご祭神 素盞嗚尊
                      ・社 格 旧入浅見村鎮守・旧村社
                      ・例 祭 春祭り 4月3日  秋祭り 1014日  新嘗祭 12月10日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2049845,139.1532806,17z?hl=ja&entry=ttu       
 入浅見金鑚神社は埼玉県道352号児玉町蛭川普済寺線を旧児玉町蛭川地区方向に進む。「山蛭川」のY字路交差点(但し手押信号)手前にこんもりとした森が左側に見えてくるが、その森中に入浅見金鑚神社が鎮座している。
 森の手前に左折する細い道があり、そこを進むと左側にお寺があり、そこの駐車スペースを利用してから徒歩にて社に向かう。森周辺も
静かで県道沿いに鎮座しているとは思えない程荘厳な雰囲気があるが、道路事情にはやや難あり。
               
                 
入浅見金鑚神社鳥居正面
 古墳の墳上に鎮座しているので、参道途中には階段があるが、それがかえって良い雰囲気を醸し出している。この社のすぐ北側は県道が南北に走り、しかもかなりの交通量であるが、そのような喧噪や騒音がほとんど聞こえない。
        
                                 鳥居の左脇にある案内板
 第62回伊勢神宮式年遷宮記念
 金鑚神社 御由緒   
 所在地 埼玉県本庄市児玉町入浅見字西裏八九九
 □御縁起(歴史)
 入浅見は古くは隣接する下浅見と共に「阿佐美」といい、武蔵七党児玉党の氏族である阿佐美氏の本貫地であったとされ、当社の境内のすぐ北側に当たる「城の内」という場所は、この阿佐美氏の居館の跡と伝えられる。また、地内には古墳が多く点在しており、当社の境内にもその一つがある。そのため、元来は古墳を避けるような形で鳥居の北東付近に鎮座していたが、昭和五年に古墳の南側を平らに崩し、現在のように古墳の頂を背にする形で祀るように改めたという。
 当社の由緒については『児玉郡誌』に、当社は阿佐美右衛門尉実高が勧請した社で、天正四年(1576)九月に領主黒田豊前守の寄附によって社殿が改造され、享保年間(171636)に正一位の神階を奉授した旨の記載がある。また本殿には、往時神階叙位に伴って掛けられたと思われる「正一位金鑚大明神」の木製の社号額や、天保三年(1832)に拝殿を再建した際の棟札などが納められている。
 江戸時代には、真言宗の金鑚山観音寺が別当であったが、神仏分離によって同寺は廃され、現在では観音堂(当社の三○○メートルほどに所在)にその名残をとどめている。一方、当社は明治五年に村社となり、政府の合祀政策に従って、字聖天平の諏訪神社並びにその境内社を当社境内に移転した。当社の祭神は素盞嗚命である。(中略)
                                      案内板より引用
        
                       参道。綺麗に維持され、手入れも行き届いている。
        
                                         拝 殿
 本庄市入浅見地区は、本庄市旧児玉町共和地区の南部に位置し、生野山の北東の方角に続く緩い丘陵地と、生野山の東部で二つの尾根の間の谷部、生野山西部の先端部の北側を含む。この生野山の北東の尾根より分断された小丘陵上の南斜面に集落が集中している。入浅見の北側は児玉条里水田地帯の南端にあたり、中央部は2本の尾根に挟まれた谷となっている。条里水田は九郷用水を用いて、谷戸田の水田は生野山麓の複数ある溜池(ためいけ)の用水を用いている。
 入浅見は本来下浅見と一村であったが、戦国時代以降2村に分村する。浅見は「阿佐美」とも書き、この地名が初めて資料に見えるのが天正5年(1577)の「北条氏邦朱印状」(武州文書)で「入阿佐美・阿佐美村」と記載されていることから、この時期には分村していたことが分かる。
        
                                         本  殿
 古代における入浅見地区は、5世紀前半には「金鑚神社古墳」が築造され、共和地区内周辺地域と同様に、児玉条里地帯に一部が含まれた先進地域であった。古代末期には児玉郡内に児玉庄という荘園があったことが平安時代末期 - 鎌倉時代初期の公家である九条兼実の日記『玉葉』に見られる。
 当時の児玉庄の実態は『玉葉』に記されたもの以外で史料等なく不明であるが、その当時から入浅見地区も含まれていた可能性がある。入浅見の北部は条里地帯に含まれている一方、中央部、生野山の二つの尾根に挟まれた谷も水田として開発されていることが発掘等によって分かっているが、この地域は条里地帯からは外れていて、所謂「谷戸田」と言われる水田である。
 
        
                            社殿奥に鎮座する境内合祀社二棟        
          左側「疱瘡神社・絹笠神社・手長男神社・菅原神社」  
           右側「八坂神社・稲荷神社・伊勢神社・二柱神社」
 
         社殿右側奥に諏訪神社が鎮座        鳥居の左側(西側)にも境内社あり
                                詳細不明
        
                                 社殿からの一風景
 古代末期児玉郡内に武蔵武士の前身にあたる児玉党等多くの武士集団が発生するが、この児玉党内に阿佐美氏も含まれる。当然阿佐美氏の支配領域は児玉庄に含まれるはずである。その児玉庄の根幹をなす条里水田は本来国衙領(公領)であり、荘園の管理や年貢の収納・治安維持等の権限はあっても、児玉党武士団の所領ではない。しかし、入浅見の谷戸田地域は国衙領に含まれず、児玉党独自での開発により、自己の所領として得られる地域で、これを地盤として、荘園内外での所領を拡張することができたと考えられる。
 現在児玉地域で発掘されている古墳群や条里遺跡、及びその周辺の水田遺跡や九郷用水の規模等を考慮すると、この入浅見地域は児玉党にとっては周辺へ開発する際に重要な開発拠点であったと思われる。



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宮戸八幡大神社

        
           ・所在地 埼玉県本庄市宮戸1071
           ・ご祭神 誉田別尊
           ・社 格 旧村社   創建・建立 文正年間(14661467)
           ・例 祭 祈年祭 415日 初穂奉告祭 720日・1220
                例大祭 10月
15日 新嘗祭 11月23日 
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2393791,139.2388439,19z?hl=ja&entry=ttu
 宮戸
八幡大神社は国道17号深谷バイパスを岡部方向に進み、「道の駅おかべ」の先にある岡(東)交差点を右折する。群馬・埼玉県道259号新野岡部停車場線を道なりに真っ直ぐに北上し約2km進むと右側にこんもりとした社叢と道沿いに沢山の墓地、そして大日堂が見える。(横瀬神社並びに華蔵寺)その手前の十字路を左折し、また道なりに1㎞程真っ直ぐ進み、2番目の十字路を右折すると宮戸八幡神社が見える。
 正直実母方の墓地がある
華蔵寺、横瀬神社からそう遠くない場所にこのような社があるとは想像も出来なかった。これも神社散策での奇縁ともいえる。
 駐車スペースは社の道を隔てた場所が広い空間となっていて(但しそこが駐車場かは分からなかったが)そこの一角に車を停めて参拝を行った。
        
                 宮戸八幡神社正面から撮影
        
                        鳥居の左側にある案内板
 八幡神社 御由緒   所在地 本庄市大字宮戸一○七-一
 □御縁起(歴史)
 当地は利根川南岸の自然堤防上に位置し、利根川と当地との間には群馬県境町の飛地があり、かつての武蔵・上野両国境に位置する。
 社伝によれば、
当社は文正年中(一四六六~六七)に新田三河守家純(岩松家純)が五十子に陣を張った際、上野国新田郡岩松郷(群馬県新田郡尾島町岩松)の八幡宮の分霊を奉遷して鎮祭したという。また『児玉郡誌』には、承応元年(一六五二)の社殿改築の棟札に「横瀬郷鎮守八幡大神社」と記されていたことや、地頭所より年々祭祀料が寄附されていた旨が述べられている。
『風土記稿』
村の項には「八幡社 村の鎮守、観泉寺持」と記されている。当社の東隣に本堂を構える観泉寺は、八幡山無量院と号する真言宗の寺院で、応永年間(一三九四~一四二八)に新田氏の家臣金井主水が開基したと伝えられ、万治三年(一六六〇)に新田郡世良田村惣持寺の法印祐伝が再興し、当時は惣持寺の末寺であった。
 当社は
神仏分離を経て、明治四年に村社となり、同四十年に字中道北の八幡太神社、字山神の山神社、字藤塚の稲荷社の三社の無格社を本殿に合祀した。同四十一年には神饌幣帛料供進神社に指定された。
 平成
十年七月十八日、同地区に鎮座していた清水川稲荷神社を配祀した(中略) 
                                      案内板より引用
        
         境内は決して広くはないが、境内はちゃんと整備されている
             静かな
佇まいと共に荘厳さも持ち合わせた社

 宮戸地区は本庄市の最北端東寄りに小和瀬地区とともに位置していて、利根川に近く、低地部に属している。宮戸の歴史は古く、天正19年(1591)の検知帳にこの地が記されていることから、江戸時代に入ってかなり早い時期に検知が行なわれている。『風土記稿』を確認すると江戸時代から明治初期までは榛澤郡藤岡領に属していた。
 因みに宮戸の名前の由来は不明で、お宮があったことから由来するか、「ヤト」からくる湿地帯だった事からとしていて、はっきりとした根拠もなくわかっていない。
              
        案内板の左側にある「本庄市指定文化財 宮戸八幡大神社の格天井絵」

 宮戸
八幡大神社の天井花鳥画は拝殿の天井に描かれた28枚の花鳥画で、江戸時代末作成。宮戸出身の角田岱岳をはじめ、島村の金井烏州、金井研香らの作で、保存状態もよく、彩色でみごとであるという。
 金井
は寛政8年(1796年)、佐位郡島村(現佐波郡境町大字島村字前島)に生まれ、本名を泰といった。金井家は新田氏の支族で、その祖は金井長義と言われている。近世には近在に聞こえるほどの豪農であった。父の萬戸は酒井抱一などと交際をした俳諧の名手であった。 烏洲ははじめ兄の莎邨(詩文に優れる)から経史を学んだが、21歳の時に江戸へ出て、しばしば父のもとを訪れた青木南湖などから画書を学んだ。25歳の時、兄莎邨が夭折したので帰郷し、金井家を継ぎ代々の家名である彦兵衛を名乗った。 天保3年(1832年)には関西をまわり、頼山陽など多くの名家と交誼した。このころから画名をうたわれるようになり、子持村白井雙林寺の大襖絵や前橋市龍海院の大維摩像や『赤壁夜遊図』(境町指定重要文化財)などが描かれている。その画風は筆に勢いがあり気韻に富んでいる。
 また
『無声詩話』(嘉永7年)は卓越した近世画論として高い評価を得ている。江戸後期の県内における画才詩文が最も優れた存在であったが、安政4年(1847年)に62歳で没している。弟に金井研香(南宋画家)、子に杏雨(画家)、金井之恭(貴族院議員、書家)がいる。(伊勢崎市教育委員会)
 金井
烏州は江戸時代後期の画家であり、上野国佐位郡島村(現在の群馬県伊勢崎市境島村)に生まれていて、その苗字と出生地が示す通り、新田一族である金井氏の後裔にあたる。烏洲の号は、故郷の島村が利根川へと流れ込む烏川の洲にあったことにちなむ。
 
    鳥居を過ぎてすぐ左側にある末社群         末社群の隣には神楽殿あり
        
                      拝  殿
        
                 拝殿向拝部の見事な彫刻
 社伝によれば、
当社は文正年間(14661469)に新田三河守家純(岩松家純)が五十子に陣を張った際、上野国新田郡岩松郷(群馬県新田郡尾島町岩松)の八幡宮の分霊を奉遷して鎮祭したという。また「児玉郡誌」には、承応元年(1652)の社殿改築の棟札に「横瀬郷鎮守八幡大神社」と記されていたことや、地頭所より年々祭祀料が寄付されていた旨が述べられている。「風土記稿」宮戸村の項には「八幡社 村の鎮守、観泉寺持」と記されている。観泉寺は当社の東隣に位置する。明治四年神仏分離を経て、村社となる。
 
      神楽殿の隣に鎮座 祖霊社か         社伝の左側奥にある末社群

 宮戸八幡神社は利根川
南岸の自然堤防上に位置し、利根川と当地との間には群馬県境町の飛地があり、かつての武蔵・上野両国境に位置している為、新田系の氏族関連の地名や、苗字も多く存在する。実は自分の母方の系統も元を辿れば、新田氏族の家来である「横瀬8騎」の後裔にあたる。
○三友氏
・深谷市福応寺由緒書
 「元弘
三癸酉五月東征伐之論旨給はり御一同不残御加勢に付桃井直常公、横瀬党三供主計等、右六騎者桃井公之旗下也」。金山城主横瀬氏と共に行動し横瀬姓を名乗る。六騎先祖書写に「三供主計兼村(永和三年十月十八日卒)―三供彦太郎村房(応永十二年五月十二日卒)―横瀬加賀房利(文安二年十一月十一日卒)―横瀬新右衛門房保(寛正二年十一月四日卒)―横瀬主計房教(応仁二年十二月三日卒)―横瀬新太郎芳茂(延徳三年十月二十九日卒)―横瀬新左衛門房次(永正十七年二月四日卒)―横瀬彦右衛門房賀(弘治元年十二月十一日卒)―三供新右衛門繁房(元亀二年二月二十七日卒)―三供新兵衛」

 新田家本流は南北朝時代足利氏と対立し、激戦の末に没落する。そして足利方に回った新田足利流岩松氏が新田家の本貫地である地域を必死に守り、同時に新田家を後世に残す役割を果たした。宮戸八幡大神社の創建・創立にはその岩松系の一族が関わっている。
 遠い歴史の中で先人たちが苦悩し、努力をしたおかげで今の自分が存在している。川の流れのように歴史も過去から現在に至る悠久の流れの中に今の自分がいる。遠い先人たちの思いを感じながら、同時にその奇妙な縁を感謝しつつ、厳かな気持ちで参拝を行った次第だ。

           


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仁手諏訪神社

        
              ・所在地 埼玉県本庄市仁手353
              ・ご祭神 健御名方命 妃八坂刀売命
              ・社 格 旧指定村社
              ・例祭等 祈年祭 43日 例祭 1019日に近い日曜日
                   新嘗祭 129
 仁手諏訪神社は国道17号を本庄市方向に進み、歩道橋がある「日の出四丁目」交差点を越え、次の信号のない交差点を右折する。道幅の短い道路を道なりに進み、小山川を越えて尚も進むと、正面に傍示堂稲荷神社が見えてくるが、そこから北側にこんもりとした社叢が見える。そこが仁手諏訪神社であり、傍示堂稲荷神社からも400m弱北側で、ほぼお隣さん状態で仲良く鎮座しているような印象も受けた。
        
 
    正面鳥居の左側にある案内板      鳥居を過ぎると参道と共に広い空間が広がる

○本庄市指定文化財「諏訪神社獅子舞」
 この獅子舞は日下開山常陸角兵衛流獅子舞といわれる。それは天明八年(1788)当時この流派の奥義を極めた高原喜八が諏訪神社の氏子に伝授したのがはじまりといわれるからである。のちに仁手の家々の多くの人がこの舞の技能をおさめ毎年十月十九日の祭礼に、神社に奉納し今日まで継続されている。特にこの舞に使用される獅子頭は延宝三年(1675)仁手村の領主笹山彦左衛門が常陸国の城主蔭山数馬から拝領したものといわれ、特色がある。
 昭和37年3月23日  本庄市教育委員会                  
境内案内板より引用
        
                    拝  殿
 
         本  殿               拝殿脇にある案内板

 諏訪神社御由緒   所在地 埼玉県本庄市仁手三五三
 □縁起

 創立年代は不詳であるが、「明細帳」によれば、上杉忠清が本庄領主であった永禄四年(1561)には下畑五段十五歩の除地があり、本庄美濃守が本庄領主だった天正十一年(1583)にはその所轄となって萱野四段歩の寄付を受けたという。また、氏子の梅沢甚三郎家の先祖は、鉢形城の最後の城主である北条安房守氏邦の家臣で、落城後に当地に来て土着したとの伝えがある。
 これらの伝承と、鉢形城内に諏訪神社が祀られていたこと、本庄領一帯では長禄から天正(14571592
)にかけて諏訪神社が勧請されている例が多いことなどを合わせて考えると、仁手諏訪神社は鉢形城麾下の諏訪信仰を背景にして勧請された社の一つであると思われる。ちなみに、利根川の対岸に位置する上仁手にも諏訪神社があり、北条氏麾下の茂木某の勧請と伝えている。
 『風土記稿』の元仁手村の項に「諏訪社 村の鎮守なり、宗福寺の持」とあり、江戸期は真言宗の諏訪山宗福寺が当社の別当であった。しかし、実際の祭祀は、宗真院のすぐ西に居を構えていた茂木家が行っており、記録によれば文政八年(1825)に茂木兵吾が京都の吉田家の配下となり、その子孫は明治十年(1877)まで当諏訪神社の神職を務めた。また元禄十五年(1702)に社殿が改築されたと伝えるが、老朽化のため、本殿以外は昭和六十年(1985)十一月に建て替えられた(中略)

 
 
 境内には社殿と並んだ状態で、境内社・末社等が鎮座しているが、その詳細は不明である。『風土記稿』等資料により、合祀社は「戸隠神社」「大杉神社」外四社(不明)であり、末社に関しては稲荷神社,蚕影神社、祖霊社等らしいのだが、それ以上は判明しなかった。
        
                  道路沿いにある案内板

 諏訪神社 所在地 埼玉県本庄市大字仁手三五三
      祭神 健御名方命 妃八坂刀売命
 当社の創立はいつのころか明らかでないが、かなり古い社で、元禄四年(1691)に当時の領主・上杉忠清が神田五反五畝十五歩を寄進しこえて元禄十五年(1702)には、社殿改築されたと伝えられる。その後老朽化したので昭和六十年(1985)十一月諏訪神社社殿、稲荷神社、蚕影神社、祖霊社、末社を往時のままに復元新築した。
 文政八年(1825)ころは、京都吉田の配下、茂木兵吉が神主となり、その子孫が明治十余年頃まで奉
仕していた。明治四十四年(1911)境内社の戸隠神社、大杉神社外四社を合祀。
 大正九年(1920)四月、本県より幣帛料供進社に指定。諏訪神社に奉納される獅子舞は日下開山常陸角兵衛流獅子舞といわれる。
 それは、
この流派の奥義を極めた高原喜八から諏訪神社の氏子に伝授したのがはじまりであったからである。
 その後
氏子の相伝となり1019日の祭礼に奉納されるが特にこの舞に使用される獅子頭は延宝三年(1675)に仁手村の領主蔭山数馬から拝領したものといわれている。
 
なお、当社奉納の獅子舞は市の指定文化財になっている。
 昭和
613
月                              境内案内板より引用

        
 ところで本庄市
仁手地区は、本庄市の利根川沿いにある最北部西端に位置する地区で、昔から利根川や烏川の影響を強く受けざるをえない地形的な宿命を持った地区でもある。特に水害では明治期に大きな被害が出ており、分かる範囲でも、明治23年、同31年、同43年と大きな被害を受けていて、特に31年には堤防決壊1件、堤防破壊2軒の記録が残されている。
 この地区は
現在利根川が北部を流れているが、嘗ては烏川の氾濫原に位置していたらしく、仁手・上仁手・下仁手の旧3村は元々は一つの村であったと思われ、中世期には上野国那波郡に属していた。その後寛永年間の大洪水により、烏川の流路変更に伴い、武蔵国に入った。

 天正8年
北条氏邦朱印状(長谷部文書)には「栗崎・五十子・仁手・宮古島・金窪」の地名が見え、当時の鉢形北条氏の直接支配する勢力範囲の北限を示しているという。
 この
「仁手(ニッテ)」の地名由来として上野国足利一族の「新田(ニッタ)氏」からの転訛とも、「ニタ」は湿地の意味から由来するとも言われている。

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小和瀬稲荷神社


           ・所在地 埼玉県本庄市小和瀬1
           ・ご祭神 倉稲魂命
           ・社 格 旧指定村社
           ・例 祭 祈年祭 32日 例祭 1019日 新嘗祭 122

 小和瀬稲荷神社は国道17号バイパスを本庄方向に進み、岡(西)交差点を右折、旧中山道を利根川方向に進み、埼玉県道45号(本庄妻沼線)から258号(中瀬牧西線)に合流、藤田小学校交差点を右折する。
長閑な田園地帯を道なりに進むと1㎞程で小和瀬交差点に到着し、その交差点先の右側に小和瀬稲荷神社が鎮座している。この社のすぐ東側には備前渠用水が流れていて、河川に関連した社である事は確かである。
 小和瀬交差点を右折して、1本目のT字路を左折する。細い道路の先にやや広い空間があり、そこに車を停めて参拝を行う。因みにこの社の住所は「小和瀬1」。この小和瀬地区の中心地であることもこの住所地で分かる。
        
               県道沿いにある社号標と鳥居
        
                               社号標石の傍にある案内板
 62回伊勢神宮式年遷宮記念
 稲荷神社御由緒     本庄市小和瀬一

 □縁起
 『風土記稿』小和瀬村の項に「稲荷社 村の鎮守にて宝蔵寺の持」と載るように、当社は江時代には真言宗の宝蔵寺の管理下にあった。この宝蔵寺は、神仏分離によって明治初年に廃されたものと思われ、今ではその跡地さえ定かではないが、同寺に伝えられていた「小和瀬村鎮守稲荷大明神縁起」(『埼玉叢書』第六巻所収)を要約すると、次のようになる。
 天慶年聞(九三八~九四七)平将門征討のため東国に下向した源経基が、利根川の辺りにたむろしていた将門の弟三栗三郎将頼と小阿波瀬の河原で戦い、ついに将頼を討ち払うことができた。この勝利に際し、経基が京都伏見稲荷を村の西方に勧請したのが当社の始まりであり、弘安年間(一二七八~八八)にこの地に住した小阿波瀬野五郎重弘が当社を守護神となし、更に寛正年間(一四六〇~六六)に上杉管領房顕が五十子城にあった時、当社を東方に遷すと共に社殿を五十子城に向けて再建し、城の鬼門守護の神として祀ったという。
 その後も、当社は様々な武将によって崇敬され、永禄五年(一五六二)の小阿波瀬合戦では、当社の森に宿陣した新田方が上杉方に大勝利を収めたことから、新田家より神領を差し置かれた。慶長九年(一六〇四)の備前渠用水の掘割りに際して、一旦は村の西方に遷座したが、寛永二年(一六二五)に現在の社地に移り、今に至っている(中略)

                                    境内案内板より引用
        
         社殿、神楽殿等に続く参道。この参道はほぼ西向きでもある
 案内板でも記述されているが、平将門征討のため東国に下向した源経基が、利根川の辺りにたむろしていた将門の弟三栗三郎将頼と小阿波瀬の河原で戦い、ついに将頼を討ち払うことができた。この勝利に際し、経基が京都伏見稲荷を村の西方に勧請したのが当社の始まりであり、弘安年間(一二七八~八八)にこの地に住した小阿波瀬野五郎重弘が当社を守護神となし、更に寛正年間(一四六〇~六六)に上杉管領房顕が五十子城にあった時、当社を東方に遷すと共に社殿を五十子城に向けて再建し、城の鬼門守護の神として祀ったという。
 
   参道途中左側に鎮座する境内社(写真右・左)風土記稿等調べたが、詳細は不明。
 ただ案内板では、御祭日として、「祖霊社例祭」「八坂祭」「手長男祭」が記載されているので、祖霊社・八坂社・手長男社が鎮座していることは確かである。また『風土記稿』において、稲荷社は当時「宝臓寺」持ちであり、このお寺には「飯玉明神社」も鎮座していたという。
 どなたか詳細分かる方がいましたら、教えて頂きたいと思います。
        
                                      拝  殿

 稲荷神社が鎮座する「小和瀬」の地名は、中世の時代には既に使われていたようで、『松陰私語』(上野国世良田長楽寺住職の家記)には五十子陣の記述の所に「小波瀬」と記録されている。思うに利根川と烏川の下流の氾濫原という意味で「川瀬」がその由来となっていると思われる。
 この「小和瀬」は「強瀬」との意味にもとれ、利根川の水勢の強い場所としている。「強瀬」の名前の由来として、山梨県である甲斐国都留郡強瀬村が起源(ルーツ)であり、小長谷部(こはせべ)氏子孫という説もあるようだ(武烈天皇の御名代部を小長谷部と称していた)。埼玉県利根川流域には「「小和瀬」の他「中瀬」「横瀬」「滝瀬」瀬」のつく地名が多く、やはり河川由来の地名ではなかろうか。
 
     社殿の手前左側には神楽殿                  社殿の奥にある境内社・末社の石祠

 小和瀬稲荷神社の東側には利根川水系の備前渠用水が東南方向に流れている。この備前渠用水は「備前堀」の愛称で親しまれているが、慶長91604)年に関東郡代伊奈備前守が江戸幕府の命で開削した埼玉県最古の用水路である。この大工事により、北武蔵利根川右岸一帯を一挙に潤し、北武蔵農業の生命線となった。

        
            
小和瀬稲荷神社のすぐ東側に流れる備前渠用水

 この備前渠用水路は利根川から取水し、埼玉県北部の本庄市、深谷市、熊谷市を流れ、利根川右岸約
1,400ヘクタールの水田にかんがい用水を供給する延長約23キロメートルの農業用水路であり、現在でも素掘りの区間が多く、当時の面影を残している。

                      

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