古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

市ノ川氷川神社

 市野川(いちのかわ)は、埼玉県を流れる一級河川である。荒川水系の支流で、流路延長は38.1 km。正式な表記は市野川だが、市の川や市ノ川と表記することもある
 埼玉県大里郡寄居町大字牟礼字下金井の丘陵地帯北斜面の溜池に源を発し、流路を北から徐々に南東に向きを変え、田園地帯の中いくつもの小河川や沢を合流し次第に流量を増す。嵐山町役場付近で流路を東向きに転じ、東武東上線の北側を平行して流れる。関越自動車道を交差する付近から丘陵の縁沿いを流れ、流路の蛇行が激しくなる。また市野川支流である滑川が、市野川の北側を並行して流れ、東松山市砂田町と吉見町北吉見の境界付近で合流する。

 市ノ川地域は東松山市・野田地区の南側に位置し、市野川中流域両岸に東西に長く位置する。この地域は北部を東に蛇行する市野川の名をもって地名としている。市野川沿いに村を開くに当たり、市ノ川氷川神社を創建して川を鎮める水神をしてここに祀り、地域住民は生活の営みを続けていたといっても良い
               
             
・所在地 埼玉県東松山市市ノ川1087
             
・ご祭神 素戔嗚尊、天照大御神
             
・社 格 旧村社
             ・例 祭 夏祭 714日 例祭 1019日
        地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0501141,139.3921574,17z?hl=ja&entry=ttu
 市ノ川氷川神社が鎮座する市ノ川地域は市野川中流域両岸にあり、東松山市・野田地区の南側に位置する。途中までの経路は野田八雲神社を参照。埼玉県道391号大谷材木町線を県道に沿って南下し、市野川を越え「市の川小(西)」交差点を右折する。暫く進み、最初の変則的な十字路を左斜め手前方向に進路をとる。この左手にはコンビニエンスがある為、分かりやすい。左斜め手前方向に進み、すぐ左手に市ノ川氷川神社の鳥居が見えてくる。
 専用駐車場はない。鳥居の反対側には市ノ川公会堂があるが、参拝日は16日で門は閉まっていたので、手前方向にあるコンビニエンスで商品購入後、急ぎ参拝を行う。
 年末年始に合わせて沢山の幟が参道両側に飾ってあり、まさに年始の趣を感じた。
               
                        道路沿いに鎮座する市ノ川氷川神社
               
                                 正面神明鳥居
               
                                拝 殿
            参道の両側に飾っている登り旗が色鮮やか
 氷川神社 東松山市市の川一〇八七(市ノ川字前山)
 当地「市の川」は、北部を東に蛇行する市野川の名をもって地名とする。戦国期には既に地名が見え、天文二十二年(一五五三)四月一日の北条家印判状によれば、「武州市川永福寺」に「寺内門前一切不入事」「寺領致作土貢」などを安堵している。ちなみに、この永福寺は永正五年 (一五〇八)の草創と伝えられる。
 口碑によると、当社は初め「もとびか」と呼ばれる地に祀られていたが、ある年の大風で同社の白幣が飛び去って今の地に落ちたことから、村人は神意の致すところとして、ここに社殿を建てて奉斎したという。「もとびか」とは「元氷川」を意味し、その地は現在地の北方三〇〇メートルほどの所である。恐らく市の川沿いに村を開くに当たり、川を鎮める水神をしてここに祀られ、後に川の氾濫を避けるために今の地に遷座したものであろう。『風土記稿』には「氷川社 村の産神なり、村持」とある。
 明治四年に村社となり、同四十年には無格社神明社とその境内社八雲神社を合祀した。この両社の旧社地は天王山と呼ばれる高台で、合祀の際に村人が八雲神社の幟竿を担いでこちらに来たとの話が伝えられている。
昭和五十一年には、社殿の再建が行われた。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿上部や木鼻部には凝った彫刻も見える。      社殿右側に鎮座する境内社。
               
               拝殿に掲示されていた「御由緒」
              光の反射で見えない所があり。残念。
 御社名 氷川神社
 御祭神 素戔嗚尊、天照大御神
 御由緒
 当社の社記に人皇第七十代後冷泉天皇の御代康平6年(1063年)創立と記載されてある。即ち源頼義の嫡男義家(八幡太郎と号す)が奥州の夷賊阿部頼時及びこの子貞任を滅ぼして武勲を立てた時代である。
 旧称武蔵国比企郡市ノ川村総面積大凡百町歩の産土(鎮守)として祀られたものならん。
 此の地は今より四千年前既に人の〇〇〇ありと云われ、其の証として竪穴式住居跡が発見せられ、又其の付近〇〇〇〇〇石、石斧〇〇〇々発見せられる。
 現在の御社殿北方約百五十間隔てた大字市ノ川六百二十八番地附近を元氷川と云い、最初は此処に祀りたるも其の後大暴風の為神体が現在の地まで飛び、村人は御神意の致す処と其の時より現在の所に移し祀られたと云われて居る。
 御神徳の新たかな事は近隣に比類ないと〇われ、然し御神意に反する行為ある時は強く戒められると云はれて居る。
 この地は明治年代の末期には旧〇〇〇の最小の部落であり、戸数は三十戸内外氏子の数は僅かに百五十人であったが、御綾威の致す処か現在は其の十倍近く迄発展し、神社に対する信仰の熟度は年々高まる傾向である。
 合祀せられて居る神社は天神社であり、明治四十年〇一月二十日市の川一、一六二番地所在の無資格神明社及び同境内の八雲神社を本社に合祀せられた。
 昭和二十一年二月二十八日宗教法人令による届出を完了した。(以下略)
*〇の部分は光の反射の為解読不可。
                                      掲示板より引用


 掲示板に記載されている「産土神」は「うぶすながみ、うぶしなのかみ」とも言い、神道において、人が生まれた土地の守護神という。その人を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。産土神への信仰を産土信仰という。生涯を通じて同じ土地に住むことが多かった時代は、ほとんどの場合産土神と氏神は同じ神であった。但し現在は転居する者が多いため産土神と氏神が異なる場合も多い。

「産土神」に対して「氏神(うじがみ)」は、日本において、同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神道の神のことを言い、現在では、鎮守(ちんじゅ)ともほぼ同じ意味で扱われることが多い
 本来の氏神は、読んで字のごとく氏名(うじな)の神であり、一族一統の神であった。古代から、その氏人たちだけが祀った神であり、祖先神であることが多かったという。中世以降、氏神の周辺に住み、その祭礼に参加する者全体を「氏子」と称するようになり、氏神は鎮守や産土神と区別されなくなったという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
            

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